藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原子爆弾と吉永小百合

2012-07-26 15:53:13 | 社会・経済

003 広島市役所正面玄関に残された、旧庁舎の階段部分である。

旧庁舎建替えにはいろんな議論がなされた。原爆ドームが世界遺産に認められたことにより、やはり旧庁舎は保存すべきであったように、いまさらながら感じてしまう。移転先は広島大学跡地が現在も活用されず残っており、今後も活用される見込みはない。ただ民間企業の餌食になるばかりである。勇気を持って移転を主張する議員が一人もいなかった。

話は転じて、吉永小百合と広島との関わりについて、多くの皆さんがご存知であろうと思う。吉永小百合さんの事は、「サユリスト」の私としては8月6日に、原爆に関するこの記事を書いて終了しようと思っていたが、「動員学徒慰霊塔」の記事を書く中で、現在の平和運動のあり方を考える時、吉永小百合さんを抜きには前へ進めないことに気づいた。

彼女は昭和20年3月13日生まれ、私は同年、4月8日生まれであり、代表的「サユリスト」のタモリ氏は同年、8月22日生まれである。

私は、「キュウポラのある町」を見てから、「サユリスト」になった。それは昭和37年、病気療養中のことであったが、少年の心を捕まえて離さない何かを感じたのである。それは演技力とか、容姿の美しさとかではなく、未だになぜ「サユリスト」になったかの説明は出来ない。おそらくタモリ氏も同じであろう。タモリ氏は、同じ時期に早稲田大学の学生食堂で、彼女の食事する所に出くわし、彼女の食べ残した、食パンの耳を食べたくてその衝動を抑えるのがやっとであったそうだが、真偽のほどは私には判らないが、私がその場に居合わせたなら、食パンの耳を食べたと思う。

余談はさておき、彼女が最初に原爆に出会ったのは「愛と死の記録」という映画の撮影で広島を訪れたのが最初である。

私の記憶では、吉永小百合さんは、木定楽器店(記憶違いかなー)の店員で、渡哲也が、中本総合印刷の職工という設定であったように記憶しているが定かではない。ただ、この撮影の時期は、暑い時期であったように記憶している。たまたま中本総合印刷(当時は単に中本印刷と言っていたように記憶している)に校正に出向いたところ、この映画の撮影をしていた。吉永小百合さんの出番は無かったが、そこには彼女も立ち会っていた。渡哲也と浜田光男、確か中尾 明氏もいたように記憶している。「こんにちは」と挨拶をしたが、握手を求める勇気は無かった。やはり、タモリ氏と同じである。その映画が封切られるとすぐに見に行った。通称「呉街道」を、オートバイに二人乗りし、右手に能美島を見ながら、未舗装の国道を走る場面が、未だに印象に残っている。渡哲也氏が白血病で亡くなるまでの記録映画の形をとっているが、内容的には反戦、反核の映画であった。

昭和56年、NHKテレビドラマで彼女は原爆と再び対面する。「夢千代日記」である。被爆者の「夢千代」が、原爆症と戦いながら生き抜いていく姿に、全国の「サユリスト」が涙を流しながら見ていた。この時「樹木希林」の演技力の素晴らしさに感服した。

その後、この二つの作品に出演したことにより、彼女は昭和61年からボランティアで、「原爆詩の朗読会」をスタートさせ、今日まで続けられている。その間、原爆資料館の音声ガイドのナレーションも、彼女のボランティアでなされている。彼女は特定の政党に属さず、独自の活動を行ってきた。「谷本 清平和賞」が授与されたのはそうした日常の活動に対してであった。平成22年文化功労者に選ばれた。おそらく歴代最年少ではなかろうか。

平成23年7月31日広島国際会議場での「日本母親大会」の会場での「原爆詩朗読会」で彼女は

世の中から核兵器、原子力発電所がなくなってはしい

と訴えた。

この時期広島で「反核、反原発」を口にすると、広島の人間は「禁か協か」と問い正す。彼女に対してのみ広島の人間は「禁か協か」とは問いかけない。

真心からの、訴えだからである。

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原子爆弾と動員学徒慰霊塔

2012-07-25 12:48:58 | 社会・経済

 この塔は、原爆ドームの南隣に位置する。旧猿楽町通りの西詰めにある。この猿楽町通りは、鈴木三重吉の生誕地である

 この塔の建設の由来は、政府は動員学徒の内、氏名、死亡日時の明確な者だけ、靖国神社に合祀することを決めた。それを受けて、廣島の動員学徒犠牲者の家族が全国に呼びかけ、名簿作成運動を始めたところ、全国の動員学徒の遺族から名簿と共に寄付金が寄せられた。

 この運動の賛同者の中には、彫刻家の円鍔勝三氏がおり、この塔の銅像と、有田焼の陶板は全て氏の手作りによるものである。

Photo_2 八月六日、市内の職場や建物疎開に動員されていた学徒は、国民学校高等科以上の8,000人以上で、その内約6,300人が犠牲となった。なぜ約なのか。

家族、縁者共に一瞬時に犠牲となり、確認がいまだ取れない方々が存在するからである。

 戸籍原本は、高田郡吉田町に疎開されていたため、復元可能であったが、戦後その原本を公開されることは無かった。伊勢湾台風時の名古屋の時と同じである。松本清張は、その盲点を利用し、「点と線」を書き表した。

 同じことが、戦後間もない廣島でもあった。

 この慰霊塔の正面に、銅版画が四枚はめ込まれている。その一枚の中に、次の一文が、鋳込まれている。

Photo_3 又、塔の裏面には動員学徒として、戦争の犠牲となった全国の動員学徒の母校の名が刻まれている。その数、北は青森から南は沖縄、旧満州に及び、その数、352校である。犠牲者は、女子挺身隊、義勇隊を含め、約10,000人以上である。

 碑文

第二次世界大戦中 増産協力等 いわゆる勤労奉仕に動員された学徒は全国にわたり三百数十万人 あたら青春の光輝と学究の本文を犠牲にしつつ挺身した者の内 戦禍にたおれた者は一万有余人 その六千余人は原爆死を遂げた       この塔は明眸青雲を望み 将来空高く羽ばたこうとした夢も空しく 祖国に殉じたそれら学徒の霊を慰めようと 有志同胞の手によってうち建てた

Photo_4

慰霊塔のそばには、あの日を連想させる「カンナ」が盛りと咲いていた。廣島を訪れる時、あの日には、「夾竹桃」と「カンナ」が咲き誇っていたことを想像していただきたいと思います。

焼け野原で最初に芽吹いたのは、「夾竹桃」と「カンナ」であったと。それに勇気をもらい焼け野が原からの復興が始まったのです。

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原子爆弾と内閣総理大臣

2012-07-24 22:04:54 | 社会・経済

Photo_2 廣島平和記念式典は、正式には、「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」という。

この式に初めて、内閣総理大臣として出席したのは、佐藤 栄作氏である。1971年 沖縄復帰交渉に成功した (安保条約延長と交換だとも言われているが、兎も角にも、返還を実現させてこと

は確かである) 年のことであったように記憶している。

政界の団十郎と言われた、長州(山口県)出身の内閣総理大臣であった。その後、歴代の内閣総理大臣が式典に出席するようになったが、平和公園周辺にその足跡が残っているのは、ただ一つである。

中曽根康弘内閣総理大臣が、式典の後読んだ句が句碑として、原爆ドームの下流200mの所に建てられている。

  悲しみの

               夏雲にむけ

                                        鳩放つ

                         康弘   御璽

この句碑は建設当時、市民から議論百出したが、いつの間にか市民権を得た。

句自体は一見平凡に思えるが、羽ばたく鳩に廣島市民の、平和を願う姿が重なり、私は好きである。

中曽根康弘氏は1945年8月6日 高松で「きのこ雲」を遠望したそうである。それだけに、原爆に対しての思い入れが歴代の総理大臣の中でも強かった。被爆建物の保存も支持する人であった。

歴代の内閣総理大臣の中では、竹下 登氏がまだ青年教師時代に廣島の地の青年と交流を持ち、その後政治家になるきっかけであっただけに、思い入れは人一倍強かった事は、確かである。

いずれにしても、佐藤 栄作氏が式典出席の先鞭をつけたことは、事実である。

因みに写真の句碑は、「人」という字を象っている。

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原子爆弾と栗原貞子

2012-07-23 13:15:47 | インポート

23chokinkyokuatoansutawa1 栗原貞子さんの詩

「生ましめんかな」の舞台となった、広島貯金局跡地である。被爆建物として、保存できなっかた。この時の無念さが、「広島気象台」保存のとき私の執念を燃やし続けた。

私が結婚し、子育ての場として選んだのが、広島県安佐郡可部町であった。昭和46年のことである。現在は町村合併が進み、広島市安佐北区可部町となり、その後住居表示変更で広島市安佐北区亀山となった。字名が住所になったのだ。栗原貞子さんは、1913年大正2年旧可部町上町屋の旧家の次女として生まれた。旧姓は土居である。毛利家の重臣熊谷家の家老の家柄である。現在土居屋敷跡は、史跡として保存されている。

貞子さんは聡明な人であったらしい。17歳で県立可部高等女学校を卒業するが、在校中から文学活動はじめ、卒業と同時に、歌誌「処女林」の同人となり、そこで栗原唯一氏と出会う。翌年駆け落ち結婚をされたそうである。栗原唯一は、アナーキストとして近在に知られ、その活動範囲は西日本全域を網羅していたそうである。(これらの事は、元広島市議会副議長 米田十郎氏から伝え聞いたことである。)栗原唯一氏は、活動手段として、「フウテンの寅さん」と同じ仕事をしながら活動したことがあったそうだ。その仕事で鍛えた弁舌は見事であったそうである。残念ながら、私が栗原貞子さんを知ったときには、鬼籍の人であった。その死は原爆症であったという。栗原貞子さんと最初に出会ったのは、広島市合併前の、最後の可部町議会選挙の時であった。私が現場監督をしている現場に、電柱から外線の、引き込み工事にやってきた中国電力の職員の中に、一人の凛々しい男がおり、話てみると可部町内に住んでいるという。その彼が、町会議員に立候補するという。話を聞いてみると、昭和20年召集で陸軍に入隊、当時広島城が広島師団の本部で、そこで原爆にあったという。運よく地下にいたため助かったが、その後急性原爆症で生死の境をさ迷ったという。同じ被爆者として応援することとした。その選挙活動に、栗原貞子さんがやって来た。可部町に残る親戚を訪ね歩き、熱心に活動された。その行動は、鬼気迫るものがあった。戦前、戦中反戦で貫き通した人間の強さを強く感じた。その後、娘の平和学習の時も快く引き受けた頂いた事は先日の記事で紹介済みであるが、この女性の強さはそれだけではない。主人の唯一氏を県議会議員に押し上げる力も発揮された。加えて、広島の女性の平和運動の中心として、2005年92歳でなくなるまで続いた。

最後に次の詩を掲載しておく。広島を語る時、この詩以上に語れる人はいない。栗原貞子さんの詩である。

「生ましめんかな」

こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血のにおい、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中からふしぎな声が聞こえてきた。
「赤ん坊が生まれる」というのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ1本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は
血まみれのまま死んだ。
うましめんかな
うましめんかな
おのが命捨つとも

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広島市長にあきれてブログを書く気になりません。

2012-07-22 15:35:20 | 日記・エッセイ・コラム

あきれた広島市長は、八月六日以降までほっといて、我が家にやっと夏が来ました。暑さはとっくにやって来ていましたが、先ほど「黄タテハ」が、今年初めて姿を見せてくれました。

Photo 深山スミレの葉に、一心不乱に卵を産み付けています。これで、深山スミレの葉は、一週間で食い尽くされる事に成ります。例年からすると、一ヶ月も遅い到来です。せみの鳴き声が、未だに聞けません。不思議な梅雨明けです。

ところで我が家の甕の中は、お産ラッシュで、一気にメダカの大規模校になりました。梅花藻の中は、幼いメダカと、沼えびの陣取り合戦が始まったようです。

003 人なれした者勝ちの状態で、餌の投入を待ち構えているやつもいます。

四月からのお産で生まれたメダカは、いっぱしの姿になってきました。

背中の模様はまだ判別できません。もし黒班が現れたときには、皆様にご披露します。

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