藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原子爆弾と広島市長

2012-07-20 20:45:19 | 社会・経済

昭和22年8月6日 第一回「平和祈念式典」以来、広島市長による「平和宣言」は、歴代市長自らが筆を取り、自らが読み上げてきた。どうも今年の「平和宣言」は違うようである。

松井市長は、学識経験者などによる、起草委員会に委託しそれを読むそうである。

今日、「原爆の子~広島の少年少女のうったえ」の復刊を広島市の手で行って欲しい旨、広島市議会議員に訴えるため、各議員控室に出かけるつもりで出かけたが、最初の議員控室でこの話を聞き、頭の中が真っ白になってしまった。いくら官僚上がりの市長といえども、「平和宣言」まで下請けに書かし、それを棒読みにする予定とは、とは思いもしなかった。議員の中からも批判が出ているようである。当然であろう。これが市民の耳に入ったとき、市民がどの様に反応するか、見てみたい気もする。

歴代の市長は、それぞれ出来不出来があったが、それぞれに個性があり、訴える物があった。この市長には、「核兵器廃絶と世界平和」を訴える気持ちなど、微塵も無いことを知らされた。12万2338人の、原爆犠牲者の命の重ささえ理解できない市長など、直ぐに自ら辞任すべきである。それが出来ないなら、こんな市長は、リコールすべきである。

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原子爆弾と石田 明

2012-07-19 18:34:33 | 社会・経済

私の母校には世に誇れる人物が多く排出している。変わり者では、吉田卓郎や、吉川浩二、文化勲章受章者では、画家の平山郁夫などいるが、私はこの人物こそ、母校の精神を最も代表した人物であろうと思う。名は「石田 明」平凡な名であるが、広島の被爆者の、今日の救済制度が存在するに当たって、特筆すべき人物である。世に言う「白内障原爆訴訟」を国に対し起こした人物である。十有余年にわたる裁判で勝利を勝ち取り、被爆者の原爆症認定制度の見直しを最高裁判所が命じた裁判である。

氏は現在の広島市安佐北区高陽町狩留家の生まれである。二歳年上の兄と共に市内電車の中で被曝した。旧制中学一年生の時である。

電車の中は、大変込んでいて、大人の中で兄弟は埋もれるがごとくであったがため、一命をとりとめた。電車の中は地獄以上であったと語られていた。兄弟は、急性放射能疾患により、一年に及ぶ闘病生活のうえ、兄は亡くなり次男 「明」 氏のみ生き残った。戦後、代用教員をしながら夜学で大学を卒業され、私が氏と出会ったのは、「白内障原爆訴訟」の勝利されて間もないころであった。私が安佐北区に転入してからである。被爆者の会合で面識を得た。物静かな方で、何処に国を相手に裁判を、起こす力があるのかと思うほど、寡黙でありしかし、一転教育について語り始めると、情熱がほとばしり出てくるのだった。

私の娘は、私に似たところがあり、何事もやるのなら徹底的にやるところがある。中学三年生の時、生徒会の役員に皆から推薦されたが、同じやるなら副会長をやると、自ら立候補し当選してしまった。その一ヵ月後、生徒会長が、父親の転勤で転校して行き、実質的には生徒会長をやる事になった。加えて、中学生だけの、子供のリーダー養成グループを立ち上げ、「チョップ・スティクス」と名付け、地元公民館で活動を始めた。

当時、広島市の公民館は、平和学習の予算を持っていた。しかし、よい企画が無く、消化不良のままで執行される事は、稀であったのに娘は目をつけ、「チョップ・スティクス」で「平和学習」をやると言い出した。それを聞いた当時の館長が大変乗り気になり、企画書を出せという。お鉢が父親である私に回ってきた。

学習場所を「三滝寺」と決めた。八月六日、多くの被爆者が傷つきながらも「三滝寺」目指して逃れてきた歴史的事実が存在する場所で、一泊二日の宿泊研修を企画してやった。「三滝寺」の佐藤 天心 住職は、以前から教えを受けてきた旧知の間柄なので、快諾してくれた。次に講師を「うましめんかな」の詩で知られた、栗原 貞子氏を訪問し、夫婦でお願いした。これも快諾いただいた。締めくくりに、子供たちに一番解り易く「平和」語ってくれるであろう石田 明氏を訪ねお願いした。氏は当時教え子から懇願され、県議会議員になられ、大変忙しく、特に、「八月六日」が近づくと多忙を極める。私が訪問したときも、NHKの記者が訪ねてきた。そうした中で、子供たちの意図する所を語ったところ、NHKまでも取材させてくれとのことになってしまった。こうして娘たちの「平和学習」は、三十分番組で八月四日に放送される事になった。

一泊二日の「平和学習」を終えた子供たちは、一夜にして大人の階段を数段駆け上っていた。

当時の協力していただいた人々は、何れも今年故人となられた。 合掌。

最後に、石田 明氏の残された一文を掲載しておきます。

ぜひお読みください。

1945年8月6日。兄と私は八丁堀(爆心地より0.7キロ地点)の福屋の近くで路面電車に乗っているとき、凄まじい閃光に目がくらみました。その時何千ボルトの雷に打たれたように感じました。それから真っ暗になり、そして目にしたのは兄と私の上に覆い被さっている血まみれの死体でした。私たちはなんとか意識を取り戻し、死体を押しのけようとしました。路面電車からはなかなか出れず、真っ暗で自分の目の前もほとんど見えませんでした。

夜明けぐらいの明るさになるまで、大惨事が起こったことに気づきませんでした。広島市はすっかり様変わりし、家という家はあっという間に壊れていました。むこうがわに二葉山が見え、また建物の後ろにあった瀬戸内海の島も見えました。さっきまでたくさんの人がいたのに、ふと見渡すと人影がありませんでした。人々は炭のように真っ黒焦げになり、石のように硬くなってしまっているのです。それが人間の体とは信じられませんでした。それらはいくつにも積み重なり瓦礫の山に覆われていました。

私は呆然としながら逃げ出しました。それでもやはり、あまりに驚いて口もきけませんでした。200メートル先に川の土手があり、土手の石段ではじめて生きている人を見ました。その人は全身焼けただれていました。彼女は真っ赤に焼けただれた胸に乳をやるかのように赤ん坊をしっかり抱きしめていました。赤ん坊の名前を何度も何度も呼び、「死んじゃだめ。死なないで。」と叫びました。助けてあげたかったけど、火から逃れるため、そこから立ち去らざるを得ませんでした。

毎年8月6日が近づくとその母子を思い出し、その土手を通るとき無意識に手を合わせるのです。その後崩れた屋根を越え、京橋、猿猴通りを越え、なんとか逃げました。私たちのようにけがも火傷もない様子を見ると多くの人が「助けて!助けて!」と訴えました。間もなく付近は火の海となりました。壊れた屋根の下敷きになった人は生きたまま炎で焼かれました。急いでそこから逃げようとすると、女性が私の足をつかんで「お願い!子どもを助けて!」と叫びました。

燃え盛る炎の中を死ぬほど熱く感じながら、人々の助けを求める叫び声を振り切って逃げました。

その時屋根と瓦礫の下敷きとなって死んだ母子の叫び声は決して私の心から消えることはありません。

間もなく私たちは爆心地から1.9キロほどの広島駅に着きました。ひどい火傷をした人々があちこちから逃げる場所をさがしさまよいながら群れをなして熱さのあまりに泣き叫んでいました。服や着物はみな黒く焼け焦げ、皮膚はただれてまるでビニール袋のようにとけて体から垂れ下がっておりました。爆風で目玉が飛び出て目が見えなくなった子どももいました。その子は「かあちゃん、ぼくをどっかへつれてって!」と叫び、あてもなくよろよろと歩いた後、倒れ死にました。

夕方には私たちは広島駅の裏の東練兵場に着きました。空港のように広い練兵場にはものすごい数の火傷をした人やけがをした人が横たわっていました。焼け付くような日差しで気が遠くなっていましたが、次々と人が死んでいく様や「熱い!助けてくれ。」「水をくれ!水をくれ!」という悲痛な叫びは決して忘れないでしょう。

その夜私たちは戸坂駅に着きました。私はひどい吐き気がして倒れてしまいました。8月6日の夜遅く、知り合いが家に泊まらせてくれました。その家も火傷を負った人でいっぱいでした。私は夜通し吐き戻しうめいていました。

翌日やっといなかにある私たちの家に着きました。両親は私たちが無事に帰ってきたことをとても喜びました。しかし8月15日を過ぎて私は病気に冒されました。髪は抜け、唇はひび割れ、下血しました。その上全身に斑点まで現れました。このような状態になり、ラジオで終戦を伝える天皇の声明を聞くときも立ち上がることができませんでした。しかし、私はその声明を受け入れることはできませんでした。なぜなら日本は決して敗れることはなく、神風が勝利に導いてくれると信じていたからです。日本は敗けたのです。毎日毎晩私は血を吐きつづけました。
9月2日私よりもずっと調子のよかった兄が「父さんと母さんをたのむ。」と言い残し安らかに息をひきとりました。兄の体はだんだん冷たくなり亡くなりました。兄の葬式が済んでから私は意識を失いました。意識が戻ったときはすでに半年が過ぎていました。もう1946年2月末になっていました。だいぶ経ってから、母が置いた寝床のわきの丸い手鏡で自分を見ると、なにかがキラキラと光っていました。突然私は大声で母を呼び「母さん、髪の毛が生えた!」と叫びました。母は急いでやってきて私を抱きしめ「あんたは生き返ったんだよ!生き返ったんだよ!」と大喜びしました。私の命はずっと夜通しそばについてくれた母のおかげで生きながらえました。それから一年後私は赤ん坊のようによちよちと歩くことができるようになりました。私の人生は再び始まったのです。

戦争が終わって50年以上経ちました。この間に両目が病に冒されました。原爆のために白内障になり、目が見えなくなりました。最近、両目に人工のレンズを入れる手術をし、現在視力は回復しています。

何度も入院をし、現在なんとか生きています。私の第二の人生は1945年8月6日に始まったのです。かろうじて死から逃れることができました。生き残った者として、核兵器は人類を滅亡させると確信しています。ウランでつくられた爆弾により多くの人々の命が失われました。広島は原子砂漠に変わってしまいました。現在世界に2万発の原爆があるといわれています。もし核戦争が起こり原爆が投下されたら、地球は30分で滅亡してしまうでしょう。 

今私たちは軍人が単純なミスを犯したら、いつでもどこでも、この場でさえも爆弾が落ちる可能性があるという恐ろしい時代に生きているのです。私たちは爆弾や核兵器を廃絶しなければなりません。そうすれば核戦争は決して起こらないのです。

私は、戦争や核兵器のない平和な世界をつくっていく責任が皆さんにあると訴えたいと思います。そうすれば安心して暮らせるのです。平和な世界をつくりあげるまで1945年8月6日を決して忘れてはいけません。今私たちは広島の地獄を心に刻み付け、この悲劇は二度と繰り返さないと決心しなければなりません。私たちのさけび「ノーモア ヒロシマ、ノーモアナガサキ」を広めましょう。

最後に、私は残りの人生をヒロシマの生証人を決して絶やさないことに捧げると、次世代の皆さんに誓います。 

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原子爆弾と広島の青年と子供たち

2012-07-18 14:25:15 | 社会・経済

Photo 「原爆の子の像」と手前が「平和の灯火」である。

「原爆の子の像」建設には、一人の青年と、二歳で被爆し、その十年後、「千羽の折鶴」を薬紙で折りながら白血病で死んでいった佐々木貞子さんの同級生の出会いからドラマは、始まった。

1955年11月8日地元紙の新聞に「貞子」さんの死が報じられた。その記事を読んだ、広島市青年団連合会に所属していた一青年が、幟町中学校の校門の前で、貞子さんの同級生に「貞子さんを始め原爆で亡くなった子供の霊を慰める石碑を作ろう。」と呼びかけた。それに答えたのが、八人の同級生であった。その八人を中心に「慰霊碑設置活動」が始まった。その月12日に開かれた、「全日本中学校長会」の会場入り口で「貞子さんの同級生八人」による協力を呼びかけるビラ配りがおこなわれ、全国の中学校から寄付金が寄せられた。12月に入り、広島市内の小、中、高校へも活動の呼びかけがあり、「広島平和をきづく児童、生徒の会」が立ち上げられた。私が小学校3年生のときである。「一円募金」がスタートした。廃品回収や、街頭募金が行われ、年末までに540万円の募金が集められた。募金の応募者の中には、「湯川秀樹博士」の名もあった。年が明けて、各新聞に取り上げられ、全国津々浦々の小、中、高校の生徒児童に運動の輪が広がり、参加校は、三千校をゆうに超える数になった。

製作にあたっては、東京芸大教授「菊池一雄」の協力があり、塔の上に立つ「折鶴を捧げ持つ貞子像」と塔の中に吊るされた「銅鐸状の鐘と金色の折鶴」が、「湯川秀樹博士」から送られた。

塔の足元の石碑には、「これは僕らの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」との碑文が刻まれている。ここにも、名も無い一人の人間の、平和を願う優しい気持ちが、大きな輪を作り出した現実を、わたしは「1958年5月5日こどもの日」の除幕式で目の当たりにした。除幕式は市内の小、中、高校の生徒児童が、元安橋のたもとを埋め尽くし、「佐々木貞子」さんの同級生により涙の中で序幕された。Photo_2

これらの鐘は広島市役所立替工事の際、行方不明となったが、「湯川秀樹博士」の遺族から二代目の「鐘と金色の折鶴」が再度寄贈された。その後、発見され初代「鐘と金色の折鶴」は平和資料館の正面に保管されている。この鐘は、風が吹くと折り鶴が風に泳ぎ、鐘を鳴らす様に作られている。

 昨日久しぶりの晴天の中、45年ぶりにゆっくりと「平和」を」祈念してきた。当時を思い出して、涙が止まらず、周りの修学旅行や、平和学習で訪れた子供たちに変な顔で見られたが、この像が出来上がるまでに、幾人の尊い協力があった事実が何処まで子供たちに伝わるであろうかと思わず考え込んだ。

元安川を挟んだ反対側、原爆ドームの南には「建物疎開」に動員されて被爆死した旧制中学、旧制師範学校を始めとする犠牲者の慰霊もある。この慰霊碑の建設についてもいつに日にか、その建設に至った経緯と協力された方たちを紹介したいと思う。昨日の広島市議会で、佐伯区選出の清水議員が、「建物疎開に動員された一般市民の慰霊碑」の保存について質問された。市長の消極的な態度に腹立たしさがつのった。

これらの慰霊碑は多くが昭和30年代にそれぞれの町村から動員され、広島で被曝死した犠牲者を追悼するために建てられたが、長い年月の間に関係者の遺族も亡くなりまたその子供たちも他の都市に移り住み維持できなくなってきた。これを広島市で一括して保存しようという提案であったが、市長の考えは違うようである。今後この問題は、次の市長を誰にするかの、「踏み絵」にすべく行動を開始することとした。

この場をお借りして皆さんにお願いがあります。

旧制広島文理科大学教授 長田 新 氏が自らも被曝しながら、原爆投下直後の1951年4月から六月にかけて広島市内の小、中、校、似島学園を、教え子とともに原稿用紙を持って訪ね、子供たちに手記の依頼をした。その結果、1,175名の手記を得て、教え子により清書された。それを知った岩波書店の吉野源三郎編集長により雑誌「世界」にその一部か掲載された。それがきっかけとなり、手記のうち105篇に、長田 新氏の序文を付けて「原爆の子」として岩波書店から出版された。その序文の中に漫画「はだしのゲン」の作者中沢啓治氏の手記が引用されている。この書は世界14カ国で出版されたが現在絶版となっている。わたしも持っていたが、当時の物は紙質が悪く、持ちきれなく処分してしまった。一昨年より古書店を始めいろいろな方法で捜し求めているが未だに入手できていない。この本こそ新藤兼人監督による「原爆の子」の映画の原点であるし、「原爆の子の像」建設の原点になるものだけに永久に保存できる方法を考えたいと思っている。広島市にも保存されていない。もしお譲りいただける方があればご一報ください。また、子供たちから集められた1,175篇の清書された原本の所在地をお知りの方がありましたらお知らせください。

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原子爆弾と浜井信三広島市公選初代市長

2012-07-16 09:07:31 | インポート

浜井信三氏が、広島市の初代公選市長になった経緯は、以前皆様にお知らせしたので省略する。

この市長の凄さは、周りの人を大きな渦に巻き込んでいく。巻き込まれた人間の一人に私もいる。

1948年広島の青年たちと、常に語り合っていた浜井信三は、一人の青年の言葉に敏感に反応した。「復興が、ただ単なる復興では意味が無い。軍都広島ではなく、世界に核廃絶と、平和を呼びかける都市に作り変えていくべきだ。」との言葉であった。この言葉を発した彼は、後に広島市議会議員になる。浜井信三はすぐに行動に移す。時のGHQや、外国人記者クラブや、政府をはじめ各政党に「特別立法請願運動」をはじめる。手助けしたのは、田中二郎東大教授や、参議院議事部長 寺光忠氏などである。法案は、参議院議事部長寺光忠氏が起草したと言われている。「広島平和記念都市建設法」と呼ばれる、特定地域のみに限定される法律である。因みに参議院議事部長寺光忠氏は、広島出身であった。1949年5月、国会において。「広島平和記念都市建設法」が、可決された。同年7月7日日本で初めて、日本国憲法第95条による住民投票が実施され、過半数を大幅に超える支持を得て、1949年8月6日に公布、同日施行される運びとなった。この時から浜井信三市長の脳裏の仲には、丹下健三氏のことが在ったという。平和大通り(100m道路)、平和記念公園、原爆ドームの保存、これらは青年達と、夜を徹して夢を語り合ったことを実現するため、昭和42年市長を引退するまで、命をかけてまい進された。1968年2月26日 市長を引退された後、苦楽を共にして来た嘗ての仲間から参議院選挙に担ぎ出され、その総決起集会の席上で突然倒れ、帰らぬ人となった。一市役所職員から青年に担ぎ出され、「国際平和文化都市広島」建設に人生をなげうった壮絶な死であった。私が23歳、なぜかその席に私はいた。

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原子爆弾と作家吉川英治

2012-07-15 17:19:56 | 日記・エッセイ・コラム

作家吉川英治は、戦後しばらく作家活動を休止していた。作家活動を再開するに当たり、氏は戦時中に軍に協力したことに対する自戒の念から、その作品は独自の解釈による「平家物語」とした。それと同時に、氏は広島の原爆孤児に独自の奨学金制度を作り、孤児の進学の手助けを始めた。この事はあまり社会に知られていない。私も知らなかったが、昭和四十年夏、一人の政治家から聞かされ、その事実を知り、その後吉川英治氏の全集を求め読み漁り、広島出身の井伏鱒二と共に、常に私の本棚に置れた。その政治家とは、文部大臣や衆議院議長を歴任された灘尾弘吉氏である。灘尾弘吉氏について語る前に、私は常にすばらしい人に巡り合う「運」持っているようだ。小学校時代五年生から新聞配達を始めた。その新聞販売店で一番遠いお客様が、森戸辰夫広大学長宅であった。店から4km。中学生が担当していたが、その場所は鉄道自殺の名所で、配達員が直ぐに止めてしまう。森戸辰夫氏は文部大臣も経験された方で、今日の広島大学を総合大学に育て上げた方である。毎朝五時に新聞を届けると、三百六十五日縁側で新聞を待っておられて、「ご苦労様」と声をかけて頂いていた。著名な方だとは五年生の私は知る由も無く、三年間通い続けた。当時新聞の休みは無かったように思うが、記憶違いだろうか。正月元旦には、必ず「お年玉」をいただいた記憶がある。私立の中学校に合格した時は、何処からかお聞きになられたようで、「おめでとう」と祝いの言葉をかけられた事を記憶している。同級生に弁護士の弘中淳一郎、歌手の吉田卓郎がいる。中学二年生に進級のとき、先生は広島大学を退官され、東京に帰られることになった。その時所蔵されていた本の中から、四十冊程の蔵書を私に届けていただいた。当時の本は紙質が悪く、大切にしていたが、全てバラバラとなり今は手元に一冊も無い。当時の私立の中学校の校長は、広島大学を定年退官された先生で、今考えると、どうも私の合格は、裏があるような気がしてならない。入学時から、校長からよく声をかけられた事があり、何故校長は自分のことを知っているのか不思議に思っていた時期があった。さて話を吉川英治氏に戻す。衆議院議員の灘尾弘吉氏に最初に会った事は、以前このブログで書いたことがある。国内研修生として福岡、熊本の青年達と交流した報告書を一部、地元議員事務所に持参したときに始まる。当時文部大臣であった。名前を聞かれ、名詞を出すと「少ない苗字だが出身は何処か」と聞かれ、「佐伯郡宮内です」と答えると、省吾という人間が身内にいるかと聞かれた。私の叔父であると答えると、「元気にしているか、彼には酷い目にあった」と言われ、経緯を話し始められた。氏が始めて衆議院に立候補されて時、叔父は宮内村の職員で、労働組合の幹部であった。その宮内村の村長の招きで、朝礼に挨拶に行ったところ、叔父が猛烈に村長に抗議したのである。曰く「これは選挙違反である」。同調したのが後の、廿日市市長 山下三郎氏である。折角の挨拶はとんでもない修羅場となり、今でもはっきり覚えているとの事であった。しかし、それがかえって私には、幸運をもたらしてくれた。その時の話の中で、吉川英治氏の原爆孤児に対する支援活動の話を聞いたのである。叔父と、灘尾弘吉との関係修復は五年後、私が中に立ち修復された。もっとも、当時私の叔父は河本敏夫氏の、後援会の中心的役割を担っており、若き時代の中での出来事を笑ってやり取りできる時間が過ぎていた。

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