今日の「田中利典師曰く」は、〈いのちのセミナー配信!〉(師のブログ 2021.3.23付)。今日で師のブログ「山人のあるがままに」からの紹介は、最終回となる。師のブログが終了しても、Facebookなどでの発信は続くので、この連載「田中利典師曰く」が終わる訳ではないが、師のブログからの紹介は、一旦これで打ち止めとなる。
※画像は、JR西日本あんしん社会財団の広報誌および師のブログから拝借
連載の最終回で師は、〈「いのちのセミナー」の配信用法話(動画)を収録させて頂きました〉とお書きだが、この回の動画配信はすでに終了している。しかし内容は、JR西日本あんしん社会財団の広報誌(2021年4月発行の第42号)に掲載されていたので、今日はそれを紹介させていただく(後半の紫色の部分)。ちょうど師の修験道のお話の「総まとめ」なので、ぜひ熟読していただきたい。
「いのちのセミナー配信!」
先に告知しましたとおり、大阪にて、JR西日本あんしん社会財団が開催している「いのちのセミナー」の配信用法話を収録させて頂きました。本来は大きな会場での講演会の依頼でしたが、コロナウイルス感染拡大により、配信法話となりました。
今回の取り組みは「安全で安心できる社会づくり」の一端を担いたいとの思いから、事故や災害に遭われた方々などへの心身のケアに関わる活動や、地域社会における安全構築に関わる活動に対する支援及び安全に関する啓発活動等を展開されているJR西日本あんしん社会財団さまの活動の一環として、ご依頼を受けました。
本日から6/30まで(2021.3.23~6.30)、JR西日本あんしん社会財団公式サイト内で配信されています。誰でも無料で視聴出来ます。過去にいろいろな講演会に呼ばれてきて、その都度厚かましくも、大きな汗をかきながら、なんとかつとめさせて頂きましたが、今回は約55分の収録をモニター相手に延々とひとりでしゃべるという、経験したことがない事件?でした。
正直67点の出来です。これは、最後の7分間が、珍しくいろいろ揉めたり、ミスったりで、そこまではすらすらと一発収録でしたが、最後はテイク4まで撮り直すという、これも私にしては珍しい出来事があり、自己採点は低いものでした。
まあ、でも、頑張ってるなあとも思いますが、最後の顔が渋いのはそのせいです(笑)。よろしければ55分、お付き合いください。内容は八割以上、いつもどおりのいつものお話です

2020年度第2回いのちのセミナー(ウェブにて配 信)
期 間 2021年 3月2 3日( 火)~ 6月3 0 日(水)14:0 0
新型コロナウイルス感染症の収束が見られないことから、引き続き「いのちのセミナー」をウェブにて配信することになりました。
繋がりの中で生きる~修験道(しゅげんどう)に学ぶ~
講師:田中 利典氏 総本山金峯山寺長臈(きんぷせんじちょうろう)、種智院大学客員教授
修験道とは
修験道とは日本古来の山岳信仰に様々な教えが合わさってできた独自の宗教であり、もともと日本にあった神道、そして外国から伝わってきた仏教や道どうきょう教などが習合して成立した日本独自の民俗宗教と言われています。様々なものを認めてきた日本だからこそ生まれた信仰です。奈良県吉野にある金峯山寺はその修験道の聖地であり、私はその修験道、山伏(やまぶし)の僧侶です。
山の宗教・山伏の宗教
山伏の名前は、山に伏し、野に伏して修行することに由来します。大自然を道場に、大自然に神・仏がおられることを前提に修行していく、いわゆる祈りの登山で、神や仏に対する畏れを持った、聖なるものに触れ合う、出会うという山修行の宗教。これが修験道です。
その中心に、夏になると吉野から熊野に至る約170キロを1週 間ほどかけて行ずる「大峯奥駈(おおみねおくがけ)修行」という修行があります 。 朝 3 時ぐらい に 起き、1 日 約 1 2 時 間 、1週 間 続 け て歩 きます。ただ歩くだけではなく、自然の中に神・仏がおられることを前提に、祈りながら、拝みながら行じていきます。
神仏習合(しんぶつしゅうごう)の 宗 教・ 神仏混淆(しんぶつこんこう)の宗教
修験道は八百万(やおよろず)の神(かみ)も八万四千(はちまんしせん)の法門(ほうもん)から生ずる仏も、分け隔てなく尊(とうと)ぶ宗教です。日本には沢山の神様が存在しておられ、仏壇も神棚も持ち得るような日本人の根源的な祈りが具現化した宗教です。
日本には元々神道という信仰がありましたが、6世紀の半ば、中国から朝鮮半島を経て仏教が伝わり、当初蘇我氏vs物部氏のような崇仏派(すうぶつは)と廃仏派(はいぶつは)との争いはありましたが、その後の1,300 年間、日本では仏教の仏様と神道の神様は蜜月関係の夫婦の如く、仲良くしてきました。
修験道というのは、まさにそこから生まれた宗教であり、仏教を父に、神道を母に、仲の良い夫婦の間に生まれた子どものような存在なのです。
実修実験(じっしゅうじっけん)・修行得験(しゅぎょうとっけん)
これが最も修験道の大事な部分です。自ら修行することで、自ら「 験力(げんりき)」「しるし」を得る宗教です。命綱も持たずに岩を登っていく、あるいは、滝に打たれるということもあります。自分の体を使って行ずる宗教なのです。
山での修行では、「懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」 という、山念仏(やまねんぶつ)、掛念仏(かけねんぶつ)を唱えながら歩きますが、キリスト教では「ざんげ」、仏教では「さんげ」と唱えます。
六根とは、目、耳、鼻、舌、身、意であり、私たちが外界の世界を内に認識する入り口です。これを清浄することで、身も心も神・仏に清めていただく。そういうことを心に描きながら山を歩くわけです。1日12時間も歩きますと、いつの間にか心の中が空っぽになり、まさに神・仏に六根を清められたような、そんな気持ちになります。そのようなひとときを持つことが修験道の実践の世界です。
人間は、心でもって心をおさめるのはなかなか難しいもので、体を使って何かをする中で心がおさまっていくということが沢山あります。山伏の修行というのは、まさに体を使って、何か自分の中に新しいものを生み、自然の中におられる神・仏の力によって自分の身と心が清められていく。そういう体験を通じて験力を体得していく世界なのです。
禁止された修験道
修験道というのは、明治になり受難の時代を迎えます。明治初年の神仏分離(しんぶつぶんり)・神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)に続き、明治5年には修験道廃止令が出され、修験道のお寺は廃絶するか神社に姿を変えることになりました。
それによって現代において山伏は縁遠くなりましたが、能や歌舞伎には山伏は沢山登場しているのをみてもわかるとおり、明治までは皆さんの身近に山伏がいたということです。
山伏の効用
山伏の修行には 、「 擬死再生(ぎしさいせい)」という、一度死んで生まれ変わるという意味があります。例えば、奥駈修行では1週間ぐらい山に入り、1日10時間以上歩き、本当に苦しい体験をします。自分の中で一度何かが死んで、新しい自分が生まれ変わることを感じるわけです。
また、山伏の教えの中で、死に習うということをよく言います。死に習うというのは、死を意識して生きるというような意味です。物事というのは、止まったときに初めて本質が見えるものです。動いている間はわからない。
生きるということも同じで、生きている間は生きる本質を見つめ直すのは難しい。しかし死んでからでは遅い。死に習うということは自分の死を意識して生(せい)と向き合うことを言います。それを実践しているのが山伏の修行なのです。
また、山伏の修行は、山の行より里の行ということをよく言います。これは山で修行をした力を里で生かすことを意味します。山で修行した力を里に下りて生かすこと、つまり山で体験した擬死再生の修行を日々の生活の中で生かすことが大切なのです。
修験道に学ぶ
山の修行中に般若心経(はんにゃしんぎょう)というお経を上げていますと、私の前に小さなアオムシが大木の下から上へ登っていく姿が目に入りました。お経の間ずっとそのアオムシを見ていますと、ふと、このアオムシは前世の私だと感じました。このアオムシだった私と、今の私はどこかでつながっているなということを、山の修行の中で感じることがありました。
またあるときは、雨中での勤行(ごんぎょうちゅう)中、この降っている雨、雨を降らせている空、雨を受けている私、雨を受けている草・大地は全部つながっている。私の周りの世界は全部私とつながっていると、そんな気持ちが起こってきたことがありました。あらゆるものとつながっている安心感みたいなものを、山の修行で感じたわけです。
生きる本質とは、実は、様々なものとのつながりの中にあるということが 、私は大事だと思います。「つながり」の側に本質がある。たとえば夫婦という本質は、主人側にも奥さん側にも本質はなく、つながりの側に夫婦の本質がある。
あるいは、親子も、親子というつながりの中に本質がある。我々はどうしても、それぞれの側に本質があろうと勘違いしますが、つながりの中にこそ物事の本質があり、つながり合う中で私たちは生きているわけです。
私は山の修行の中で、大きな命、大きな宇宙、大きな自然とつながっているという体験を通じて、すごく安心するという実感を持ちました。つながり合う中に物事の本質があることを学んだとき、生きていることがすごく楽になりました。
現代社会は様々な問題を抱えており、様々な問題が孤独な自分、孤独な生をつくってしまう傾向にありますが、つながっているということを、あるいはつながりの側に本質があるということを心に収めたとき、変な孤独は起こりにくいのではないでしょうか。
つながり合う中に生きていると思ったとき、私たちの「いのち」というものは、もっと緩やかに、また、温かくなるのではないかと思います。
結びとして
現在、世界中が新型コロナウイルス感染症に苦しんでおります。この感染症に打ち勝つ方法は2つあり、1つは感染しないこと、感染させないこと。もう1つは感染しても負けないこと。それには宗教的な生活がとても大事であると思っております。
自分だけが助かる、自分だけがよいということではなく、皆が助け合う、皆が健康で幸せで生きることを願うということです。“皆で”打ち勝っていかないと、感染症というのはなくならないわけです。
そうすると、皆で幸せになっていこう、皆で負けないでいこうということを祈り合う。この祈りの心を持つことであり、自分だけの利ではなく、他人の利益、他人の利を願っていくことがとても大切なのではないでしょうか。
私どもは去年の4月から、疫病退散(えきびょうたいいさん)、万民安楽(ばんみんあんらく)のお祈りを正午の祈りとして行っています。
これは東大寺さんを中心に、私どもの金峯山寺、高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)、あるいは神社さん、キリスト教の教会の方も一緒になり、場所は違いますが「時」と「心」を同じくして、皆がコロナの苦しみから、疫病の苦しみから救われるよう、これ以上苦しいことが起こらないよう、疫病退散のお祈りを行っています。
コロナによる分断に打ち勝つには、皆がつながっているということを、祈りの中でつくっていくことが大事なのではないでしょうか。「繋がりの中に生きている自分の『いのち』への向き合い」、これこそが、山伏修行の中で、私が感じたもの得たものなのであります。

※画像は、JR西日本あんしん社会財団の広報誌および師のブログから拝借
連載の最終回で師は、〈「いのちのセミナー」の配信用法話(動画)を収録させて頂きました〉とお書きだが、この回の動画配信はすでに終了している。しかし内容は、JR西日本あんしん社会財団の広報誌(2021年4月発行の第42号)に掲載されていたので、今日はそれを紹介させていただく(後半の紫色の部分)。ちょうど師の修験道のお話の「総まとめ」なので、ぜひ熟読していただきたい。
「いのちのセミナー配信!」
先に告知しましたとおり、大阪にて、JR西日本あんしん社会財団が開催している「いのちのセミナー」の配信用法話を収録させて頂きました。本来は大きな会場での講演会の依頼でしたが、コロナウイルス感染拡大により、配信法話となりました。
今回の取り組みは「安全で安心できる社会づくり」の一端を担いたいとの思いから、事故や災害に遭われた方々などへの心身のケアに関わる活動や、地域社会における安全構築に関わる活動に対する支援及び安全に関する啓発活動等を展開されているJR西日本あんしん社会財団さまの活動の一環として、ご依頼を受けました。
本日から6/30まで(2021.3.23~6.30)、JR西日本あんしん社会財団公式サイト内で配信されています。誰でも無料で視聴出来ます。過去にいろいろな講演会に呼ばれてきて、その都度厚かましくも、大きな汗をかきながら、なんとかつとめさせて頂きましたが、今回は約55分の収録をモニター相手に延々とひとりでしゃべるという、経験したことがない事件?でした。
正直67点の出来です。これは、最後の7分間が、珍しくいろいろ揉めたり、ミスったりで、そこまではすらすらと一発収録でしたが、最後はテイク4まで撮り直すという、これも私にしては珍しい出来事があり、自己採点は低いものでした。
まあ、でも、頑張ってるなあとも思いますが、最後の顔が渋いのはそのせいです(笑)。よろしければ55分、お付き合いください。内容は八割以上、いつもどおりのいつものお話です

2020年度第2回いのちのセミナー(ウェブにて配 信)
期 間 2021年 3月2 3日( 火)~ 6月3 0 日(水)14:0 0
新型コロナウイルス感染症の収束が見られないことから、引き続き「いのちのセミナー」をウェブにて配信することになりました。
繋がりの中で生きる~修験道(しゅげんどう)に学ぶ~
講師:田中 利典氏 総本山金峯山寺長臈(きんぷせんじちょうろう)、種智院大学客員教授
修験道とは
修験道とは日本古来の山岳信仰に様々な教えが合わさってできた独自の宗教であり、もともと日本にあった神道、そして外国から伝わってきた仏教や道どうきょう教などが習合して成立した日本独自の民俗宗教と言われています。様々なものを認めてきた日本だからこそ生まれた信仰です。奈良県吉野にある金峯山寺はその修験道の聖地であり、私はその修験道、山伏(やまぶし)の僧侶です。
山の宗教・山伏の宗教
山伏の名前は、山に伏し、野に伏して修行することに由来します。大自然を道場に、大自然に神・仏がおられることを前提に修行していく、いわゆる祈りの登山で、神や仏に対する畏れを持った、聖なるものに触れ合う、出会うという山修行の宗教。これが修験道です。
その中心に、夏になると吉野から熊野に至る約170キロを1週 間ほどかけて行ずる「大峯奥駈(おおみねおくがけ)修行」という修行があります 。 朝 3 時ぐらい に 起き、1 日 約 1 2 時 間 、1週 間 続 け て歩 きます。ただ歩くだけではなく、自然の中に神・仏がおられることを前提に、祈りながら、拝みながら行じていきます。
神仏習合(しんぶつしゅうごう)の 宗 教・ 神仏混淆(しんぶつこんこう)の宗教
修験道は八百万(やおよろず)の神(かみ)も八万四千(はちまんしせん)の法門(ほうもん)から生ずる仏も、分け隔てなく尊(とうと)ぶ宗教です。日本には沢山の神様が存在しておられ、仏壇も神棚も持ち得るような日本人の根源的な祈りが具現化した宗教です。
日本には元々神道という信仰がありましたが、6世紀の半ば、中国から朝鮮半島を経て仏教が伝わり、当初蘇我氏vs物部氏のような崇仏派(すうぶつは)と廃仏派(はいぶつは)との争いはありましたが、その後の1,300 年間、日本では仏教の仏様と神道の神様は蜜月関係の夫婦の如く、仲良くしてきました。
修験道というのは、まさにそこから生まれた宗教であり、仏教を父に、神道を母に、仲の良い夫婦の間に生まれた子どものような存在なのです。
実修実験(じっしゅうじっけん)・修行得験(しゅぎょうとっけん)
これが最も修験道の大事な部分です。自ら修行することで、自ら「 験力(げんりき)」「しるし」を得る宗教です。命綱も持たずに岩を登っていく、あるいは、滝に打たれるということもあります。自分の体を使って行ずる宗教なのです。
山での修行では、「懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」 という、山念仏(やまねんぶつ)、掛念仏(かけねんぶつ)を唱えながら歩きますが、キリスト教では「ざんげ」、仏教では「さんげ」と唱えます。
六根とは、目、耳、鼻、舌、身、意であり、私たちが外界の世界を内に認識する入り口です。これを清浄することで、身も心も神・仏に清めていただく。そういうことを心に描きながら山を歩くわけです。1日12時間も歩きますと、いつの間にか心の中が空っぽになり、まさに神・仏に六根を清められたような、そんな気持ちになります。そのようなひとときを持つことが修験道の実践の世界です。
人間は、心でもって心をおさめるのはなかなか難しいもので、体を使って何かをする中で心がおさまっていくということが沢山あります。山伏の修行というのは、まさに体を使って、何か自分の中に新しいものを生み、自然の中におられる神・仏の力によって自分の身と心が清められていく。そういう体験を通じて験力を体得していく世界なのです。
禁止された修験道
修験道というのは、明治になり受難の時代を迎えます。明治初年の神仏分離(しんぶつぶんり)・神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)に続き、明治5年には修験道廃止令が出され、修験道のお寺は廃絶するか神社に姿を変えることになりました。
それによって現代において山伏は縁遠くなりましたが、能や歌舞伎には山伏は沢山登場しているのをみてもわかるとおり、明治までは皆さんの身近に山伏がいたということです。
山伏の効用
山伏の修行には 、「 擬死再生(ぎしさいせい)」という、一度死んで生まれ変わるという意味があります。例えば、奥駈修行では1週間ぐらい山に入り、1日10時間以上歩き、本当に苦しい体験をします。自分の中で一度何かが死んで、新しい自分が生まれ変わることを感じるわけです。
また、山伏の教えの中で、死に習うということをよく言います。死に習うというのは、死を意識して生きるというような意味です。物事というのは、止まったときに初めて本質が見えるものです。動いている間はわからない。
生きるということも同じで、生きている間は生きる本質を見つめ直すのは難しい。しかし死んでからでは遅い。死に習うということは自分の死を意識して生(せい)と向き合うことを言います。それを実践しているのが山伏の修行なのです。
また、山伏の修行は、山の行より里の行ということをよく言います。これは山で修行をした力を里で生かすことを意味します。山で修行した力を里に下りて生かすこと、つまり山で体験した擬死再生の修行を日々の生活の中で生かすことが大切なのです。
修験道に学ぶ
山の修行中に般若心経(はんにゃしんぎょう)というお経を上げていますと、私の前に小さなアオムシが大木の下から上へ登っていく姿が目に入りました。お経の間ずっとそのアオムシを見ていますと、ふと、このアオムシは前世の私だと感じました。このアオムシだった私と、今の私はどこかでつながっているなということを、山の修行の中で感じることがありました。
またあるときは、雨中での勤行(ごんぎょうちゅう)中、この降っている雨、雨を降らせている空、雨を受けている私、雨を受けている草・大地は全部つながっている。私の周りの世界は全部私とつながっていると、そんな気持ちが起こってきたことがありました。あらゆるものとつながっている安心感みたいなものを、山の修行で感じたわけです。
生きる本質とは、実は、様々なものとのつながりの中にあるということが 、私は大事だと思います。「つながり」の側に本質がある。たとえば夫婦という本質は、主人側にも奥さん側にも本質はなく、つながりの側に夫婦の本質がある。
あるいは、親子も、親子というつながりの中に本質がある。我々はどうしても、それぞれの側に本質があろうと勘違いしますが、つながりの中にこそ物事の本質があり、つながり合う中で私たちは生きているわけです。
私は山の修行の中で、大きな命、大きな宇宙、大きな自然とつながっているという体験を通じて、すごく安心するという実感を持ちました。つながり合う中に物事の本質があることを学んだとき、生きていることがすごく楽になりました。
現代社会は様々な問題を抱えており、様々な問題が孤独な自分、孤独な生をつくってしまう傾向にありますが、つながっているということを、あるいはつながりの側に本質があるということを心に収めたとき、変な孤独は起こりにくいのではないでしょうか。
つながり合う中に生きていると思ったとき、私たちの「いのち」というものは、もっと緩やかに、また、温かくなるのではないかと思います。
結びとして
現在、世界中が新型コロナウイルス感染症に苦しんでおります。この感染症に打ち勝つ方法は2つあり、1つは感染しないこと、感染させないこと。もう1つは感染しても負けないこと。それには宗教的な生活がとても大事であると思っております。
自分だけが助かる、自分だけがよいということではなく、皆が助け合う、皆が健康で幸せで生きることを願うということです。“皆で”打ち勝っていかないと、感染症というのはなくならないわけです。
そうすると、皆で幸せになっていこう、皆で負けないでいこうということを祈り合う。この祈りの心を持つことであり、自分だけの利ではなく、他人の利益、他人の利を願っていくことがとても大切なのではないでしょうか。
私どもは去年の4月から、疫病退散(えきびょうたいいさん)、万民安楽(ばんみんあんらく)のお祈りを正午の祈りとして行っています。
これは東大寺さんを中心に、私どもの金峯山寺、高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)、あるいは神社さん、キリスト教の教会の方も一緒になり、場所は違いますが「時」と「心」を同じくして、皆がコロナの苦しみから、疫病の苦しみから救われるよう、これ以上苦しいことが起こらないよう、疫病退散のお祈りを行っています。
コロナによる分断に打ち勝つには、皆がつながっているということを、祈りの中でつくっていくことが大事なのではないでしょうか。「繋がりの中に生きている自分の『いのち』への向き合い」、これこそが、山伏修行の中で、私が感じたもの得たものなのであります。

