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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

万博も開幕し、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

隔日断酒で、「肝機能」が正常値に!/奈良新聞「明風清音」第117回

2025年04月25日 | 明風清音(奈良新聞)
月1~2回、奈良新聞「明風清音」欄に寄稿している。先週(2025.4.17 付)掲載されたのは〈「肝機能」がV字回復〉だった。この話は当ブログにも書いたことがある。
※トップ画像は最新(3/12)の検査結果。左の私の数値は、すべて右側の基準値以下だ、えへん

私は若手社員だった頃から、人間ドックで検査を受けると、「γ(ガンマ)GTP」など、肝機能の数字は、軒並み悪かった。それが年を追うごとにジワジワと悪化し、2~3年前には初めて訪ねた「呼吸器内科」(睡眠時無呼吸症候群の疑い)で、「肝機能が悪すぎます。お酒は土日だけにして、平日はすべて休肝日にしては?」と言われたことがある。

行きつけの内科医にその結果を見せると、「まあ、そこまで悪くはありません」とのことだったので、安心していた。しかし昨年の8月の特定健康診査で、γGTPは「645」という異常値になり、そこから「隔日断酒」を始めた。6ヵ月後の結果で、γGTPは96にまで改善した。

その話を「明風清音」に書いたのだが、掲載後、最新の検査結果(2025.3.12の検査)が届き、なんと!γGTPは76と、基準値以下にまで改善したのである。もちろんGOTもGPTも基準値以下だった。基準値以下は、20~30年ぶりのことだ。今も隔日断酒は続けているので、これがどこまで下がるか、ワクワクしている。

実は隔日断酒のおかげで、「飲む日」のお酒の味は、グンとおいしくなった。これは、肝臓が元気になったおかげだろう。だから「お酒をおいしく飲むために、隔日断酒をしている」と、言えなくもないのである。では、以下に全文を紹介する。

「肝機能」がV字回復
「糖尿が何だ命の酒は飲む」(奈良市・下村郁子さん「奈良柳壇」3月26日付)。「命の酒」とは威勢がいい。こないだまでは私も、全く同じ気持ちだった。

昨年8月、行きつけの医院(消化器内科)へ奈良市の「特定健康診査」の結果を聞きに行ったところ、「肝機能検査」の項目に軒並み※印(受診勧奨判定値を超える数値)がついていた。

「鉄田さん、これはダメです。γ(ガンマ)GTPは、基準値が86以下なのに、645。GOTもGPTも高いです。放っておくと確実に肝硬変になりますよ」「どうすれば良いですか?」「酒量を減らしてください、3ヵ月後に再検査しましょう」。

これは困った。糖尿(高血糖)だとまだ余裕があるが、肝硬変となると、これは大変だ。何より、お酒が飲めなくなる。20歳代で就職してから、徐々に晩酌の習慣がついた。といっても週に1度は休肝日を設けていたし、酒の上で失敗したこともない。しかし、それでも長年飲み続けると、こんな数値になるのだ。

「1日だけなら、断酒はできる。しかしこれを2日以上続けるのはムリだ」。そこで思いついたのが「隔日断酒」(私の造語)である。隔日でお酒を抜けば、酒量は確実に半減する。これは肝臓の回復に役立つだろう。一度やると決めたら覚悟して、必ずやり遂げねばならない。

実は最近、こんなことがあった。会社のもと同僚で、生涯独身だった男がいた。忠告する家族もいないので、好きなものだけを食べ、酒は好きなだけ飲んでいた(しかも酒に弱く、酒癖も良いとは言えなかった)。もともと血圧が高めで、血糖値は信じられないほど高く、それで入院したこともあった。

晩年には、腸炎や肺炎で入退院を繰り返した。私は、カロリー制限や、糖尿病内科の受診を薦めたが、症状が出ない限り、決して医者にかかろうとしなかった。結局彼は昨年1月、心筋梗塞で孤独死していた。

「宅配の弁当が何日分も溜まっている」と、アパートの隣人が不審に思い、大家さんに鍵を開けてもらったところ、死亡が確認されたのだ。まだ満67歳だった。「私の忠告に耳を傾けていれば、こんなことにはならなかったのに…」と歎き悲しんだが、彼は全く聞く耳を持たなかったので、これは不可抗力だったと諦めるしかない。

ともあれこれを反面教師として、私は隔日断酒に取り組んだ。何とか3ヵ月継続し、検査を受けると、おお、γGTPは173と約4分の1に下がっていた!GOTもGPTも大幅に改善していた。

医師は「いったい何をされたのですか?」「2日に1日、お酒を抜きました」「ではそれを継続して、3ヵ月後に、また検査に来てください」。果たして3ヵ月後、γGTPは96に下がっていた!基準値の86まで、あとひと息だ。

噂には聞いていたが、肝臓の回復力(再生能力)は、とても高いのである。しかし医師は決して「毎日飲んでもよろしい」とは言ってくれない。「これを続けてください。7月の特定健診の結果を見ましょう」。

隔日断酒は、良いことずくめだ。酒量が半減するので、酒代も半減する。晩酌をしないので、夜にもパソコン作業ができる。時々「なぜ、毎日酒を飲んでいたのだろう」と振り返る。お酒自体がおいしい、酔うとリラックスできる、などが思い浮かぶが、私の場合決定的なのは、「寝付きが良くなる」。

子どもの頃から、寝付きが悪く、午後からコーヒーなどを飲むと、深夜まで寝付けなかった。それが晩酌するようになって、寝付きが断然、良くなったのである。

隔日断酒を始めた頃は、飲まない日の睡眠は4時間、飲んだ日は10時間と極端に偏った。しかし医師によると、睡眠時間は「1日に必ず6~7時間、などと決めつける必要はない。4~5日平均して、1日6~7時間眠れていればそれで十分」なのだそうだ。肝機能改善のおかげで、「人生百年」が見えてきました!(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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県内35の芭蕉句碑と、奈良を詠んだベスト10句/奈良新聞「明風清音」第116回

2025年04月02日 | 明風清音(奈良新聞)
先月(2025.3.29)の『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』(テレビ朝日系 午後6時30分~10時)では、「教科書が変わる !? 戦国時代ヤバい新説スペシャル」を放送していた。「TVでた蔵」には、
※トップ写真は、磯村洋一さん。「私の推し」のプレゼン大会(2025.2.24付)で

歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表。2位は「俳句はカモフラージュ 松尾芭蕉は忍者だった!?」。周真くんが松尾芭蕉忍者説について解説した。

根拠1つ目は「足腰強すぎ!!歩行距離1日50km!」。おくのほそ道の総移動距離2400キロを5か月で踏破した。厳重な関所も難なく通過しているため幕府から通行手形をもらっていた可能性があると指摘した。

根拠2つ目は「敵地仙台で句会を開かずコソコソ」。地方の俳人と句会を開いていた芭蕉は仙台では開かなかった。松島を詠んだ句は弟子が作ったものと言われている。幕府は仙台藩に日光東照宮修繕のため莫大な費用を負担させ、仙台藩は不満が募っていた。仙台藩で忍者とバレるのを恐れた芭蕉がコソコソしていたのではと指摘した。


芭蕉が忍者だったとは、大胆な仮説であるが、ものすごい距離を移動していたことは、よく知られている。伊賀上野(三重県伊賀市上野赤坂町)出身の芭蕉は、約6回、奈良県に足を運び、たくさんの俳句を詠み、句碑も県内に35基が立つ。そのことを私は、磯村洋一さんの発表で知った。ぜひ、皆さんにも紹介したいと思い、奈良新聞「明風清音」(3/20付)に寄稿した。以下、全文を紹介する。

奈良県内の芭蕉句碑
興味深い話を聞いた。2月24日、奈良まほろばソムリエの会が会員向けに毎年実施している「私の推し」のプレゼン大会(研究発表会)で、「大和路の芭蕉句碑を巡る」という発表があった。発表者は同会会員の磯村洋一さん(大和高田市在住)。磯村さんは会社に勤務されながら、観光ボランティアガイドとして、また講演会の講師として活躍されている。

会の案内状には〈松尾芭蕉は生涯の後半の10年は江戸を離れ旅に出て、6回ほど「大和行脚」を行いました。『野ざらし紀行』や 『笈(おい)の小文』の紀行文の中で大和を詠んだ句碑を紹介しながら、句に込められた芭蕉の思いに触れていきます〉。奈良県内には芭蕉の句碑が35もあり、それを建碑順に紹介された。以下、当日の資料から引用する。

(1)春の夜やこもり人床し堂の隅(長谷寺参道・崇蓮寺境内)
(2) 菊の香や奈良にはふるき佛達(奈良市東木辻町・称念寺)
(3) さくらがりきとくや日々に五里六里(五條市・桜井寺)
(4) 綿弓や琵琶に慰む竹の奥(葛城市竹内・綿弓塚)
(5) けふばかり人も年よれ初時雨(大和郡山市・良玄禅寺)

(6) くたびれて宿かる比(ころ)や藤の花(天理市三昧田町)
(7) 花ざかり山は日比(ひごろ)の朝ぼらけ(吉野山・下千本)
(8) 梅が香にのつと日の出る山路かな(宇陀市榛原・宗祐寺)
(9) 若葉して御目の雫(しずく)拭はばや(奈良市・唐招提寺)
(10) 奈良七重七堂伽藍(がらん)八重ざくら(奈良市・若草山麓)

(11) 露とくとく試に浮世すすがばや(吉野山・苔清水)
(12) 芳野にてさくら見せうぞ檜木(ひのき)笠(吉野山・下千本)
(13) 世にさかる花にも念仏まうしけり(大淀町・世尊寺)
(14) 春もややけしきととのふ月と梅(奈良市月ヶ瀬梅林)
(15) 春の夜はさくらに明てし舞けり(桜井市・来迎寺)

(16) 猶見たし花に明行(あけゆく)神の顔(御所市・一言主神社)
(17) 水取や籠りの僧の沓(くつ)の音(奈良市・東大寺二月堂下)
(18) 僧朝顔幾死(いくし)にかへる法(のり)の松(葛城市・當麻寺中之坊)
(19)うぐいすを魂(たま)に眠るか嬌柳(たおやなぎ)(天理市・在原神社)
(20)飯貝や雨に泊りて田螺(たにし)きく(吉野町・本善寺)

(21)雲雀(ひばり)より空にやすらふ峠かな(吉野町・細峠)
(22)龍門の花や上戸(じょうご)の土産(つと)にせん(吉野町・竜門滝前)
(22)酒のみに語らんかかる瀧の花(同右。1つの碑に2句)
(23)ほろほろと山吹ちるかたきの音(川上村・大滝茶屋前)
(24)碪(きぬた)打ちて我にきかせよや坊が妻(吉野山・東南院)
(25)御廟(ごびょう)年経て忍は何をしのぶ草(同・如意輪寺)

(26)木の葉散(ちる)桜は軽し檜木笠(同・金峯神社)
(27)春雨のこした(木下)につたふ清水哉(同・苔清水)
(28)はなのかげうたひ(謡)に似たるたび寝哉(吉野町平尾)
(29)(6)と同句(橿原市北八木町)
(30)うち山やとさま(外様)しらずの花ざかり(天理市・内山永久寺跡)

(31)ぴいと啼(な)く尻声悲し夜の鹿(奈良市・春日大社)
(32)蛤のふたみに別行(わかれゆく)秋ぞ(下市町・中央公園)
(32)みのむしのねを聞にこよ草の庵(いお)(同右。1つの碑に2句)
(33)夏草や兵共(つわものども)が夢の跡(下市町・中央公園)
(34)馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな(同右)
(35)(10)と同句(奈良市・なら100年会館)

句碑は以上であるが、磯村さんはご自身の「推しの10句」も紹介された。うち9句は句碑にある(2)、(3)、(4)、(6)=(29)、(9)、(10)=(35)、(11)、(17)、(25)で、もう1句は「初雪やいつ大仏の柱立て」(大仏さまに降りかかる初雪を見て「いつ大仏殿が完成するのだろうか」と悲しんだ句)だそうだ。

磯村さんは「このリストにない県内の芭蕉句碑をご存じの方は、ぜひご教示ください」と呼びかけている。ご存じの方は、奈良まほろばソムリエの会(info@stomo.jp)まで、ご連絡をお願いいたします。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事、きき酒師)


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大和郡山市が「豊臣兄弟!」関連事業費に1億8,218万円!/奈良新聞「明風清音」第115回

2025年02月25日 | 明風清音(奈良新聞)
郡山城主を務め、「大和大納言」と称された豊臣秀長を主人公としたNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」が、2026年1月からスタートする。これにちなんで大和郡山市は2024年7月、「秀長さんまるっとマップ」(=トップ画像。PDFデータは、こちら)を制作した。

また同市の2025年度当初予算には、ドラマ関連事業費として1億8,218万円を盛り込んだ。毎日新聞奈良版(2/24付)には〈NHK大河ドラマ(26年1月から放送)に合わせ、イベント開催、小中学生用の副読本作成など関連事業費1億8218万円を計上。関連事業の財源について市は「国や県の補助、『ふるさと応援基金』などを活用し、一般財源は充てない方針」と説明した〉とあるから、立派なものである。



この秀長、兄の秀吉と違い、人物像はあまり知られていない。そこで先週(2025.2.20付)の「明風清音」(奈良新聞)では、〈早わかり!豊臣秀長〉という一文を寄稿した。司馬遼太郎の短編小説から要点を抜粋したが、最後の文章が効いている。文字制限の関係で短くしたが、全文を引用すると、次のようになる。郡山城で催された葬儀のくだりである。

〈公卿や諸大名がおびただしくあつまり、死をきいてあつまってきた庶人の人数だけで二十万人といわれた。参列した諸大名のたれもが、この大納言の死で、豊臣家にさしつづけてきた陽ざしが、急にひえびえとしはじめたようにおもった。事実、この日から九年後、関ヶ原の前夜にこの家中が分裂したとき、大坂城の古い者たちは、――かの卿が生きておわせば。と、ほとんど繰りごとのようにささやきあった〉。

前置きが長くなった。では、「明風清音」の全文を紹介する。

早わかり!豊臣秀長
来年のNHK大河ドラマは『豊臣兄弟!』。主人公は秀吉の弟・秀長だ。弊会は大和郡山市でのツアーの募集を2月1日に開始したところ、またたく間に満員御礼となった(3月2日以降、個別にガイドすることは可能。弊会ホームページの「観光ボランティアガイド」ご参照)。

秀長は名補佐役、史上屈指のナンバー2などと言われるが、人物像はあまり知られていない。そこで今回は、司馬遼太郎の短編集『豊臣家の人々』(角川文庫)の「第五話 大和大納言」から、彼の生涯をたどってみたい。

▼兄の突然の出奔と帰省
〈尾張中村(名古屋市中村区)のあたりは、天がひろく、野がびょうぼうとして海のきわみにまでひろがっている。(中略)川や溝は縦横にながれており、しじみや鮒が多い。秀吉もそのようなものをとって幼童期をすごしたが、そのただひとりの弟である小一郎秀長も同様であった〉。

〈「小竹(こちく)」と、秀長は、幼童のころ村の者からよばれた。(中略)「小竹は、猿よりもましじゃ」と村ではいった。性質がおだやかで、顔がまるく、あごの肉づきが可愛かった〉。

父親が早世し、母親は隣家の男と再婚した。しかし腕白者の秀吉はこの養父と衝突し、ある日、突然出奔(しゅっぽん)した。小竹が17、8歳の頃、その兄が帰ってきた。弟を家来に迎えようとしたのである。小竹は、兄の説得により、家来(侍)になることを決意した。

▼教育係・竹中半兵衛の評価
秀吉は軍師・竹中半兵衛に、秀長(当時は小一郎)の教育を頼んだ。〈小一郎は、よき生徒であった。終始つつしみぶかい態度でそれを聞き、実地に見ならい、実際に指揮させると、諸事過不足なく半兵衛の教えたとおりに演じた。それ以上の才分はなかったが、たとえば留守隊長ぐらいはつとまるであろうという評価を、半兵衛はもった〉。

〈十数年経ち、秀吉が信長から命ぜられて中国征伐に発向したときは、小一郎はこの軍団の第一将として陣中にあり、播磨から備中にかけての各地に転戦して武功をたてた〉。この頃、半兵衛は持病が悪化し、死の床に小一郎を呼んだ。

〈「身の安全を期されよ。兵法の究極の極意は、それでござる」 半兵衛の心配は、小一郎の評判が大いに騰(あが)っていることであった。騰れば、自然、心もおごる。傲岸になり、他の部将のうらみを買い、どのような告げ口を筑州殿(秀吉)にせぬとも限らぬ〉。

〈功を樹(た)てればすべてそれを配下の将にゆずりなされ。諸将は功名をたてることによってのみ世に立っているが、あなたはたとえ功なくとも筑州殿の弟君であることにはかわりがない。「いままでも、そうなされてきた」と、半兵衛は、あらためて小一郎のこの十数年の業歴をほめた〉。

▼四国征伐で初の総大将に
四国を支配していた長曾我部元親に、秀吉は〈土佐一国のみはさしゆるす。他の三国をすてて帰伏すべし〉と申し送ったが、元親は従わない。業を煮やした秀吉は、小一郎に総大将を命じる。小一郎は、淡路島から阿波に渡り、長曾我部軍最大の要塞である一宮城(徳島市)を攻めたが、なかなか落ちない。秀吉は自分が行くと言いだし、堺に下る。

それを聞いた小一郎は〈ことばをできるだけおだやかにし、「ご発向のこと、しばらくのご猶予をねがいたい」という趣旨で、祐筆に上表文を書かせた〉。 これを秀吉に送ると同時に、全力を挙げて総攻撃を開始。ついに元親に降伏を決意させた。

四国から帰った小一郎の領国は、紀州から大和に移った。〈一国のほとんどは興福寺か春日明神の宗教領であり、しかも戦国百年のあいだに筒井氏、松永氏などに押領され、秀吉政権の成立後も土地の潜在権をめぐって訴訟や紛争がたえず、それらが京の公家に結びついているだけに、ある意味では統治がむずかしい。――小一郎ならば、やるであろう。と、秀吉はこの弟のその点(調整力)をみこんで大和をまかせた〉。

小一郎は四国征伐の翌年に従三位(じゅさんみ)参議、さらに翌年の九州征伐のあと従二位に叙せられ大納言に任じた。小一郎は生涯で大小百回以上戦場に立ったが、一度として失敗したことがなかった。

▼葬儀に庶民だけで20万人
小一郎は病を得て51歳で亡くなり、葬儀は郡山城で営まれた。集まった〈庶人の人数だけで二十万人といわれた。参列した諸大名のたれもが、この大納言の死で、豊臣家にさしつづけてきた陽ざしが、急にひえびえとしはじめたようにおもった〉。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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養老孟司さんの〈雑用は「修行」と思え〉

2025年02月09日 | 明風清音(奈良新聞)
毎月1~2回、奈良新聞「明風清音」欄に寄稿している。先月(2025.1.30付)寄稿したのは〈「人生の壁」をかわす知恵〉で、養老孟司著『人生の壁』(新潮新書)を紹介した。編集者からの質問に答える格好で書かれた、いわば「聞き書き」だが、氏の本音がストレートに出ていて、興味深い。

とりわけ、〈体力のあるうちは、煩わしいことにかかわっていたほうが幸せなのです。ここを今の人は理解していません。修行という考えが消えていったことと関係しているのでしょう〉というくだりには、膝を打った。私も会社で、数々の雑用に振り回されてきたが、おかげで、たいていのことはこなせる「スキル」が身についた。以下、全文を紹介する。

「人生の壁」をかわす知恵
養老孟司著『人生の壁』(新潮新書 税別880円)を読んだ。帯には〈生きていくうえで壁にぶつからない人はいない。それをどう乗り越えるか。どう上手にかわすか。(中略)自身の幼年期から今日までを振り返りつつ、誰にとっても厄介な「人生の壁」を越える知恵を正面から語る〉。養老氏の「壁シリーズ」は、累計690万部を突破したそうだ。

話題の「103万円の壁」の壁という言葉も、氏の著書からの連想なのだろう。本書は、子どもの壁、青年の壁、世界の壁・日本の壁、政治の壁、人生の壁の全5章。整然とした論評というわけではなく〈編集者に問われたことに対してブツブツ言ったのをまとめたのが、この本〉(本書「あとがき」)。まるで、落語の「横丁のご隠居さん」の語り口である。以下、私の目に止まったところを紹介する。

▼エッセンシャルワーカー
いつの頃からか、医療・福祉、運送や第1次産業に従事している人たちをエッセンシャル(本質的な)ワーカーと呼ぶようになった。〈本質的な仕事をしている人たちの収入が上がらないのに、東京のオフィスでデスクワークをしている人たちのほうが大金を得て、結果として格差が広がっている。乱暴に言ってしまえば、とても大切な仕事をしている人よりも、よくわからない仕事をしている人のほうが裕福になっている。この不健全さに不満を抱く人たちが革命を起こさないのが不思議〉。

▼「煩わしい日常」は修行
〈私はこの年になっても、人から頼まれて自分ができることはなるべくやるようにしています。それがなければ家で毎日ボーッとしていたでしょう。(中略)会社で若手に仕事が集中して、中高年にはヒマそうなやつがいる。それで「何だ、あのオジサンたちは」という不満が絶えない、という話はよく聞きます〉。

〈気持ちはわかります。下手をすると向こうのほうが高い給料をもらっているのですから、たまったものではないでしょう。しかし、程度の問題はありますが、体力のあるうちは、煩わしいことにかかわっていたほうが幸せなのです。ここを今の人は理解していません。修行という考えが消えていったことと関係しているのでしょう〉。

▼「30年間」は失われたのか
〈数字だけを見てこの30年は「失われた」期間であるというのが、主な論調となっています。でも、この30年間、高度成長期と同じようなスピードで「成長」を続けていたらどうなっていたのでしょうか。東京の地価はどんどん上がり、普通のマンションが3億円でも買えなくなっていたかもしれません。エネルギーをもっと消費する国になっていたのは間違いないでしょう〉。

〈(中略)そういう状況を想像してみれば、本当に「失われた30年」で片づけていいのか、と思う方もいるのではないでしょうか。良い面も十分にあったのではないか、むしろ日本が身の丈に合う大きさになる期間だったのかもしれない、と〉。

▼生きる意味を考えすぎない
〈「生きる意味」のようなことを問われることがあります。「先生、人が生きる理由は何でしょうか」これには、生きているからしょうがないじゃないか、としか言いようがありません〉。

〈(中略)「生きているからしょうがない」という考え方を認めない社会になってきています。しょうがないとは何事だ、真面目に意味を考えろという調子です。しかし何にでも意味を求める、あるいは何についても意味を説明できると思うほうが間違っているのです。人間に限らず、あらゆる生命が存在しているのは、「行きがかり」のようなものです〉。

〈あれこれ考えるよりも一所懸命働いたほうがいい。別にお金を稼げというのではありません。ボランティアでも趣味でも構いません。精一杯、本気で生きる。そして自分にとって居心地の良い状況を見出していく。そういう日々を過ごすことからはじめてみるのがいいのではないでしょうか〉。何とも含蓄に富んだ言葉の数々。養老先生、参考にさせていただきます!(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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「伝統的酒造り」が、ユネスコの世界無形文化遺産に!

2024年12月21日 | 明風清音(奈良新聞)
毎月1~2回、奈良新聞「明風清音」欄に寄稿している。今週(2024.12.19)掲載されたのは、〈酒造り、世界無形遺産に〉。「伝統的酒造り 日本の伝統的なこうじ菌を使った酒造り技術」が、ユネスコの世界無形文化遺産に登録されたことを受けて、これを書いた。

奈良県内にはたくさんの酒蔵があり、個性的でおいしい日本酒を醸(かも)しているが、あまり知られていないのが残念だ。しかし来年の万博では、「奈良酒」がクローズアップされることになっているので、大いに期待している。では、以下に全文を紹介する。



酒造り、世界無形遺産に
12月4日(日本時間5日)、「伝統的酒造り 日本の伝統的なこうじ菌を使った酒造り技術」が、ユネスコの無形文化遺産に登録された、おめでとうございます!日本の無形文化遺産登録は、2022年の「風流踊(ふりゅうおどり)」以来2年ぶり。食文化関係では13年の「和食」以来の登録である。これで国内の無形文化遺産は23件になる。

▼「オール奈良」で魅力発信
同月6日付本紙には〈「地域社会の結束に貢献している」などと評価。海外での知名度アップによる輸出増が見込めるほか、地域振興に弾みがつきそうだ〉。

7日付本紙には県酒造組合や奈良文化財研究所などが記者会見し〈関係団体・機関が協力して「オール奈良」で奈良酒の魅力発信に取り組む姿勢も見せた〉。また〈奈良商工会議所の峯川郁朗専務理事は「観光や地域経済の発展に大きな追い風になる」とし、清酒発祥の地とされる奈良の酒蔵を巡る周遊観光に力を入れる考えを示した〉。

〈(中略)奈文研の馬場基(はじめ)埋蔵文化財センター長は酒造りの歴史をひも解き、「奈良の酒造りは人々と神仏と自然の共生の結晶。文化財研究の蓄積と酒造りの伝統がそろっているのは奈良しかない」と強調した〉。

▼神社に寄りそう県下酒蔵
県酒造組合に加盟する酒蔵は30年前に比べて半減したが、それでも27蔵ある。これらを地図の上に載せていくと、興味深いことが分かる。他府県の酒蔵が、たいてい1~2ヵ所に集中しているのに対し、奈良県内の酒蔵は分散している。

しかもよく見ると、大きな神社に隣接しているのである。また室町時代、現代の清酒造りに通じる新技術と天然の乳酸菌で酒を造り、「日本清酒発祥の地」とされる正暦寺は、寺院である。まさに「人々と神仏と自然の共生の結晶」なのである。

▼惜しくも「日本遺産」逃す
清酒については、私には苦い思い出がある。2019年、奈良まほろばソムリエの会は、県下の関係市町やNPO法人「奈良の食文化研究会」などとタイアップし、「清酒発祥の地・奈良」として文化庁に日本遺産を申請したのである。

残念ながら結果的には、認定には至らなかった。理由は明らかにされないのだが、今思うと、関係各業界を巻き込んだ「オール奈良」の発想が欠けていたのかな、と反省している。

▼こうじ菌は日本の「国菌」
今回の無形文化遺産登録のサブタイトルには〈こうじ菌を使った酒造り技術〉とあるが、こうじ菌に注意を払う人は少ない。私は日本遺産申請時に、初めてその独自性を知った。

こうじ菌(ニホンコウジカビ)は、学名「アスペルギルス・オリゼ」。日本にしか存在しない菌(カビ)で、なんと2006年には「国菌」に認定されているのである。菌は世界中に約10万種類あり、日本人がその中からたった1つのこうじ菌を選んだというのは、奇跡と言うべきか。

▼奈良酒は「うま酒」
よく灘(兵庫県の灘五郷)の男酒、伏見(京都市伏見区)の女酒、と言う。これは酒造りに使う水の「硬度」(ミネラル分の多寡)の違いで、比較的硬度の高い水を使い、荒々しい飲み口の灘の酒と、硬度の低い水を使いやさしい味わいの伏見の酒の差が、現われているのだろう。

「では、奈良酒はどう言えばいいのですか」と、観光ガイド仲間によく聞かれる。私は「灘は男酒、伏見は女酒、奈良はうま酒、と答えてください」と申し上げている。酒蔵が県下各地に分散する奈良酒の特徴をひとくくりにするのは難しい。しかし万葉集の昔から、うま酒(味酒)は三輪の枕詞なので「昔から、奈良酒はうま酒です」と胸を張って言ってほしいのである。

▼大阪・関西万博でも注目
いよいよ来年4月から、大阪・関西万博が始まる。そこでは「奈良酒」が、クローズアップされることになっている。良いタイミングで世界文化遺産に登録された酒造り技術、清酒発祥地の奈良から世界へ、大いに発信していただきたい。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事、きき酒師)


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