tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

寺の屋根瓦 行基葺きの元興寺/毎日新聞「かるたで知るなら」第17回

2021年07月31日 | かるたで知るなら(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は同会が制作した「奈良まほろばかるた」の各札をもとに毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「かるたで知るなら」を連載している。今週(2021.7.29)掲載されたのは「魚の鱗(うろこ)に見える瓦/元興寺(奈良市)」、執筆されたのは姫路市出身・在住の池内力(ちから)さんだった。さすがに手堅く書かれている。では全文を紹介する。

元興寺は平城遷都に伴い、718(養老2)年、飛鳥の法興(ほうこう)寺(飛鳥寺)が新築移転してできた寺院です。創建時の元興寺は、現在「ならまち」と呼ばれている地域の大部分が境内でした。今は国史跡の極楽坊境内(真言律宗元興寺)、五重塔跡(華厳(けごん)宗元興寺)、小塔院跡(真言律宗小塔院)が残っており、世界遺産「古都奈良の文化財」の一つに登録されています。

かるたの絵札には極楽坊境内にある国宝の極楽堂(右)と禅室(左)の二つの建物が描かれていますが、もともとは僧坊として一つの建物でした。僧坊の東側は智光曼荼羅(ちこうまんだら 極楽堂の本尊、浄土変相図)を描かせた智光法師が住んでおられたことから、1244(寛元2)年に極楽堂として独立しました。床下には奈良時代の礎石が残っています。



丸瓦を重ねた「行基葺き」が見て取れる。写真はお寺の公式HPから拝借

この二つの建物の屋根瓦は上方が狭く下方が広い丸瓦を重ねた行基葺きであり、小さな段差が魚の鱗のように見えます。この技法は飛鳥時代に伝来したものですが名称の由来は不明です。使われている瓦には、法興寺から運ばれたものと、それ以外のものがあり、法興寺のものは赤褐色をしています。

これらの瓦は極楽堂の屋根の手前(南西)部分に集めて葺かれており、境内の南西から観察できます。また、年輪年代法により、巻斗(まきと 軒を支える組物)や頭貫(かしらぬき 柱の上部を連結する部材)の伐採年が飛鳥時代であり、建築部材の一部は法興寺から運ばれていたとみられることが判明しました。(奈良まほろばソムリエの会会員 池内 力)

【元興寺】
(住 所)奈良市中院町11
(交 通)近鉄奈良駅から徒歩約15分
(電 話)0742・23・1377
(拝 観)9時~17時
(拝観料)一般500円▽中高生300円▽小学生Ⅰ00円
(駐車場)有(無料)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良新聞「雑記帳」で『奈良万葉の旅 百首』が紹介されました!

2021年07月30日 | 奈良にこだわる
奈良新聞の投書欄「雑記帳」(2021.7.28付)で、旧知の松本全代さん(川上村在住)が『奈良万葉の旅 百首』(京阪奈情報教育出版)を紹介して下さいました。〈雄々しく、伸びやかな歌も多いが、読んでいて胸が詰まる歌もある。歌の背景が解説されているので、胸に迫ってくる。特に「壬申の乱」や「吉野の盟約」の皇子たちの悲劇に心を奪われ、図書館でそれらに関連する本を、何冊も借りて読みふけっている〉。

また最近、万葉集に関するイベントを企画する過程で本書を1冊お渡しした会社員の男性(神戸市在住)からは、「お盆に桜井市の実家に帰る。母に1冊、プレゼントしたいので購入したい」という有り難いお申し出を受けました。

万葉集に登場する地名は延べ約2,900、そのうち約900は奈良県の地名です。こんなにたくさんの歌が詠まれた都道府県は他にありません。「万葉集は、奈良県の歌集である」とも言えるわけです。『奈良万葉の旅 百首』を手にして、たくさんの人が万葉歌のゆかり地を巡ってくださることを願ってやみません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良に由来の種子を保存する「大和野菜研究センター」

2021年07月29日 | 奈良にこだわる
日本全国で栽培されるスイカの種の8割以上が奈良県産、という話を当ブログで紹介したが、先週の水曜日(2021.7.21)には、奈良新聞の「新 大和の食模様」(122)で、農業試験場から発展した「大和野菜研究センター」(宇陀市榛原三宮寺125)のことが紹介されていた。同センターの公式HPには

大和野菜研究センターの歩み
当センターは大和高原南部地区での国営農地造成事業の開始を機に、1972(昭和47)年に農業試験場高原分場として開設されました。平成26年にはそれまでの高原農業振興センターから大和野菜研究センターに組織改編されました。発足当初は、「地域の生産者、農協と一体となった研究推進」を掲げ、「大和高原地域の特産品の開発」「開発造成畑を利用した野菜の大規模栽培」が主要な研究テーマでしたが、平成28年度からは、「薬草栽培技術の開発」、「遺伝資源の保護」にも取り組んでいます。


記事の執筆者は旧知の的場輝佳さん(奈良女子大学名誉教授、NPO法人「奈良の食文化研究会」の会員)だった。全文は画像をご覧いただきたいが、驚いたのはジーンバンク(種子貯蔵施設)だ。〈昔から奈良に由来する有用な品種の種子が保存されている。低温室の壁一面の棚の引き出しに、カンに密封されて貴重な種子が保存されている。担当の峯圭司さんが丹念に整理分類し、いつでも発芽できる状態に維持・管理をしている〉。

このような施設で大和野菜などの種子が保存されているとは、頼もしい限り。的場さん、良いレポートをありがとうございました!



※7/30 追記
筆者の的場さんから、過去に取材されたスイカのタネの記事を送っていただいたので、以下に貼っておきます、ご参考に。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王寺駅南口・魚八庭(うおはちてい)の豪華!「太子と雪丸 海鮮ちらし膳」(税別1400円)

2021年07月28日 | グルメガイド
昨日(2021.7.27)のランチタイム、王寺駅南口の「魚八庭(うおはちてい)」(北葛城郡王寺町王寺2-4-3 アドレ参番館1階)を訪ねた。このお店は以前からよく存じ上げていて、当ブログでも「魚八膳」「海鮮丼」を紹介したことがある。今回の目当ては「太子と雪丸 海鮮ちらし膳」(税別1400円・税込み1,540円)だ。6/24(木)の奈良テレビ放送「ゆうドキッ!」で、奈良まほろばソムリエの会の松坂慶子こと垣本麻希さんが紹介された、「王寺町発 雪丸新グルメ」3品のうちの1品である。予約なしでいただける逸品である。


奈良テレビ放送のスタジオで(6/24 これら2枚の写真は垣本麻希さんから拝借)



なお他の2品は、
味わい処 ことぶき本店の「太子と雪丸 寿ディナー」税込み3850円
弁当・惣菜 縁庭〜yukaritei〜の「雪丸彩り弁当」税込み 650円
「太子と雪丸 寿ディナー」は前日までに要予約、「雪丸彩り弁当」(お持ち帰り専用)は予約は不要だがすぐに売り切れるので、予約がベターとのこと。




豪華海鮮丼!イクラ、エビ、イカ、マグロ、サーモン、しらす。これだけで1,540円の値打ちはある

運ばれてきたのが写真の料理である。これは豪華!しかも三輪そうめんまでついている。一瞬「食べきれるだろうか」という思いが頭をよぎったが、何とかすべて平らげることができた。やはりここの海鮮丼は美味しい!三輪そうめんもするすると胃袋に収まる。締めのバニラアイスもいい。







雪丸は白い食べ物が好物だそうなので、ポテトサラダ、そうめん、バニラアイスが出てくるのだそうだ。これはよく考えたものだ。しかもお値段は税別1,400円。これは、今年の「聖徳太子1400年遠忌」にちなむのだそうだ。


中央は魚八庭のご主人・内田洋平さん

ああ美味しかった!心も体も大満足だ。内田さん、垣本さん、ありがとうございました。皆さんも、ぜひお訪ねください!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「生類憐みの令」の真実/奈良新聞「明風清音」第59回

2021年07月27日 | 明風清音(奈良新聞)
「生類憐みの令」について、最近は見直しの風潮があるようだ。NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」の「将軍様と10万匹の犬―徳川綱吉と大江戸ワンダーランド」(2017.6.2放送)では、キャスターが「犬を傷付けただけで死罪になった悪法というイメージがありますが、最新の研究でその意外な実像が明らかになってきました」と語っていたし、手元の『新もういちど読む山川日本史』(2017.9.30 1版2刷発行)の「生類憐れみの令」にも、「江戸時代の悪法の代表とされてきた生類憐れみの令は、近年見直しがすすんでいる」とある。見直しのポイントは2つで

①僧隆光が生類憐みを進言したのは俗説であり、事実ではない(「生類憐みの令」の出された貞享2年に隆光は江戸にいなかった)
②生類憐みの対象は捨子、行路病人、囚人などの社会的弱者に及んでおり、これは殺伐とした戦国の遺風を儒教・仏教により払拭しようとした綱吉の政策の一環だった


「ホンマカイナ」というのが私の実感だったが、「生類憐みの令」の全体像の分かる本というものが、ほとんどなかった。やっと見つけたのが、仁科邦男著『「生類憐みの令」の真実』(2019.9.24 草思社刊)だった。これで上記①②は完全に否定された。仁科氏によると「生類憐みの令」のはじまりは、やはり貞享3年7月の「大八車、牛車による犬の事故防止」「主なき犬にも食事を与え、犬を憐れむこと」を命じる江戸町触れで、このとき隆光は江戸にいた。

また生類憐みの対象は、社会的弱者のような「人間」には及ばない。綱吉は「人を含まない生類」を憐れむことに特別な意義を見出したのである。これでやっと私は溜飲を下げたのであるが、奈良新聞の「明風清音」でこれを紹介しようとしたところ、皮肉なことに文字数が足りなくてこの部分を書くことが出来なかった。あまりにも残念だったので、ここに記しておいた。ではそろそろ記事全文を紹介する。

綱吉と「生類憐みの令」
仁科邦男著『「生類憐みの令」の真実』(草思社刊・税込み1,980円)をとても興味深く読んだ。本書カバーには「徳川五代将軍綱吉は、二十数年もの間、生類憐みの令を出し続けた。犬、馬から、鳥、魚介類、虫まで、あらゆる動物への慈愛を説き、その理念と実践を人々に強要したが、彼はなぜ、そこまで過剰な行為に走ったのか?個人的な願望をこれほど赤裸々に表明し、周囲に強要し続けた将軍は、歴代将軍で綱吉しかいない。生類憐みの全法令をつぶさに検証し、綱吉の心の闇に迫る」。

以下、本書の記述に従い、ポイントを紹介する。なお仁科氏は、昨年9月17日に本欄で紹介した『犬の伊勢参り』(平凡社新書)の著者である。

▼下地は「明暦の大火」
綱吉12歳の明暦3年(1657)1月、江戸の町の約7割が燃えた大火が起こる。「江戸の町の行く先々に人の死体が積まれていた。馬も犬も死んでいる。この時の無残な光景は綱吉の心の底に焼き付いて生涯消えなかったのではないか。やがてその記憶は生類憐みの令に形を変え、人々の前に姿を現した」。

▼「生類憐み」的な施策
延宝8年(1680)35歳で徳川家を継いだ綱吉は、生類を憐む施策を始めた。例えば貞享2年(1685)7月の「犬猫つなぐこと無用」のお触れや同年9月の「馬の筋延べ(後肢の筋を切り見栄えを良くする)禁止令」である。前者は将軍のお成り(外出)の際、犬猫をつながなくても良い(表に出してもかまわない)とするものだ。粗相があってはいけないと、犬猫を退治する輩がいたからである。同年11月には、江戸城台所での鳥・魚介料理が禁止された(獣肉料理はもともと禁止されていた)。

▼生類憐みの令がスタート
貞享3年7月「大八車、牛車による犬の事故防止」「主なき犬にも食事を与え、犬を憐れむこと」を命じる江戸町触れが出された。これが生類憐みの令のスタートである。背景には同年閏3月、綱吉の命により長谷寺慈心院から湯島知足院住職に就任した僧隆光の存在があったといわれる。綱吉の母桂昌院は熱心な仏教徒で、隆光に帰依していた。世継ぎに恵まれない戌(いぬ)年生まれの綱吉に対し、隆光は犬を愛護するよう進言したとみられる。

▼鶴愛護令
生類憐みの令は綱吉の前厄の貞享3年(1686)に発せられ、本厄の年から連発される。貞享4年には「捨て牛馬禁止令」、元禄元年(1688)には「鶴字鶴紋使用禁止令」が出された。紀伊家に輿(こし)入れしていた愛娘鶴姫の懐妊祈願にあたり、「鶴」の文字や絵を使わせないようにしたのだ。浅草の饅頭屋鶴屋は麓屋(ふもとや)に、井原西鶴は西鵬(さいほう)と名を変えた。

▼馬憐み令
綱吉が本当にこだわり続けたのは犬ではなく、馬だったようだ。幼名は徳松だが、元服してからは松平右馬頭(うまのかみ)綱吉と名を改めた。通称右典厩(うてんきゅう)公。元服してから将軍になるまでの27年間、綱吉の官職名は右馬頭だった。前述の「馬の筋延べ禁止令」「捨て牛馬禁止令」に始まり、晩年にかけて馬憐み令が続々と出された。元禄7年(1694)の「迷子馬の保護」、同8年の「馬の荷の重量制限」、宝永3年(1706)の「馬養育令」、同5年「病気やケガの馬の介護令」などなど。

しかし同6年(1709)12月に綱吉がはしかで死去すると、翌年1月、生類憐みの令は廃止された。人の命より動物の命を重んじるという天下の悪法は幕引きまで22年を要したのである、やれやれ。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする