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今年4月百済・扶余で出土した百済木簡「還穀文書」は、日本の律令制度の「出挙」とも類似 百済に学ぶ?

2008年11月25日 | Weblog
 「今年の4月24日百済文化財研究院は、忠南扶余双北里で穀物の名前とその数量を筆文字で書いた百済時代木簡が発掘されたことを発表した。」と聯合ニュースが報じたのは7月18日であった。
 さらに「百済時代木簡(목간、6-7世紀頃)が、政府(朝廷)が救荒期に穀物や食糧を貸して利子を受けたことを記録したいわゆる'還穀文書'であり、こういう公文書では最も古い」としていた。
 どうやら、今朝の朝日新聞の記事はその後の進展結果のようである。
[参考:前出]

今朝の朝日新聞の内容は、前述の木簡について、下記のように報じている。
 古代日本が中国をモデルに律令制度を整備する際に、百済が窓口の役割を果たした可能性を示す。
 奈良~平安時代の律令制度で財政制度「出挙(すいこ)」と同様の仕組みが百済に存在し、記録の方法も日本と同じである。

 今年4月扶余で、木簡6点が発見された。木簡の1点に税の収納を担当した役所の「外椋部」の名があった。
 木簡は長さ約30cmで「貸食記」と表題があり、618年のもの。国立歴史民俗博物館の平川南館長(日本古代史)、早稲田大の李成市教授(朝鮮古代史)らが解読し、百済が国庫に持つ稲の種もみを運用した「出挙」の記録と判断した。
 出挙とは、作付けの季節や食料が不足する端境期に農民に種もみを貸し、収穫の秋に回収する制度。
 見つかった木簡から、百済にも公的出挙が存在し、利子が日本と同じ5割だった。
 出挙木簡の一部には「佃目之二石上二石未一石」と記されており、佃目之という人物に、2石を貸して2石を回収し、残り1石が未収という意味。
 日本での出挙を記録した木簡は、7世紀末以降のものが出土、書式もよく似ている。
[参考:朝日新聞]

 さらに、今年の8月10日に奈良県立万葉文化館で行われたシンポジウム『韓国木簡の現在』で国立扶余博物館・李鎔賢氏が発表された資料「韓国木簡の現在・百済木簡 ─新出資料を中心に と題して」が東京大学超域文化科学専攻比較文学比較文化『東アジア古典学としての上代文学の構築』のホームページの中で発表されている。
 「佃目之」については、他にも「佃麻那」「佃首行」の如く、頭に「佃」を冠した人々がおり、姓氏というより、「佃戸」とともに耕作者を表わす職役・職分を表わしていると解しておくと記している。
[参考:東京大学比較文学比較文化研究室]
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