藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原子爆弾と広島の青年と子供たち

2012-07-18 14:25:15 | 社会・経済

Photo 「原爆の子の像」と手前が「平和の灯火」である。

「原爆の子の像」建設には、一人の青年と、二歳で被爆し、その十年後、「千羽の折鶴」を薬紙で折りながら白血病で死んでいった佐々木貞子さんの同級生の出会いからドラマは、始まった。

1955年11月8日地元紙の新聞に「貞子」さんの死が報じられた。その記事を読んだ、広島市青年団連合会に所属していた一青年が、幟町中学校の校門の前で、貞子さんの同級生に「貞子さんを始め原爆で亡くなった子供の霊を慰める石碑を作ろう。」と呼びかけた。それに答えたのが、八人の同級生であった。その八人を中心に「慰霊碑設置活動」が始まった。その月12日に開かれた、「全日本中学校長会」の会場入り口で「貞子さんの同級生八人」による協力を呼びかけるビラ配りがおこなわれ、全国の中学校から寄付金が寄せられた。12月に入り、広島市内の小、中、高校へも活動の呼びかけがあり、「広島平和をきづく児童、生徒の会」が立ち上げられた。私が小学校3年生のときである。「一円募金」がスタートした。廃品回収や、街頭募金が行われ、年末までに540万円の募金が集められた。募金の応募者の中には、「湯川秀樹博士」の名もあった。年が明けて、各新聞に取り上げられ、全国津々浦々の小、中、高校の生徒児童に運動の輪が広がり、参加校は、三千校をゆうに超える数になった。

製作にあたっては、東京芸大教授「菊池一雄」の協力があり、塔の上に立つ「折鶴を捧げ持つ貞子像」と塔の中に吊るされた「銅鐸状の鐘と金色の折鶴」が、「湯川秀樹博士」から送られた。

塔の足元の石碑には、「これは僕らの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」との碑文が刻まれている。ここにも、名も無い一人の人間の、平和を願う優しい気持ちが、大きな輪を作り出した現実を、わたしは「1958年5月5日こどもの日」の除幕式で目の当たりにした。除幕式は市内の小、中、高校の生徒児童が、元安橋のたもとを埋め尽くし、「佐々木貞子」さんの同級生により涙の中で序幕された。Photo_2

これらの鐘は広島市役所立替工事の際、行方不明となったが、「湯川秀樹博士」の遺族から二代目の「鐘と金色の折鶴」が再度寄贈された。その後、発見され初代「鐘と金色の折鶴」は平和資料館の正面に保管されている。この鐘は、風が吹くと折り鶴が風に泳ぎ、鐘を鳴らす様に作られている。

 昨日久しぶりの晴天の中、45年ぶりにゆっくりと「平和」を」祈念してきた。当時を思い出して、涙が止まらず、周りの修学旅行や、平和学習で訪れた子供たちに変な顔で見られたが、この像が出来上がるまでに、幾人の尊い協力があった事実が何処まで子供たちに伝わるであろうかと思わず考え込んだ。

元安川を挟んだ反対側、原爆ドームの南には「建物疎開」に動員されて被爆死した旧制中学、旧制師範学校を始めとする犠牲者の慰霊もある。この慰霊碑の建設についてもいつに日にか、その建設に至った経緯と協力された方たちを紹介したいと思う。昨日の広島市議会で、佐伯区選出の清水議員が、「建物疎開に動員された一般市民の慰霊碑」の保存について質問された。市長の消極的な態度に腹立たしさがつのった。

これらの慰霊碑は多くが昭和30年代にそれぞれの町村から動員され、広島で被曝死した犠牲者を追悼するために建てられたが、長い年月の間に関係者の遺族も亡くなりまたその子供たちも他の都市に移り住み維持できなくなってきた。これを広島市で一括して保存しようという提案であったが、市長の考えは違うようである。今後この問題は、次の市長を誰にするかの、「踏み絵」にすべく行動を開始することとした。

この場をお借りして皆さんにお願いがあります。

旧制広島文理科大学教授 長田 新 氏が自らも被曝しながら、原爆投下直後の1951年4月から六月にかけて広島市内の小、中、校、似島学園を、教え子とともに原稿用紙を持って訪ね、子供たちに手記の依頼をした。その結果、1,175名の手記を得て、教え子により清書された。それを知った岩波書店の吉野源三郎編集長により雑誌「世界」にその一部か掲載された。それがきっかけとなり、手記のうち105篇に、長田 新氏の序文を付けて「原爆の子」として岩波書店から出版された。その序文の中に漫画「はだしのゲン」の作者中沢啓治氏の手記が引用されている。この書は世界14カ国で出版されたが現在絶版となっている。わたしも持っていたが、当時の物は紙質が悪く、持ちきれなく処分してしまった。一昨年より古書店を始めいろいろな方法で捜し求めているが未だに入手できていない。この本こそ新藤兼人監督による「原爆の子」の映画の原点であるし、「原爆の子の像」建設の原点になるものだけに永久に保存できる方法を考えたいと思っている。広島市にも保存されていない。もしお譲りいただける方があればご一報ください。また、子供たちから集められた1,175篇の清書された原本の所在地をお知りの方がありましたらお知らせください。

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