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file.177 Red SCHOENDIENST【レッド・シェーンディーンスト】

2007-03-18 | STU
【名脇役】
Red SCHOENDIENST

好打、好守の二塁手として19年の長きにわたってプレーした職人。
三振が少ない粘りのある打撃が持ち味。
通算で2449安打をマークしている。

1942年にカージナルスと契約を交わしたシェーンディーンスト。
45年にはメジャーに昇格し、打率.278、26盗塁をマーク、
レギュラーに定着した。
以後、イノス・スローターや、スタン・ミュージアルらと
チームを支える中心選手として活躍を続けた。

俊敏な動きで広い守備範囲を誇り、
確実性も兼ね備えた、当代随一の二塁手であり、
かのハンク・アーロンも
「二塁手としての全てを持っているプレーヤーだ」と手放しで絶賛している。

52年打率.303をマークすると
翌53年は打率.342、15本塁打、79打点の好成績、
54年も打率.315で3年連続の打率3割以上をマーク。
好守に加え、打撃面でも開眼し、リーグを代表する二塁手となった。

56年のジャイアンツを経て、
翌57年シーズン途中からは、ブレーブスへ移籍。
この年のブレーブスは、優勝のための最後のピースとして
内野の要となる好守・好打の二塁手を必要としており、
シェーンディーンストは、それに『うってつけ』の選手であった。
新天地でシェーンディーンストはその才能をおおいに見せつけ、
新たな僚友ハンク・アーロンと共にチームを牽引し、
打率.309、15本塁打、65打点でリーグ優勝に貢献。
ワールドシリーズでも活躍し、ブレーブスを世界一に導いた。
この年のMVP投票のアーロン、ミュージアルに次ぐ3位...という結果が
その救世主的な活躍ぶりを物語っている。

61年からは古巣カージナルスへ戻り
63年に現役を引退。

65年からは監督としてカージナルスを指揮し、
67年にワールドシリーズ制覇。
2度のリーグ優勝に輝き、通算で1041勝をおさめている。

1989年、殿堂入りを果たしている。

file.157 Bret SABERHAGEN【ブレット・セイバーヘーゲン】

2007-02-17 | STU
【Sabes】
Bret SABERHAGEN

70年代中盤から80年代中盤まで
リーグ屈指の強剛チームだったロイヤルズ。
1985年にはワールドシリーズ制覇を成し遂げるのだが
その時のエースが、無類のコントロールを誇る
ブレット・セイバーヘーゲンである。

セイバーヘーゲンは、84年に20歳でメジャーデビュー、
一年目にして防御率3.48、10勝をマーク。
翌85年には防御率2.87、20勝と大ブレークし、
ジョージ・ブレットらと共に、チームをリーグ優勝に導いた。
ワールドシリーズでも2試合に登板し
オジー・スミス、ウィリー・マギー、ジャック・クラークらを擁する
カージナルズ相手に防御率0.50で2勝。
18イニングでわずか1四球と、コントロールが冴え
第7戦では完封勝を収め、世界一に大きく貢献。
サイ・ヤング賞とワールドシリーズMVPに輝き、
キャリア最高の年となった。

86年は7勝に終わるも、87年は18勝、
89年には防御率2.16。23勝をマークし、
最多勝と二度目のサイ・ヤング賞に輝いた。

その後、メッツ~ロッキーズ~レッドソックスとチームを移り
94年、メッツで14勝、98~99年はレッドソックスで
2年連続の二桁勝利を飾るなど、安定した投球を続けた。
91年には8月のカブス戦でノーヒット・ノーランを達成した。

2001年、通算167勝で現役を引退。

記者に漂白剤をかけた事があるなど、
マスコミ嫌いでも有名だった。

file.149 Don SUTTON【ドン・サットン】

2007-02-09 | STU
【一流】
Don SUTTON

23年間の長きに渡り、安定した活躍を続け
通算324勝を稼いだ右腕。

曰く「300勝した投手こそが一流、出来なかった奴は並の投手さ」

サットンは66年にドジャースでデビュー。
いきなり12勝をあげ、コーファックスやドライスデールらと
ローテーションを組み活躍、チームの主力投手となる。
以降、自慢の制球力と大きなカーブ、
加えて、ボールの表面に小さなキズをつける事で
変化を大きくする不正投球を武器に、安定感抜群の投球を続け、
現役23年間で、実に21度の10勝以上をマークした。

69年に防御率3.47、17勝、
72年、防御率2.08、19勝、
74年には、防御率3.23、19勝をあげるなど、
76年まで8年連続の15勝以上。
特に76年は、キャリア・ハイの21勝(防御率3.06)を記録した。

サットンが支えていた頃のドジャースは、
かつての黄金期を過ぎ、優勝から見放されていた時期だったため
輝かしい賞や世界一の美酒には縁がなく、
サットンは、孤軍奮闘の非運のエースでもあった。

80年、現役で一度きりのタイトルとなる
リーグトップの防御率2.20(13勝)をマークするが
この年限りでドジャースから移籍、
アストロズや、ブルワーズ、エンゼルス等を経て
86年、エンゼルスで300勝を達成、
88年に引退した。

現役生活のほとんどをドジャースで過ごしたサットン。
ニューカムやドライスデール、コーファックス、ハーシハイザー、
トミー・ジョン、ヴァレンズエラ、野茂といった個性派揃いの
歴代エース達の中にあって、その存在は地味に感じる。
が、前述の誰よりもドジャースに勝利を捧げた大エースなのである。

背番号20は永久欠番、
98年には殿堂入りも果たし、名実共に
『一流投手』の仲間入りを果たした。

file.148 Herb SCORE【ハーブ・スコア】

2007-02-08 | STU
【事故】
Herb SCORE

1955年、インディアンズに彗星のごとく現れたスコア、
その豪速球とキレのあるカーブで相手打者を撫で斬りにし、
この年、リーグ最多の245三振を奪い、
16勝、防御率2.85の好成績で文句無しの新人王に輝いた。
「左のフェラー」ファンは、その颯爽とした勇姿と投球ぶりに
当時、衰えが顕著になっていた大エース、ボブ・フェラーの姿を重ねあわせた。

翌56年もスコアの勢いは止まる事を知らない。
2年連続となるリーグ最多の263三振を奪い、防御率2.53で20勝。
折しもフェラーが、この年、1勝もあげられずに引退、
ファンの期待がスコアに集まるのは当然の事だった。

ハーブ・スコアは、このまま殿堂クラスの大投手になるに違いない.....
誰もがそう思っていた..........。

が、好事魔多し―――

57年5月7日、ヤンクス戦に先発したスコアは、
ギル・マクドーガルドのライナーを顔面右目付近にくらって鼻骨を骨折、
そのまま病院に運ばれる重傷を負う。

以降、視力の低下と打球に対するトラウマの所為で
かつてのような投球が出来なくなってしまったスコア、
59年に9勝するが、これが精一杯。
結局通算55勝で、62年に現役を引退した。

引退後は、64年から97年まで、
インディアンズのブロードキャスターとして
チームの活躍を実況し続けた。
8年の現役生活も含め、
インデイアンズと共にあった42年間、
ファンはスコアを忘れる事は無いだろう。

file.142 Reggie SMITH【レジー・スミス】

2007-01-19 | STU
【30HRカルテットその三】
Reggie SMITH

1966年、レッドソックスでデビューしたスミス、
67年、15本塁打を放ち、レギュラーの座をつかむと
68年も15本塁打、ゴールド・グラブを受賞した。
68年、打率.309、25本塁打、93打点をマーク、
才能が開花すると、以降、71年の30本塁打を含む
6年連続の20本塁打以上を記録、
名選手カール・ヤストレムスキらと、
古豪レッドソックスの主軸打者として活躍する。

74年にカージナルスへ移籍、
この年、キャリア初の100打点をマーク。
リーグが変わっても、相変わらずの打撃を披露する。

76年、シーズン途中でドジャースへ移籍、
77年、32本塁打を放ち、『30本塁打カルテット』の一員となり
チームのリーグ優勝に貢献した。

81年はレギュラーシーズン、ポストシーズン
共に出場機会を大幅に減らすが
ドジャースは世界一に輝き、
スミスも勝利の美酒に酔う事が出来た。

結局、通算2020安打、1092打点、
スイッチ・ヒッターとしては4位にランクされる通算314本塁打を放ち、
オールスターには7度、出場した。

83年、日本のジャイアンツに入団。
二年間プレーし、打率.271、45本塁打、122打点の通算成績を残した。
ジャイアンツ史上最高の外国人選手であるウォーレン・クロマティも
メジャーリーグの大選手スミスには頭が上がらず、
『サー』と呼んで敬慕した。
ミーティング中など、態度の悪かったクロマティを
スミスが叱責した事もあるという。

file.138 Ron SANTO【ロン・サント】

2007-01-14 | STU
【裏・ミスターカブ】
Ron SANTO

アーニー・バンクスやビリー・ウィリアムスと共に
60~70年代のカブスを牽引した強打者。
通算2254安打、342本塁打、1331打点。

1960年、弱冠20歳でメジャーデビューを飾ったサント、
ルーキーイヤーは、打率.251、9本塁打の成績で新人王投票4位にとどまる。
翌61年開花し、23本塁打、83打点。
64年、初の30本塁打に114打点..と
バンクスやウィリアムスと肩を双べられるような好成績を残し、
65年も33本塁打、101打点と好調を維持、
結局、63年から71年まで、8年連続で30本塁打・90打点以上をマーク、
当時、黒人強打者がリーグを席巻する中、
数少ない白人選手のスラッガーとして、安定した活躍を見せた。

選球眼も良く、64年から70年まで
7年連続で85個以上の四球を選んだ。
守備面でも、ガッツ溢れるサードの守備でファンを魅了、
守備範囲も広く、5度のゴールドグラブを誇る。

主要打撃部門でタイトル未獲得なのと、
ワールド・シリーズの舞台を踏めなかった事は残念だが
オールスター9回出場の人気プレーヤーであった。

また、糖尿病を患っており、
病気と闘いながら、ほとんど休まず試合に出場し
好守に結果を残した姿勢は、賞賛に値する。

1974年、この年から移籍したホワイト・ソックスで現役を引退、
34歳と、年齢的にはまだプレー出来そうな早い引退だったが
持病である糖尿病の影響も大きかった。



file.110 Luis TIANT【ルイス・ティアント】 

2006-12-02 | STU
【マウンド上のアステア】
Luis TIANT

独特のピッチングフォームでファンを魅了した
キューバ生まれの人気投手。通算229勝、オールスター出場3回。

ゆっくりとした動作で、ワインドアップ時は、バッターに背を向け体をひねり、
上手投げから下手投げまでを自在に操り打者を幻惑した。
意味不明な動作をマウンド上で行う事もしばしばあったが、
多彩な変化球と鋭い速球を合わせ持ち、実力も申し分無し。
かのレジー・ジャクソンをして
『マウンド上のフレッド・アステア』と言わしめた。

1964年にインディアンズでメジャー昇格するといきなり10勝、
68年にはリーグトップの防御率の1.60に加え21勝をマーク。

72年、リーグ1位の防御率1.91で15勝、
73年、防御率3.34、20勝、
74年には防御率2.92、22勝をあげるなど、
71年から78年まで在籍したレッド・ソックスでは
75年から7年連続で10勝以上を記録、
主力投手として、安定した働きを見せた。

1975年のレッズとのワールドシリーズ、
カールトン・フィスクの感動的なサヨナラホームランに代表される名勝負だったが、
惜しくもレッド・ソックスは、一敗地にまみれた。
そんな中、ティアントは3試合に先発、2勝をあげ、奮闘している。

ヤンキース、パイレーツ、エンゼルスを経て引退。

キューバ訛りの英語といつでも手はなさない葉巻きがトレードマーク、
年齢詐称疑惑が持ち上がった事もあるが、真偽の程は不明である。

file.099 Jeff TORBORG【ジェフ・トーボーグ】

2006-11-20 | STU
【球界の加藤嘉】
Jeff TORBORG

ジェフ・トーボーグは
ノーラン・ライアンの歴史を語る上で欠かせない
重要人物である。

トーボーグは1963年、ドジャースに入団
打力に欠けていたためか、レギュラーの座は掴めなかったが
守備面での評価は高かった。

1972年、ノーコン・ピッチャーの烙印を押され
メッツからエンゼルスへトレード放出されたノーラン・ライアンは
ドジャースから移籍していたトーボーグと出会う。
コーファックスやドライスデールといった大投手の球を受けた
トーボーグはライアンの類い稀なる素質を見抜き、
同時に弱点をも見抜いた。
開幕前のキャンプでトーボーグはライアンのフォーム改造に
取り組んだ。二人の努力は実を結び、
エンゼルス移籍後のライアンは
一年目にして19勝、防御率2.28、
リーグトップの329三振を奪い(暴投18は御愛嬌)
以降、大投手への階段を登る事となる。

トーボーグは、その後73年に引退するが
10年の現役生活で通算安打297。
殿堂選手には程遠い存在ではあるが、
ライアンのフォーム改造に加え、
サンディ・コーファックスの完全試合や
ノーラン・ライアンの初のノーヒット・ノーラン
で捕手をつとめるなど、
優秀助演男優ぶりが光る名脇役である。

file.096 Ryne SANDBERG【ライン・サンドバーグ】

2006-11-16 | STU
【ライノ】
Ryne SANDBERG

1978年にフィリーズに入団したサンドバーグは
13試合出場のみでトレードを通告される。
82年からカブスへ移籍したサンドバーグは、三塁手として
156試合に出場、打率.271、盗塁32個をマーク。

83年に二塁へコンバートされるが、これがハマった。
コンバート一年目にしてゴールド・グラブ賞を獲得する程の
守備を披露、チームのレギュラー二塁手の座を不動のものとする。

広い守備範囲を誇り、華麗かつ堅実なフィールディング、
サンドバーグの守備は、長いメジャーリーグの歴史に名を列ねる
幾多の名二塁手の中でも屈指の存在感を誇っている。
ちなみに通算守備率.989は歴代一位の大記録、
ゴールドグラブ賞は83年から91年の9年間にわたり
独占し続けた。

84年には打撃も開眼、打率.314 19本塁打 54打点と32盗塁
2度目のゴールド・グラブも受賞し、走攻守全ての面において、
そのセンスをいかんなく発揮する。
加えて、この年はリーグMVPにも輝いている。

85年には打率.305、26本塁打 54盗塁、
90年は打率.306、40本塁打、100打点、25盗塁で、本塁打王に輝いた。
守備面でも89年から90年にかけて123試合連続無失策の記録を樹立、
その活躍ぶりに、ファンはかつての英雄アーニー・バンクスの姿を重ね合わせた。
二代目『ミスターカブス』の誕生であった。

91年、打率.290、30本塁打、100打点
92年、打率.304、26本塁打、87打点......と
絶頂期を迎えていたサンドバーグだが
93年の左手の骨折の影響で前年から、本塁打が9本と激減、
この年、打率こそなんとか309をマークするも、
翌94年は打率.238 5本塁打とレギュラー定着以来最低の
成績に終わってしまう。
自らの限界を悟ったサンドバーグは引退を決意するが、
当時のサンドバーグは球団フロントとの確執や、夫人との離婚問題も抱えており
メンタル面でも万全な状態でなかった..と言える。

が、これらの問題が解決した96年、1年のブランクの後
突然現役復帰を果たし、25本塁打、92打点をマークし復活、
翌97年も135試合に出場し、この年、2度目の引退を宣言、
選手生活に幕を降ろした。

2005年、ウエイド・ボックスと共に
念願の殿堂入りを果たす、
サンドバーグの殿堂入りに対しては疑問視する声も多かった。
曰く「安打数が3000に満たない」
曰く「ワールドシリーズでの活躍が無い」etc....
が、フィールディングや塁上を駆ける姿
また、数字にも現れている長打力も含めた打力を考えれば
サンドバーグは、堂々の殿堂二塁手である。

file.081 Alan TRAMMEL【アラン・トラメル】

2006-07-16 | STU
【友に貰ったMVP】
Alan TRAMMEL

1976年ドラフト2位でタイガースに入団したトラメル、
キャリアで7度の打率.300を打ち、
ゴールド・グラブ4回受賞、オールスター出場6回を誇る
デトロイト一筋20年の名遊撃手である。

1978年、20歳の若さでレギュラーになったトラメル、
そのしなやかな遊撃守備に加え、打率.268 本塁打2 打点34と
実質1年目としては及第点の活躍を見せたが、
新人王は同じタイガースの二塁手ルー・ウィテカーが獲得した。
トラメルとウィテカーは、ほぼ同時期にメジャーに昇格、
マイナーでも共にプレーしていた仲であった。
この後 十数年、二人は息の合った二遊間コンビとして
数々の好守を魅せてくれる事になる。

上々のレギュラー1年目を送ったトラメルは
80年、初の打率.300を記録し、
83、84年と連続して打率.310を打った。
特に84年は、シーズン打率.314、
ロイヤルズとのプレーオフでは打率.364
さらにパドレスとのワールド・シリーズでは打率.450
と打ちまくり、シリーズMVPを獲得、
チームの世界一に貢献している。

翌85年は左ひざと右肩の故障により思うような活躍が出来ず
打率.258に終わるが、86年は初の20本塁打を放つなど
長打力を身に付け復活。
スパーキー・アンダーソン監督に中軸打者を任された
87年には打率.343 本塁打28 打点105と
最高のシーズンを送り、チームを地区優勝に導いた。

ちなみにこの87年、MVP級の大活躍を見せたトラメルだが
栄冠はブルー・ジェイズのジョージ・ベルに輝いた。
盟友ルー・ウィテカーは
「アラン・トラメル、1987AL MVP/ルー・ウィテカーより」
と書いた二塁ベースをトラメルにプレゼントするのであった。

1996年に現役引退した後、2003年から
愛するタイガースの監督を務める事になるが
監督としては、成功には到らなかった。
が、トラメルは今だにデトロイトの輝ける星である。


file.071 Mike SCHMIDT 【マイク・シュミット】

2006-04-08 | STU
【史上最強の三塁手】
Mike SCHMIDT

1989年5月、一人の強打者がシーズン半ばにして引退を表明した。
フィラデルフィア・フィリーズのマイク・シュミットである。

シュミットは、71年ドラフト2位指名でフィリーズに入団する、
73年にはサードのポジションを与えられるが、
この年18本塁打を放ちながらも、打率.196の低打率に加え
136三振を喫し、屈辱のシーズンを過ごした。
メジャーの高いレベルを思い知らされたシュミットは
そのオフ、プエルトリコのウィンターリーグを戦い、
さらに猛練習を重ね、74年には完全に生まれ変わった姿を
プレーで、ファンに披露した。
前年とは打って変わって打率は.282、ホームランは倍増の38本を放ち
メジャー3年目にして本塁打王に輝いた。
この年は、アストロドームの天井に打球をブチ当てるという
脅威のシングルヒットを打ち、そのパワーを見せつけた。

シュミットは豪打だけの選手ではなかった。
75年-76年と連続で20盗塁を記録、俊足ぶりもみせつけ、
何より守備では堅実かつ華麗、軽快な動きで
10度のゴールド・グラブに輝いた。
パワフルな打撃だけが注目されがちだが
その三塁守備もブルックス・ロビンソンに比肩しうる程の
実力の持ち主である。

75年、打率.249、38本で本塁打王、
76年にも3打率.262、38本塁打で本塁打王に輝き、
この年のカブス戦では4打席連続ホームランと8打点を記録
その存在感をあらためて、全米に知らしめた。

74年と合わせて3年連続でホームランキングに輝いたシュミットだが、
プレーオフではシュミットの打撃は湿りがちになり
76年からフィリーズは3年連続でプレーオフ敗退を喫する。
が、80年シュミットは汚名返上とばかりに打ちまくり
ペナントレースでは打率.286、48本塁打、121打点の二冠、
ワールドシリーズでも打率.381、2本塁打、7打点の活躍で
チームをワールドチャンピオンに導き、
シーズンとシリーズ共に、MVPに輝いている。

翌81年も打率.316、31本塁打、91打点で二冠王&MVPに輝いたシュミットは
その後もメジャーを代表するスラッガーとして活躍を続け、
キャリア18年間で本塁打王8回、打点王4回、MVP3回に輝き、
メジャーでの地位を確固たるものにした。

86年、打率.290、37本塁打、119打点、
87年、打率.293、35本塁打、113打点...と
齢35を迎え、ますます安定したスラッガーぶりを発揮していたシュミットだが

1988年、打率.249、本塁打12の成績に終わると、
1989年も攻守共に衰えを隠す事は出来ず、
5月、涙の引退表明をするのである。

が、その攻守に渡る活躍に敬意を表したファンは、
この年のオールスターで、既に引退したシュミットを
ナ・リーグ三塁手として選出した。
試合には出場できなかったものの、
シュミットはファンの大歓声につつまれたのである。

80年の最高の年を共に戦ったピート・ローズを
「殿堂入りに相応しい選手だ」と何があろうと庇い続け、
テレビなどに出演した時には
ジェスチャーも交え陽気に話すシュミット。
ファンの心をつかんだのは、
そのプレーだけでは無いのもかもしれない。


file.059 Hank SAUER 【ハンク・サウアー】

2006-02-03 | STU
【大器晩成】
Hank SAUER

1941年から47年にかけて、
メジャーではわずか47試合の出場にとどまっていたサウアー、
20代のほとんどをマイナーで過ごしていた事になる。

48年、31才のサウアーは
打率.260、35本塁打、97打点。
ようやくメジャーでのレギュラーポジションを獲得する。

が、この活躍をフロックと考えたか、
在籍球団のレッズは49年のシーズン中に、
サウアーを放出し、カブスへ移籍させる。
しかしカブス移籍後もサウアーの勢いは止まらない、
この年、2チーム合計で、打率.275、31本塁打、99打点。
翌、50年は、打率.274、32本塁打、103打点。
52年は、打率.270、37本塁打、121打点をマークし、
本塁打、打点の二冠を獲得。
チームは5位と低迷していたが、
サウアー自身はMVPに輝いている。

52年まで、ナ・リーグではラルフ・カイナーが、
7年連続でホームラン王に君臨していたのだが、
サウアー唯一のホームランキングは、
そのカイナーと並んでのタイトル獲得であった。

53年、故障もあってホームラン19本に終わったサウアーだが、
日米野球で来日すると、12試合で12ホーマーをかっ飛ばし、
見事に帳尻を合わせたのであった。

54年には打率.288、41本塁打、103打点をマーク。
変わらないスカッガーぶりをみせつけるが、
その後は、ふるわず、59年、ジャイアンツで
現役を引退した。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=121710

file.055 Dave STIEB 【デイブ・スティーブ】

2006-01-20 | STU
【3度目の正直】
Dave STIEB

2005年、西武ライオンズの西口が一年間で2度にわたり、
惜しいところでノーヒッターを逃した。
西口は02年にもロッテ相手に
あと一人というところでノーヒッターを逃しており
過去3度にわたり、偉業を達成し損なった事になる。

メジャーリーグにも同じような軌跡をたどった投手がいた。
主にトロント・ブルージェイズで活躍したデイブ・スティーブである。

78年にドラフト5位でブルージェイズに入団したスティーブは
スライダーを武器に79年にはメジャーデビューを果たし
この年、8勝をマーク。
82年には、防御率3.25、17勝をあげ、
サイ・ヤング賞投票で、4位にランクされる活躍を見せるなど、
ブルージェイズで15勝以上6回を含め10回の10勝以上をマークし
チームのエースとして活躍した。
85年には、防御率2.48で、最優秀防御率のタイトルも獲得し、
オールスターには7回出場、
80年代を代表する投手のひとりであった。

1988年、スティーブはシーズン終盤、
2試合続けてノーヒッターの快挙を逃す事になる。
両試合とも9回二死までノーヒットという
非常に惜しい試合であった。
が、1990年ついに女神が
スティーブに微笑みかける。
9月2日のインディアンズ戦でようやく
ノーヒット・ノーラン達成。
またこの年は、防御率2.93、
キャリアハイの18勝をあげ、最高の年となった。

が、スティーブが輝きを放ったのはこの90年が最後で、
翌年から成績を急激に落とし、93年引退。
98年に現役復帰を果たすも、
1勝2敗2セーブの成績に終わった。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=stieb

file.046 Bruce SUTTER 【ブルース・スーター】

2005-12-28 | STU
【元祖SFF】
Bruce SUTTER

【元祖SFF】
Bruce SUTTER

スーターは、71年にドラフト外でカブスに入団、
スプリット・フィンガー・ファーストボールを武器に
76年、防御率2.70、10セーブをマークし
メジャーのキャリアをスタートさせた。
77年、防御率1.34、31セーブと好成績を残すと
79年には防御率2.22、37セーブ、
サイ・ヤング賞を獲得する。

81年からはカージナルスで活躍。
82年には、防御率2.90、36セーブで
チームのリーグ優勝に貢献。
ワールドシリーズでも1勝、2セーブで世界一に貢献。
キャリア最高の年となった。

84年は、防御率1.54に加え、
キャリアハイの45セーブをあげるなど、
安定した投球を続け、
通算で、防御率2.83、68勝、300セーブを記録。
88年に現役を引退した。

リリーバーの殿堂入りが難しいとされる理由のひとつに
登板イニング数の少なさが挙げられるが、
スーターは100イニング以上を5度も記録している。
また、投手の分業制が完全に確率された今、
ゲームを作るセット・アッパーやリリーバーの地位を
より向上させるためにも、スーターのような選手の
殿堂入りは重要な意味を持つと思われる。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=SUTTER

file.040 Willie STARGELL 【ウィリー・スタージェル】

2005-11-24 | STU
【パップ】
Willie STARGELL

64年パイレーツで21本塁打、78打点をたたき出し
レギュラーに定着したスタージェル、
65年は27本塁打、107打点、
66年は33本塁打、102打点をマーする。
67年、68年は調子を崩し、打撃成績もやや伸び悩むが
69年打率.307、29本塁打、92打点と復活、
当時、脂が乗り切っていた
ロベルト・クレメンテとのコンビでチームを牽引した。

特に71年、スタージェルが
リーグ最多の48本塁打を放ち125打点をたたき出せば
クレメンテも.341の高打率をマーク、
チームの世界一に大いに貢献した。

翌72年、クレメンテが無念の死を遂げると、
スタージェルはチームリーダーとしての自覚に目覚める。
もともと誰からも愛されるキャラクターの持ち主であるスタージェルは
いつしかパップ(親父さん)と慕われ、
ファミリーと呼ばれたパイレーツの精神的支柱となっていた。
73年には44本塁打、119打点を打ち、
71年から3年連続の100打点以上をマークする。
さらに、クレメンテの遺志を継ぐかのように
慈善事業にも積極的に取り組み、
74年にはロベルト・クレメンテ賞を受賞している。

79年、39歳のスタージェルは、
打率.281 32本塁打 打点82という特別凄いわけでもない成績ながら、
そのリーダーシップが評価されMVPを獲得。
さらに同年のプレイオフ、2本塁打でMVPを勝ち取ると
ワールドシリーズでは7戦に決勝打を含む3本塁打を放ち、
ここでもMVPに輝き、
合計3つのMVPを獲得する最高のシーズンを送った。

82年、通算2232安打、475本塁打、1540打点の成績を残し引退。
88年には野球殿堂入りを果たしている。

スタージェルは言う――――――――

人生は列車のようなもの。
時に遅く走ることは予測のうちだが、
脱線だけは困る。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=stargell

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