tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

国の始まりは大和の国、奈良県には魅力がいっぱいです。ぜひお訪ねください!

吉野に生まれ育ち、吉野を愛し吉野を詠み続けた俳人 岩田まさこ/奈良新聞「明風清音」第73回

2022年05月26日 | 明風清音(奈良新聞)
知人を介し、宮川美枝子さんのご著書『惜春の大地』出版のお手伝いをさせていただいた(2022年5月3日発行)。本書は俳人・岩田まさこさんの評伝である。しかもそのご縁で、私は帯に短い書評も書かせていただいた。〈吉野に生まれ、吉野を詠みつづけた俳人、岩田まさこ。この評伝は、その魅力にほれこんだ筆者が愛情こめて書きあげた労作です〉。
※表紙の絵は、まさこさんの娘さんの岩田洋子さんの作品

本書の評判は上々で、下市町と大淀町の図書館が置いてくれるほか、吉野町も支援してくれるそうだ。「俳句関係の本は売れない」といわれるが、吉野の風土を読み込んだ句は、地元民の心を打つ。私が紹介した句のほか、「蔵王堂よぎりて羽根の舞ひ上がり」「下千本中千本の残花かな」「みよしのの流れに研(みが)く猫柳」など、吉野の地名などを織り込んだ句がたくさん載っている。この本のことは奈良新聞「明風清音」(2022.5.19)で紹介したので、以下、記事全文を貼っておく。

今月刊行された宮川美枝子著『惜春の大地~中村汀女(ていじょ)を師と仰いだ吉野人の軌跡~』(京阪奈情報教育出版刊)税別900円を読んだ。吉野町橋屋に生まれ育ち、吉野を愛し吉野を詠み続けた俳人・岩田まさこ(大正12―令和元年)の評伝である。筆者の宮川美枝子さんは吉野町出身・在住で、ノンフィクション作品や詩集も出されている。生前のまさことは5年間の親交があった。

まさこは職業俳人ではない。四女の母であり、夫の会社(大阪)や自宅(実家)の商店を手伝う家庭婦人として、俳句を詠んだ。本格的に俳句に打ち込むのは46歳のとき「主婦の友通信教室」の俳句講座で、当時すでに著名な俳人だった中村汀女(明治33―昭和63年)の添削指導を受けるようになってからである。まさこは日常生活を題材とし女性の心情を詠嘆した汀女の強い影響を受ける。以下、まさこの俳句(太字)と宮川さんの解説(〈 〉書き)を句の詠まれた年代順に紹介する。

▼由緒ある檜(ひ)はだの屋根の苔の花
天理市への吟行(奈良探勝句会)で詠まれた句。〈梅雨の晴れ間に奈良盆地が見渡され、大和三山が島の如く浮かぶ展望を楽しんだ〉。

▼またしても己が値札倒す蟹
昭和56年4月の「第20回全国俳句大会」(俳人協会主催)で特選となった句。〈仕事帰りの夕刻、デパートの食品売り場で見た蟹は元気が良い。最後の抵抗であるかのように動いていた〉。

▼后陵(きさきりょう)拝む濠前(ほりまえ)夏あざみ
昭和56年『主婦の友』11月・12月号の優秀賞、選者は中村汀女だった。〈「陵と言い伝え守りあう土地の姿がすがすがしい。ここにふさわしい夏のあざみもまた朝露帯びた頃だろう」、と汀女の選評である〉。

▼なんとなく切なきときは草を刈る
〈良き妻、良き母の見本であるかのような彼女にもそんな時があった。彼女はそんな時、ひたすら草を刈ることにしていたのである。生命力の強い草は、刈っても刈っても直ぐに伸びてきた〉。

▼春寒の日の逃げやすき奥吉野
「主婦の友通信教室」俳句講座で詠まれた。〈「奥吉野がよく効いてひっそりとした雰囲気を出してゐます」と、汀女は褒めた。この言葉に、まさこは勇気を得たに違いない〉。

▼み吉野の川の豊かに初燕
昭和61年5月、日本経済新聞に掲載された句。〈「川もいつしか姿整えて『み吉野』との賛辞そのまま、燕も飛べばわが里に見ほるる作者もその一人」と汀女は言葉を添える〉。

▼ルルルルとフイフイフイと河鹿(かじか)鳴く
〈まさこはこの句が好きで、短冊にしてずっと自分の部屋に飾っていた。一雨ごとに若葉が成長し、木々がどんどん膨らんできた。歩数計をつけて散歩していてたまさこは新緑の下で一休みした〉。

▼山風に花の万朶(ばんだ)のもだえをり
「朶」は枝や花のこと。宮川さんはこの句をまさこの代表作とする。俳句結社「未央(びおう)」主宰者だった岩垣子鹿(いはがき・しろく)は「吉野山の花吹雪は、一山を揺るがし幾百の谷に舞い込む壮麗な舞である。その落下寸前の情景であろうか。万朶の花の枝が揺らぎ始めたのをもだえと感じとった感性は写生の真髄をつくしたものである」と絶賛する。

本書は書店の店頭には並ばないので、版元のサイトまたはアマゾンでお買い求めいただきたい。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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熊野速玉大社(熊野新宮)またの名を「熊野権現」/熊野霊場をゆく(3)

2022年05月25日 | 記紀・万葉
熊野霊場をゆく(3)では、熊野権現、熊野新宮とも呼ばれる「熊野速(早)玉大社」(和歌山県新宮市新宮1番地)を紹介する。
※トップ写真は、平重盛の手植えと伝わる熊野速玉大社の梛(ナギ)のご神木。
推定樹齢は約1,000年で、日本一の梛の巨樹だ。写真はすべて2022.5.12に撮影


熊野速玉大社に到着する頃には、雨が本降りになってきた

私は本宮(熊野本宮大社)に対して「新宮」だと思っていたが、元宮の神倉神社(旧宮)に対して「新宮」と呼ばれるのだそうだ。山深い熊野本宮大社と違い、こちらは熊野川の河口に近く、海に向かって開けた土地にある。JR新宮駅からも徒歩15分ほどだ。熊野三山協議会の公式HPによると、


熊野速玉大社の飛地境内摂社「神倉神社」の社殿とゴトビキ岩。写真は同協議会のHPから拝借

熊野速玉大社は、熊野三山のひとつとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮です。今から約二千年ほど前の景行天皇58年の御世に、熊野三所権現が最初に降臨せられた元宮である神倉山から現在の鎮座地にお遷りになり、これより神倉神社の『旧宮』に対して『新宮』と号したと古書にみえます。


熊野速玉大社拝殿、奥の本殿の屋根が見える

御祭神は、熊野速玉大神(イザナキノミコト)・熊野夫須美大神(イザナミノミコト)を主神に、十二柱の神々を祀り上げ新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めています。

特に、孝謙天皇の御世、日本第一大霊験所の勅額を賜り、熊野三山の中でも逸早く『熊野権現』の称号を賜りました。「権現」とは仮に現われるの意味で、神様は御殿の中のもっとも清浄な奥処に鎮まりましますので、私達の目にはそのお姿を直接見ることができません。そこでそのお姿を仮に仏に変えて、我々の住む俗世界に現われるという考え方が浸透していきます。


梛のご神木(トップ写真に同じ)

奈良朝末期にいたって、熊野速玉大神は衆生の苦しみ、病気を癒す薬師如来として過去世の救済を、またお妃の熊野夫須美大神は現世利益を授ける千手観音菩薩、家津美御子大神は来世浄土へ導く阿弥陀如来として位置づけられ、山伏や熊野比丘尼によって熊野権現信仰は飛躍的な拡がりを見せ、全国に数千に及ぶ御分社が祀られるにいたりました。


速玉大社の次に向かったのは熊野古道大門坂(東牟婁郡那智勝浦町)


老杉の大木は、樹齢800年とか

さらに、中世熊野信仰の興隆にともない、皇室、公卿、武士中心から庶民信仰へと発展し、過去世救済、現世利益、来世加護を説く三熊野詣こそ、滅罪・甦りへの道であるとして、「蟻の熊野詣」の諺のごとく熊野街道は賑わったのです。



熊野速玉大社のあとは、熊野古道大門坂経由で那智の滝へ向かった。続きは、また後日!
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明石家電視台(5月30日)に、大八木けいこさん(ファイブ シーズン 頭にりんご)が出演!(2022 Topic)

2022年05月24日 | お知らせ
「ファイブ シーズン 頭にりんご」こと大八木けいこさんが、5月30日(月)23時56分~0時53分のMBSテレビ「痛快!明石家電視台」に出演されます!ならまちで告知のポスターを何枚も目にし、ご本人に確かめると「間違いありません」とのことでした。ご本人のFacebookには、
※トップ写真はご本人のFacebookから拝借


この画像は、番組HPから拝借

パステル画家、イラストレーター、歌手。活動の場が広く多彩なためひとりユニット5*SEASONを名乗る。頭にりんごが植わっているので愛称はりんご🍎坂本龍一氏のラジオ番組で6度入選、となりの人間国宝認定。

オンエアは深夜ですので、ぜひ今からタイマーセットを!
コメント (2)
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熊野本宮大社 主祭神は、家津美御子大神(スサノオノミコト)/熊野霊場をゆく(2)

2022年05月23日 | 記紀・万葉
熊野詣(2022.5.11~12)の2日目は、熊野御坊南海バスの定期観光バスで熊野三山を巡拝した。1日で熊野三山すべてをお参りできるので、好都合である。ただしバスの出発(紀伊勝浦駅発)が午前8時30分なので、前泊が必須である。私は駅前に宿を取り、朝から魚市場見学も済ませてから、バスに乗り込んだ。
※トップ写真は熊野本宮大社の大鳥居。鳥居の脇に、白河上皇の御製が看板に書かれていた。「咲き匂ふ花のけしきを見るからに 神のこころぞそらにしらるる」


こちらは後鳥羽上皇の御製「はるばるとさかしき峯を分け過ぎて音無川を今日見つるかな」

バスがまず向かったのは「熊野本宮大社」(和歌山県田辺市本宮町本宮)で、ここで約40分の自由見学時間があった。同大社の公式HP「5分でわかる熊野本宮大社」によると、

熊野三山はどんな神社なの?
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を合わせて熊野三山といいます。熊野の神々は自然信仰に根ざしていましたが、奈良~平安時代にかけて熊野は仏教・密教・修験道の聖地ともなり、神=仏であるという考え方が広まりました。その影響を受けた三山は結びつきを深め、同じ12柱の神々(=仏たち)をおまつりするようになります。



ここから神殿に向かう。雨がしとしと降っていた

熊野三山の神秘性はますます高まり、平安時代の末には「浄土への入り口」として多くの皇族や貴族がお参りするようになりました。浄土へお参りし、帰ってくるということは、死と再生を意味します。そのため熊野三山は「よみがえりの聖地」として、今なお多くの人々の信仰を集めています。


神殿の写真は「撮影禁止」とあったので、この写真は熊野本宮観光協会のHPから拝借。参拝順序は①証誠殿(本宮・第三殿)家津美御子大神(スサノオ)②中御前(結宮・第二殿)速玉大神(イザナキ)③西御前(結宮・第一殿)夫須美大神(イザナミ)④東御前(若宮・第四殿)天照大神⑤満山社 結ひの神(八百萬の神)

熊野本宮大社の歴史まとめ
当社の主祭神は、家津美御子大神(スサノオノミコト)です。歴史を遡ると、古代本宮の地に神が降臨したと伝えられています。三本の川の中州にあたる聖地、大斎原(おおゆのはら)に社殿が建てられたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)のことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。


平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。


おお、こんなところにヤタガラスが!

明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けました。当時は能舞台などもあり、今の8倍の規模を誇っていましたが、明治24年に上四社が現在地へ移されました。今、大斎原には中四社、下四社、境内摂末社の神々がおまつりされています。平成23年9月、紀伊半島大水害により、当社は再び大斎原や瑞鳳殿などに大きな被害を受けました。しかし、平成26年には瑞鳳殿が再建されるなど以前にも増した復興を遂げ、現在に至ります。


本宮大社の手前に大斎原(おおゆのはら=旧社地)があったが、時間がなくてお参りできなかった。こちらの写真は和歌山県公式観光サイトから拝借した

ここにはさらりと「家津美御子大神(スサノオノミコト)」と書かれている。神さまに捧げる食べ物のことを「御饌津物(みけつもの)」というが「ケ」は食べ物のこと。津は助詞の「の」なので、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)は「食べ物を司るうるわしい御子神さま」ということになり、それがスサノオと同体とされているのだ。

『古事記』によると、スサノオは口や尻から食べ物を出したオオゲツヒメを「無礼な!」と言って斬り殺した。すると大地に倒れた女神の体から、稲、粟、麦、小豆、大豆の五穀の種と蚕が現れ、それが農産の源になったとされる。これは〈オオゲツヒメが独占していた農産を、スサノオが自由にし、全国に広めたことを示している〉(辰宮太一「家津美御子とスサノオは同体」楽学ブックス『熊野三山』JTBパブリッシング所収)、ここから家津美御子大神=スサノオノという説が生まれたようである。さあ、次は熊野速玉大社(新宮)だ!
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日本最古の神社の1つ、霊剣(神剣)祭る石上神宮/毎日新聞「やまとの神さま」(5)

2022年05月22日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は木曜日(毎月3回)、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先週(2022.5.19)に掲載されたのは〈神剣祭る日本最古の社/石上神宮(天理市)〉、執筆されたのは奈良まほろばソムリエの会会員で天理市在住の谷政樹さんだった。では、記事全文を紹介する。
※トップ写真は石上神宮楼門=天理市布留町で

石上(いそのかみ)神宮は第十代崇神(すじん)天皇の時代に創建された日本最古の神社の一つです。武門の棟梁(とうりょう)・物部氏の総氏神として健康長寿、病気平癒(へいゆ)、除災招福、百事成就の守護神として信仰されてきました。大和王権が百済王から贈られたと伝わる七支刀(国宝)が描かれた、起死回生のお守りもよく知られています。

祭神は、神武天皇を助けたとされる霊剣・布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)など。この霊剣の実在は長らく疑われていましたが、剣が埋まっているとの言い伝えのあった拝殿後方の禁足地を明治時代の大宮司・菅政友が発掘したところ、その実在が確認されました。

毎年6月30日には神剣渡御祭(しんけんとぎょさい)が行われます。布都御魂剣が見つかるまでは、代わりに神庫(ほくら)に伝わる七支刀を掲げて祭りが行われていました。また、毎年10月15日には、平安時代後期の第七十二代白河天皇の奉納故事に始まる「ふるまつり」が行われます。拝殿(国宝)は、白河天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進したものと伝わります。

境内の静寂な森の中で、「石上布留(ふる)の神杉(かむすぎ)神(かむ)びにしわれはさらさら恋に逢(あ)ひにける」と、万葉集に詠まれた杉に思いをはせながら、境内を自由に走りまわる御神鶏を目にすると、心がなごみます。(奈良まほろばソムリエの会会員 谷政樹)

(住 所)天理市布留町384
(祭 神)布都御魂大神、布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)
(交 通)天理駅からタクシー約10分、または徒歩約30分
(拝 観)境内自由
(駐車場)無料、約200台


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