藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原子爆弾と浜井信三広島市公選初代市長

2012-07-16 09:07:31 | インポート

浜井信三氏が、広島市の初代公選市長になった経緯は、以前皆様にお知らせしたので省略する。

この市長の凄さは、周りの人を大きな渦に巻き込んでいく。巻き込まれた人間の一人に私もいる。

1948年広島の青年たちと、常に語り合っていた浜井信三は、一人の青年の言葉に敏感に反応した。「復興が、ただ単なる復興では意味が無い。軍都広島ではなく、世界に核廃絶と、平和を呼びかける都市に作り変えていくべきだ。」との言葉であった。この言葉を発した彼は、後に広島市議会議員になる。浜井信三はすぐに行動に移す。時のGHQや、外国人記者クラブや、政府をはじめ各政党に「特別立法請願運動」をはじめる。手助けしたのは、田中二郎東大教授や、参議院議事部長 寺光忠氏などである。法案は、参議院議事部長寺光忠氏が起草したと言われている。「広島平和記念都市建設法」と呼ばれる、特定地域のみに限定される法律である。因みに参議院議事部長寺光忠氏は、広島出身であった。1949年5月、国会において。「広島平和記念都市建設法」が、可決された。同年7月7日日本で初めて、日本国憲法第95条による住民投票が実施され、過半数を大幅に超える支持を得て、1949年8月6日に公布、同日施行される運びとなった。この時から浜井信三市長の脳裏の仲には、丹下健三氏のことが在ったという。平和大通り(100m道路)、平和記念公園、原爆ドームの保存、これらは青年達と、夜を徹して夢を語り合ったことを実現するため、昭和42年市長を引退するまで、命をかけてまい進された。1968年2月26日 市長を引退された後、苦楽を共にして来た嘗ての仲間から参議院選挙に担ぎ出され、その総決起集会の席上で突然倒れ、帰らぬ人となった。一市役所職員から青年に担ぎ出され、「国際平和文化都市広島」建設に人生をなげうった壮絶な死であった。私が23歳、なぜかその席に私はいた。

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