毎月第4金曜日、奈良日日新聞に連載している「奈良ものろーぐ」、昨日(12/22)掲載されたのは「門前町・市場町 三輪 惠比須神社に面影を残す」だった。NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」監事で三輪にお住まいの露木基勝さんにお願いして、吉澤宏さん(桜井市老人クラブ連合会会長)をご紹介いただき、取材にお邪魔した。
※トップ写真は三輪惠比須神社。12月7日(木)に撮影
「三輪郷は大神神社の門前町なので、この神社にまつわるお話を聞けるのかな」と思っていたが、話は三輪惠比須神社のことがメインになった。そこで、帰りに惠比須神社にお参りすると、運良く宮司の竹内久司さんにお目にかかることができた。「毎年2月6日の初市は、大変な賑わいでした。昔の写真がありますので、お送りしましょうか?」との有り難いお話。それで完成したのがこの記事だ。セレンディピティ(思わぬ発見)とは、このことである。では全文を紹介する。
桜井市三輪郷(大神郷)の旧街道沿いには、かつての繁栄ぶりをしのばせる商家や民家が建ち並んでいる。
もともと大神(おおみわ)神社、平等寺、大御輪寺(だいごりんじ)への参拝客が多かった上に、長谷詣や伊勢参りの旅人が増えるにつれてますます訪れる人が多くなり、上街道の宿場町、大神神社の門前町として、また三輪市の市場町として栄えた。幼少の頃から三輪にお住まいの吉澤宏さん(桜井市老人クラブ連合会会長)にお話を伺った。
「三輪では多くの農家が家内工業として、そうめんづくりをしていました。その関係か軍需工場ができたときも、うどん(乾麺)の工場で、私も動員されました」「廃仏毀釈(きしゃく)のとき祖父たちは若宮さん(大御輪寺)の十一面観音像を大八車に載せて、聖林寺に運んだそうです。とても重とうて、途中でほかして帰ろか、と言い合っていたそうです」。
和辻哲郎は伝聞として、聖林寺の十一面観音像は「埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた」(『古寺巡礼』)と書いたが、もしかすると、このような噂話を聞きつけたのかも知れない。
「昭和19(1944)年に廃止されるまで、大和鉄道が通っていました。初瀬川(大和川)が氾濫したときは、たくさんのスイカが流れてきました」「雨乞いのため、三輪山へ登って拝んだことも15回ほどあります」
三輪惠比須神社の初市(昭和31年2月6日)=竹内久司宮司提供
「三輪惠比須神社の初市の日(2月6日)は学校が半ドンになりました。初瀬川から神社まで約300メートルの参道の両側に400軒ほどの店が並んでいて、それはにぎやかなものでした。天理教敷島大教会(同市金屋)は天理教でも屈指の大教会だそうですから、ここは昔から信仰心の厚い土地柄なのでしょう」
日本最古の市は『日本書紀』や『万葉集』に登場する海石榴市(つばいち・同市金屋)である。三輪惠比須神社の社伝によると、海石榴市が延長4(926)年7月の初瀬川の氾濫で流されたため、市が三輪に移った(三輪市)。市の守護神も遷され、それが今の三輪惠比須神社となった。同社は「市場神社」「日本最初の市場の神」とも呼ばれ、商業など産業の守護神として信仰を集めた。今も2月6日には初市が開かれている。
「初市は磯城郡三輪町で先づ正月6日(新暦2月6日)に開かれる。(中略)毎年最初にこの市により米相場が定められ、それを大阪堂島市場へ急報したものである。この三輪の初市に続いて8日宇陀の松山に、10日上市に、12日下市と経済の中心地で順次開かれ、14日御所町の東、茅原(掖上村)のだだおし(とんど左義長)で終わる」(『大和下市史』)。
今も三輪惠比須神社では、2月5日の宵宮で、古代衣装の行列と三輪素麺初市相場報告祭、6日は初市大祭とにゅうめんの振る舞い、7日は湯立て神楽と景気太鼓、ごくまき(餅まき)が行われる。古き良き時代の名残をとどめる三輪郷、この風情はぜひ後世に引き継いでいただきたい。
初市が三輪から宇陀松山、上市、下市、茅原(御所市)に移っていくことの裏付けを取るため、下市町役場に電話すると、『大和下市史』にその旨の記載があることをご教示いただいた。多くの方のご協力のおかげで、記事をまとめることができた。皆さま、有り難うございました!
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※トップ写真は三輪惠比須神社。12月7日(木)に撮影
「三輪郷は大神神社の門前町なので、この神社にまつわるお話を聞けるのかな」と思っていたが、話は三輪惠比須神社のことがメインになった。そこで、帰りに惠比須神社にお参りすると、運良く宮司の竹内久司さんにお目にかかることができた。「毎年2月6日の初市は、大変な賑わいでした。昔の写真がありますので、お送りしましょうか?」との有り難いお話。それで完成したのがこの記事だ。セレンディピティ(思わぬ発見)とは、このことである。では全文を紹介する。
桜井市三輪郷(大神郷)の旧街道沿いには、かつての繁栄ぶりをしのばせる商家や民家が建ち並んでいる。
もともと大神(おおみわ)神社、平等寺、大御輪寺(だいごりんじ)への参拝客が多かった上に、長谷詣や伊勢参りの旅人が増えるにつれてますます訪れる人が多くなり、上街道の宿場町、大神神社の門前町として、また三輪市の市場町として栄えた。幼少の頃から三輪にお住まいの吉澤宏さん(桜井市老人クラブ連合会会長)にお話を伺った。
「三輪では多くの農家が家内工業として、そうめんづくりをしていました。その関係か軍需工場ができたときも、うどん(乾麺)の工場で、私も動員されました」「廃仏毀釈(きしゃく)のとき祖父たちは若宮さん(大御輪寺)の十一面観音像を大八車に載せて、聖林寺に運んだそうです。とても重とうて、途中でほかして帰ろか、と言い合っていたそうです」。
和辻哲郎は伝聞として、聖林寺の十一面観音像は「埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた」(『古寺巡礼』)と書いたが、もしかすると、このような噂話を聞きつけたのかも知れない。
「昭和19(1944)年に廃止されるまで、大和鉄道が通っていました。初瀬川(大和川)が氾濫したときは、たくさんのスイカが流れてきました」「雨乞いのため、三輪山へ登って拝んだことも15回ほどあります」
三輪惠比須神社の初市(昭和31年2月6日)=竹内久司宮司提供
「三輪惠比須神社の初市の日(2月6日)は学校が半ドンになりました。初瀬川から神社まで約300メートルの参道の両側に400軒ほどの店が並んでいて、それはにぎやかなものでした。天理教敷島大教会(同市金屋)は天理教でも屈指の大教会だそうですから、ここは昔から信仰心の厚い土地柄なのでしょう」
日本最古の市は『日本書紀』や『万葉集』に登場する海石榴市(つばいち・同市金屋)である。三輪惠比須神社の社伝によると、海石榴市が延長4(926)年7月の初瀬川の氾濫で流されたため、市が三輪に移った(三輪市)。市の守護神も遷され、それが今の三輪惠比須神社となった。同社は「市場神社」「日本最初の市場の神」とも呼ばれ、商業など産業の守護神として信仰を集めた。今も2月6日には初市が開かれている。
「初市は磯城郡三輪町で先づ正月6日(新暦2月6日)に開かれる。(中略)毎年最初にこの市により米相場が定められ、それを大阪堂島市場へ急報したものである。この三輪の初市に続いて8日宇陀の松山に、10日上市に、12日下市と経済の中心地で順次開かれ、14日御所町の東、茅原(掖上村)のだだおし(とんど左義長)で終わる」(『大和下市史』)。
今も三輪惠比須神社では、2月5日の宵宮で、古代衣装の行列と三輪素麺初市相場報告祭、6日は初市大祭とにゅうめんの振る舞い、7日は湯立て神楽と景気太鼓、ごくまき(餅まき)が行われる。古き良き時代の名残をとどめる三輪郷、この風情はぜひ後世に引き継いでいただきたい。
初市が三輪から宇陀松山、上市、下市、茅原(御所市)に移っていくことの裏付けを取るため、下市町役場に電話すると、『大和下市史』にその旨の記載があることをご教示いただいた。多くの方のご協力のおかげで、記事をまとめることができた。皆さま、有り難うございました!
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