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佐賀市・築地反射炉 遺構推定地側から築造時期の耐火れんがや鉄くずが大量に出土

2010年01月09日 | Weblog
 佐賀藩が日本で初めて反射炉を築いて鉄製大砲を鋳造した「築地(ついじ)反射炉」があったとされる日新小学校(佐賀市長瀬町)の敷地で、反射炉本体の壁に用いられた「耐火れんが」片や、精錬時に出たと鉄くずとみられるものが大量に見つかった。
 市教委が冬休み期間中に試掘調査を実施。文献から推定し、昨年発掘調査した場所から20mほど離れた、日新小敷地北側駐車場の東側に幅2m、長さ約13mの試掘溝を掘ったところ、地表からの深さ約70cmで、長さ約5m、厚さ数10cmの範囲から鉄くずを大量に含む層を確認し、焼けたレンガなども多数出土した。同時に出土した染付茶碗の製造年代から、反射炉が造られた1850年代ごろの層とみられる。
 耐火れんがは、片側に白く焼けただれた跡があり、内部が1400度以上の高温になる炉本体の壁に使われたとみられるという。鉄くずは、大きいもので約40cm角の塊があり、容器(縦60cm、横40cm)に20箱以上見つかった。南北約5m、厚さ70cm以上にわたり、鉄くずと土が複数の層状に重なっている断面も出土したという。
反射炉については、実物が残っておらず、正確な位置も分かっていない。反射炉遺構もまだ確認されていないが、佐賀市教委は「近くに反射炉本体があったことを示す重要な発見」と注目している。
 出土した壁材や鉄くずは、反射炉の操業により排出されたとしか考えられない特有の廃材とみており、出土地点を反射炉関連のごみ捨て穴であり、反射炉本体が近くにあったと考えられると推定している。
 築地反射炉は1850(嘉永3)年築造。長崎港の防備を幕府から命じられた佐賀藩が鉄製大砲を鋳造するため築いたとされる。文献から同校敷地内にあったことが分かっており、市教委と佐賀大の研究チームが地中をレーダー探査するなどしていた。佐賀市では、築地反射炉を日本の近代化の出発点として世界遺産の暫定リストに掲載された「九州・山口の近代化産業遺産群」に加えようとしたが、専門家から痕跡が残っていないと指摘され、リストには入っていない。

 日新小学校の校庭には、反射炉とカノン砲の碑が建てられている。幕末維新当時、この周辺は藩の調練所でもあった。碑には下記のように記されている。
 「嘉永3年(1850)12月12日 わが国で最初に築造された佐賀藩の反射炉が、日本近代工業のあけぼのをつげた。幕末、黒船の来航など国内騒然とした中に佐賀藩主鍋島直正は世界の大勢を説き、海防を献策したが、幕府はこれを聞き入れなかった。そのため佐賀藩は独力で、この地に反射炉の建設にとりかかり、失敗を重ねたあげくわが国最初の工業用鉄精錬と鉄製大砲の製造に成功した。
 嘉永6年、ペリー来航にあわてた幕府は、佐賀藩に 「公儀用大砲200門鋳造」 を委託。佐賀藩技術陣は苦難に耐えこの大任を果たした。本碑は日本近代工業の先駆をなした郷土佐賀人の進取性と真摯な営みの歴史を顕彰するものである。                         昭和50年12月12日建立」

写真は、佐賀藩の応援により完成した静岡県伊豆の国市の国指定「韮山反射炉」
[参考:佐賀新聞、朝日新聞]

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