僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(10/12)方言「ぶちる」「さっぱまる」「なまら」

2009年10月12日 21時03分15秒 | 文学/言葉/本
あるブログにて
コメントを書いたときに

仲間に加わって、という意味で
「さっぱまって」と使ったのだが
果たして方言として(こちら東北宮城)通じるだろうか。
うちの父がよく使っていて
その言葉を耳にしたときに
意味がわからなかった。
方言だと思うが、検索しても出てこなかった。
もしかしたら、父の造語かな。

インクが紙ににじむ、という意味で
「ぶちる」というのをこちらで言うのだが
(職場で検証してみた。福島でも使うと若い人は言っていた)
どうも
全国では意味が違うらしい。
私が北海道にいたときは
「なまら」なんて使ったことがなく
新しい方言かと思ったがどうだろう。
3年前に友人らがこちらに来たときに
「なまら」と使っていた。
で、どういう意味だろう。
「やたら」「たいそう」という副詞かもしれない。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(10/12)橋本治/巡礼ー男はなぜ、ゴミ屋敷の主になったのか

2009年10月12日 13時33分31秒 | 文学/言葉/本
8時半には一回目の洗濯が終わる。
快晴
ネコたちの敷物、タオル等を洗濯中。
大きいものが多いから干すところがすぐに無くなるので
ベランダの手すりにも掛ける。


昨夜は橋本治の「巡礼」を読み終えた。
彼の作品は私はたった2つしか読んでいない。
それも初期。
桃尻娘と書くと、聞き覚えがあるかもしれないね。
まさに、にっかつです。
そして
ぶらんこ。これは難しい漢字を充てるので、探すのが面倒でひらがなに。
そのほかに
彼らしい言葉で古典文学を翻訳している。

彼は器用な男で
セーターも編む。
さりげなく、セーターを編む、と書いたけれど
この人の作品は芸術品なんです。
うちに「男が編むセーター」(正しいタイトルは忘れた)という
セーターの教読本があるのだが(2冊)
その2冊とも彼の作品が最初に載っている。
かなり古い本。
私は不器用な人間で、セーターを編むなんて気の遠くなるような
ことはしない。せいぜいマフラーとか長方形とか三角形とかのもの。
で、
男の人のために書いた本だから、不器用な私にも
やれるだろう、とチャレンジ。
初心者向けのセーター、二枚出来上がり。
小豆色のセーターを夫は着たのでした。
一枚は自分用に。模様編みができた、と喜んでいたっけ。
彼はもともとイラストレーターなので
好きなものを下地に描いてそれを手編みしていくのです。
人の顔、漫画ヒーローの顔、そして桜吹雪など浮世絵さながらの
色使いでどんどん編みこんでいく。
できあがったものを見ると、セーターというよりは
躍動感のある一枚の絵なのです。

ニットの貴公子と呼ばれる、エレガントな淡い色彩で編みこむあの男の先生とは
違う、
豪快でいて緻密、派手な色彩が躍るように描かれているのです。
だから毛糸の色の数が違う。
毛糸屋さんも訝しがる膨大な量なのです。
そして彼はとうとう自分で、男が編めるように懇切丁寧な教読本を出版します。
手先が器用ということだけではなく、
彼がやりたいことを大胆かつ正確に表現できる器用さは、天才奇才という枠に
入るような気がします。
女性的な美しいセーターはたくさん見るけれど
彼のは、これは凄い!とびっくりするような、印象の強いものを仕上げていく。
絵をセーターに表現する、という二重の芸術に驚きませんか?
今では、男の人が作る料理、男子の厨房とか弁当とか、そしてセーターを編むとか
その分野で活躍する一流の人が多いと思うけれど
彼は、天才肌のセーター編み込み人の先駆者だと思います。
それが彼の仕事の主流ではなく、あくまでも趣味の範囲というのが
天才の余興のようで素晴らしい。

セーター芸術、熱く語りすぎた。
百聞は一見に如かずで、見てほしくてね。
閑話休題。
その彼が純文学の長編を。




このタイトル「巡礼」からは
ゴミ屋敷の住人について書かれていることは想像できないだろう。
私も、タイトルだけでは食いつかなかったかもしれない。
帯に書いてある
「男はなぜ、ゴミ屋敷の主になったのか?」に食いついた。
まさにそれは
私の疑問だったから。

ワイドショーでたまに取り上げられていた
ゴミ屋敷。
人々の憤慨と嫌悪感の対象であるそれを取り上げられることしばしば。
それでいて自分たちと全く違う世界を覗き込む好奇の気持ち。
だが、待てよ、と私はいつも思う。
彼(彼女)はいつそのようになったのか、
彼らにも若い頃があり、将来に夢を抱いたりした時もあったろう、
家族もあったろう、仕事にも就いていたろう、など
次々と疑問が出てくる。
一体どこでその境界線を乗り越えてしまったのか
そして共通する孤独、狷介孤高、老齢。
今、テレビを観ている自分が、果たしてこのようにならないと言い切れるのか
等々
次々と疑問が出てくる。
だが、ワイドショーは、ゴミの山の凄さ、社会的に離反している人間の批判に
終始して、片付けるべきことを主張して、彼らの心の内に入ることはしない。
いや、心の内に入ろうというポーズはするが、どうして俄かにやってきたそれらの
人間に彼らは心を開くであろうか。

物語は
そのワイドショーのレポーターがゴミ屋敷を取材するところから始まる。
そして、ゴミ屋敷の臭気と不潔さ、それを見に来る野次馬などに毎日ストレスを
抱え込んでいる周辺の人々の描写もはずしていない。
つまり、我々側からの物語から始まる。
周辺の人間家族は、その屋敷の老人を、老人の時代しか知らない人間ばかりである。
ただ一人、80歳を越えた女性が「昔は、ここの奥さんもしっかりしていてこんなはずではなかったのだが・・」と語り部のようにつぶやく。
そして彼女の知る過去、戦前戦後の話に物語は移っていく。

その時代の彼については、特別貧困だとか、親がいないとか、学歴もままならないとか、不遇という言葉はあてはまらない。
幼少の頃の不遇というのは見当たらない。
荒物屋に長男として生まれ、両親は働き者、商売もそこそこ成り立ち、弟もでき、中学卒業で働きに行く人が多い中、自分は商業高校を出ていずれは家業の跡継ぎになるであろうと、他の商店に修業の形で奉公に行く。
どちらかというと恵まれている平凡な真面目な少年、青年時代である。
しかし
新しい家族、嫁をもらうことから、躓きが始まる。
嫁をもらったが、働き者悪く言えばガサツな感じの姑と、次の行動が出ないぼんやりした嫁との折り合いが悪くなっていく。
その辺の描写は詳しい。
極端な嫁いびりでもなんでもない、
商売の家に嫁いだ会社員の娘の育った環境の違いで
何をするにしてもテンポの合わない軋轢が生じてくる。
決定的だったのが、二人の間に生まれた子供が10歳に満たない年で亡くなり、
その遺骨と共にとうとう嫁がこの家を出ていくことである。
彼の歴史に、子供がいたというのが消されていく。
その後、若い男の年齢だから、飲み屋などの女性とも親しくなり、
押しかけ女房のようにやってくるが、当然その女も出ていく。
ここの描写は少ない。
弟が結婚し、新婚生活を両親、兄と同居で始めるが、兄(主人公)が弟の嫁に
関心が行き、嫁は気味悪がり弟夫婦はこの家を出ていく。
そして疎遠になるのである。
この弟というのが、物語のもう一人の主人公でもある。
私はこの弟の小さい頃の
兄を慕う描写が鍵を握っていると思った。
年の離れた兄が修業のために他の町に行くのだが
「兄ちゃん、行っちゃうの?また会えるの?」と寂しげに送り出すところだ。
幼い弟が
やがて大きくなって「太陽族」の頭のカットをしたりしても、少し流行を
追うだけであって、決して道を踏み外すことなく
彼も工業高校を出たキャリアを生かして技師になっていく。
その弟と疎遠になるのである。
両親が亡くなり(大分、私は物語をはしょった)、
荒物屋、瓦屋(父が新しく始めた)は時の流れに取り残されて
廃れていくのである。




彼はまだ母親が生きていたころに
あるおもちゃを拾う。
子供が歩行の訓練を兼ねて使うカタカタと鳴る遊具である。
それを修理する。
それを見た母親はある名前を出す。
亡くなった孫の名を出して、それで遊んだことを思い出す。
しかし、男はその名を聞いてもすぐに自分の子供の名と
思い出せなかった。
思い出そうとして封じ込める。
それを思い出せば自分は涙を流す、と知っているから封じ込める。
彼の孤独はそこに始まる。
母親の大往生のあと(初めに「ここの奥さん、しっかりしていた」の
言葉を書いたが、奥さんとは男の母親のことである)
三代続いた荒物屋は閉業し、ゴミが徐々にたまっていくのである。

彼は
どうして自分がゴミを集めるのか
自分でも理解できていない。
ゴミ論は、彼の頭の中でも巡る。
ゴミ論は、十分彼の頭の中で
相反するものがぶつかっているのである。
彼のゴミに対する思いは物語の中盤前にすぐに出ている。
人々に怯えつつも、何かをわかっていながらも
あるいはわからなくても、ゴミを集めてくる。
ゴミに執着する自分を持て余してもいるが、
次の日には集めてくるのである。



ゴミが彼の前から消えるのは
何がきっかけであるか。
ワイドショーに押し捲られたわけでもない。
むしろ頑なに、これはゴミではないと強弁になる。
市役所や保健所さえもお手上げである。

ゴミ屋敷が火事になる。
ぼや程度のものではない。
屋敷そのものは焼けなかったが外にあったゴミが焼け
消防車がやってくる。
そしてワイドショーは何社もやってきて
全国に報道される。
それをたまたま観て驚愕した男がいた。
それが
20数年、家に帰っていなかった弟である。
母の葬儀に参列をして、兄とぶつかっているが
家にはとうとう帰ってこなかった弟が
自分の家が火事、ゴミ屋敷になっていることに気づき
早々にこの家に戻ってくる。

ゴミの山に埋もれて作業をしている兄に
「兄ちゃん!」と声を掛ける。
弟は
昔、この荒物屋で売っていた竹箒で掃除をし始める。
兄は「これはゴミじゃない」と言うが明らかに
レポーター達に言う声の力とは違うトーンで少し抵抗する。

兄や家の歴史を知る弟の説得は強い。
「片付けた方が、母ちゃんが喜ぶよ。」と言う。
兄の心を動かす。
家の中に入るとゴミ、ゴミの壁。
二階に上がる階段もゴミ。
しかし
二階に上がって見たものは、ゴミの部屋ではなかった。
二階の部屋の前の屋根には
腐った布団が積み重なって並べられているが、
部屋にゴミがあっての屋根へのゴミの侵食ではない。

この二つの部屋は
かつて
兄夫婦が住んでいた部屋と
弟夫婦が過ごした部屋でもあった。
そこは
いつか家族が戻ってくるのではという
兄の無意識の希望の空間であったのだろう。
ゴミ屋敷の中にゴミが存在しない部屋がある理由を
兄も弟もわからない。
作者はその辺を彼らに代わって代弁する。


一週間ほどかけてゴミは片付けられる。
弟の
役所への対応の剣幕のあたりは
清々しささえ感じる。
社会人としてやってきた弟の姿と
廃人同様になっていた兄の姿は対照的に描かれる。
トータル400万円の清掃料。
それがどうした、という気持ちである。
一からやり直すための人生の勉強料である。

片付いてから
弟が提案する。
「兄ちゃん、巡礼に出かけよう。」と。
自分も今、妻を先に亡くし、子供たちも独立して孫もいる老人。
子供にいっしょに住もうと誘われているが
自分自身、これまでの人生を振り返りたかったところだった。
いつか四国の巡礼の旅に出たいと思っていた。
そこに
兄を誘う。
八十八箇所廻っているうちに何かを見出せるだろう、と
兄に言う。
そして旅は始まるのである。
初めは表情の硬かった兄も、幾つか廻っているうちに
ようやく
笑顔を見せて「この天麩羅はうまいなあ。お前も食え。」と
言うのである。
人とまともにコミュニケーションの取れた平凡な言葉である。
しかし、何十年も置き忘れてきた日常の平凡な会話である。
何十年も忘れていた笑顔である。
兄に、生きる希望が湧いてきた、と弟は喜ぶ。

翌日、兄は死ぬ。
巡礼の意味もわからない兄が、仏に導かれるようにして
死んでいく。



この小説はこのようにして終わる。
では私の疑問は解けたか。

これは小説であり、ルポでもドキュメントでもない。
実際にそういう人物から取材をしての小説化かどうかも
わからない。
ただ、作者も思っていたように
その奇異な行動の裏に人知れずその人の歴史があるのである。
あくまで小説だから
作者の救済はあっていい。
その救済が弟の存在である。
唯一の肉親。
かつて、兄が就職で旅立っていくのを純粋に寂しさを訴えた
弟が、初老の年齢になって
「兄ちゃん!」と登場することで兄は長年の呪縛から解放されるのである。

もっともっと書きたいところですが
やたら文字を打つときにPCが重くなっている。
ここら辺でやめておきましょう。
















コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする