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再び宮本常一

2023年08月17日 | インポート


 現代ビジネスの、畑中章宏による宮本常一評論の続編が出た。
 今日は、習近平による人工降雨問題を取り上げるか、宮本常一続編を取り上げるか迷ったが、中国人工降雨による世界の異常気象問題は、過去何回も取り上げた。

 中国はインドを水不足によって弱体化させ、屈服させる目的で人工降雨=天河作戦を行っている。中国はインドを属国化し、支配下に置きたいので、この作戦をやめることができず、自国と世界に異常気象をもたらし続けるのである。
http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6024109.html

 https://gendai.media/articles/-/99323

今回は、それほど目新しい情報が出ていないので、宮本常一続編を紹介する。

 2023.08.17 民主主義」って何だろう…民俗学者・宮本常一が見た「日本の寄り合い」の可能性 畑中 章宏
  https://gendai.media/articles/-/114334

 寄り合い民主主義
『忘れられた日本人』に収録された「対馬にて」の「一 寄りあい」は、1950年(昭和25)に八学会連合の対馬調査に民族学班として参加した宮本が仁田村伊奈(現・対馬市)で体験した寄り合いの話である。

 この紀行文は、日本の共同体が継承してきた熟議による民主主義、満場一致の民主主義の一例として取り上げられることが多い。宮本が対馬で見聞した「民主主義」はこんな段階を踏むものだった。

 伊奈の区長の家を訪ねていった宮本は、区長の父から区有文書の存在を知る。翌朝、借用を願い出ると、村の寄り合いを中座して戻ってきた区長は寄り合いにかけなければならないと言って出て行った。午後3時を過ぎても区長が戻ってこないので、しびれを切らした宮本は寄り合いが開かれている神社に出向いて行った。

 寄り合いでは板間に20人ほど、その外にも多くの人が詰め、区有文書の貸し出しや、さまざまな議題について、朝からずっと協議していた。そして訪れてから1時間ほど経って、区長が一同から同意を取り付け、ようやく借用することができた。

 「村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう」

 みんなが納得のいくまで話し合い、結論が出ると守らなければならない。
 「理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである」

 宮本は本編を、「昔の村の姿がどのようなものであったか、村の伝承がどのような形で、どんな時に必要であったか、昔のしきたりを語りあうということがどういう意味をもっていたか」を知ってもらうために書いたという。

 そして、そういう共同体ではたとえ話、体験したことに事よせて話すのが、他人の理解も得られやすく、話すほうも話しやすかったのである。また、近世の寄り合いでは郷士も百姓も村落共同体の一員として互角の発言権をもっていたと考えられるのだ。

 村の伝承に支えられながら村の自治が成り立っていた。すべての人が体験や見聞を語り、発言する機会をもつことは、村里生活を秩序だて、結束を固くするのには役立った。しかしいっぽうで、村が前進し、発展していくための障碍を与えていたことも宮本は指摘している。

共同体における自主性と束縛
 同じく『忘れられた日本人』中の「子供をさがす」は、共同体のもつ自主性と束縛を、小品のなかに描き出している。

 「共同体の制度的なまた機能的な分析はこの近頃いろいろなされているが、それが実際にどのように生きているか。ここに小さなスケッチをはさんでおこう。これは周防大島の小さい農村が舞台である」という序文で「子供をさがす」ははじまる。

 近所の家にテレビを見に行っていた一人の子どもが母親に叱られたのをきっかけにいなくなってしまう。それをめぐって、村中の大人が動き出す。子どもは家で隠れていたのを見つかるが、そのなかで動く村人たちの行動が映し出される。だれかがリーダーシップをとって手分けしたのではなく、村人たちは自主的に、いなくなった子どもが出かけそうで、なおかつ自分が熟知している場所に探しにいったのだ。

 「Aは山畑の小屋へ、Bは池や川のほとりを、Cは子どもの友だちの家を、Dは隣部落へという風に、子どもの行きはしないかと思われるところへ、それぞれさがしにいってくれている」

 宮本はこうした行動力から、この島も近代化し、村落共同体的なものは壊れ去ったと思われていたが、目に見えない村の意志のようなものが動いていて、一人ひとりの行動におのずから統一ができているようだという感想を抱く。

 しかし、村人が探しまわっている最中、道にたむろして噂話に熱中している人たちがいた。最近になって村へ住むようになった人びとである。
 古くからの村人と日ごろの交際はこだわりなしにおこなわれ、通婚もなされているのに、子どもの行方不明に無関心であったり、まったくの他人事として捉える人びともいた。

 宮本は、新しい技術や文化が入ってきている近代化された場所にもかかわらず、かつての共同体的な人間関係が残っていたことに驚かされる。ここにはだれに命令されるわけでもなく自分の意志で子どもを探す共同体の姿とともに、そうした自主性をわずらわしく感じる、新しいタイプの住民との対比が描き出されているのである。
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引用以上

 「寄り合い民主主義」の話は、私が半世紀にわたって宮本常一に夢中になってきたなかで、もっとも重要な話の一つだった。
 私の父は、総評傘下の愛労評の事務局長から伊豆にあった国労学校の教官に天下りし、数年間川奈という土地で暮らした。
 このとき、上に紹介されているような地域社会の寄り合いに、国労学校を代表して参加したのだが、まったく宮本の書いている通りの風景だった。

 【「村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう」
 みんなが納得のいくまで話し合い、結論が出ると守らなければならない。 「理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである」】

 20万組織の長として、合理的な判断を素早く求められた立場の父としては、同じ議題をグダグタと延々と話し合うスタイルは我慢ならないものだった。
 父はしびれを切らして、話し合いに割って入り、問題点を集約して、合理性の観点から結論を出そうとした。そして、父の剣幕に恐れをなした村人たちは、父の意見に従った。

 これで「一件落着」と父は遠山の金さんにでもなったつもりで自慢話として私に語ったのだが、これは最悪の干渉だった。
 以来、村人たちは、父の姿を見かけると避けるようになった。
 自分たちが何百年も守ってきたコミニュケーションスタイルを、父が合理性と時短を理由に干渉し、破壊しようとしたことで、村人たちは父を遠ざけるようになったのだ。

 ものごとは、合理的であればよいわけではない。時短になればよいわけではない。グダグダと話し合うなかに、他人とあらゆる問題をすりあわせて、連帯感を築くという大切なプロセスが隠れていることを、父は最後まで理解できなかった。

 話し合いというスタイルには、そのことを通じて、連帯感を高めるという大切な要素があるのだ。深く話せば話すほど、人間関係は、家族に近いものに深化してゆく。
 組織の長や権力者には、そのことが理解できにくい。合理的でなければ納得できないのだ。
 しかし、連帯感と合理性はまったく別のもので、不合理であればあるほど、問題が込み入れば込み入るほど、たくさんの時間を共有するほどに、それを解決するという共同作業に人々はアイデンティティを見いだし、連帯感を構築してゆくのである。

 宮本常一は、資本主義社会の金儲けのための合理化という社会的風潮のなかで、「連帯感を高めるための話し合い(寄り合い)民主主義」という習慣を通じて問題提起をしてみせたのだ。
 資本主義から新自由主義に移行し、「スピーディな金儲け」というテーゼが絶対視され、人々の連帯感という、人間社会が「持続可能な未来」を獲得するために、最も大切な原理が忘れ去られていった。

 連帯というものは、ときに特定の人々だけの金儲けという目標にとって有害なことが多いのだが、自然災害や戦争のような破滅的な危機が訪れるとき、人々を最後まで守ってくれるもっとも大切な人間社会の仕組みなのである。
 連帯のないところに、子供たちの持続可能な未来はないといってもいい。それを支えてくれるものが「寄り合い」なのだ。

 ここで、私が宮本常一の数ある著書のなかで、もっとも強烈なインパクトを与えられた逸話を、もう一つ挙げておく。
 引用文献は、残念ながら不明になってしまった。私の記憶のなかにしかない。

 宮本は周防大島の生まれだから、典型的な弥生人社会で育っている。
 2600年前、呉越戦争で敗戦国となった蘇州呉国民は、船上生活文化だったので操船に長け、戦勝国越による敗戦国民の大虐殺を避けるために、数万人のボートピープルとして蘇州呉を脱出した。
 行き先は、台湾、山東半島、済州島、北九州などだった。彼らが、後に「倭民俗」を共有する文化圏を作り出した。

 北九州に上陸したボートピープルたちは、祖国蘇州と似た環境の、有明海周辺に子孫を展開した。そのなかから邪馬台国が生まれたと考えられる。
 弥生人文化は、遠賀川や早津江川、筑後川周辺に展開されている。だから、私は邪馬台国と卑弥呼墳墓は、地形上、柳川市役所付近にあったと考えているが、これは余談だ。

 その弥生人社会をもたらした蘇州呉国文化圏というのは、典型的な東亜三角弧における長江ヒマラヤ文化圏であり、照葉樹林帯文化圏である。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5827543.html

 ここに共通するのは、東夷伝などに描かれている、水辺生活、妻問婚、夜這い、歌垣、米作農耕、味噌などの文化だ。
 これを日本に伝えたボートピープルたちも、北方民族に比べて、男女の自由な交際があった。

 宮本の育った北九州や瀬戸内には、そんな夜這いや妻問婚の文化が、実に1960年代まで残っていた。つまり、今の80歳以上の男女は、いわばフリーセックス文化を体験していることになる。

 このことは、もの凄く重要で、夜這い文化圏では、集落の連帯感が、夜這いのない関東以北の封建文化圏に比べて非常に強力なのだ。
 夜這い文化圏では、みんなが家族同様で密集して住んでいる。ところが非夜這い圏(主に源平藤橘=武家子孫)では、一家が孤立してバラバラに住んでいるのだ。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E9%80%99%E3%81%84

 私が、40年以上前、徳山村で個人的に民俗学的な調査を行ったとき、飲食店を経営していた名古屋出身の女性が、「夜になると近所の若者が『やらせろ』と言ってくる」と困っていた。
  https://www.news-postseven.com/archives/20161125_468718.html?DETAIL
 
  1960年以前の瀬戸内を中心とした「夜這い文化圏」では、娘に初潮が来ると、赤飯を炊いて近所に配る。すると、そのときから、娘は離れに寝泊まりするのだ。
 離れには、小さなにじり戸が設けられ、そこから若者が出入りするわけだ。
 「にじり戸」文化は、徳山村や白川郷でもあった。それは戦国時代に「茶室」として使われたと考えられる。
 茶室のにじり戸は、武士が武装して入れない大きさと解説されているが、実は、夜這いのための出入り口に他ならなかった。
  http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5827593.html

 娘が妊娠すると、娘は夜這いに訪れた若者のなかから自由に夫を指名する権利があった。好きな男を指名し、本当の父親である必要はなかった。
 指名された若者は断ることが許されなかった。もし断れば、強力な村八分に遭って追放されたのだ。夜這いに行くことは、村八分を覚悟することでもあった。
 津山事件30人殺しは、夜這いに来た部落出身者を、娘が身分を理由に拒絶したため怒った若者が集落を皆殺しにしようとしたといわれる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 宮本常一は夜這いについても、たくさんの実録を遺している。そのなかで、私が強烈に記憶しているのは、「させ子」の評価である。
 夜這い文化圏では、当然、男女のフリーセックスに対する抵抗も少ない。例えば、私の子供の頃まで、夏祭りには「無礼講」が存在し、集落の男女は、既婚者であっても、無礼講の日に限って、誰とでも寝ることが許された。

 それが廃れたのは、昭和に入って情報量が増して、フリーセックスへの嫌悪感を抱く女性が増えたことだが、それは夜這い文化でも同じことだった。若い娘たちが夜這いを拒否するようになったのだ。
 だが、男には性欲があるから、それまと同様に女性たちに言い寄る習慣があった。

 このとき、誰でも受け入れる心優しい「させ子」と呼ばれる女性がいた。
 彼女は、後に、「淫乱・尻軽女」と世間的に蔑まれることになる。精神病院に入院している女性でも、誰でも受け入れる心の優しさを激しく糾弾され、蔑まれて、精神に異常を来した者が多かった。
 戦後、女性は簡単に男を受け入れてはならないという風潮が日本社会の主流になった。
 それは、南方系の夜這い習慣を持たない、騎馬民族の末裔たちが社会の権力を行使するようになったからだ。

 しかし、夜這い文化圏の男たちに、もっとも慕われた女神のような存在こそ「させ子」だったと宮本は書いている。
 させ子は、集落の男たちの憧れの的だった。その女性を嫁にすれば、心の優しさから必ず周囲に幸せをもたらすとされたのだ。
 集落の男たちは、させ子を奪い合った。

 この問題は、今でも、実は日本女性の本質的な問題になっている。
 アメリカ人は、日本人女性を「イエローキャブ」と蔑んでいた。誰でも乗せるタクシーのような女というわけだ。
 心優しい日本女性は、言い寄る男たちを冷たくあしらうことに抵抗があった。可能な限り、相手の心に寄り添ってあげたいのだ。

 その優しさを蔑んだのが、アメリカ社会であり、日本では封建的な序列を大切にする人々だった。
 女は、男の子を産むだけの道具にすぎない。自分の権力と財産を我が子に伝えるためには、女性が他の男の子を産んでもらっては困る。これが儒教のもたらした男尊女卑社会の本質である。
 女性は、ハーレムに閉じ込められ厳重に管理された。もしも自由な性を求めたなら、ハーレムでは大奥の江島のような処罰を受けることになる。
 男女の関係よりも身分と序列を優先させる社会では、心優しい女性は、精神を病むことが多くなる。

 私は、若い頃、精神病院の建設現場で、病室のなかで全裸になって、こちらにコンタクトしようとした女性を見た。すぐに看護婦に連れていかれた。
 以来、彼女は、心優しい「させ子」に違いないと思うようになった。