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気まぐれ読書・映画・音楽の記録。本文に関係のないコメントについてはご遠慮させていただきます。

落合恵子「午後の居場所で」

2011-06-02 | エッセイ

人生の午後…。

がむしゃらに突っ走る季節は過ぎ、精神的にも肉体的にも余裕のできるこの季節。「がむしゃら」は捨てない、幾つになっても。けれど、もっと深く丁寧に自分とも、自分以外のものともつきあいたい。若さから解放された未知への旅がいま。人生の午後から夕暮れ時、そしてそれ以降へと続く日々を、しなやかに綴るエッセイ集。
おだやかで、激しい。快適で、熱い。若さから解放された「人生の午後」。いつかはきっと、消えた肩パッド、眼鏡のはなし、アニキレの枝の下、ゆったりめ、メノポーズなど、とらわれない「ただの、わたし」を生きるエッセイ
落合さんのエッセーは、新聞でおなじみですが。人生の午後。世代は違っても、感じ方に共感を持つところが大きいです。

助走の助走

素直に受け入れよう。若さが失われたことを。

それはひとつの喪失。

しかし私はいま新しい体験を獲得しつつある。人生の午後から夕暮れ時、そしてそれ以降の時空を生きていくという

 いつまでも若々しくありたいとは思わない。若々しくあらねばという執着が息苦しい。けれども、年相応に、とも思わない。どちらも望まない。ひそやかに「わたし相応」ではどうだろう。
 

変化の兆しはほかにもある。妙に闘争的になる瞬間が増えたのと同時に、穏やかなもの、静かなものを渇望する瞬間も増えたような。堪え性がなくなった反面、やたら寛大にもなった。むしょうにひと恋しくなる時もあれば、ひとと一緒だと、ひとり居の時空をより激しく求めるわたしになる。

もともとのわたしの資質が、以前に比べて少し顕著になっただけなのではないか。

いちいち「以前」を基準に比較したところで、どれほどの意味があるのだろう。「以前」の中に、わたしは生きているわけではないのだから
 
 

好き、と言えるか

何かが、誰かでもいいのだが、とても好きだと表明することにテレを感じるようになるのはいつの頃だろう。子どもの頃はもっと直接的に、好きっ、と言えた。そして思う。好きなものを「好きっ」とまっすぐに言えた子ども時代も好きだが、好きというのに、ふっとためらいを覚える「いま」も嫌いじゃない、と

誰と暮らすか、だけではなく、いつまで暮らせるか、が重要なテーマになりつつある季節の中にわたしも居る。この季節、なかなか「好き」と言える。


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