ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

中都会の片隅で活動する8~10人組コーラスグループ、ザ☆シュビドゥヴァーズの日常。
あと告知とか色々。

ネタバレは悪なのか

2016-12-13 23:13:35 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


情報化社会と言われる昨今、その影響はさまざまなコンテンツに波及しているといえます。
おそらく「物語の結末(オチ)を事前に知らせる行為」、いわゆる「ネタバレ」に対する厳しい目も、その影響の一つでしょう。
コンテンツを制作する側は、厳格な情報統制によって事前のネタバレを避けようと腐心しますし、不要にSNSなどでネタバレ発言を行うことはマナー違反とされています。

ネタバレに対して強い拒絶反応を示す人がいることは理解できます。
また、その考え方にも一理あるように思われます。
作品を愛するファンは、自分自身の体験を通じてその作品のストーリーや世界観を最大限楽しみたいと考えるでしょう。
その目的に照らすと、ネタバレは害悪となりえます。
もし事前にストーリーの核心を知ってしまおうものなら、貴重なファーストインプレッションの鮮度が落ちてしまい、十全に作品を楽しめなくなってしまうかもしれないからです。

一方で、ネタバレを容認する立場の方もいるようです。
かくいう私もその一人で、事前に物語の内容を聴かされることにストレスを感じません。
「お前はそれだけ作品を楽しみたいという気持ちが稀薄で、作品に対する愛情が少ないのだ」と言われればそれまでですが、それだけが理由というわけでもないような気がしています。
今日は「ネタバレ容認派」の、私なりの見解をお話ししたいと思います。

まず、何を作品の本質と見なしているのか、という点で、ネタバレ容認派とネタバレ否定派の立場は異なっているのではないでしょうか。
これは特に映像作品に当てはまることなのですが、物語には、当然“脚本”(筋書、ストーリー)があるわけですが、もちろんそれだけで成立しているわけではありません。
映画の場合には、スクリーンに映し出される映像があり、さらにカット割り、カメラワーク、映像の色彩設計といった種々の要素が構成的に組み上げられ、全体の有機的なまとまりが映像作品として結晶しています。
それらを串のように貫く骨組みとして脚本が必要となるわけですが、しかし、それは映像作品の必要条件ではありません。
ミュージックビデオなどの例を見れば明らかなように、脚本がなくても映像作品は成立しうるからです。
また、これは漫画等の作品にも当てはまります。
コマ割り、構図、トーンの張り方など、ストーリーに沿いながらも、それらは別の方法論に基づいて設計されるものです。
ストーリーらしいストーリーのない四コマ漫画が成立することからも(したがって、四コマ漫画においてはネタバレという概念がない)、漫画にとってそれが本質的なものではないことが伺えます。

ここでは、分かりやすい例として映像作品を取り上げましたが、実はこのようなことは小説のような言語作品にも当てはまります。
仮にある小説の結末をばらされたとしても、その小説を物語っていた個々のメタファーや前後の承接関係を含めた言い回しなどを忠実に再現することは不可能です。
そういった意味で、小説のような言語芸術においても、ストーリーというのは成立の必要条件にはなっていないのです。
例えば詩についてネタバレという概念が成立しないのは、詩という言語芸術が言語の脚本的側面ではなく、メタファーや前後の承接関係といった、言語の形式と意味そのものを対象とした芸術ジャンルだからだと考えられます。

このように考えると、作品において脚本(ストーリー)の存在というのは、必ずしも絶対的なものではないということが見えてまいります。
これは、ネタバレ否定派の方々も少なからず認めざるを得ないことと思われます。
映画において、登場人物の表情やサウンドトラックによる演出を抜きに感動が語れるでしょうか?
多くのコンテンツがストーリーを前提に成り立っているとはいっても、そこには多くの付随要素が不可分に張り付いているのです。

ここで、仮にコンテンツにおいてストーリーをつかさどる要素を〈実質的側面〉、それに付随するさまざまな演出的な要素を〈機能的側面〉と呼ぶことにしましょう。
このような区別を立てることによって、ネタバレ容認派とネタバレ否定派の立場の違いを簡潔にまとめることができるように思われます。
すなわち、ネタバレ容認派は〈実質的側面〉を単独でコンテンツの本質と見なしているのではなく、〈機能的側面〉を含めた全体として捉えており、そのどちらかが楽しめればそれでよいのです。
一方、ネタバレ否定派の場合には、〈実質的側面〉は単独でコンテンツの本質を担いうると見なしているように思われます。
だからこそ、ストーリーの結末を語られる(=ネタバレをされる)ことによって作品の本質を暴かれたと感じ、ときに憤慨することになるのです。

コンテンツの〈実質的側面〉に関心を持つのはごく一般的な傾向であり、それはネタバレ容認派の場合も例外ではありません。
しかし、コンテンツの〈機能的側面〉に注目して作品を鑑賞することにも、それなりの意義があるように思われます。
なぜならば、〈実質的側面〉は言語的なパラフレーズによるメタ的な伝達が比較的容易である(つまり、ネタバレは簡単に行える)のに対し、〈機能的側面〉は、コンテンツそのものに触れなければ決して得ることのできない体験そのものだからです。
登場人物の表情や映像の色彩感、そのほか音楽的な演出などは、口で説明したとしても忠実な再現とはならず、いわばすべて“間接引用”となってしまいます。
そういった突き詰め方をしていくと、それそのものに触れなければ得られない体験であるという意味で、むしろコンテンツの本質とは〈実質的側面〉ではなく〈機能的側面〉にあるといっても過言ではないのです。
本当に優れた作品というものは、単にストーリーが優れているだけでなく、その“魅せ方”にもこだわっている場合がほとんどであり、〈実質的側面〉を取り除いたら何も残らない、というような作品は、必ずしも優れたものであるとはいえないのではないでしょうか。

私はこのような考えから、必ずしもネタバレ行為に過度なアレルギー反応を示す必要はないのではないかと考えています。
もちろん、個々人のポリシーや収益確保のためといった商業的な問題もあり、全面的にネタバレを解禁するべきだと主張するつもりはありませんが、「ネタバレは絶対的な悪である」と見なすのは明らかに行き過ぎでしょう。
コンテンツの〈機能的側面〉に興味があるという人は、むしろ〈実質的側面〉を前提としてコンテンツを楽しみたいと考えるはずです。
そういった人も等しくコンテンツを楽しめるようにするためにも、ネタバレに対する見方を今一度整理する必要があるように思われます。

今日は私なりにネタバレ容認派の考え方をまとめてみました。
ネタバレ容認派にもいろいろな立場があり、個別の理由によって容認している方もいらっしゃることでしょう。
なので、ここでしたお話は、あくまでも私個人の考えを通しての一般化ということになります。
人が変わればまた違った考えを述べられるかもしれません。


皆様はどういった要因でネタバレを容認し、また回避しているでしょうか。
今回取り上げた事例以外にもお考えがあれば、ぜひ教えていただければと思います。

それでは!



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