歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

白山市・宮保館跡・宮保B遺跡 15世紀の堀跡が見つかる

2009年07月18日 | Weblog
 石川県埋蔵文化財センターが16日、同市宮保町の宮保館跡・宮保B遺跡(鎌倉~室町時代)で、15世紀前半に掘られ、屋敷地を囲んでいたとみられる堀跡や掘立柱建物跡が見つかったと発表した。
 遺跡は、手取川によって形成された扇状地の扇央部に位置する。平成元年度の調査では、中世の館を区画したと思われる堀や溝、石組みの遺構などが確認されている。
 今年度は、4月から調査。堀は幅約5m、深さ約1mで、一辺が約40mのコの字形に巡っていた。堀立柱建物の他、食料の保管庫跡の竪穴状遺構などがあった。また法華経を書き写した柿(こけら)経、土師器や加賀焼など鎌倉・室町時代の食器が出土した。
 今回とは別の場所で幅約4m、深さ約1mの堀も見つかっており、有力者が複数いた可能性もあるとしている。
 一般公開は18日午後1時半~同3時に行われる。
[参考:毎日新聞、石川県埋蔵文化財センターHP]



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「発掘された日本列島2009」(江戸東京博物館)より 今宿五郎江遺跡

2009年07月17日 | Weblog
 今宿五郎江遺跡(福岡市西区今宿町字前田)は2002年から調査を開始し、コンテナ8000箱ほどの、多量の遺物が出土している。
 2007年に環濠集落跡が見つかり、伊都国の有力な拠点集落の一つとみられている。
 今回、土器(5)、銅鏃(5)、銅戈鋳型(1)、ガラス製品(9)、貨泉(3)、石錘(2)、石杵(1)、土製鏡(1)、破鏡(2)、小型仿製鏡(2)、楽浪系土器片(4)、木製短甲片(1)など41点が展示されているが、銅戈鋳型と小型仿製鏡を紹介。
 銅戈鋳型(写真):中広型銅戈基部の鋳型、弥生時代中期 1世紀、長さ8.1cm、幅6.4cm、厚さ3.9cm、凝灰質砂岩製、第10次調査で出土
 小型仿製鏡:弥生時代後期~終末期 2~3世紀 右12.8cm、左12.5cm、第11次調査で出土  

過去のニュース・情報
2009.2.20 今宿五郎江遺跡 弥生時代の甲冑などの木製品が出土
 市教委は19日、今宿五郎江遺跡で、漆の文様が装飾された筒型容器の一部や木製の短甲の一部、幾何学文様の飾り板2点など、弥生時代後期(2‐3世紀)とみられる木製品が約500点見つかったと発表した。
 漆塗りの筒型容器は、長さ22.5cm、幅約4cm、厚さ6mmで、黒漆の塗装面に赤漆で細い線や格子模様、鋸歯の文様を描いている。裏表とも漆が塗られていることから、もともとは細長い筒形の容器として使用されていた可能性が高いという。
 木製の短甲の一部(長さ27cm、幅10cm、厚さ2cm)はワラビの先端のような形をした文様が2カ所に描かれている。
 ほかに、木製のしゃもじや臼(うす)など生活用具のほか、鍬や船の水をくみ出す農漁具などとともに出土した。
[参考:西日本新聞、読売新聞]

2007.12.1 今宿五郎江遺跡 青銅製「寶」の印章出土
 市教委は30日、今宿五郎江遺跡から、「寶(宝の旧字)」と刻まれた平安時代前半(9‐10世紀ごろ)の青銅製印章(印面は1辺2、5cmの正方形)が全国で初めて出土したと発表した。役人クラスの人物が使ったとみられる。文字が一文字であることなどから、役所などで使われた公印ではなく、私印と見られる。遺跡からは官衙で使われたものと同じ瓦や中国製の陶磁器、国産の陶器も出土し、周辺に官衙級の重要施設があった可能性が高まった。大宰府の勢力の広がりを知る上で貴重な発見としている。
[西日本新聞、読売新聞]

2007.8.2 今宿五郎江遺跡 環濠集落が見つかる 「伊都国」交易拠点か
 福岡市教委は1日、今宿五郎江遺跡で、弥生時代後期(紀元後1世紀~3世紀初頭)の大規模な環濠集落が見つかったと発表した。
 一帯から糸島半島にかけては「魏志倭人伝」に記されている伊都国の領域とされているが、環濠集落が確認されたのは初めて。遺跡が当時の海岸線に近いことから、国内外との交易を担った、伊都国の有力な拠点集落の一つとみている。
 2002年に始まった発掘調査で、幅2.5m、深さ1.2m程度のV字溝が、東西約200m、南北約200mの集落を楕円形に囲む形で見つかった。未調査地点も含めると、総延長は900mで集落の総面積は約4・2ヘクタールと推定される。
 環濠内からは今回、中国・後漢時代の「内行花文鏡」といわれる銅鏡の破片や、朝鮮半島支配のために漢朝が設置した楽浪郡(平壌周辺の地域)一帯で製造された土器が出土。これまでの調査で住居の柱跡とみられる穴も複数確認したという。
また、古墳時代ごろのものとみられる銅製の鈴(直径1・9cm)を新たに発見した。
[参考:西日本新聞、毎日新聞、読売新聞]



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京都市・上里遺跡 弥生前期の竪穴住居跡を発掘 18日に現地説明会

2009年07月17日 | Weblog
 上里遺跡(同市西京区大原野上里南ノ町地内)で、弥生時代前期(約2500年前)の竪穴住居跡が16日までに見つかった。
 竪穴住居跡を伴う弥生前期の集落跡は全国的にも少なく、府内では初めてという。
 見つかった竪穴住居跡は、07年度調査で見つかった1棟を含め計4棟。円形と方形があり、一辺ないし直径が5-8m。煮炊きをする炉跡が住居内になく、屋外に炉跡とみられる焼け土が点々と見つかっており、当時、煮炊きは屋外で行っていたとみられる。
 乙訓地域の弥生前期の集落跡は、時代を追って淀川水系をさかのぼるように分布しており、京都盆地で稲作が受け入れられる過程を示す重要な成果とする。
 現地説明会は18日午前10時から行われる。
[参考:京都新聞]

過去のニュース・情報
 2008.6.11上里遺跡 縄文晩期の米が出土 最古の可能性も



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佐賀市・石塚古墳 石室に改修の跡? 18日に一般公開

2009年07月16日 | Weblog
 佐賀市教育委員会は15日、筑後川河口西岸の標高3~4mの平坦な水田部に位置する石塚古墳(同市諸富町為重)の石室の追加調査で、6世紀後半ごろに造られた石室内が時期を置いて複数の人を埋葬したとみられ、後に改修された可能性があることが分かったと発表した。
 石塚古墳は87年、ほ場整備に伴って発掘調査され、福岡県八女地域特有の須恵器や金銅製馬具、小さな鉄板を革ひもで繋なぎ合わせた「挂甲」(鉄製よろい)のほか、蓮華文の金銅製円形板などが出土した。一部は県重要文化財に指定されている。
 石室は長さ約3m、幅1.2~2mで、石の積み方から6世紀後半に造られたとみられる。
 一方、出土品は6世紀末~7世紀の物とされることから、石塚古墳は、7世紀近くに改修して再利用された可能性があるという。
 また、石室内で見つかっていた約25個の人頭大の石は、棺の土台とみられる。古墳全体の形状は不明だが、出土品や、古墳が筑後川に近い低平地にあることから、筑後川を使った海上交通を掌握した豪族のものではないかとみている。
 18日に一般公開をする。午前10と11時の2回に分けて各30分ほど市教委の職員が説明する。(雨天中止)
[参考:佐賀新聞、毎日新聞]




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南相馬市・横大道遺跡 新たに平安時代の製鉄炉が出土

2009年07月16日 | Weblog
 福島県文化振興事業団が15日、奈良・平安時代の製鉄遺跡「横大道(よこだいどう)遺跡」(南相馬市小高区飯崎字横大道)で、9世紀中頃の製鉄炉の跡1基と、8世紀後半~9世紀の木炭窯の跡14基が新たに見つかったと、現地で報道陣に公開した。
 同遺跡とその周辺では、これまでにも製鉄炉や木炭窯の跡が多数確認されており、一帯が一大製鉄基地だったことを裏付けるもの」としている。
 今回見つかった製鉄炉跡は「長方形箱形炉」と呼ばれるもので、長さ約180cm、幅約50cm。踏みふいごの跡や、羽口、倒壊した炉壁の跡などが確認された。また、炉周辺の残滓の中からは、純度の高い鉄の塊(約80g)も見つかった。見つかった鉄は、1200年たった今もほとんど錆びておらず、非常に高い技術があった証となる。
 製鉄に必要な木炭を作る窯(木炭窯)の跡は、斜面をトンネル状に掘り抜いた「登り窯」型で長さ8mを超える大規模なものもあり、未発掘のものも含めると30基以上が存在するという。
 同遺跡周辺には7~9世紀の大規模な製鉄遺跡が集中し、この年代は、中央政権によって蝦夷(えみし)征討が行われた時期と重なっており、蝦夷征討のための武器や、鐘や仏具など鋳物の鋳造に使われたのではないかとしている。
 現地説明会が18日午後1時30分から開催される。
備考:
 横大道は、小高区西部の台地上にある古代の大規模な製鉄遺跡。
 昨年までの調査で、人工的に造成された環状のくぼ地状のせまい範囲に6基の製鉄炉が構築された特殊な遺構がみつかっている。出土土器から奈良時代のものと思われる。
[参考:読売新聞、毎日新聞、福島県文化振興事業団HP]

新たに9世紀の製鉄炉…福島・横大道遺跡(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2008.11.14 南相馬市・舘越遺蹟 東北最大級の木炭窯跡 製鉄拠点か



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明日香村・飛鳥京跡苑池 食膳に使用、ブリの骨が出土

2009年07月16日 | Weblog
 日本書紀に記された天武天皇の「白錦後苑(しらにしきのみその)」とみられる明日香村の飛鳥京跡苑池(7世紀中ごろ)で、ブリなど海で捕れる魚類の骨がまとまって出土していたことが分かった。
 ブリの骨が、古代の内陸遺跡で確認されたのは初めて。
 ブリは漁業集落とされる島根県の上長浜貝塚(奈良時代後期~平安時代)などで見つかっているが、内陸部では初めて。飛鳥・奈良時代の木簡にも登場しない魚だった。
 ブリは60cm以上の成魚で、2枚ないし3枚に下ろした後、切り身にしたとみられる傷跡も残っており、食膳として使用していたことがわかった。ほかにも、ボラやスズキ、アジなどの骨も見つかった。
[参考:奈良新聞]

過去のニュース・情報
2009.6.15
 平成11年の発掘調査で、明日香村の飛鳥京跡で飛鳥時代(7世紀後半)の大規模な池の遺構が見つかったと県立橿原考古学研究所が14日発表した。
 池は石積みの護岸を巡らせ、水の流れを楽しむ精巧な石造物や、中島を配置し、日本最古の本格的な庭園跡とみており、
 日本書紀 天武天皇14年(685)十一月戊申(六日)に、白錦後苑に幸す
の記述より、後苑は飛鳥京宮殿の北を示すため、位置関係も一致することから、白錦後苑(しらにしきのみその)の可能性が高いとする。
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東大阪市・鬼虎川遺跡 姫川産ヒスイ製獣形勾玉

2009年07月15日 | Weblog
 江戸博物館で開催されている「発掘された日本列島2009」の出展品の中で、鬼虎川遺跡の「姫川産のヒスイ(翡翠)勾玉」(写真)を見て、その形と色に興味をそそられた。残念ながら図録ではまったく触れられていない。
 調べると、「獣形勾玉」あるいは「櫛形勾玉」という。1999年に見つかったようである。
  東大阪市鬼虎川遺跡出土(1999年)・獣形勾玉 弥生時代中期 
  長さ4.1cm、厚さ1cm、重さ19.2g

 「ヒスイ勾玉の誕生」(『考古学研究』47-3、2000河村好光)によると、「櫛形勾玉」の出土は17遺跡、18個、その中でヒスイ製は11遺跡、12個があげられている。その後、四条畷市城遺跡(ヒスイ製)など数個が発見されている。
 ほとんどのものがE字形であり、本出土品のように股が3つあるものは珍しい。

 同遺跡からの展示品は他にもたくさんあるが、その中で大きくニュースに取り上げられていたのは、一昨年6月に出土した銅剣鋳型(写真)である。

2007.6.10鬼虎川遺跡 近畿で2例目の銅剣鋳型が出土
 市教委は9日、鬼虎川遺跡で、弥生時代中期後半(紀元前1世紀ごろ)の銅剣の鋳型が出土したと発表した。
 見つかったのは、剣身中央部に当たる一部分で、長さ8.8cm、幅8cm、高さ5.2cm。砂岩製で、砥石に転用されたため、凹凸部分は削れていたが、銅剣の形の焦げ跡が残っていた。復元すると、銅剣は長さ約40cmで、剣身のくびれ部上端の幅が広い独特の型式だった。
 弥生時代、祭祀用などに盛んに製造された銅剣は、主に九州北部や中国・四国地方に分布。近畿では、鋳型の出土例は田能遺跡(兵庫県尼崎市)に次ぐ2例目となる。畿内でも銅剣も作られていたことが裏付けられたとする。
[参考:毎日新聞]

鬼虎川遺跡
 現在の東大阪市弥生町・宝町・西石切町・新町一帯に位置し、生駒山の酉麓、標高4~8mの扇状地末端部から沖積平野にかけて広がる、旧石器時代から江戸時代にわたる複合遺跡。
 本遺跡は1966年に弥生土器や組合せ式木棺などが発見されてその存在が明らかとなった。1975年の第1次調査以降、数十回以上の調査が実施されて、縄文時代前期の海食崖(縄文土器、魚・貝類遺体など出土)なども検出されるが、弥生時代の資料が広範囲に見られ、弥生時代の環濠集落として知られる。


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安中市・長谷津遺跡 竪穴住居間にトンネル跡

2009年07月15日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団が今年4月から発掘調査中の長谷津遺跡(安中市西上磯部)で、出入り口とは別の外部に通じるトンネルを持つ珍しい構造の竪穴住居が複数、発見された。
 長谷津遺跡は碓井川の形成した河岸段丘の北縁にあり、県道の改良工事で発見され、12月までに発掘調査を予定している。弥生時代後期から古墳時代初期(3世紀後半から4世紀)にかけて作られたとみられ、6月末までの調査で、竪穴住居跡約30軒、周溝墓2基などが見つかっている。
 特に弥生時代後期とみられる竪穴住居は、縦10m、横6mと大型で、直径50cm前後のトンネルが壁から掘られ、隣の住居とつながっているものも見つかった。何の目的で設けられたものかは今のところ不明としているが、今後の分析が期待される。
 こうした構造を持つ住居は、福岡県春日市に数例ある。同市の須玖五反田遺跡は出土品から、ガラス工房跡とみられ、送風のためのトンネルだったと推定されている。長谷津遺跡では手がかりとなるようなものは見つかっておらず、隣の住居とつながった構造も非常に珍しいという。床面からは煮炊きをした跡も見つかっており、工房ではなく住居として使用されていたと推定している。
周溝墓は約10mの方形で、内側に礫を敷き詰めた埋葬場所が複数ある。周溝墓は住居より新しく、この場所が集落から墓地へと変わっていったことがうかがえるとする。
 現地説明会は18日午前10時~午後3時。(小雨決行)
[参考:毎日新聞、群馬県埋蔵文化財調査事業団HP]



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藤井寺市・津堂城山古墳 墳丘調査を開始

2009年07月14日 | Weblog
 同市教委が13日、世界遺産登録を目指す百舌鳥・古市古墳群で最初に築かれた大王墓である藤井寺市の国史跡・津堂城山古墳(4世紀後半)の調査を始めた。8月末までに、後円部北側で墳丘の状態などを確かめる。
 墳丘の発掘調査は約1世紀ぶりで、大王墓が大和から河内で築かれるようになった鍵となる古墳の実態解明が期待される。
 同古墳は全長208mの大型前方後円墳で、明治45年(1912)の発掘で竪穴式石室と長持形石棺が出土したため、その周辺だけが4年後、「陵墓参考地」に指定され、後円部の一部のみを宮内庁がフェンスで囲い管理している。(内部資料では允恭天皇陵である可能性を指摘)。古墳全体は58年、国史跡に指定されている。
 市教委によると、石棺の発見以降、83年に市教委が周濠部分を発掘したが、墳丘は未調査だった。後円部北側は墳丘が崩れており、陵墓参考地を囲むフェンスが倒壊しかねないため、盛り土工事をするのに伴って調査を行うことにした。
 この日は作業員が調査地に生えた雑木を伐採し、今後、発掘調査や測量を進める。
 市教委は、「同古墳は、中世に城に転用されたため、本来の墳丘の形はよくわかっていない。今回の調査で、同時期の巣山古墳(奈良県広陵町、全長約220m)などと比較できる資料が得られることを期待している」と話す。
[参考:読売新聞]

過去のニュース・情報
2009.5.8 藤井寺市・津堂城山古墳 宮内庁書陵部が陵墓で初の地中探査
 宮内庁書陵部は、2007年12月に大阪府藤井寺市の津堂城山古墳で行った地中レーダー探査の成果を、4月発行の「書陵部紀要」第60号で発表した。宮内庁が自ら「陵墓」の地中探査を行うのは初めて。
 近年、後円部の東側斜面で土砂の流出が激しくなってきたため、藤井寺市教委が墳丘の保全整備工事を計画。遺構の正確な位置を把握する必要に迫られ、宮内庁は墳丘頂上の平坦面約300㎡の範囲で地中探査を実施した。その結果、石室の規模は各壁の控え積みも含めて南北12・3m、東西6・7mに達することが判明。とくに、石室東側の石積みは今にも地表に露出しかねない状況にあることが分かった。
 これを受けて、同市教委は近く、築造当時の墳丘の形状を確認するための発掘調査に着手。その結果を踏まえて、年度内にも、崖状になっている東側斜面に盛り土工事を施す予定。
 今回の探査は、一度発掘された事実と探査によるデータを比較・検証することができる点で、宮内庁は極めて学術的な意味は大きいとする。しかし、この調査が「皇霊の静安と尊厳を守る」という自ら定めた陵墓管理の大原則に抵触しないのかどうか、議論のあるところ。
 宮内庁は、陵墓への研究者の立ち入り調査について、墳丘の最も下の平坦面までしか認めていない。
 また、5年前に宮崎県に対して認めた男狭穂塚・女狭穂塚古墳(西都市)での地中レーダー探査でも墳丘への立ち入りは許さなかった。
 それにもかかわらず、埋葬施設である石室の直上で探査を実施したことについて、宮内庁は「管理上、必要と認めた調査なので問題ない」と話す。
[参考:2009.5.28読売新聞]

百舌鳥・古市古墳群
陵墓



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明石市・長坂寺遺跡 古代山陽道の邑美駅跡か

2009年07月11日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館(播磨町)が明石市魚住町の長坂寺(ちょうはんじ)遺跡で地中レーダー探査をし、地下に人為的な直線区画があることがわかった。現地に残る田んぼの区画と合わせ、一辺約80mの正方位を向く方形区画が復元でき、古代山陽道の駅家「邑美駅(おおみのうまや)」跡と見ている。
 長坂寺遺跡は奈良時代の瓦が出土したことから、古代寺院跡と見られていた。しかし故高橋美久仁・元滋賀県立大教授らの研究で、長坂寺遺跡のすぐそばを山陽道推定ルートが通ることなどから、平安時代の「延喜式」(注1)に記載された明石駅と賀古駅のほぼ中間地点にあたる、古文献に記載のない幻の駅家(仮称「邑美駅」)があり、統廃合で廃止されたと考えられている。
 探査は1月、日本文化財探査学会の協力で実施し、レーダー探査機で電磁波を地中に発射し、その反射波を受信して画像に表示した。
 自然地形ではできない直線的な筋がいくつも見つかった。これらの結果と地表の様子を総合すると、1辺約80mの方形区画が浮かび上がるという。山陽道の駅家跡と確認されている、たつの市の小犬丸遺跡(布勢駅(ふせのうまや))や加古川市の古大内遺跡(賀古駅(かこのうまや))では、約80m四方の区画(駅館院(やくかんいん))が判明している。
 調査地の地下には何らかの遺構が残っている可能性が高いとみて、同博物館は今秋以降に再度レーダー探査をし、地権者の理解が得られれば来年度以降に発掘調査を検討する。
[参考:朝日新聞、明石市教育委員会HP]

(注1)播磨国駅馬、明石30疋。賀古40疋。草上30疋。大市。布勢。 高田。野磨各20疋。越部。中川各5疋。

過去のニュース・情報
 2009.3.25古代山陽道の駅「賀古駅家」と確認



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富山市・富山城址 戦国期(16世紀中頃)の井戸跡が見つかる

2009年07月11日 | Weblog
 富山市埋蔵文化財センターが昨年8~9月に行った試掘調査で、富山城址公園内の佐藤記念美術館の近くで16世紀中頃に作られたとみられる井戸跡(直径5・4m、深さ1・6m以上)が見つかった。同センターは、「戦国期の富山城の生活ぶりを知る遺構」としている。
 かつて富山城があった場所からは北東部の位置。この井戸は、「堀り方」と呼ばれる大きな穴を掘り、そこに木枠や石壁などの構造物を入れて作られたといい、今回発見されたのは堀り方の部分に相当する。
 井戸跡からは、16世紀後半~17世紀前半の多数の陶磁器の破片が見つかった。井戸が使用されなくなったため、生活道具の陶磁器が捨てられたと推察されることから、井戸は戦国期の16世紀中頃に作られたとみられる。
[参考:読売新聞]
写真は平成13年に撮影

富山城
天文12年(1543)越中守護代・神保長職(じんぼう ながもと、?-1572?)が、家臣の水越勝重に命じて築城したとされる。
 近年の発掘調査により室町時代前期の遺構が発見され、実際の築城時期はさらに遡る可能性がある。
永禄3年(1560)富山城は上杉謙信勢に攻められ、長職は西の増山城(砺波市)へ逃れる。
天正6年(1578)上杉謙信の死後、織田信長に身を寄せていた神保長住が飛騨国から侵攻して富山城に入った。
天正9年(1581)織田信長の家臣佐々成政(1536?-1588)が富山城主となり、大規模な改修を加える。
天正13年(1585)秀吉軍に富山城を攻囲されて降伏。実質的な前田支配がここに始まる。前田利長が大改修を行い隠居。
慶長14年(1609年)建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には津田刑部義忠が城代として入る。
寛永16年(1639)加賀藩3代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立した。
[参考:富山市埋蔵文化財センター]

備考
 2009.7.10読売新聞の文化欄で面白い記事があった。
 富山藩の歴代藩主11人の墓は富山市の長岡御廟にあり、墓の銘すべてが仏教式戒名から、明治末から大正期にかけて贈位された神道式官職名に改刻されていたことがわかったという。
 前田家の菩提寺の一つ、富山市の大法寺で、銘が戒名で書かれた歴代藩主の墓の拓本が7年前に見つかった。その拓本の大きさや輪郭が長岡御廟の墓とほぼ一致した。
 例えば、名君と言われた2代藩主正甫(まさとし)の場合は、拓本は「正甫殿従四位大府侍即天心日菅大居士」という戒名だが、墓には「贈従三位大蔵大輔菅原朝臣正甫之墓」と刻まれている。
[参考:2009.7.10読売新聞]
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堺市・百舌鳥大塚山古墳 60年前に収集した鉄鉾の破片に象嵌、国内最古を半世紀遡る発見

2009年07月11日 | Weblog
 百舌鳥・古市古墳群にかつてあった全長168mの前方後円墳である百舌鳥大塚山古墳(堺市西区、5世紀前半)の副葬品のうち、鉄鉾1点から円形をした金の象眼が見つかり、最古の象眼文様と判明した。
 同古墳は百舌鳥古墳群で2番目に古く5番目の大きさだったが、1949~52年に宅地化され消滅した。
 森浩一・同志社大名誉教授らは宅地化が進んでいた50年に緊急調査。出土した大量の鉄製品などの副葬品はコンテナ約100箱分に上り、市博物館が所蔵、2003年度から奈良大とともに調査と保存処理を進めている。
 鉄鉾は被葬者の傍らに副葬されており、長さ約50cm。錆びて分離した破片4点(長さ6~8cm、幅1~2・5cm)に直径7~8mmの円形の文様が象眼され、内側に直径3・3mmの銀製の鋲(びょう)が残っていた。鉾の両側の膨らんだ部分に鋲があり、破片2点はここから欠け落ちたらしい。象眼の合金比も金60%、銀40%と、通常の象眼より銀の比率が高いという。
 古墳時代の象眼はほとんどが大刀で鉾は異例。象眼文様としては、これまで国内最古とされてきた兵庫県・宮山古墳(5世紀後半)で出土した大刀の銀象眼を半世紀遡る。
 堺市博物館が所蔵する大量の副葬品の調査と保存処理は半世紀を経て今も続いており、今後も新たな発見が期待される。
特徴から中国製と推定でき、中国との交流を深めた倭の五王の時代にふさわしい重要な資料という。
 11、12の両日、名古屋大で開かれる日本文化財科学会の大会で発表される。
[参考:読売新聞]
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豊岡市・八坂神社古墳、中谷貝塚遺跡 縄蓆文土器出土を確認、天日槍伝説の重要資料 

2009年07月10日 | Weblog
 県立考古博物館と豊岡市立出土文化財管理センターが1日、豊岡市内で過去に見つかった古墳時代中期の二つの遺跡から出土した土器片14個が、亀田修一・岡山理科大教授(東アジア考古学)の鑑定で、朝鮮半島で作られた筋状の縄目模様のある縄蓆文(じょうせきもん)土器(승석문토기)であることが分かったと発表した。
 縄蓆文は、4~6世紀の朝鮮半島の土器に特徴的な技法で、縄を巻いた板で土器を整形した筋状の縄目模様。
 1981年に八坂神社古墳(同市土渕)で土器片11個と2003年に中谷貝塚遺跡(同市中谷)で土器片3個が出土した。甕や壺などの一部とみられる。
 古墳時代中期(5世紀後半)に渡来人が来た証拠になるという。縄蓆文土器は窯跡が主に朝鮮半島東南部から見つかっている。縄蓆文土器を焼いた窯は日本ではほとんど見つかっておらず、甕などの実用品のため、交易で伝わったのでなく、渡来人が直接持ち込んだ可能性が強いという。
 県内では、播磨地域を中心に約20例の縄蓆文土器の出土が確認されているが、アメノヒボコの伝説の舞台となった但馬地域では、柿坪遺跡(朝来市山東町)の1例のみで、しかも北但馬からは初めて。
 古代、新羅の王子、天日槍(アメノヒボコ)に代表される渡来人が、北但馬で存在したことを裏付ける重要資料としている。
 いずれも11日から同市日高町称布の但馬国府・国分寺館で開催される「アメノヒボコの考古学」展で展示する。9月6日まで。
[参考:2009.7.2読売新聞、2009.7.3日本海新聞、2009.7.10毎日新聞]

参考:
桜井市広報「わかざくら」平成17年9月号で、縄蓆文土器の出土について記されている。概略は次の通り。
 谷遺跡と安倍寺遺跡の度重なる調査により、二つの遺跡は鍛冶や玉造(たまつくり)に関係する集落の遺跡になる可能性が高いという。そして、両遺跡で出土した遺物の中から、縄蓆文タタキや格子目(こうしめ)タタキなど朝鮮半島で使われている土器と共通する仕上げや形をしている土器が確認されるようになってきている。古墳時代の鍛冶や玉造などの特殊技術は渡来系の人々との関連が考えられている。(時期は確定されていないが、古墳時代中~後期の遺構?)
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大阪府河南町・シシヨツカ古墳 銀象眼大刀柄頭が発見

2009年07月10日 | Weblog
 蘇我氏一族の墓との説がある大阪府河南町のシシヨツカ古墳(6世紀末、東西60m、南北53mの方墳)から、鳳凰を銀象眼で表現した豪華な大刀飾りが見つかっていたことが9日、分かった。
 平成14年の発掘調査時には、横穴式石室から金象眼のある鞍金具などが見つかった。さらに、錆びで覆われた鉄製品が出土。錆びを除去したところ鮮やかな象眼が当時のまま残っており、被葬者の地位の高さを裏付ける資料となった。
 奈良大学に保存処理を委託したところ、六角形をした亀甲文の内側に、2羽の鳳凰が向き合う姿が銀象眼で表現された大刀の柄頭の飾りの一部(縦8cm、横6cm)と分かった。鳳凰の象眼のある大刀飾りは全国で30例前後見つかっているが、シシヨツカ古墳の象眼は特に精巧で、被葬者の権力の大きさがしのばれるという。
 シシヨツカ古墳の北約3kmには聖徳太子墓や推古天皇陵があり、一帯は「王陵の谷」といわれている。
 大刀飾りは11日から、河南町の府立近つ飛鳥博物館で初公開される。
[参考:産経新聞]

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 平成14年3月、現地見学会が行われた際に公開された遺物は、漆塗籠棺、亀甲繋文銀象嵌円頭大刀柄頭、鉄製挂甲、金銅装馬具及び飾り金具、銀製帯金具、金糸、ガラス玉、須恵器などで、これらの遺物は6世紀代、後期古墳の出土品と井通するものが多いとされていた。(大阪府教育委員会文化財保護課シショツカ古墳現地見学会資料参照) この時の、円頭大刀柄頭の亀甲繋文銀象嵌には1羽の鳳凰であったが、今回は2羽の鳳凰が描かれている。細かく説明を加えると、
 既に出土のものは、亀甲文は、辺は二条、頂点は二重円で表現され、中に鳳凰が1羽描かれている。
 今回出土のものは、亀甲文は、辺は三条、頂点は二重円で表現され、中に鳳凰が2羽描かれている。
 似たような、鳳凰文が配された亀甲繋文銀象嵌円頭大刀柄頭は、三重県伊賀郡富岡の前山1号墳(径12mの円墳、6世紀後半)の出土品でも見られる。銅製の耳飾6個ほか、轡、杏葉などの馬具類も同時に出土しているが、こちらのほうの亀甲繋文銀象嵌は、亀甲文は、辺は三条、頂点は二重円で表現され、中に鳳凰が1羽描かれている。



亀甲繋鳳凰文象嵌円頭大刀柄頭出土状況一覧表 (全てを網羅していることは確認していません)
出土古墳時 期象嵌材料一辺の線辺と辺の円形状鳳凰の数
松江市・岡田山1号墳6世紀後半3条2羽
福岡県広川町・鈴ヶ山2号墳1羽
天理市・星塚古墳2号墳6世紀後半金銀3条二重の円2羽
藤岡市・平井地区1号古墳6世紀後半2条1羽
群馬県板倉町・筑波山古墳6世紀後半3条二重の円1羽
蒲郡市・権現山古墳6世紀後半3条1羽
伊賀市・前山1号墳6世紀後半3条二重円1羽
大阪府河南町・シシヨツカ古墳6世紀末2条二重円1羽
同上同上3条二重円2羽



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韓国・済州 新石器時代の「結合式釣針道具」が出土

2009年07月10日 | Weblog
 (財)済州文化遺産研究院は9日、昨年7-12月に西帰浦市安徳面沙渓里~仁城里間農漁村道路擴舗装工事区間の発掘調査を行い、新石器時代の結合式釣針道具(결합식 낚시도구)に使われる石築と「豆粒文土器(두립문토기)」が済州で初めて発掘され、済州道と韓半島、日本間の古代文化交流研究に重要な学術資料になるとしている。
 結合式釣針道具は細く削った石築の下側には弓のように曲がるように削った骨を縛り、上側には縄を縛れるように作ってあり、韓国では1981年江原道襄陽の烏山里で初めて発掘された。
 最近では南海岸地域貝塚でもたびたび出土しており、1989年には日本の熊本県で同じ形の結合式釣針道具が発掘された(注1)。
済州道と日本の交流は今年4月に屏門川上流貯留池工事現場で発掘された豆粒文土器にも証明されている。
 豆粒文土器は表面に豆粒のような突起が装飾されている土器で、日本でも発見されて国宝(注2)と指定されたが済州でも同じ形の土器片3点が発掘されたのだ。
結合式釣針道具と豆粒文土器は済州で初めて発掘され、済州道と韓半島、日本との古代文化の交流が証明されたとしている。
[参考:聯合ニュース]

(注1)天草市大矢遺跡のことか。
(注2)佐世保市泉福寺洞窟遺跡のことか。出土した豆粒文土器は国宝でなく重文に指定されている。
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