藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原子爆弾と石田 明

2012-07-19 18:34:33 | 社会・経済

私の母校には世に誇れる人物が多く排出している。変わり者では、吉田卓郎や、吉川浩二、文化勲章受章者では、画家の平山郁夫などいるが、私はこの人物こそ、母校の精神を最も代表した人物であろうと思う。名は「石田 明」平凡な名であるが、広島の被爆者の、今日の救済制度が存在するに当たって、特筆すべき人物である。世に言う「白内障原爆訴訟」を国に対し起こした人物である。十有余年にわたる裁判で勝利を勝ち取り、被爆者の原爆症認定制度の見直しを最高裁判所が命じた裁判である。

氏は現在の広島市安佐北区高陽町狩留家の生まれである。二歳年上の兄と共に市内電車の中で被曝した。旧制中学一年生の時である。

電車の中は、大変込んでいて、大人の中で兄弟は埋もれるがごとくであったがため、一命をとりとめた。電車の中は地獄以上であったと語られていた。兄弟は、急性放射能疾患により、一年に及ぶ闘病生活のうえ、兄は亡くなり次男 「明」 氏のみ生き残った。戦後、代用教員をしながら夜学で大学を卒業され、私が氏と出会ったのは、「白内障原爆訴訟」の勝利されて間もないころであった。私が安佐北区に転入してからである。被爆者の会合で面識を得た。物静かな方で、何処に国を相手に裁判を、起こす力があるのかと思うほど、寡黙でありしかし、一転教育について語り始めると、情熱がほとばしり出てくるのだった。

私の娘は、私に似たところがあり、何事もやるのなら徹底的にやるところがある。中学三年生の時、生徒会の役員に皆から推薦されたが、同じやるなら副会長をやると、自ら立候補し当選してしまった。その一ヵ月後、生徒会長が、父親の転勤で転校して行き、実質的には生徒会長をやる事になった。加えて、中学生だけの、子供のリーダー養成グループを立ち上げ、「チョップ・スティクス」と名付け、地元公民館で活動を始めた。

当時、広島市の公民館は、平和学習の予算を持っていた。しかし、よい企画が無く、消化不良のままで執行される事は、稀であったのに娘は目をつけ、「チョップ・スティクス」で「平和学習」をやると言い出した。それを聞いた当時の館長が大変乗り気になり、企画書を出せという。お鉢が父親である私に回ってきた。

学習場所を「三滝寺」と決めた。八月六日、多くの被爆者が傷つきながらも「三滝寺」目指して逃れてきた歴史的事実が存在する場所で、一泊二日の宿泊研修を企画してやった。「三滝寺」の佐藤 天心 住職は、以前から教えを受けてきた旧知の間柄なので、快諾してくれた。次に講師を「うましめんかな」の詩で知られた、栗原 貞子氏を訪問し、夫婦でお願いした。これも快諾いただいた。締めくくりに、子供たちに一番解り易く「平和」語ってくれるであろう石田 明氏を訪ねお願いした。氏は当時教え子から懇願され、県議会議員になられ、大変忙しく、特に、「八月六日」が近づくと多忙を極める。私が訪問したときも、NHKの記者が訪ねてきた。そうした中で、子供たちの意図する所を語ったところ、NHKまでも取材させてくれとのことになってしまった。こうして娘たちの「平和学習」は、三十分番組で八月四日に放送される事になった。

一泊二日の「平和学習」を終えた子供たちは、一夜にして大人の階段を数段駆け上っていた。

当時の協力していただいた人々は、何れも今年故人となられた。 合掌。

最後に、石田 明氏の残された一文を掲載しておきます。

ぜひお読みください。

1945年8月6日。兄と私は八丁堀(爆心地より0.7キロ地点)の福屋の近くで路面電車に乗っているとき、凄まじい閃光に目がくらみました。その時何千ボルトの雷に打たれたように感じました。それから真っ暗になり、そして目にしたのは兄と私の上に覆い被さっている血まみれの死体でした。私たちはなんとか意識を取り戻し、死体を押しのけようとしました。路面電車からはなかなか出れず、真っ暗で自分の目の前もほとんど見えませんでした。

夜明けぐらいの明るさになるまで、大惨事が起こったことに気づきませんでした。広島市はすっかり様変わりし、家という家はあっという間に壊れていました。むこうがわに二葉山が見え、また建物の後ろにあった瀬戸内海の島も見えました。さっきまでたくさんの人がいたのに、ふと見渡すと人影がありませんでした。人々は炭のように真っ黒焦げになり、石のように硬くなってしまっているのです。それが人間の体とは信じられませんでした。それらはいくつにも積み重なり瓦礫の山に覆われていました。

私は呆然としながら逃げ出しました。それでもやはり、あまりに驚いて口もきけませんでした。200メートル先に川の土手があり、土手の石段ではじめて生きている人を見ました。その人は全身焼けただれていました。彼女は真っ赤に焼けただれた胸に乳をやるかのように赤ん坊をしっかり抱きしめていました。赤ん坊の名前を何度も何度も呼び、「死んじゃだめ。死なないで。」と叫びました。助けてあげたかったけど、火から逃れるため、そこから立ち去らざるを得ませんでした。

毎年8月6日が近づくとその母子を思い出し、その土手を通るとき無意識に手を合わせるのです。その後崩れた屋根を越え、京橋、猿猴通りを越え、なんとか逃げました。私たちのようにけがも火傷もない様子を見ると多くの人が「助けて!助けて!」と訴えました。間もなく付近は火の海となりました。壊れた屋根の下敷きになった人は生きたまま炎で焼かれました。急いでそこから逃げようとすると、女性が私の足をつかんで「お願い!子どもを助けて!」と叫びました。

燃え盛る炎の中を死ぬほど熱く感じながら、人々の助けを求める叫び声を振り切って逃げました。

その時屋根と瓦礫の下敷きとなって死んだ母子の叫び声は決して私の心から消えることはありません。

間もなく私たちは爆心地から1.9キロほどの広島駅に着きました。ひどい火傷をした人々があちこちから逃げる場所をさがしさまよいながら群れをなして熱さのあまりに泣き叫んでいました。服や着物はみな黒く焼け焦げ、皮膚はただれてまるでビニール袋のようにとけて体から垂れ下がっておりました。爆風で目玉が飛び出て目が見えなくなった子どももいました。その子は「かあちゃん、ぼくをどっかへつれてって!」と叫び、あてもなくよろよろと歩いた後、倒れ死にました。

夕方には私たちは広島駅の裏の東練兵場に着きました。空港のように広い練兵場にはものすごい数の火傷をした人やけがをした人が横たわっていました。焼け付くような日差しで気が遠くなっていましたが、次々と人が死んでいく様や「熱い!助けてくれ。」「水をくれ!水をくれ!」という悲痛な叫びは決して忘れないでしょう。

その夜私たちは戸坂駅に着きました。私はひどい吐き気がして倒れてしまいました。8月6日の夜遅く、知り合いが家に泊まらせてくれました。その家も火傷を負った人でいっぱいでした。私は夜通し吐き戻しうめいていました。

翌日やっといなかにある私たちの家に着きました。両親は私たちが無事に帰ってきたことをとても喜びました。しかし8月15日を過ぎて私は病気に冒されました。髪は抜け、唇はひび割れ、下血しました。その上全身に斑点まで現れました。このような状態になり、ラジオで終戦を伝える天皇の声明を聞くときも立ち上がることができませんでした。しかし、私はその声明を受け入れることはできませんでした。なぜなら日本は決して敗れることはなく、神風が勝利に導いてくれると信じていたからです。日本は敗けたのです。毎日毎晩私は血を吐きつづけました。
9月2日私よりもずっと調子のよかった兄が「父さんと母さんをたのむ。」と言い残し安らかに息をひきとりました。兄の体はだんだん冷たくなり亡くなりました。兄の葬式が済んでから私は意識を失いました。意識が戻ったときはすでに半年が過ぎていました。もう1946年2月末になっていました。だいぶ経ってから、母が置いた寝床のわきの丸い手鏡で自分を見ると、なにかがキラキラと光っていました。突然私は大声で母を呼び「母さん、髪の毛が生えた!」と叫びました。母は急いでやってきて私を抱きしめ「あんたは生き返ったんだよ!生き返ったんだよ!」と大喜びしました。私の命はずっと夜通しそばについてくれた母のおかげで生きながらえました。それから一年後私は赤ん坊のようによちよちと歩くことができるようになりました。私の人生は再び始まったのです。

戦争が終わって50年以上経ちました。この間に両目が病に冒されました。原爆のために白内障になり、目が見えなくなりました。最近、両目に人工のレンズを入れる手術をし、現在視力は回復しています。

何度も入院をし、現在なんとか生きています。私の第二の人生は1945年8月6日に始まったのです。かろうじて死から逃れることができました。生き残った者として、核兵器は人類を滅亡させると確信しています。ウランでつくられた爆弾により多くの人々の命が失われました。広島は原子砂漠に変わってしまいました。現在世界に2万発の原爆があるといわれています。もし核戦争が起こり原爆が投下されたら、地球は30分で滅亡してしまうでしょう。 

今私たちは軍人が単純なミスを犯したら、いつでもどこでも、この場でさえも爆弾が落ちる可能性があるという恐ろしい時代に生きているのです。私たちは爆弾や核兵器を廃絶しなければなりません。そうすれば核戦争は決して起こらないのです。

私は、戦争や核兵器のない平和な世界をつくっていく責任が皆さんにあると訴えたいと思います。そうすれば安心して暮らせるのです。平和な世界をつくりあげるまで1945年8月6日を決して忘れてはいけません。今私たちは広島の地獄を心に刻み付け、この悲劇は二度と繰り返さないと決心しなければなりません。私たちのさけび「ノーモア ヒロシマ、ノーモアナガサキ」を広めましょう。

最後に、私は残りの人生をヒロシマの生証人を決して絶やさないことに捧げると、次世代の皆さんに誓います。 

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