【863】
Eddie MATHEWS
1949年、ボストン・ブレーブスと契約を交わしたマシューズは
52年にはレギュラーの座を獲得、25本のホームランを放った。
翌年53は打率.302、47本塁打、135打点と爆発、
メジャー2年目にしてホームラン王に輝いた。
以降、54年、打率.290、40本塁打、103打点、
55年、打率.289、41本塁打、101打点をマーク。
早熟の天才は25才にして通算200本に到達していた。
57年には打率.292、32本塁打、92打点でチームのリーグ優勝に貢献
ワールドシリーズでは第4戦の10回にサヨナラホームランを打ち、
ブレーブスの優勝におおいに貢献した。
マシューズのシャープなスイングは、かのタイ・カッブをして
「完璧」と言わしめる程だった。
アメリカの有名なスポーツ雑誌「スポーツ・イラストレイテッド」の
記念すべき第1号の表紙を飾ったのもマシューズの完璧なるスイングであった。
1954年、ハンク・アーロンがチームに加わると、
人種差別的な扱いをするチームメイトもいる中、
マシューズはアーロンを良きライバルと認め、彼を歓迎した。
「両雄並び立たず」という言葉があるが、
マシューズとアーロンには当てはまらなかった。
二人はチームの勝利のために競い合い、
結局チームメイトとしてプレーした12年間で863本の
アベック・ホームランを打った。
これは、ルース/ゲーリックのコンビを上回る数字である。
マシューズは、そのプロ生活において最高の誇りが
アーロンと打った863本のアベック・ホームランだと語り、
アーロンにとっては、マシューズが語ったこの言葉が自分の誇りであった。
「自分が良い打者になれたのはマシューズのおかげだと確信している」
誰あろう、アーロンの言葉である。
59年、打率.306、46打点、114打点、
60年、打率.277、39本塁打、124打点....と
活躍を続けていたマシューズ。
が、62年、肩に故障を抱えるようになると、
この年以降、以前の打撃が出来なくなってしまう。
結局68年、通算2315安打、512本塁打、1453打点、
本塁打王2回、オールスター出場9回の実績を残し、
現役を引退、78年に殿堂入りを果たした。
1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースの本塁打記録更新に迫ると、
ルース信者や人種差別からの非難や脅迫に苦しむ彼を気づかい、庇ったのは
他ならぬ、ブレーブスの監督になっていたエディ・マシューズであった。
Eddie MATHEWS
1949年、ボストン・ブレーブスと契約を交わしたマシューズは
52年にはレギュラーの座を獲得、25本のホームランを放った。
翌年53は打率.302、47本塁打、135打点と爆発、
メジャー2年目にしてホームラン王に輝いた。
以降、54年、打率.290、40本塁打、103打点、
55年、打率.289、41本塁打、101打点をマーク。
早熟の天才は25才にして通算200本に到達していた。
57年には打率.292、32本塁打、92打点でチームのリーグ優勝に貢献
ワールドシリーズでは第4戦の10回にサヨナラホームランを打ち、
ブレーブスの優勝におおいに貢献した。
マシューズのシャープなスイングは、かのタイ・カッブをして
「完璧」と言わしめる程だった。
アメリカの有名なスポーツ雑誌「スポーツ・イラストレイテッド」の
記念すべき第1号の表紙を飾ったのもマシューズの完璧なるスイングであった。
1954年、ハンク・アーロンがチームに加わると、
人種差別的な扱いをするチームメイトもいる中、
マシューズはアーロンを良きライバルと認め、彼を歓迎した。
「両雄並び立たず」という言葉があるが、
マシューズとアーロンには当てはまらなかった。
二人はチームの勝利のために競い合い、
結局チームメイトとしてプレーした12年間で863本の
アベック・ホームランを打った。
これは、ルース/ゲーリックのコンビを上回る数字である。
マシューズは、そのプロ生活において最高の誇りが
アーロンと打った863本のアベック・ホームランだと語り、
アーロンにとっては、マシューズが語ったこの言葉が自分の誇りであった。
「自分が良い打者になれたのはマシューズのおかげだと確信している」
誰あろう、アーロンの言葉である。
59年、打率.306、46打点、114打点、
60年、打率.277、39本塁打、124打点....と
活躍を続けていたマシューズ。
が、62年、肩に故障を抱えるようになると、
この年以降、以前の打撃が出来なくなってしまう。
結局68年、通算2315安打、512本塁打、1453打点、
本塁打王2回、オールスター出場9回の実績を残し、
現役を引退、78年に殿堂入りを果たした。
1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースの本塁打記録更新に迫ると、
ルース信者や人種差別からの非難や脅迫に苦しむ彼を気づかい、庇ったのは
他ならぬ、ブレーブスの監督になっていたエディ・マシューズであった。