tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師の「ただいるだけで」by 相田みつを氏

2025年03月25日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈ただいるだけで…〉(師のブログ 2018.8.8 付)。なるほど、良い言葉だ。「これは、利典師のことを指しているのだろうな」とも思える。以下に、全文を紹介する。

ただいるだけで…
最近の家族旅行というと、たいがい北陸へ行くことになる。ま、息子のおねだりである。どこかは言わないでおく…。で、今回も一足早い夏休みということで行くことになった。

その、行った先でたまたま入ったイベント村でみつけた「あいだみつを」展。あいださんの展覧会はなんども見てきているが、なんだか今回はこの言葉がいちばん心に残った。

そうですよね。そのとおりですよね…相田先生。ありがとうございました。
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祭りはじめは「ちゃんちゃん祭り」。天理市の大和(おおやまと)神社/毎日新聞「やまとの神さま」第114回

2025年03月24日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週水曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。月初(2025.3.5)に掲載されたのは〈遣唐使から戦艦大和まで/大和神社(天理市)〉、執筆されたのは同会理事で、桜井市在住の福原康之さんだった。
※トップ写真は大和神社の拝殿=天理市新泉町で

大和神社は、延喜式神名帳には「大和坐大国魂神社」と記載されている。第二次大戦の「戦艦大和」には、この神社から分祀された「御分霊」が祭られていた。その縁で、境内には「戦艦大和ゆかりの神社」の石碑が立ち、傍らにはこんな説明板がある。

1、戦艦大和には、大和神社の御分霊が祀(まつ)られています。
1、 万葉集(巻五)山上憶良の歌に、大和神社神々に航海の安全の祈願に参詣し遣唐使が派遣されたとあります。万葉集歌碑(好去好来)が大和神社境内に建立されています。
1、昭和16年大和神社を描いた堂本印象画伯作「戦艦大和守護神」は戦艦大和の艦長室に掲げられていました。(広島県江田島市 海上自衛隊第一術科学校 教育参考館所蔵)
1、 となりの祖霊社には、戦艦大和の最期をともにした殉死者2,736柱の御霊(みたま)が祀られています。
1、 戦艦大和の長さは、大和神社の参道とほぼ同じ(270M)で幅は、参道の約5倍(39M)です。


この神社では、4月1日、春の到来を告げる「ちゃんちゃん祭り」(午前中に例祭、午後から神幸祭)が営まれる。古くから、「祭り始めはちゃんちゃん祭り、祭り収めはおん祭(まつり)」と親しまれてきた。では、以下に記事全文を抜粋する。

遣唐使から戦艦大和まで/大和神社(天理市)
大和(おおやまと)神社の主祭神は日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)であり、大和の国全体を守る神様とされます。奈良時代に遣唐使が派遣される際には使節が当社に参拝し航海の安全を祈ったとされ、『万葉集』では有名な歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)による安全祈願の長歌が残されています。

年間の祭りにおいては、4月1日に行われる「ちゃんちゃん祭り」が有名です。当日はみこしを中心に騎馬武者や稚児、奉仕者約200人が列を整え、中山町のお旅所まで笛や鉦(かね)などを鳴らしながら往復します。そののどかな様子は、東大寺の「お水取り」(修二会)に続いて春を呼ぶ行事として知られます。

その他、1月にお弓始め祭、2月にお田植え祭、5月に野神祭り、9月に秋の大祭などが行われます。境内には戦艦大和ゆかりの碑も立っています。世界最強ともされた旧日本海軍の戦艦大和に当社の神様をお祭りしていたことが縁となっています。

隣接する祖霊社には同艦沈没時に亡くなった2700人余りの将兵のほか、同伴した艦隊の戦没者約1000名も祭られ、境内にある資料室には将兵を配した同艦の大型精密模型なども展示されています。(奈良まほろばソムリエの会理事 福原康之)

(住 所)天理市新泉町306
(祭 神)日本大国魂大神、八千戈大神(やちほこのおおかみ)、御年大神(みとしのおおかみ)
(交 通)JR桜井線・長柄駅から徒歩約10分
(拝 観)自由
(駐車場)あり(無料)
(電 話)0743・66・0044


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田中利典師の『よく生き、よく死ぬための仏教入門』書評 by 河瀨直美さん

2025年03月23日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈さすが世界の河瀨さんです!〉(師のブログ 2018.6.18 付)。この年の4月(2018.4.29)、利典師は『よく生き、よく死ぬための仏教入門』(扶桑社新書)を上梓(じょうし)された。私も当ブログで詳しく紹介させていただいたが、映画監督の河瀨直美さんは、産経新聞の「ライフ」欄で紹介されたのである。

日頃から利典師とお付き合いのある河瀨監督は、「なるほど、ふむふむ」と納得されながら本書を読まれ、〈まずは本書を手に取り、「りてんさん」のお話を聞くように読み進め、その後は実際に「りてんさん」に会いに行くことをオススメする〉と締めておられる。では、以下に利典さんのブログ記事(青色)と、河瀨さんの書評の全文(紫色)を紹介する。

さすが世界の河瀨さんです!
親しくさせていただいている映画監督の河瀨直美さんが、昨日の産経新聞に拙著「よく生き、よく死ぬための仏教入門」の書評を書いてくれました。扶桑社の担当編集長からメールが来ました。

「昨日の書評掲載の御蔭で、アマゾンの総合ランキングが一時50,000位台から500位台まで(現下は700位台)、書店のセールスも良化しました」…ということです。さすが世界の河瀨さん、という感じでありがたいです。今日のお昼にAmazonを覗くと、

新書: 190ページ 出版社: 扶桑社 (2018/4/29) 言語: 日本語 ISBN-10: 4594079482 ISBN-13: 978-4594079482 発売日: 2018/4/29 梱包サイズ: 17.2 x 10.8 x 1.1 cm おすすめ度:5つ星のうち 4.7 Amazon 売れ筋ランキング: 本 - 662位 (本の売れ筋ランキングを見る) 2位 ─ 本 > 新書 > 扶桑社新書 6位 ─ 本 > 人文・思想 > 宗教 > 仏教 > 仏教入門

…という素晴らしい成績です。ほんとうにありがたいです。いまも877位という、私には信じられないレベルです。まさに河瀨直美、恐るべし!です。


苦悩から解放へのヒントに 『よく生き、よく死ぬための仏教入門』田中利典著
本書は、長く奈良県の吉野山にある金峯山寺で総長を務められた田中利典さんの著書である。「仏教入門」と書かれているので、読むのが大変かと思いきや、長年懇意にさせていただいている「りてんさん」の口調が耳元で聞こえてくるような軽快さ。その内容も、「なるほど、ふむふむ」と勉強になることがたくさんある。

たとえば「未熟な人間がいちばん神や仏に近い姿をつくれるのが合掌である」とか、「お寺(仏教)は吊(つ)り革」とか、「目覚めた人をサンスクリット語でバカボン」と言って、「これでいいのだ~」は「あるがまま、ありのままを受け入れる」という悟りの境地に通じている-とも書かれている。幼い頃に見たテレビアニメの「天才バカボン」を思い起こし、深い意味があったんだねと顧みる。

お釈迦(しゃか)様の教えがたくさんありすぎて難しく感じるのも「一人ひとりに即して説かれたため」数が多くなっているといわれると、だから2500年かけてさまざまな国にきちんと届き、根付いていったのだと理解できる。そして、それらの教えをひもとくとき、仏教とはまさに「誰しもが仏になれる」教えという、世界でも極めてまれな宗教の意味を思う。

こうした仏教の成り立ちや伝わり方を教えられた後、最終章で「日本の仏教」が語られる。その中でも特に印象的なのはやはり「りてんさん」が関わってきた山岳信仰の意義が説かれる部分だ。山岳信仰は極めて実践的なものであり、「山の行より里の行」を掲げ、山で行った修行と悟りを里で実践してゆく宗教である。その哲学が私は好きだ。

人間だけが死者に対してお弔いの行為をすることや、自分を超えたものを拝むことによって人間が人間らしくなるということが強く伝えられる本書には、私たちがこの世界に生きて、苦悩する事柄からより良く解放されるヒントが詰まっている。

まずは本書を手に取り、「りてんさん」のお話を聞くように読み進め、その後は実際に「りてんさん」に会いに行くことをオススメする。(扶桑社新書・850円+税) 評・河瀨直美(映画監督)
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箸墓含む 8ヵ所の「陵墓」で倒木被害!/毎日新聞が、宮内庁の内部資料を入手

2025年03月22日 | 奈良にこだわる
奈良県内には、たくさんの陵墓(天皇や皇族の墓)・古墳が点在する。よく質問を受けるのが、「陵墓の上の樹木は、宮内庁が植えたのですか?」。私は「いえ、野鳥が種を運び、自然にこんな森になりました。おそらく明治時代から、樹木が育っていると思います」と回答すると、皆さん、とても驚かれる。
※トップ写真は箸墓古墳。毎日新聞の記事サイトから拝借した

その樹木の成育(倒木)状況は、知ることができなかった、それは宮内庁が「立入禁止」にしているからである。ところがこのたび毎日新聞は、「情報公開請求」で、宮内庁の内部資料を入手した。写真には、生々しい「倒木被害」の様子が写し出されていた。

「うーん、これはひどい。フタを開けたらカビが大発生していた、という高松塚古墳壁画を思い出すなぁ。宮内庁は、なぜ放置しておいたのだろう」という素朴な疑問が思い浮かぶ。とても大きな記事なので、以下に記事(2025.3.21付)の内容を貼っておく。毎日新聞さん、貴重な情報をありがとうございました!

陵墓8ヵ所 倒木被害/18年以降 台風・大雨で
天皇や皇族の墓などとして宮内庁が管理する8カ所の陵墓で2018年以降、台風や大雨による倒木で墳丘に穴が開いたり、地中から埴輪(はにわ)が露出したりする被害が相次いでいることが判明した。

世界遺産の百舌鳥・古市古墳群(大阪府)の大山古墳(仁徳天皇陵)や、卑弥呼の墓との説がある奈良県の箸墓(はしはか)古墳(大市墓)なども含まれる。


これら2枚は、2023年6月の大雨によって箸墓古墳で起きた倒木の様子
(宮内庁書陵部作成の資料から)毎日新聞の記事サイトから拝借


全国159ヵ所の9割で対策必要
一級の文化財としての側面を持つ陵墓で樹木管理が大きな課題になっている実態が浮かんだ。毎日新聞は陵墓の管理状況を確認するため、宮内庁が陵墓の保存整備工事に関して専門家の意見を聞く「陵墓管理委員会議」で使用した13~24年分の資料や会議録を情報公開請求し、開示を受けた。

さらに宮内庁へ取材し、陵墓の調査報告書を確認したところ、台風や大雨による倒木被害が相次いでいることが明らかになった。



こうした事態を受けて宮内庁は23~24年、主に西日本に所在する古墳などの陵墓で樹木の状況を調査。地形的に台風の影響を受けやすい場所に樹木が生えていた陵墓は、調査対象の大半を占めた。宮内庁は立地や大きさから陵墓を優先度で4分類し、昨年7月の陵墓管理委員会議で報告した。

会議録によると、委員の一人は「危険木を伐採するということはぜひしないといけない」と述べる一方、自然環境に配慮して植物の種類などを「十分に検討して説明できるようにしないと、自然環境を守るというところからクレームが出てくるだろう」と懸念を示した。



 宮内庁陵墓課は毎日新聞の取材に「いくつかの陵墓で自然環境を確認する調査をしており、今年夏ごろの会議で説明する予定だ。陵墓の景観や自然環境などを損なわないように留意しながら、リスクのある場所の樹木の伐採を進めていきたい」と説明した。【高島博之】

文化的価値 失われ/陵墓で倒木「今が一番悪い状態」
墳丘に開いた大きな穴。散乱する葺石(ふきいし)――。天皇陵や皇族の墓として宮内庁が管理している陵墓が、頻発する大雨や台風によって危機的状況にさらされていることが判明した。

毎日新聞が情報公開請求で入手した宮内庁の内部資料には、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(大市墓、奈良県桜井市)で起きた倒木被害の様子を捉えた5枚の写真もあり、その実態を生々しく伝えている。

大雨の直後に撮影
5枚の写真は2023年6月に発生した大雨の直後に撮影された。立ち入りが厳しく制限された陵墓内の様子が写真で明らかになることは少なく、箸墓古墳での倒木被害はいまだ公表されていない。

写真には箸墓古墳の後円部にあった大木が根元から倒れている様子とともに、墳丘に開いた大きな穴の周囲に散らばる葺石が写っていた。宮内庁は取材に、高さ15メートルの常緑樹のナナミノキが根元から倒れ、2メートル四方の範囲で深さ1メートルの穴が開いたことを明らかにした。また、他に5本の木が巻き込まれて倒れたという。

「今が陵墓管理の一番悪い状態。文化財の本質的価値が失われつつある。陵墓の本質的な価値は何なのか。何を守ろうとされているのか。宮内庁の中で議論をして手を打たないと、大変なことになる」 翌7月に宮内庁庁舎で開かれた「第47回陵墓管理委員会議」で、写真を見た委員は宮内庁の陵墓管理に強い不満を示した。

8年前から指摘
会議に出席した委員は考古学者4人、歴史学者と国土交通省の土砂災害の専門家の計6人で、樹木の管理状況への厳しい意見が相次いだ。

会議録には委員の意見が箇条書きにされており「(幕末から明治の)陵墓治定(指定)後には木が伸びたままだ。大きい木は切っていく必要がある」との指摘や、相次ぐ倒木被害を踏まえて「最近は木や植生の管理をどうしたらよいかという問題に論点が移ってきている」との記述が見られた。

また、委員から「今後、樹木の管理をどのようにするのか、宮内庁としての方針を来年の委員会で提示してほしい」との要求があり、宮内庁が倒木による被害の恐れがある陵墓の実地調査をすることになった。

陵墓の樹木どう管理?
貴重な文化財でもある陵墓の樹木はどのように管理されてきたのか。江戸時代ごろまでは、地元の人が立ち入って、薪などにするため木を持ち帰ることもあり、明治初めは現在のように木は茂っていなかったという。それが幕末から明治にかけて管理が厳格化され、一般の立ち入りが規制された。

宮内庁が1968年に制定した「陵墓の営繕方針及実施要領」では、樹木の状態を「尊厳性をそこなわないように、こんもりと自然に安定した森林の相をもつ状態とする」と規定しており、現在の箸墓古墳もうっそうとした森のような姿となっている。それが近年多発するようになった台風や大雨で、各地の陵墓で倒木被害が相次ぐようになった。

こうした状況について、陵墓管理委員会議の資料からは少なくとも8年前の時点で、問題視されていたことがうかがえる。17年6月30日の第41回会議では、委員の一人が「前々から墳丘問題は樹木だ」と指摘。委員に森林に関する専門家がいないことを挙げ「専門家を呼んで、被害のありそうな陵墓をいくつか調べた方がいい」と提言していた。

宮内庁の対応は?
委員は年に1度、陵墓の現地視察もしており、19年11月は世界遺産の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群を構成する仲津山古墳(仲姫命(なかつひめのみこと)陵、大阪府藤井寺市)で、18年9月の台風21号による倒木被害の状況を確認した。

視察中の委員から「陵墓の木をこれからどうするかということは最大の課題」との発言や「台風はどんどん来る」との指摘があった。宮内庁の担当者は「毎年こんなに台風が来たら、とてもじゃないが予算的にもたないです」とこぼすだけで、対策は進まなかった。

宮内庁は陵墓で倒木などの被害があっても速やかに公表せず、毎年度末に発行している「書陵部紀要」で発掘調査の成果とともに報告している。

18年9月の台風21号による倒木被害は仲津山古墳を含め大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)、太田茶臼山古墳(継体天皇陵)など大阪府内の七つの陵墓で発生していたが、紀要での報告は72号(21年3月発行)と74号(23年3月発行)だった。また、書陵部紀要は専門用語があふれており、一般向けの内容ではない。

宮内庁は毎日新聞の取材に、被害状況を速やかに公表しない理由を「倒木などの被害が出た場合、埴輪(はにわ)や葺石などが容易に目に付く状態で露出する場合が多く、学術的な調査を行う前に事実関係を公表することは、興味本位の陵墓への立ち入り、盗掘や事故を誘発する危険がある」とし、「調査結果が十分整理されてから、その内容を(紀要で)公表している」と説明した。【高島博之】

(解説)宮内庁 危機感欠き
地中にあった埴輪(はにわ)などが露出し、風雨にさらされる状況は以前から起きていたが、宮内庁の危機意識は乏しく対応は十分とは言えない。

古墳の管理者は陵墓かどうかで異なる。陵墓は宮内庁が所管しているのに対し、それ以外の古墳は所在する自治体などが担当している。どちらも樹木管理が懸案となっているが、取り組みは両者で大きく異なる。

堺市には東西・南北とも約4キロの範囲に広がる百舌鳥(もず)古墳群があり、陵墓とそれ以外の古墳が混在する。陵墓以外の主要な古墳は国史跡に指定されており、堺市が管理する。

堺市は文化財保護法に基づく「史跡百舌鳥古墳群保存活用計画」を策定し、植生管理を「指定地における維持管理の主要かつ重要な行為」と位置付け、国史跡の古墳ごとに植生を含む管理の基本方針と方法を定めている。

一方、古墳群にある大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)、百舌鳥陵山(みささぎやま)古墳(履中天皇陵)、田出井山古墳(反正(はんぜい)天皇陵)の三つの天皇陵を含めた陵墓23基は、宮内庁が管理しているため国史跡には指定されておらず、管理権のない堺市の保存活用計画の対象外だ。

宮内庁には全般的な管理方法の「陵墓管理要領」(1975年制定、2010年改正)と、整備工事の手法などを示した「陵墓の営繕方針及実施要領」(68年制定)があるだけで、陵墓ごとの管理方針は策定していない。

23年7月の第47回陵墓管理委員会議では、委員から「樹木をどうすべきか自治体も同じ問題を抱えていることから、情報交換を本格的にすべきではないか」との指摘が出ていたが、宮内庁と自治体や文化庁との協議は開かれていない。

これまで宮内庁による陵墓の保存整備は、濠(ほり)の水によって浸食された墳丘や堤を保護する対策工事が中心で、大山古墳での工事も課題となっている。それらに加えて倒木被害への対応も喫緊の課題となった。陵墓の保護を進めるためにも、宮内庁はまず陵墓の現状を積極的に説明し、国民の理解を得ていく必要がある。【高島博之】




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悲劇のヒーロー・自天王をまつる北山宮(=北山神社 上北山村小橡)/毎日新聞「やまとの神さま」第113回

2025年03月21日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週水曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先月(2025.2.26付)掲載されたのは〈後南朝史彩る自天王の社/北山宮(上北山村)〉、執筆されたのは同会会員で天川村にお住まいの奥田八尋(やひろ)さんだった。
※トップ写真は北山宮(きたやまぐう)=上北山村小橡で

北山宮(きたやまのみや)とは、後亀山天皇の「孫の孫」にあたる自天王(じてんのう)または尊秀王(たかひでおう)と呼ばれる皇族のこと。いわゆる後南朝(ごなんちょう)の皇子である。なお神社としての北山宮は、「きたやまぐう」(旧名 北山神社)と読む。

高校の教科書には〈14世紀末、足利尊氏の孫義満の代になって、60年ほどつづいた南北朝の動乱はおわった。義満は、1392(明徳3)年に南北両朝の合体を実現させ、守護大名をおさえて幕府の全国支配を完成させた〉(『新もういちど読む山川日本史』)とあるだけで、私は「1つさ国は」(1392=南北朝の合一)と暗記した。

しかし実はこのあと、もうひと悶着あったのである。それが南朝再興運動としての「後南朝」だ。詳細は当ブログ「御朝拝式を拝観」に書いたので、そちらを参照していただきたい。では、奥田さんの記事全文を紹介する。

後南朝史彩る自天王の社/北山宮(上北山村)
北山宮(きたやまぐう)は、上北山村小橡(ことち)の大台ケ原を源流とする小橡川の左岸に鎮座します。旧県社で、吉野神宮(吉野町)の境外摂社でもあります。

祭神の北山宮(きたやまのみや)は後亀山天皇の玄孫(げんそん)(孫の孫)とされ、自天王または尊秀王(たかひでおう)とも呼ばれます。後南朝の歴史を彩る人物として知られます。

室町時代の1392年(元中9)、南北朝合一のあと、自天王がこの地区の瀧川寺(りゅうせんじ)に三種の神器の一つ神璽(しんじ)(勾玉=まがたま)と共に住み、後南朝の復興を念願していました。

神社の由緒書、「赤松記」などによると、自天王は1457年(長禄元)12月2日、赤松家再興をめざす残党によって殺害されました。地区の人たちは神璽とお首を奪い返し、遺体は瀧川寺に埋葬しました。その後、自天王を慕う人たちが現在地に祠(ほこら)を造営して祭ったのが北山宮(きたやまぐう)の始まりとされます。

北山宮の鳥居をくぐると舞殿、その奥に拝殿、本殿が整然と配置されています。舞殿の扁額(へんがく)は旧名称の北山神社で、1956年(昭和31)、北山宮に改められました。

2024年に改修された真新しい透かしの塀が境内をとり囲んでいます。瀧川寺は北山宮の近くにあり、境内の北山宮墓(きたやまのみやぼ)は宮内庁の管理になっています。(奈良まほろばソムリエの会会員 奥田八尋)

(住 所)上北山村小橡807
(祭 神)北山宮(きたやまのみや=後亀山天皇玄孫)
(交 通)近鉄吉野線・大和上市駅からゆうゆうバス河合下車。徒歩約15分
(拝 観)境内自由
(駐車場)有 無料
(電 話)07468・2・0124


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