玉川上水みどりといきもの会議

玉川上水の自然を生物多様性の観点でとらえ、そのよりよいあり方を模索し、発信します

ありふれた生き物

2017-02-10 02:23:07 | 生きもの調べ
  この本を読んだ人はタヌキがこんな生き方をしているのだという発見があったかもしれません。あるいは都市にも糞虫がいることに驚きを感じたかもしれませんし、自然観察ってなかなかおもしろいと共感したかもしれません。一方で、テレビの「自然もの」を見慣れた人は、がっかりしたかもしれません。絶滅危惧種のような希少種は出て来ないし、特別に美しい動物や、奇妙な行動をする動物もありません。高い山でも、雪の中でも、マングローブや原生林でもありません。それどころか、都市の市街地にある - みすぼらしいとはいわないまでも - ごくふつうの植物しかなく、しかもその緑は横切ればすぐに通りすぎてしまうほど狭いものであり、そこには当然、特別な動物はいないー玉川上水の自然はそういう自然です。もっともカブトムシやクワガタはいますし、キンランとかマヤランのような珍しい植物もあることはありますが、この本ではとくにとりあげていません。
 玉川上水に珍しい生き物がいないことの負け惜しみを言っているように聞こえるかもしれませんが、決してそうではありません。私は生きものの「特殊さ」、「貴重さ」を強調することにあまり意味を見出さないからです。というより、対象とする生き物が貴重だからすばらしいとは思わないのです。そうではなく、どのような生き物もみなすばらしいと思うのです。
 タヌキを選んだのも、タヌキが珍しい動物だからではなく、むしろ逆にどこにでもいる動物だからです。タヌキはいつの時代でも日本人のそばにいたから、民話もありますし、擬人化した人形などもわれわれになじんでいます。クマのように人身事故を起こすということはないし、サルのように知能が高くて農業被害を起こして駆除されるということもありません。被害を出すのですが、サルやイノシシのように憎まれるということもあまりないようです。ところが、そのわりにはその生活はよく知られていません。タヌキ自身のこともよくわかっていませんが、タヌキがいることで周辺の動植物がタヌキとつながって生きているということについてはわからないことだらけといってよいほどです。私はそれを自分の目で見て調べてみたいと思ったのです。なんとなく知っているような気がしているタヌキのことを自分自身が調べて明らかになるとすれば、おもしろいだろうと思ったわけです。 
 
つづく
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玉川上水の価値

2017-02-10 01:20:35 | 生きもの調べ
 
 玉川上水の価値を評価するにはさまざまな視点からの見解がありえます。ごくふつうに考えて歴史的遺産としての大きな価値があります。17世紀の半ばに作られたのですから3世紀半もの歴史を守られ続けたという意味で大きな価値があるといえるでしょう。とくに東京は関東大震災、太平洋戦争末期の大空襲などを経験したために、古い建造物などが壊滅的な被害を受けてほとんど残されていません。そのことを考えれば、歴史遺産としての価値は大きいと言えます。ただし、それは建物や通常の建造物とは違い、江戸市民の生活水を確保するための土木建築物であり、やや特殊と言えるでしょう。巧みな工法、とくに水はけがよすぎて水が失われないようにするためのさまざまな工夫がなされたことなどは土木工学史的な観点からも価値があるものと思われます。ただし私はこのことについての知識がないので、本書で触れることはできませんでした。
 私が記述したのは動植物が暮らす緑地としての玉川上水です。そしてタヌキに焦点を据えた上で、生き物のリンク(つながり)という観点から描写しました。
 思えば、玉川上水が現在まで残っていることは奇跡のようなことかもしれません。というのは、玉川上水は本来の目的を果たし、いわば歴史的役割を終えたのですから、取り壊されてもしかたのない無用の長物という見方もできなくはないからです。
 戦後の日本社会が特殊であったことは歴史が証明することでしょうが、経済復興という目的のためには古くて非効率なものを破壊することに何の抵抗もなかったようです。浮世絵で日本橋の景色を見るとき、なぜあそこにグロテスクな高架を建設したのかと、ため息が出ます。玉川上水についても、杉並区の浅間(せんげん)橋よりも下流は1965年に暗渠化、要するにフタがされました。水道が完備されたのだから、運河はもう要らないというわけです。
 そのことを思えば、経済優先が当然であった当時の社会において、上水としての機能を失った玉川上水を残したのはどういう考えがあってのことだったのでしょう。これについて以前から当時何が起きたのかと気になっていたのですが、東京都教育委員会がまとめた「玉川上水文化財調査報告」を読んでいてひとつのヒントを得ました。
 1960年代に東京の人口は1000万人を越え、水不足が深刻化しました。そのため水を確保する目的で、東村山浄水場建設、江戸川拡張事業などが進められ、玉川上水の機能が羽村から小平水衛所(現在の監視所)までに削減されました。その結果、小平よりも下流は荒廃し、1970年頃にはゴミが捨てられて、ひどい状況になっていたようです。
 1970年頃に取材をした加藤(1973)は当時の玉川上水を次のように記述しています。

「およそありあとあらゆるゴミがこの堀に投げ込まれている。古靴や空罐、発泡プラスチックはいうにおよばず、大小のボール、よごれた布団からボストンバッグにつめた下着類、なかには一ダースの箱につめたコップまである。雨の日に流れたものがところどころで堰きとめられるとみえて、そこはこんならガラクタがダムになって水が溜まっている。」
(加藤、1973、「都市が滅ぼした川」、中公新書)

 こうしたこともあって、東京都は玉川上水の暗渠化を計画したそうです。当時の空気を考えればありそうなことです。
 これに対して「玉川上水を守る会」が結成され、活動が始まったそうです。活動の内容は、行政への陳情、史跡指定運動の推進、見学会などの啓発活動、署名運動などだそうです。その効果があって1970年には東京都がその主旨を採択したそうです。これには当時の美濃部亮吉知事(在任1967年〜1979年)の影響力もあったようで、当初消極的だった東京都水道局も協力的になったとされています。
 こうした流れの中で、東京都は1972年6月に玉川上水に1日3万トンの水を流す「清流復活」を決断し、国の史跡指定を受けて現状維持することになったということです。
 上記の「報告書」では「守る会」の成果を、玉川上水の暗渠化を阻止し、東京都の政策を保全に変更させたことと、住民の保護意識を高揚させたこととしています。
 私はこれを読んでちょっと驚きました。あの時代は「開発優先」だったはずです。それが市民の声でいわば方針替えをしたということです。現在の日本人の生活は当時に比べてはるかに豊かになったにもかかわらず、市民運動はまったく虚しいものになっています。政治に無関心と言われる若者を巻き込んだ運動でさえ力を持ちません。そのことを思えば、この玉川上水を守る会の成果は信じられないほどです。
 このことは、戦後の社会の動きの中で捉える価値があると思います。戦後の経済復興という大合唱のなかで、大気・水質の汚染が過度に進んで、公害が社会問題になり、水俣病に象徴される悲劇も生まれました。その反動のように反対運動が起こり、国民の環境意識も高まりを見せるようになりました。環境庁(環境省の前身)ができたのが1971年ですが、そのような時代背景を反映したものと考えられます。このことは日本の戦後史を考える上で重要なポイントであり、ぜひ志ある若者に取り組んで、踏み込んだ解析をしてもらいたいと思います。
 いずれにしても杉並区の浅間(せんげん)橋よりも上流の約30キロメートルは残されたわけです。そこにはJRの三鷹駅などもあり、人口稠密で「開発」されてもしかたのないような場所もあります。ともかく右も左もコンクリートとビルに囲まれ、膨大な数の自動車が走る都市環境を、かろうじて細い緑地が続いています。小平市辺りからは周りにまだ雑木林や畑地なども残っており、立川に至ると田園地帯と言える場所を流れる部分もあります。さらに西に行き、羽村のほうに至ると昭和の景色のような場所が多くなりますが、立川などよりは人家が密集するところもあります。
 すでに紹介したように、小平に小平監視所があって、ここまでの水は水量も豊富で、監視所で取水されて、東村山に運ばれて生活用水に使われています。したがってこの範囲の植生は下刈りをされて、枯葉などが上水に入らないようにされています。これより下流は水量がぐっと少なくなり、上水も深くなって両岸から見下ろす形になります。下刈りはおこなわれず、アオキやヒサカキなどの低木がヤブになり、ケヤキやコナラが大きく育って、上水を被い、場所によっては太い根が上水の壁を突き抜けていたりします。
 こうして上水は緑地として市民に親しまれており、散歩をする人やジョギングをする人がたくさんいます。緑がずっと続いているという感覚はとても心地よいもので、心なしか人々の表情もおだやかに思えます。


ジョギングを楽しむ人

 子供は玉川上水で無心に遊んでいます。今時珍しく魚とりをしている男の子も見かけますし、昆虫ネットをもって何かいないかなと探している子もいます。


玉川上水の脇の用水路で魚とりをする少年たち

 仲の良さそうな老夫婦がゆっくりと散歩をしているのを見かけることもあります。あるとき、私が植物の調査をしながら聞いた会話には
「こういうよい緑地が残されていて、この辺りはいいよね。ただの公園と違ってずっと続いているんだもんね」
というものがありました。それに
「これが江戸時代からあるっていうんだから驚くよね。昔の人はよく残してくれたもんだよ」
というものもありました。
 お城を観光で訪れるときに聞くような会話です。それは文字通り歴史的建築物が残されたことに対する直接的な感慨です。ただし、玉川上水は少し違うように思います。人が作った、あるいは建てたものではないからかもしれません。また「いいな」と思うものが人工物ではなく、自然物であるという違いのせいかもしれません。
 ともかく、すべてのものを経済復興優先で決めていたはずの昭和の大人たちが、例外的にこの玉川上水を残したのです。私はそれは「当たり前」のことではないと思います。

つづく
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調べて考えたこと

2017-02-10 01:01:16 | 生きもの調べ
  玉川上水の価値
  ありふれた生き物
  玉川上水で調べる
  知りたいから調べる
  何を見つけたか
  経験と直感
  果実を並べる ー バイオフィリアを考える
  偏見からの解放
  生き物の側に立つ
  誰でもできる生きもの調べ
  子供観察会 ー 手応えのあること
  これからのこと
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2月の観察会

2017-02-01 08:10:28 | 観察会
 2月12日におこなった観察会は、いつもと違い、武蔵砂川に集合し、東に移動して玉川上水に向かうというコースをとりました。というのは一年で一番緑が乏しく、同じ場所では新しい発見もあまり期待できないと考えたからです。
 カラリと晴れ上がった快晴で西武線が西進すると武蔵砂川の近くで真っ白な富士山が大きく見えました。玉川上水まで歩いて近づくと、鷹の台あたりとはまったく違い、木の下に低木がなくすっきりしていました。それに川幅が広く、豊富な水が静かに流れていました。また木の多くはサクラでした。


砂川の玉川上水

 そこで、植物ではなく玉川上水そのものについて少し話をしました。
「玉川上水は1653年に完成しましたが、大都市江戸の飲料水確保が目的ですから、上水に枯葉やゴミが入ることは厳禁で、そのために木はサクラだけ、草は刈り取るべしというお上からの達しがあり、農民の負担はかなり大きかったといわれています。その後、玉川上水の機能は武蔵野台地の農地化のために野火止用水のような分水をすることにも拡大します。そもそもこの台地はそれ以前は集落はなく、水が確保されてから集落ができるようになりました。今は小平監視所より下流は上水の機能をもたなくなったので、低木が生え、木もサクラよりもコナラ、クヌギ、ケヤキなどが多くなり、水は少なくなっています。」
 最初は北側を歩きましたが、橋があったので、そこで日当たりのよい南側を歩きました。
 しばらく歩くと、玉川上水が南のほうに曲がり、西武線から離れます。松山さんによるとこれが立川断層にあたるので、直進すると水が流れなかったのではないかということでした。実際東西に走る道はここで低くなり、玉川上水の水底よりは低いので、上水は土手を作って高くしたのがわかります。


地面が低くなり、玉川上水の水底よりも低くなる場所を示す図

 松山さんは玉川上水の底に礫があるのが不思議で、これは人が入れたのではないかと言います。でも歩道にも礫はあるし、ここが砂川といわれるのは、川に砂が多かったからだというのを読んだこともあるので、私はこれはもともと礫のある土地なのではないかと言いました。
「ブラタモリで取材してもらわなくちゃ」
ということになりました。

 その低まった道がまた登ると金比羅橋に達しました。この辺りにはよい林があり、去年の春に来たときはヒトリシズカやニリンソウが咲いていました。金比羅橋で北岸の竹林に移動したら、鈴木純さんがフクジュソウがあるといいました。

 
フクジュソウ(左:棚橋さん、右:豊口さん撮影)

 花はないと思っていたのでみな喜びました。それで花がパラボラアンテナ構造になっていて太陽光を受け止めて花を温め、昆虫を引きつけている話をしました。
 はなびら(正確には花被片)の形とともに、その反射率も温度確保に関係していると思われます。フクジュソウの花びらは独特のツヤがあります。反射というだけならプラスチックのようにピカピカ、ツルツルでいいと思うのですが、ビロードのような上品な輝きのようなものがあります。それに物理的必然があるとしたら、人が感じる「特別感」と関連があるのかもしれません。
 私は日本画は世界の誇る芸術的レベルにあると思いますが、光の表現という点では明らかに西洋画に遅れをとったと思います。金色に光るものは金粉を使いますが、油絵では反射をとらえて明度を表現することで光っていることを表現します。輝きが強ければとなりの影の部分を強調することで相対的な差の大きさで表現します。ロシアの建物の玉ねぎ模様の輝きとか、絹のツヤなどの表現は日本画では表現しません。フクジュソウの花びらをみてそんなことも考えました。
 それから、フクジュソウにまつわるアイヌの民話を紹介しました。
 あるコタンの酋長の娘が身分の卑しい若者と恋をし、酋長が許さないことを悲しんで二人が心中をする。そこに咲いたのがフクジュソウだという話です。同じモチーフはギリシアのアネモネにもあります。枯葉色の土の中から生まれる新鮮で美しい生命に若者の純粋さを重ねるというのは世界中にあるものと思われます。
 目の前に竹林があったので、話題はそちらに移りました。まずこれは自然か植えたものかについて。
「もちろん植えたもので、モウソウチクは薩摩に入ったといわれています。竹は筍を食べるし、まっすぐな素材はカゴやウチワなどに最適ですからきわめて有用な栽培植物で、農家の裏などに植えられました。地下茎が発達して土壌をつなぎとめるので大地震でも地割れが起きたりしないので「地震になったら竹林に飛び込め」と言われました。」
といったら松山さんが
「私の祖母は関東大震災のときに竹林に逃げ、そこで出産したのが私の母です」
「ああ、そのことを知ってたんだ」
「だったら名前をカグヤにすればよかったのに」(笑)
「いえ、邦子です」(笑)
この辺りは私が玉川上水の調査をしていた十数年前には昭和の農村という雰囲気の残った場所でしたが、いまはコンビニやビルができてかなり変わりました。

 金比羅橋を渡ってからは北側を歩きました。鷹の台辺りと違い、背丈を超える高さのフェンスがあります。散策する人の数は少なく、静かで、右側に清流が豊富に流れてなかなか楽しい雰囲気でした。


玉川上水をみる(撮影、豊口さん)

野草ではありませんがスイセンが咲いており、春の光が水面を反射していました。


スイセンと春の光

 左側の林縁にツル植物が多いので、その説明をしました。
「ツルは光合成で生産したものを、普通の植物が自立するために茎に投資することをしないで、細長い茎を作ってほかの植物のからまって高さをかせいで葉を高いところにつけて光合成をするというちゃっかりした生活をします。だから支えとなる木があり、しかも光がある林縁が一番ふさわしい場所なんです。だから林縁の多い玉川上水にはツルが多いんです。これはスイカズラです。スイカズラは漢字でどう書くか知っていますか?」
「・・・」
「冬を忍、忍冬と書きます。冬にも常緑なので、冬を耐え忍ぶってことね」
「へー」
「いまは洋画はタイトルをそのままカタカナで書くけど、昔はイメージを日本語のタイトルにしててね、「忍冬」というのもあったし、「いそしぎ」とかもあったな」
これには高齢者しか反応しませんでした。そのスイカズラの奥にシキミが蕾をつけていました。


シキミ

「シキミはミカン科で、木ヘンに秘密の蜜「樒」と書きます。密かに咲くということだと思いますが、派手さのない色なので、仏壇に供えたりしますね」
 花はウグイスカグラくらいしかないだろうと思っていたので、フクジュソウとシキミがあったのは意外でした。
 そこに「ニガキ」というプレートのついた木があり、鈴木さんが
「私このところ冬芽にはまっていて、ニガキの冬芽は握りこぶしみたいな形なんですよ」
そこでそれを見ると、たしかに握りこぶしのような形をしていました。
「裸芽ですね」
「ラガってなんですか?」
とリーさん
「コナラなんかは鱗のように冬芽を包んでいるでしょ?あれがなくて芽を裸のまま出しているのを裸芽っていうんです」


観察会のようす(撮影 棚橋さん)

そのあと、記念撮影をしました。


記念撮影

 イヌシデの直径20cmほどの切り株があったので年輪を数えてみました。


年輪を読む(撮影 棚橋さん)

内側ははっきりしていて40本はまちがいなく数えましたが、周辺部は年輪が狭いだけでなく、線が不明瞭になったのでよくわかりませんでしたが、50歳プラス数年といえそうでし
た。


年輪をかぞえる(撮影、豊口さん)

 そのあとおもしろい展開がありました。棚橋さんが中心部を指差して
「ここに伸びる木があったのですか?」
私は質問を少しとりちがえて
「この高さ(20cmくらい)だと、これを頂点とした円錐の木があるということです。木が育つということは、次の年にこの外側を成長部分が覆うということです。成長するところは樹皮の内側の形成層です」
「え?内側からそだって広げていくんじゃないんですか?」
「え?木は内側から育つと思っていたの?」
「はい」
「おれもそう思ってた」
「いや、育つのは外側で、内側は死体だよ」
「へえー、そうなんだ」
「樹皮は内側から広げられて亀裂を起こすわけだ。それが樹種によって硬さや繊維が違うから種ごとに独特の樹皮になるわけだ」
「うん、なるほど、なるほど」
「ついでにいうと木の節って知ってる?」
「はい」
「板にある丸いこげ茶色のやつね。「お前の目は節穴か」というのは、丸い穴が空いていて目みたいだけど何も見えていないという意味なわけだ」
「はあ、そうだったんだ」
「いまの子供は本物の板を見ることがないから節っていってもわからないからね」
「で、節がどうしてできるかっていうと、さっき言ったみたいに、木は育つにつれて幹である円錐を重ねるように肥大していくわけだけど、幹から出る枝は新しい表面に飲み込まれるようになるわけだ。その部分を縦に切って板を取り出すと古い枝の痕跡が輪切りになる。それが節なわけだ」
 といってノートを取り出して説明しました。


節の説明

「はあー、そうなんですね」
「だから、切り株にもおもしろい話がたくさんあるんだ」
「そうですねえ」



 玉川上水駅に着いたとき、12時を少しまわっていました。そこに成瀬つばささんが解説する観察会の一団がいたので挨拶しました。つばささんが「フユシャクがいました」というのでみに行きました。
「ここです」
というのですが、ただコナラの木があるだけで何も見えません。覗き込んでいた鈴木純さんが
「あ、わかった。わかったので抜けます」
とそこを離れた。私は目をこらして見ましたが、見つかりません。2、3分たったかもしれません。やっと見つかりました。翅はほんの申し訳程度で飛べません。フェロモンを出してオスを呼び寄せて交尾します。つばささんは下見をして見つけたということでしたが、これを見つけるのは神業としか思えません。


フユシャクのメス

 このあと、解散としました。

 これで去年の今頃から始めた観察会が一回りしたことになります。楽しく、発見もたくさんありました。あと1回で今年度が終わるので、4月からは調査を主体としたものにするつもりです。

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2016年の観察会

2017-02-01 03:37:05 | 観察会
3月の観察会
4月の観察会
5月8日の観察会
5月15日の観察会
5月29日の観察会
6月の観察会
8月の観察会
9月の観察会(1)訪花昆虫
9月の観察会(2)植生断面
10月の観察会
11月の観察会
12月の観察会
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