韓国では今年1月に、百済時代の益山市・弥勒寺(미륵사)址の西石塔心柱から金製舎利具が出土して、その築造経緯が刻まれた金製舎利奉安記も一緒に現れて、創建年代が武王(在位600-641)の時代の639年と判明した。そして、創建者が武王と新羅真平王の娘の善花公主ではなく、武王の王后である佐平沙乇積徳女であることも分かった。「薯童謠」の説話は崩れたが、歴史の新たな発見の意義は大きい。
昨年12月には、新羅時代の慶州市・芬皇寺(분황사)址から南門跡が出土し、寺の規模が一部わかったようである。
芬皇寺は三国史記によると634年新羅善徳女王(在位:632-647)の時代に創建されている。弥勒寺が新羅真平王(在位579-632)の援助により作られたとの説話は、前述の新たな発見で違うようだし、共通遺物として残る九重石塔跡、幢竿支柱、鴟尾を見ても明確な共通点は見当たらない。5年後に造られた百済の弥勒寺は、先行して造られた新羅の芬皇寺に負けずと造ったのかもしれない。その後、新羅に滅ばされた百済の民衆を落ち着かせるために薯童謠(ソドンヨ서동요)の説話が作られた、あるいは作って流布したのかもしれない。
さて、芬皇寺の出土状況に話を戻すと、国立慶州文化財研究所は模塼石塔(レンガ塔をまねた石塔)から南に30.65m離れた地点で中門の場所を確認したと昨年12月11日明らかにした。
中門は桁行12.63m(3間)梁間 2間の規模であり、これまでの調査成果を通して、石塔と金堂そして中門が揃って南北一直線に位置する典型的な平地伽藍形式を取っていたようである。
また、中門の両側では東西方向につながる南回廊の跡が確認され、梁間2間で2重の回廊をそろえた複廊構造であることも合わせて分かった。
南側回廊の中に中門を置いてみた時、左側の西南側回廊は東西長さ62.89m(桁行は19間)であったとし、その反対側東南側回廊跡は現在まで5間の桁行きが確認されている。南側回廊全体の東西全長は138.4mとなり、これは皇龍寺の176mに次ぐ規模である。
さらに、新羅時代古代伽藍の中で複廊構造は今まで皇龍寺が唯一だったが、芬皇寺でも同じ事例が確認されたということは注目に値するという。
[参考:2008.12.12聯合ニュース、前出・弥勒寺]
昨年12月には、新羅時代の慶州市・芬皇寺(분황사)址から南門跡が出土し、寺の規模が一部わかったようである。
芬皇寺は三国史記によると634年新羅善徳女王(在位:632-647)の時代に創建されている。弥勒寺が新羅真平王(在位579-632)の援助により作られたとの説話は、前述の新たな発見で違うようだし、共通遺物として残る九重石塔跡、幢竿支柱、鴟尾を見ても明確な共通点は見当たらない。5年後に造られた百済の弥勒寺は、先行して造られた新羅の芬皇寺に負けずと造ったのかもしれない。その後、新羅に滅ばされた百済の民衆を落ち着かせるために薯童謠(ソドンヨ서동요)の説話が作られた、あるいは作って流布したのかもしれない。
さて、芬皇寺の出土状況に話を戻すと、国立慶州文化財研究所は模塼石塔(レンガ塔をまねた石塔)から南に30.65m離れた地点で中門の場所を確認したと昨年12月11日明らかにした。
中門は桁行12.63m(3間)梁間 2間の規模であり、これまでの調査成果を通して、石塔と金堂そして中門が揃って南北一直線に位置する典型的な平地伽藍形式を取っていたようである。
また、中門の両側では東西方向につながる南回廊の跡が確認され、梁間2間で2重の回廊をそろえた複廊構造であることも合わせて分かった。
南側回廊の中に中門を置いてみた時、左側の西南側回廊は東西長さ62.89m(桁行は19間)であったとし、その反対側東南側回廊跡は現在まで5間の桁行きが確認されている。南側回廊全体の東西全長は138.4mとなり、これは皇龍寺の176mに次ぐ規模である。
さらに、新羅時代古代伽藍の中で複廊構造は今まで皇龍寺が唯一だったが、芬皇寺でも同じ事例が確認されたということは注目に値するという。
[参考:2008.12.12聯合ニュース、前出・弥勒寺]
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