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目からウロコ!『聖徳太子~ほんとうの姿を求めて』(東野治之著)

2017年12月05日 | ブック・レビュー
 聖徳太子~ほんとうの姿を求めて
 東野治之
 岩波ジュニア新書

謎のベールに包まれ、一時期「いなかった」と騒がれたり、教科書への記述(厩戸王か聖徳太子か)でモメたりと、何かと話題の聖徳太子だが、決定版ともいえる本が出た。それが東野治之著『聖徳太子~ほんとうの姿を求めて』(岩波ジュニア新書)だ。東野氏はかつて奈良文化財研究所に勤務され、今は奈良大学名誉教授、今年(2017年)は文化功労者にも選ばれたお方である。

この本の感想をひと言でいうと「『科捜研の女』を見ているようなスリリングな本」。ほんの少しの手ががりから、聖徳太子像を鮮やかに描き出す。沢口靖子と同じく「死」(釈迦三尊像銘文)からスタートする手法も同じである。ジュニア新書ではあるが、決して子供向きには書かれていない。あらましを紹介することは、古代史や太子に興味のある方に対して意義のあることと思うので、ここで紹介することにしたいと思う。少し長い(A4でぎっしり2枚分)が、ぜひ最後までお読みいただきたい。

東野治之著『聖徳太子~ほんとうの姿を求めて』岩波ジュニア新書(要旨)
はじめに
・太子関係の史料には伝説的な要素が多く、ただ年代順に史料を並べても、伝説上の太子が現れるだけで、実在の人物が見えてこない。
・本名は厩戸王(うまやとのみこ、うまやとおう)、聖徳太子は諡(おくりな)(没後に贈られた名前)。

序章 ほんとうの聖徳太子を求めて
・太子は敏達3年(574)、敏達天皇の異母弟、大兄皇子(のちの用明天皇)と穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女の長男として生まれ、推古30年(622)に数え年49歳で亡くなる。
・お札にも使われた「聖徳太子二王子像」(唐本御影)が貴重な肖像であることは間違いがない。

第1章 釈迦三尊像の銘文にみる太子
・(銘文の大意)「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子(上宮法皇)の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳妃(かしわでのきさき)がともに病気になったため、膳妃・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし、同年2月21日に膳妃が、翌22日には太子(法皇)が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた」。太子没後まもなくの重要な史料。

第2章 太子はどんな政治をしたのか
・『日本書紀』は、①仏教の興隆②十七条憲法の作成③仏典の講義と注釈④天皇記(天皇の系譜や業績を記す)・国記(風土記のようなもの)の編纂 を挙げるが、太子単独の仕事は②と③のみ。
・太子は「王命(みこのみこと)」と呼ばれた。この時代、ミコノミコトと呼ばれた人物は4人いるが、共通するのは、①次の皇位に大変近い、②天皇の権限を代行していた。
・十七条憲法第2条は「篤く三宝(仏教)を敬え」、第3条は「詔を承りては必ず謹(つつし)め」。まれに見る仏教尊重の時代。
・十七条憲法と冠位十二階は、主に朝廷の実務に携わる人々が対象(皇族や蘇我氏は対象外)。
・推古9年(601)は辛酉(しんゆう)の年(中国の讖緯(しんい)思想で、大きな社会変革の起こる年とされる)。そこから一蔀(いちぼう=1260年)さかのぼり、神武天皇の即位年とした。
・太子は中国の思想・学問に造詣。
・しかし太子が外交に関わった形跡は、全くない。蘇我馬子が外交を主導。
・「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」を太子が書いたという根拠はない。



第3章 聖徳太子の仏教理解
・法興寺(飛鳥寺)と法隆寺は一対の寺。合わせると「興隆」になる。
・天寿国繍帳の銘文は、太子の死から相当経って、入念な準備のもとに作られた太子にちなむ繍帳の縁起・解説のようなもの(いわば昔の繍帳の豪華リニューアル版)。
・「世間虚仮、唯仏是真」(天寿国繍帳)、当時は革命的な言葉。天寿国は弥勒浄土、兜率天。
・『法華義疏』は太子の著作であり、自筆原稿。ほかの義疏も太子が書いた。ヘラで罫線を入れており、職業写経生が書いたものではない。

第4章 斑鳩宮と法隆寺
・太子は前半生を飛鳥で過ごした。居所は、橘寺か。橘寺は太子と何らかのつながりのある寺。
・太子は、ブレーンとしての役割こそ本領。
・太子の斑鳩宮と推古天皇の小治田宮(おわりだのみや)の造営は連動している。
・太子道(筋交い道)は公道として整備。飛鳥と斑鳩が政治的にも強く結びついていた結果。
・斑鳩宮は法隆寺(斑鳩寺)東院の地にあった。小型の仏堂も併設。

・法隆寺金堂の薬師如来像の光背銘によると、太子の父・用明天皇が病気になったとーき、治癒を祈って薬師如来像を作り、寺を建てる願(がん)願(がん)を立てたが、果たさないうちに亡くなったため、この願を果たすため、推古と太子が法隆寺を建立した。
・創建法隆寺の場所は、西院伽藍の南東の「若草伽藍跡」。塔が前、背後に金堂という四天王寺式。
・創建法隆寺は、斑鳩宮と一対で作られていた。西に約20度振れる方角で、並立を意識。
・同様の計画は、舒明天皇の百済宮と百済大寺(吉備池廃寺)。
・斑鳩は大和と難波・河内とを結ぶ交通の要所。百済はその終点。朝廷の拠点を分散した。
・中宮寺は、太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女の宮跡。斑鳩宮と飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)(法隆寺の東南・上宮(かみや)付近、今は上宮(かみや)遺跡公園)との中間なので「中宮」。
・斑鳩は「太子コロニー」、太子の子女たちが集まり住んだ。

終章 聖徳太子の変貌
・特異な点は、太子没後、歴史的な事実から離れ、人物像が極めて伝説的に変貌していったこと。
・初期の太子崇拝から、やがて「救世観音の化身」として信仰されるようになった(太子信仰)。
・その背景には、並外れた秀才ぶりがあった。
・法隆寺の火災は天智9年(670)に起きた。持統7年(693)には金堂が完成、和銅4年(711)頃にはほかの建物もそろう。現金堂の釈迦三尊は、本来の仏ではない(太子没後に完成)。
・慧思後身説(えしこうしんせつ)(太子は中国天台宗の祖師・慧思の生まれ変わりとする説)。は、8世紀初頭、遣唐留学僧の道慈によって紹介された。慧思の持ち物だったという法華経が持ち帰られ、太子の持ち物として光明皇后から法隆寺に寄進された。
・8世紀前半の法隆寺東院の造営にも、光明皇后が関与。
・行動的ではないが頭は冴え、自分のポリシーをもって外来文化を取り入れる、ある意味過激な知識人、というのが私の抱く感想。

この本の醍醐味は、緻密に聖徳太子像をあぶり出していくその「プロセス」にある(『科捜研の女』と同じ)。要約してしまうと、残念ながらその面白が出ない。皆さん、ぜひご一読を!
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