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御所市・中西遺跡 新たに弥生前期の水田跡が見つかる

2019年11月21日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が20日、弥生時代前期(約2400年前)の水田跡が確認されていた御所市の中西遺跡で、新たに約3500㎡の水田跡が見つかったと発表した。
 水田跡は約4万3千㎡に及び、この時期では全国最大規模とみられる。
 出土した水田跡は小さなあぜで区画され、表面には人の足跡も無数残っていた。川とみられる跡や同時期の洪水跡もみつかった。一帯の水田の広さは約10万㎡を超えていたと推定されるという。
 現地説明会が23日午前10時~午後3時に行われる。
[参考:共同通信、朝日新聞、]

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御所市・中西遺跡 古墳時代前期(4世紀前半)を中心とする竪穴建物群(最大規模の集落跡)が見つかる 

2015年08月21日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が19日、御所市室、條にまたがる中西遺跡で、古墳時代前期(4世紀前半)を中心とする竪穴建物跡26棟が出土した発表した。
 遺構は北東側に広がる大規模な集落遺跡で、秋津遺跡と一体となることが判明した。 秋津遺跡を含め、これまでに竪穴建物は計81棟になる。 集落全体の範囲は南北約400m、東西200m以上に及び、さらに北側や西側に広がる可能性がある。
全体は祭祀空間と居住空間が区画されており、計画的に配置した古墳時代前期の集落では最大の規模としている。
 建物は一辺が3~6.5mで、これらは西南西―東北東方向の溝で北側と南側の群に区画され、北群は秋津遺跡へとつながる。 建物群や溝の方位も秋津遺跡の集落遺構と一致した。
 高杯や小型丸底壷などの大量の土器や、鏡形の石製模造品1点(直径6・1cm)が出土しており、集落内の祭祀で使われたとみられる。
 秋津遺跡ではこれまでに、祭祀用と考えられる塀で囲まれた方形区画や独立棟(むね)持ち柱建物、居住用の竪穴建物などを検出している。 中西遺跡も含めて集落内部は、溝や柵で囲む区画は祭祀の空間、竪穴建物は居住の場と計画的に配置されたらしい。
 秋津遺跡については、初期ヤマト政権が直営した祭祀施設や、5世紀に周辺地域を本拠とした葛城氏の居館との見方がある。
 現地説明会は23日午前10時から午後3時まで開かれる。
[参考:奈良新聞、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞、産経新聞、ABC関西ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 秋津遺跡
 中西遺跡


【発見】中西遺跡で最大規模の集落遺構
奈良の中西遺跡で溝跡など出土 4世紀最大の建物群か



キーワード: 独立棟持柱建物、秋津・中西遺跡

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高槻市・安満遺跡 弥生前期の水田跡や墓地、足跡が見つかる

2015年06月23日 | Weblog
 高槻市教委が19日、弥生時代の環濠集落跡として知られる大阪府高槻市の国史跡・安満(あま)遺跡で、弥生時代前期(約2500年前)の大規模な水田跡と墓地が出土したと発表した。
 安満遺跡は1928年に発見。その後の調査で集落を囲む環濠や住居の柱跡、弥生時代中期から後期の方形周溝墓や木棺墓が確認されており、一部が国の史跡に指定されている。稲作開始時期の生産、居住、埋葬の機能が同一遺跡で確認出来るのは全国的に珍しいという。
 今回は遺跡公園の造成に伴い、昨年9月から調査。
 水田跡は東西90m、南北100mにわたり、幅20~30cm、高さ5cmの畔(あぜ)・小畦畔(しょうけいはん)で区切られ、1枚10~65㎡の区画の水田約60枚が整然と長方形に区画されていた。
 水田域は弥生前期末の洪水で堆積したとみられる数十cmの土砂に覆われている。
 洪水直後に土砂の上を歩いた人の足跡も約20か所で見つかった。
 弥生中期以降に開削された溝や水路も確認され、集落が拡大していく様子がわかるという。
 墓は水田域に点在し、溝で囲まれた方形周溝墓12基(1辺約4~8m)と、子供を納めたとみられる木棺墓、土器棺各2基が確認された。方形周溝墓の地下には土砂層と水田跡があったことから、前期末の洪水で使えなくなった水田を墓に転用したとみられる。
 弥生時代前期の大規模な水田跡は、秋津・中西遺跡(奈良県御所市)、服部遺跡(滋賀県守山市)、池島・福万寺遺跡(大阪府八尾市、東大阪市)などがあり、それらに次ぐ広さという。
 現地説明会は27日午後1~3時、28日午前10時~午後3時に開かれる。(雨天中止)
[参考:読売新聞、産経新聞、朝日新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 池島・福万寺遺跡
 秋津遺跡
 中西遺跡


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御所市・中西遺跡 弥生前期の水田跡が新たに見つかり、累計2万400㎡と国内最大規模に

2011年11月08日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所(橿考研)が8日、奈良県御所市條(じょう)の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)の水田跡約9千㎡が出土したと発表した。
 今回の調査で、東西に走る畦(あぜ)を基準に、南北3m、東西4mを標準サイズに整然と区画された水田跡約850枚が見つかった。 橿考研の平成21、22年の調査で同遺跡からは水田跡約7400㎡が出土。北側に隣接する秋津遺跡からも同時期の水田跡約4千㎡を確認しており、今回の水田跡を含めると計約2万400㎡となる。弥生時代前期の水田跡としては最大級とされる服部遺跡(守山市)の約1万8700㎡と、池島・福万寺遺跡(東大阪市、八尾両市)の約1万8千㎡を超え、同時期の水田跡としては国内最大規模となる。
 橿考研によると、中西遺跡周辺は、弥生時代前期の大洪水で0.5~1.5mの土砂に埋まり、当時の水田がそのまま保存されたと考えられるという。
 現地説明会は12日午前10時から15時まで開かれる。
[参考:時事通信、産経新聞、毎日新聞、朝日新聞、日経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.12.8中西遺跡 奈良県最古級の水田跡
 中西遺跡

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御所市・中西遺跡 弥生時代の埋没林を発見 伐採痕が残る切り株も

2010年08月05日 | Weblog
2010.8.8追記
 8月7日に現地説明会が行われた。見学者は800人とのこと。
[参考:毎日新聞]

2010.8.5掲載分
 奈良県立橿原考古学研究所が4日、御所市の中西遺跡で弥生時代前期(約2400年前)の大洪水で埋まったとみられる水田跡の隣に、埋没した広葉樹林の跡が見つかったと発表した。
 見つかったのは森林域約3千㎡、水田域約1700㎡。大洪水時に厚さ1~1・5mの土砂により埋まり、真空パックのような状態で埋没した時点の状況をそのまま残している。
 埋没林からは人間や動物の足跡、狩りに使う矢尻、弥生土器片やサヌカイト片などが見つかった。削り易くするためか、火で焦がしながら石斧で伐採した痕跡が残るエノキの切り株(直径約1m、高さ約0.8m)も初めて確認された。
 森林域では22種以上の樹木約200本が見つかり、うち186本の樹種、ヤマグワ44本、ツバキ39本、カエデ21本、イヌガヤ12本、コクサギ10本、オニグルミ、カシ、エノキ各7本などを確認した。
 現地説明会は7日(土)午前10時から開かれる。
[参考:共同通信、読売新聞]

弥生の足跡くっきり、木の周り歩いた森林跡出土(読売新聞) - goo ニュース

過去のニュース・情報
 2009.12.8 中西遺跡 奈良県最古級の水田跡
コメント (2)
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御所市・中西遺跡 奈良県最古級の水田跡

2009年12月08日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所が5日、弥生~鎌倉時代の複合遺跡「中西遺跡」(御所市室、條)で県内最古級となる弥生時代前期(約2400年前)の水田跡が約6千㎡にわたって見つかり、現地で地元住民向けの説明会を開いた。
 水田跡は、調査地の広がりを考慮すると1万㎡を超える可能性があるという。
 弥生前期の水田跡は、同市玉手や、橿原市川西町の萩之本遺跡でも見つかっているが、いずれも1千㎡程度だった。
[参考:朝日新聞]

過去のニュース
 2010.8.5 御所市・中西遺跡 弥生時代の埋没林を発見 伐採痕が残る切り株も
 2009.10.2御所市玉手地区 県内最古級の水田跡



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発掘された日本列島2008 城久遺跡群出土 徳之島産壺

2008年08月26日 | Weblog
 「奄美に大宰府「出先」か/喜界島・城久(ぐすく)遺跡群」の新聞記事(ニュース)が出たのは2006年9月10日(日)沖縄タイムスであった。
 下記のように記されている。 
 中国製青磁片や土師器片など国の役所跡でしか出土しない貴重な品々。役所とみられる大型建物跡(直径30cm前後の十本柱で囲まれた部分は14.5m×11m)もあり、来島した研究者から大宰府との関連を指摘する見解が相次いでいる。
 10世紀の文献に、大宰府の出先機関とみられる『キカイガシマ』の記述があり、それがこの遺跡である蓋然性は高い。
 平安時代に日本の貴族が珍重したヤコウガイなどの南島産物の需要が高まり、その調達のために現地で交易を取り仕切ったのが『出先機関』の一番の役割だった可能性がある。

 それ以前にも、9世紀ごろ大宰府近辺で使われた食膳用の器と同じ形式の土器片(高坏の底部か)が出土している。

 写真は、山田中西遺跡から出土されたカムィヤキと呼ばれる徳之島産の壺か。
 
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