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徳島県阿南市・川原遺跡 「那賀郡衙」跡か

2010年01月11日 | Weblog
徳島県阿南市・川原遺跡 「那賀郡衙」跡か(2)
 那賀郡は、大化2(646)年正月、大化改新の詔によって地方組織として国、郡、里が創設された時に置かれた。平安末期に那東、那西の2郡に分割されるが、江戸時代・寛文4(1664)年に両郡が合併して那賀郡が再置された。
 郡衙は阿南市宝田町郡に置かれた説が有力である。
 今回、川原遺跡(宝田町川原)は市営住宅建設に伴って発掘調査された。同遺跡は桑野川下流左岸に位置し、水運の便がよかった。
 次の遺構、遺物が出土した。
 ① 総柱建物跡(東西二間×南北二間)。倉庫跡と考えられる。ほかにも4棟の掘立柱建物跡が見つかった。
 ② 石帯(丸鞆(まるとも)=半円形のもの)2点。
 ③ 緑色の釉薬が施された陶石。この種のものは8世紀から12世紀中ごろまで生産された。
 ④ 須恵谷のミニチュア土器壺、土師器皿、碗等が約6000点出土。
 遺品はいずれも官衙的要素と祭祀関連遺物の強いものから見て、この遺跡は郡衙の一部分と考えられる。
 川原遺跡のすぐ西に「郡」の地名があり、天平時代に創建されたと考えられる立善廃寺跡(注1)と隣接している。
[参考:2010.1.10毎日新聞]

(注1) 立善廃寺跡
那賀川によって形成された沖積地に位置する。現在は地名に「大門」など、寺に関係する地名が残るのみでその範囲ははっきりとしない。古くから近辺で大量の瓦を出土することが知られていた。県内で最古の寺院の一つであると考えられ、当地を支配していた豪族の氏寺の可能性もある。
天智天皇が創建したと伝える古文書があるが、詳細は不明。中世には荒廃していたと考えられている。
[参考:徳島県立埋蔵文化財総合センターHP]

2009.10.22 掲載分
徳島県阿南市・川原遺跡 「那賀郡衙」跡か(1)
 阿南市教委は、桑野川左岸下流域にある川原遺跡(同市宝田町)から平安時代中期(9~10世紀)の掘っ立て柱建物群や当時の役人が腰帯に装着したと見られる石製飾具などの土器が出土したことから、当時に周辺を治めた地方役所跡の可能性が高いと発表した。
 南北2カ所に分けて発掘していた北側から東西11m、南北5mの規模で溝状遺構や柵列、掘っ立て柱建物群跡が出土した。
 遺物として当時の役人が正装時の腰帯につけた石製飾具「石帯(せきたい)」2点や、緑釉陶器椀、9世紀から10世紀にかけての土師器や須恵器などが見つかった。
 同市教委は、一般集落跡からは出土しない高価な遺物が見つかり、近くに「郡(こおり)」という地名が残り、古代の寺院・立善(りゅうぜん)廃寺跡があることなどから、現在の阿南市や那賀郡一帯を治めた平安時代の地方役所「那賀郡衙」跡の可能性が強いとみている。
 現地説明会が既に10月10日に行われた。
[参考:2009.1.22朝日新聞]



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