市教委は28日、戦国大名・毛利氏の居城で、国史跡の郡山城跡(同市吉田町)で、城を囲んだ郭跡と石垣遺構を確認したと発表した。発掘調査で郡山城跡から郭の石垣が見つかったのは初めてで、上部に中世の郭の造成跡も確認された。
石垣は、2006年9月の豪雨で発生した土砂崩れ災害の復旧工事中に出土し、今年9月初めから調査を行った。最下層から東西に約7m、高さ1・2m、幅0・8mの石垣が出土した。表面が平たく加工された花崗岩が、垂直に5段に積み重ねられ、すき間には小石が詰められるなど、丁寧に築かれていた。石垣の上には南北に細長い2段の郭跡を確認。上部の郭は中央部分が大きく崩落していたが、下部(約100㎡)はほぼ原形をとどめていた。
上部は、土を盛り固めた「版築」により、高さ5~8mを土盛りし約200㎡が造成されていたことが崩落跡から判明した。
周辺から16世紀後半の陶磁器が出土していることや、古文書の記録などから、天正年間(1573~91年)に元就の孫・輝元が築造したと推定される。
また今回の調査では、くぎなどの小さな鉄製品を作ったとみられる鍛冶炉跡も見つかった。
29日午後2時から遺跡見学会を開く。見学会当日は、吉田歴史民俗資料館付近から、案内看板が設置される。
[参考: 読売新聞、朝日新聞}
建武3年(1336)毛利氏が吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として下向した後、毛利時親(?-1341)が郡山南東の一支尾根に築城した。
天文9年(1541) 吉田郡山城の戦いでは、尼子詮久(1514-1561)軍に包囲され攻められるが、陶隆房勢(1521-1555)の援軍もありこれを撃退。毛利輝元(1553-1625)の頃には、石垣等も使用した城郭へと強固にした。櫓が本丸に建てられたが天守閣は存在しなかったとされる。
天正19年(1591)毛利氏が豊臣大名になり、広島城を築城し移転した。
慶長5年(1600) 関ヶ原で敗れた毛利氏は防長2か国へと減封され長門萩に移り、吉田郡山城は廃城となった。
寛永14年(1637) 島原の乱の後、キリシタンの決起を恐れた江戸幕府は郡山城の石垣、堀など破城した。
[10月28日掲載分]
安芸高田市・郡山城跡 初の石垣出土
安芸高田市教委は27日、毛利元就(1497-1571)の居城として知られる同市吉田町の郡山城跡の麓から16世紀後半の石垣や城郭が出土したと発表した。同城跡からの石垣出土は初めて。
石垣と城郭は城跡西南にあり、市街地との高度差がわずか約30mの平地近くまで城が広がっていた。石垣は加工石を積んだ切り石積みで幅7m、高さ1.2m。城郭2段の最下部にあたる。元就の孫・輝元(1553-1625)による増築とみられる。
山城の城郭は1637年の島原の乱以降、江戸幕府の指示で取り壊しが全国で進み、同城でも山頂付近の三の丸など一部の石垣が残るのみ。城の全容は古文書や絵図で想像するしかなかった。
[参考:中国新聞]
郡山城跡から初の石垣出土(中国新聞) - goo ニュース
郡山城
郡山城は、南北朝時代、安芸国吉田庄の地頭として定着した毛利氏が、その勢力を拡大していくなかで、一貫して本拠とした山城。城は1336(建武3)年、毛利時親(ときちか、?~1341)が郡山東南の一支尾根に築いたが、毛利元就(1497~1571)の時には標高約400m、比高約200mの郡山全山に拡大された。山頂に本丸他が築かれ、峰には200以上もの曲輪があり、全山を城郭化した大規模な山城だった。256年間、毛利氏の居城となった。
城域は、東西約1.1km、南北約0.9kmで、南側の麓には内堀が巡り、城内には270段余の平段や、大通院、洞春寺、常栄寺、満願寺などの寺院が建立された。
毛利氏
安芸・毛利氏初代・毛利季光(すえみつ、1202~1247)は、鎌倉幕府草創の功臣・大江広元(1148~1225)の四男である。
父・大江広元から譲られた相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を基盤に関東御家人として毛利姓を名乗り毛利氏初代となる。
三浦氏の乱(1247)の時に、三浦方に加担し敗れ三浦一族とともに自刃する。四男経光だけが季光所領の一つ越後国佐橋荘(新潟県柏崎市)に在住して死を免れ、毛利荘は没収されるが毛利の名字は保つことができた。経光の四男毛利時親(?~1341)が安芸国吉田庄を継ぐことになる。この時親の子孫が毛利元就(1497~1571)である。
石垣は、2006年9月の豪雨で発生した土砂崩れ災害の復旧工事中に出土し、今年9月初めから調査を行った。最下層から東西に約7m、高さ1・2m、幅0・8mの石垣が出土した。表面が平たく加工された花崗岩が、垂直に5段に積み重ねられ、すき間には小石が詰められるなど、丁寧に築かれていた。石垣の上には南北に細長い2段の郭跡を確認。上部の郭は中央部分が大きく崩落していたが、下部(約100㎡)はほぼ原形をとどめていた。
上部は、土を盛り固めた「版築」により、高さ5~8mを土盛りし約200㎡が造成されていたことが崩落跡から判明した。
周辺から16世紀後半の陶磁器が出土していることや、古文書の記録などから、天正年間(1573~91年)に元就の孫・輝元が築造したと推定される。
また今回の調査では、くぎなどの小さな鉄製品を作ったとみられる鍛冶炉跡も見つかった。
29日午後2時から遺跡見学会を開く。見学会当日は、吉田歴史民俗資料館付近から、案内看板が設置される。
[参考: 読売新聞、朝日新聞}
建武3年(1336)毛利氏が吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として下向した後、毛利時親(?-1341)が郡山南東の一支尾根に築城した。
天文9年(1541) 吉田郡山城の戦いでは、尼子詮久(1514-1561)軍に包囲され攻められるが、陶隆房勢(1521-1555)の援軍もありこれを撃退。毛利輝元(1553-1625)の頃には、石垣等も使用した城郭へと強固にした。櫓が本丸に建てられたが天守閣は存在しなかったとされる。
天正19年(1591)毛利氏が豊臣大名になり、広島城を築城し移転した。
慶長5年(1600) 関ヶ原で敗れた毛利氏は防長2か国へと減封され長門萩に移り、吉田郡山城は廃城となった。
寛永14年(1637) 島原の乱の後、キリシタンの決起を恐れた江戸幕府は郡山城の石垣、堀など破城した。
[10月28日掲載分]
安芸高田市・郡山城跡 初の石垣出土
安芸高田市教委は27日、毛利元就(1497-1571)の居城として知られる同市吉田町の郡山城跡の麓から16世紀後半の石垣や城郭が出土したと発表した。同城跡からの石垣出土は初めて。
石垣と城郭は城跡西南にあり、市街地との高度差がわずか約30mの平地近くまで城が広がっていた。石垣は加工石を積んだ切り石積みで幅7m、高さ1.2m。城郭2段の最下部にあたる。元就の孫・輝元(1553-1625)による増築とみられる。
山城の城郭は1637年の島原の乱以降、江戸幕府の指示で取り壊しが全国で進み、同城でも山頂付近の三の丸など一部の石垣が残るのみ。城の全容は古文書や絵図で想像するしかなかった。
[参考:中国新聞]
郡山城跡から初の石垣出土(中国新聞) - goo ニュース
郡山城
郡山城は、南北朝時代、安芸国吉田庄の地頭として定着した毛利氏が、その勢力を拡大していくなかで、一貫して本拠とした山城。城は1336(建武3)年、毛利時親(ときちか、?~1341)が郡山東南の一支尾根に築いたが、毛利元就(1497~1571)の時には標高約400m、比高約200mの郡山全山に拡大された。山頂に本丸他が築かれ、峰には200以上もの曲輪があり、全山を城郭化した大規模な山城だった。256年間、毛利氏の居城となった。
城域は、東西約1.1km、南北約0.9kmで、南側の麓には内堀が巡り、城内には270段余の平段や、大通院、洞春寺、常栄寺、満願寺などの寺院が建立された。
毛利氏
安芸・毛利氏初代・毛利季光(すえみつ、1202~1247)は、鎌倉幕府草創の功臣・大江広元(1148~1225)の四男である。
父・大江広元から譲られた相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を基盤に関東御家人として毛利姓を名乗り毛利氏初代となる。
三浦氏の乱(1247)の時に、三浦方に加担し敗れ三浦一族とともに自刃する。四男経光だけが季光所領の一つ越後国佐橋荘(新潟県柏崎市)に在住して死を免れ、毛利荘は没収されるが毛利の名字は保つことができた。経光の四男毛利時親(?~1341)が安芸国吉田庄を継ぐことになる。この時親の子孫が毛利元就(1497~1571)である。
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