歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良県大宇陀町・又兵衛桜

2015年04月09日 | Weblog

     又兵衛桜(平成27年4月8日撮影)

今朝のNHKニュースで、奈良県大宇陀町本郷から又兵衛桜が中継されていた。実は昨日16時30頃にこの又兵衛桜を見に行っていたのである。その時、結構な人数の放送クルーが翌日中継の準備をしていた。(写真の右下)

又兵衛とは戦国武将後藤基次(又兵衛)のことで、後藤家屋敷跡にある桜との伝えから「又兵衛桜」といわれている。
後藤基次は慶長20年(1615)、大坂夏の陣で玉手山公園(柏原市玉手)山付近で戦死したため、同公園に碑が建てられている。

             後藤基次の碑       (平成17年11月3日撮影)      同説明板

また、側にはしだれ桜が植えられており、説明板には下記が記されている。

後藤又兵衛としだれ桜
 後藤又兵衛基次は、一五六〇年四月十日兵庫県加西市で、後藤基国の次男として生まれた。
 槍の名人として、黒田孝高とその子長政に仕え、長政の九州博多へ着任に伴い一万六平石の大隈城主となった。その後、時代の変化につれ、自ら城を捨てて浪人となったが、一六一四年大坂冬の陣には、亡き秀吉の恩義に感じ、劣勢の秀頼に応援すべく豊臣方へ加勢し、木村重成とともに河内付近で徳川方と奮戦し、恐れられた。
 一時、和睦となったが一六一五年再び大坂夏の陣が始まり、堀を埋められた大坂方は、徳川軍の大軍を河内の峠で迎え撃つべく、五月六日未明、又兵衛は自ら先陣として約三千の手勢を連れて、この山まで来たが既に徳川方の先陣二万余の軍勢は、国分へ到着していたので、大坂方の二番手薄田隼人等の軍を待てずに、戦いの火ぶたは切られた。
 又兵衛の軍は奮戦したものの、多勢に無勢、遂に又兵衛は敵弾に当たり、自決し側近の吉村武右衛門が介錯してその首は、この地の西北の片山・深田へ埋めさせた。翌七日大坂城は落城した。(五十六歳)
 豪傑、後藤又兵衛が義に感じ花と散ったこの地に、「しだれ桜」を植えて、昔を偲び歴史を永く後世に伝えると共に、柏原市の名所にしたいと念ずるものである。
                                 柏原市長 □□□□

  
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