僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(2/21)懐かしき函館の街

2009年02月21日 22時28分11秒 | Weblog
8時からWOWOWのドラマを観る。
「戦力外通告」
タイトルがタイトルなだけに
高杉良の社会派ドラマのような内容を期待したが
そうではなかった。
50代のまだまだ第一線で働ける男が社長の後ろ盾を失くし
自ら辞表を叩きつける。
そこまでは良かったが
その後の展開はどうも・・・
ドラマの目指すところは
50代の中年たちがもう一度、人生の再生を誓うという話。
故郷のお祭りを立ち上げて
バラバラになった夫婦たちが再生するのが中心。
最後に
主人公が再び会社に戻ってほしいと言われて
「断る」と言ったのは格好がついたけれど
現実には
戻ったほうがいいんじゃないの、と言いたかった。
再就職はないのが現実。
40代、50代には今非常に厳しい。


昨夜は
田舎暮らしを検索しているうちに
北海道の物件をずっと見ていた。
その可能性はゼロに等しいが
(夫がこちら地元を離れるはずがない。雪が苦手。寒さが苦手。)
広い贅沢な土地にどんな物件があるのか
ずっと検索していた。
こういうのは夢を追いかけるのと同じで
(もともと、家の間取りや庭の様子を見るのが大好きだし、ストレス解消になる)
ここは、自分の部屋とかネコたちの部屋とか考えていて
楽しかった。
そして
もしも函館に住んだら、ということで物件を検索。
函館は
小学校2年から6年の5月ごろまで、たった4年間であるが
2つの小学校を体験してきた私である。
温泉のある所と
地形的に、街の一番細い所に住んでいた。
結構、知らない地名、町名が出てきて
それはどの辺かと、地図を見たり。
そして昔からある町名にときめいたり。

私が北海道に帰った時は
どうしても
最後にいた苫小牧が中心だし
親類も札幌や旭川、芦別など中央にいるので
一番南にある函館には足を運ばないことがある。
でも
北海道の街として
好きなのは函館である。
向こうの夢を見るときは、なぜか湯の川の長屋時代が出てくるし。
小学生ながら
2つの街の周辺は強烈に覚えている。
夫を連れて以前
北海道の私の住んでいた所を訪れたときは
忘れずにスムーズに行けたのが嬉しかった。
その時も既にその街を離れて何十年と経っているのに
変わらず、住まっていた所が長屋としてあったことに
感動した。その家の前で写真を撮ってきた。
しかし
その後、再び一人で訪れた時は
マンションになっていたっけ。さすがに。
でも向かいの家も変わっていなかった。
向かいの家の玄関前で一人
鞠つきをしたのを思い出す。まだ8歳くらいの時だ。
今なら、不法侵入か。
コンクリートなんて珍しい時代だから、当たり前のように
鞠をついていた。
その家はまだあるだろうか。
感慨深い。

2つ目の街は函館の中央である。
函館の地形は、中央がくびれている。
北の港側と南の浜側の一番細い所に住んだ。
端から端に歩いて15分ぐらいだろうか(記憶が定かでない)。
父の勤めていた会社がそこにあり
駐車場の横に社宅があった。
そこに住んだ。
その街が好きだ。
ネコを好きになったのもこの街。
自転車を乗るのを覚えたのもこの街。
ストーンズを好きになったのもこの街。
友人が増えたのもこの街。
そして
浜側に建っていた小学校に転入した。
4年生、5年生、6年生とクラスのメンバー変わらず。
4年の時の担任には悩まされたが
(転入してきた私をなぜかいじめたなあ・・・・)
5年、6年の担任は良かった。
どうしているだろうか。

1人でこの街を訪れたとき
暑い夏だった。
友人たちはとっくにバラバラになっていて
誰一人
私が、懐かしくこの街を訪れているなんて知らないけれど
たやすく来られないから
訪れることができる時に訪れたかった。
小学校はあった。
凹型に校舎が建ち、浜側は体育館だった。
海の風に乗った潮で
鉄筋が錆びて茶色がよく目立っていた。
函館の絵葉書があると
いつも、ここが私の小学校だよ、と
皆に言っていた。
それほど真ん中に、浜側に目立つ建物だった。

そして
その学校を検索してみた。
調べてみると
なんと
統合して廃校になっていた・・・。
隣の小学校と統合していたのだ。
平成に入って。
胸が熱くなった。
そうか・・・今は小学生も少ないしね。
私がいた頃も
空き教室があったなあ。
あの四角の回廊のような廊下の向こう側は
空き教室になっていて、荷物や机が積まれて倉庫のようになっていた気がする。
(でもこれは、夢の中でだったかもしれない。)
現実を正確に映し出した夢なのか
仮想の夢だったのかはっきりしない。

一人で訪れた時の
暑くて
真ん中にあるグリーンベルトのベンチで
冷たい飲み物を飲んだ。
記憶を辿って

友人の家を訪ねれば
会えるかもしれない、などと思ったが
それはできなかった。
あのときの気持ちがよく今でも出てくる。
先輩の家が肉屋だったから、そこに行けば・・・とか
同級生の家が立派な質屋だったから、そこに行けば・・・とか
懐かしい気分である。
それをしなかったのは
あまりに年月が過ぎていたからだ。
会って何を話すか、なんて考えると億劫な気もした。
結局私は
その小学校を数ヶ月残して卒業できずに
苫小牧に転校していった。
だから同窓名簿に名前がないのだ。
苫小牧から更に
東北のこの町にやってきた。
誰も
私がどこで何をしているのか
思い出すこともないのだろう。

クラスメイトの名前を思い出してみた。
女性は姓が変わっているだろう。
男性の中で
非常に珍しい名字の人がいて
その下の名前も正確に覚えているので
ちょっとネットで検索してみた。
普通に暮らしていて、有名人でもなければ
なかなかネットに出てこないしね。
でも、あった。
おそらくこの人だ、と確信した。
非常に珍しい名字だったので。
ネットは
何十年経っても
記憶を思い起こさせてくれる。
怖いくらいだ。
過去として
記憶の彼方に置いていったものが
蘇る。
そして
こうして
何十年経って、彼らはその街で
しっかり生きているのだろうと思わせてくれた。
もう会うこともない人々。
同窓会として彼らは会っているのかもしれない。
3年間、クラスメイトは変わらず、いっしょに卒業した仲だから
きっと何年に一度の割合で会っているのかもしれない。
この私の名はそこにはないけれど
会うこともないだろうけれど
私、ここに生きているよ。
いつか
また訪れたいんだ。
あのグリーンベルトで
汗を掻きつつ飲み物を飲んで
次はいつ来るのだろうと
思っていた自分。
妙にあの自分が好きだ。
小学生の私がすっかり大人になって
故郷と呼んでいいのか駄目なのか
戸惑っていた。
いや、ふるさとだ。
どの街もふるさとだ。

「どこ出身?」と聞かれると
「北海道です。」と答えてきた。
そう、北海道のあちこちを転々としてきたから
函館も、札幌も、富良野も、芦別も、苫小牧も
私のふるさとだ。
それぞれ悲しい思い出も楽しい思い出も
愛する思い出がたくさんある。
やっぱり
また帰るときは夫は連れていかない。
私の故郷巡りは夫を退屈にさせるものね。


今日は
これから、他の県の物件を検索してみる。