NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週水曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先月(2025.2.26付)掲載されたのは〈後南朝史彩る自天王の社/北山宮(上北山村)〉、執筆されたのは同会会員で天川村にお住まいの奥田八尋(やひろ)さんだった。
※トップ写真は北山宮(きたやまぐう)=上北山村小橡で
北山宮(きたやまのみや)とは、後亀山天皇の「孫の孫」にあたる自天王(じてんのう)または尊秀王(たかひでおう)と呼ばれる皇族のこと。いわゆる後南朝(ごなんちょう)の皇子である。なお神社としての北山宮は、「きたやまぐう」(旧名 北山神社)と読む。
高校の教科書には〈14世紀末、足利尊氏の孫義満の代になって、60年ほどつづいた南北朝の動乱はおわった。義満は、1392(明徳3)年に南北両朝の合体を実現させ、守護大名をおさえて幕府の全国支配を完成させた〉(『新もういちど読む山川日本史』)とあるだけで、私は「1つさ国は」(1392=南北朝の合一)と暗記した。
しかし実はこのあと、もうひと悶着あったのである。それが南朝再興運動としての「後南朝」だ。詳細は当ブログ
「御朝拝式を拝観」に書いたので、そちらを参照していただきたい。では、奥田さんの記事全文を紹介する。
後南朝史彩る自天王の社/北山宮(上北山村)
北山宮(きたやまぐう)は、上北山村小橡(ことち)の大台ケ原を源流とする小橡川の左岸に鎮座します。旧県社で、吉野神宮(吉野町)の境外摂社でもあります。
祭神の北山宮(きたやまのみや)は後亀山天皇の玄孫(げんそん)(孫の孫)とされ、自天王または尊秀王(たかひでおう)とも呼ばれます。後南朝の歴史を彩る人物として知られます。
室町時代の1392年(元中9)、南北朝合一のあと、自天王がこの地区の瀧川寺(りゅうせんじ)に三種の神器の一つ神璽(しんじ)(勾玉=まがたま)と共に住み、後南朝の復興を念願していました。
神社の由緒書、「赤松記」などによると、自天王は1457年(長禄元)12月2日、赤松家再興をめざす残党によって殺害されました。地区の人たちは神璽とお首を奪い返し、遺体は瀧川寺に埋葬しました。その後、自天王を慕う人たちが現在地に祠(ほこら)を造営して祭ったのが北山宮(きたやまぐう)の始まりとされます。
北山宮の鳥居をくぐると舞殿、その奥に拝殿、本殿が整然と配置されています。舞殿の扁額(へんがく)は旧名称の北山神社で、1956年(昭和31)、北山宮に改められました。
2024年に改修された真新しい透かしの塀が境内をとり囲んでいます。瀧川寺は北山宮の近くにあり、境内の北山宮墓(きたやまのみやぼ)は宮内庁の管理になっています。(奈良まほろばソムリエの会会員 奥田八尋)
(住 所)上北山村小橡807
(祭 神)北山宮(きたやまのみや=後亀山天皇玄孫)
(交 通)近鉄吉野線・大和上市駅からゆうゆうバス河合下車。徒歩約15分
(拝 観)境内自由
(駐車場)有 無料
(電 話)07468・2・0124