藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原子爆弾と 「仁義なき戦い」

2012-07-29 22:07:38 | インポート

旧費本銀行広島支店

Photo_2 日本銀行広島支店は、被爆後8月8日には業務を再開させた。

昭和四十年代後半まで、この建物の正面階段には、原子爆弾投下時に腰を下ろし休んでいた人間の、人型が写真のネガフィルムの様に焼き付けられていた。

終戦と同時に、広島市東部から北部、西部と半円形に走る山陽本線沿いの、3駅の周辺に闇市が立った。広島駅は、呉線、宇品線(戦時中、日本陸軍の多くはこの線を使用し、宇品港から南方や、大陸に兵を送り出していた)、芸備線、山陽本線の基幹駅で、当然に大量の人間が乗り降りする。山陽本線を西に進むと、横川駅で、可部線につながり、旧安佐郡、高田郡の玄関口となり、さらに西に進むと己斐駅(現西広島駅)と続き、この駅は、広島電鉄宮島線、市内電車の基点であった。

この三駅が、広島では重要な位置を占め、当然に利用客も多く、闇市が形成されるべく条件を満たしていた。無法地帯を取り仕切る人物が自然発生的に現れ、通称「岡組」と呼ばれ、官憲と、GHQと、闇商人との間を遮り、闇取引が出来るように環境を作っていた。その本部を、横川駅に置き、東西の広島駅、己斐駅を取り仕切った。

岡組長の縁戚の何人かを、私の父が原爆直後、周辺の救護所から見つけ出したのが縁で、原爆で職を失った父は、闇米の運搬で食いつないだと言う事があった。私の父の話は後日この場で記述したいと思う。

この「岡組」が、昭和30年代中半まで、広島の暗部を取り仕切った。昭和27年私小学一年生の秋、この「岡組」とGHQの闇物資取締りの米兵との間で、己斐駅前闇市場で銃撃戦が繰り広げられた。「岡組」は、武装していたのである。この事件のときも私は不思議と遭遇したのです。

「パーン」「パーン」「パーン」「パーン」。

何が起きたのか私には理解できませんでした。その時、「タナカ」喫茶店の主人が店から飛び出してきて、私を店の中へ引きずり込んでくれた。

昭和30年代中半、「岡組」組長が亡くなり、その跡目争いが起こった。世に言う「仁義なき戦い」である。

この戦いは、一人のずば抜けた人間と、その行動が理解できない者の集団との間で発生した。「打越組」対「共政会」の抗争の始まりは現在私が住む、旧可部町の旅館「松副荘」から始まった。「松副荘」に宿泊中の「共政会」幹部が、「打越組」に大浴場で襲撃され確か二人が即死状態であったように記憶しているが事実はどうか確たい方は、DVDの「仁義なき戦い」でもご覧ください。そのままの事が、広島を中心に起きたのです。当然この組織の構成員の中には、原爆孤児が多く含まれた。両親をなくし、就職先も無い中で、こういった組織は不幸な人間を吸収して巨大化する。

この抗争は、昭和60年代まで続くが、この抗争が広島の建設土木業界や、政界に及ぼした影響は大きい。近年になり、やっと「暴対法」で少しずつ関係正常化が進んでいるように見えるが、先が見えない「官」対「暴力団」の戦いになっている。

当然に平和運動にも影響を及ぼした。「共政会」は、表面上政治結社を名乗ったからである。

広島では、平和運動が3つに分類され、それがさらに2つに分類される。

まず、左派、中道、右派。このそれぞれが、親「共政会」。 反「共政会」と分けられる。こうした複雑さから市民からは、遊離した平和運動とみられ、金儲けのための「平和運動」と見られがちとなり、行動が難しいのです。広島の平和運動の分裂が、こうした広島の持つ特殊性を根に持ち、起こったことを理解していただきたいと思います。

ただ広島では、長崎伊藤市長のような受難は過去発生しませんでした。ただし、7年前県会議員選挙後、一人の当選議員が襲われました。そして右手の指を切断されましたが、それは個人的恨みであり、政治的背景はありませんでした。

その中で私はいつも、ノンポリです。6グループと対等に話し、対等に行動しています。


原子爆弾と火葬場

2012-07-29 00:35:34 | 社会・経済

今日は何も書く気力がなく、暑さに参っていました。

Photo 広島市職員の慰霊碑です。

                                                                                          

                                                                                              

                                                                                       

しかし先ほど、

http://pub.ne.jp/20071203MOTOTO/ みどりさんのブログを拝見し、どうしても書かなければ成らない気持ちが起こりました。写真の「火葬場に立つ少年」の姿を見たからです。

私の母校、広島市立己斐(こい)小学校(当時は国民学校)は、原爆による消失を免れた数少ない学校でした。しかし、生徒や、教師の中には負傷した者も多く居ました。その多くの負傷は、爆風によるガラスの破片によるものだったようです。(実際の上級生の被爆状況は、別の機会に記載したいと思っています)

校舎は倒壊を免れて、被爆者の救護所となり、地獄のような有様であったようです。連日多くの死者が出る為に、己斐町の火葬場では処理しきれず、校庭に溝を掘り、教室の腰板を壊し、死者を火葬しました。その結果、私が入学した時分、昭和27年当時も、強い雨が降ると、校庭から遺骨が出てきました。

出てきた遺骨は、講堂の裏に掘られた穴に入れておかれました。子供たちは当時恐怖感などなく、当たり前のようにそれを行っていました。なぜそのような事になったのか。

答えは簡単でした。家族が全員死亡しているか、又は一家の主人が戦場におり、家族の安否など確認できなかったのです。

その結果、多くの遺骨が眠ったままになりました。中には、氏名など確認されたものも多く有りましたが、遺骨の引き取り手が見つからない事の方が多かったようです。

現在も平和公園に眠る、引き取り手の居ない遺骨名簿が公開されていますが、その数は減ることが有りません。

昭和30年の「夏休み」に学校が、立ち入り禁止になりました。例年は、8月6日に全校生徒による原爆犠牲者慰霊祭を学校独自に行っていましたが、中止となりました。

遺骨の発掘作業が行われたのです。その後、雨が降っても遺骨が出てくることは無くなりました。

その己斐小学校の校庭を取り囲むように、桜が植えられていましたが、広島市内有数の、桜の見所でした。誰言うでもなく「死体の養分できれいに咲く」と言っていましたが、あながち間違いでは無かったようです。と言うのも、あまりにも多くの死者に対し、教室の腰板などでは火葬が間に合わなく、暑い夏の間、死体は一時的に、桜の木下の木陰に置かれていたそうです。

戦争が引き起こす悲劇とは、計り知れないものが存在するのだと、この年になり強く感じるようになりました。