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歴歩

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大阪府島本町・広瀬遺跡 水無瀬離宮の遺構か、大規模な礎石建物跡が出土

2010年01月22日 | Weblog
 町教委は22日、同町広瀬の広瀬遺跡で鎌倉時代前期(13世紀ごろ)の大規模な礎石建物跡や石敷き遺構が見つかったと発表した。後鳥羽上皇(1180~1239年)の「水無瀬(みなせ)離宮」の一部だった可能性が高いという。
 水無瀬離宮に関連するとみられる遺構の発見は初めて。調査地は水無瀬川と淀川の合流地点近くで、承久の乱(1221年)で鎌倉幕府軍に敗れ、隠岐に流された上皇をまつる水無瀬神宮の西約600m。藤原定家(1162~1241年)の日記「明月記」などによると、上皇が正治元(1199)年に造営した「下御所」と後に作った「上御所」がある。承久の乱(1221年)で敗れた上皇が隠岐に流された後、下御所跡には水無瀬神宮が建てられたが、上御所は所在が分からなくなったという。
 遺構などが見つかったのは上御所の推定所在地から南東約200m。柱跡とみられる、礎石を安定させるために置かれた根石を4カ所で確認した。柱跡は四角形を描くような形で見つかった。その間隔は約4.2mで、巨大な礎石建物の一部とみられる。建物跡に沿って、石敷き(幅約3m、長さ約6m)も確認された。雨落ち溝の可能性があるという。溝の内部や周辺から軒丸瓦や軒平瓦片が見つかった。瓦は鎌倉時代の様式で、剣頭文様や巴文様が刻まれた瓦約30枚が含まれている。瓦の量が少ないことから、檜皮で屋根を葺き頂上部にのみ瓦を置いた造りとみている。当時、瓦は、役所や貴族の邸宅などでしか使われておらず、この点からも離宮の可能性が高いという。
 遺構の西側では同じ文様の瓦と16カ所の柱穴や白磁2点が見つかっている。
 現地説明会は24日午前10時~正午に開かれる。
[参考:毎日新聞、産経新聞、共同通信、京都新聞]

後鳥羽上皇の水無瀬離宮か 大阪の広瀬遺跡(共同通信) - goo ニュース

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