藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原子爆弾と作家吉川英治

2012-07-15 17:19:56 | 日記・エッセイ・コラム

作家吉川英治は、戦後しばらく作家活動を休止していた。作家活動を再開するに当たり、氏は戦時中に軍に協力したことに対する自戒の念から、その作品は独自の解釈による「平家物語」とした。それと同時に、氏は広島の原爆孤児に独自の奨学金制度を作り、孤児の進学の手助けを始めた。この事はあまり社会に知られていない。私も知らなかったが、昭和四十年夏、一人の政治家から聞かされ、その事実を知り、その後吉川英治氏の全集を求め読み漁り、広島出身の井伏鱒二と共に、常に私の本棚に置れた。その政治家とは、文部大臣や衆議院議長を歴任された灘尾弘吉氏である。灘尾弘吉氏について語る前に、私は常にすばらしい人に巡り合う「運」持っているようだ。小学校時代五年生から新聞配達を始めた。その新聞販売店で一番遠いお客様が、森戸辰夫広大学長宅であった。店から4km。中学生が担当していたが、その場所は鉄道自殺の名所で、配達員が直ぐに止めてしまう。森戸辰夫氏は文部大臣も経験された方で、今日の広島大学を総合大学に育て上げた方である。毎朝五時に新聞を届けると、三百六十五日縁側で新聞を待っておられて、「ご苦労様」と声をかけて頂いていた。著名な方だとは五年生の私は知る由も無く、三年間通い続けた。当時新聞の休みは無かったように思うが、記憶違いだろうか。正月元旦には、必ず「お年玉」をいただいた記憶がある。私立の中学校に合格した時は、何処からかお聞きになられたようで、「おめでとう」と祝いの言葉をかけられた事を記憶している。同級生に弁護士の弘中淳一郎、歌手の吉田卓郎がいる。中学二年生に進級のとき、先生は広島大学を退官され、東京に帰られることになった。その時所蔵されていた本の中から、四十冊程の蔵書を私に届けていただいた。当時の本は紙質が悪く、大切にしていたが、全てバラバラとなり今は手元に一冊も無い。当時の私立の中学校の校長は、広島大学を定年退官された先生で、今考えると、どうも私の合格は、裏があるような気がしてならない。入学時から、校長からよく声をかけられた事があり、何故校長は自分のことを知っているのか不思議に思っていた時期があった。さて話を吉川英治氏に戻す。衆議院議員の灘尾弘吉氏に最初に会った事は、以前このブログで書いたことがある。国内研修生として福岡、熊本の青年達と交流した報告書を一部、地元議員事務所に持参したときに始まる。当時文部大臣であった。名前を聞かれ、名詞を出すと「少ない苗字だが出身は何処か」と聞かれ、「佐伯郡宮内です」と答えると、省吾という人間が身内にいるかと聞かれた。私の叔父であると答えると、「元気にしているか、彼には酷い目にあった」と言われ、経緯を話し始められた。氏が始めて衆議院に立候補されて時、叔父は宮内村の職員で、労働組合の幹部であった。その宮内村の村長の招きで、朝礼に挨拶に行ったところ、叔父が猛烈に村長に抗議したのである。曰く「これは選挙違反である」。同調したのが後の、廿日市市長 山下三郎氏である。折角の挨拶はとんでもない修羅場となり、今でもはっきり覚えているとの事であった。しかし、それがかえって私には、幸運をもたらしてくれた。その時の話の中で、吉川英治氏の原爆孤児に対する支援活動の話を聞いたのである。叔父と、灘尾弘吉との関係修復は五年後、私が中に立ち修復された。もっとも、当時私の叔父は河本敏夫氏の、後援会の中心的役割を担っており、若き時代の中での出来事を笑ってやり取りできる時間が過ぎていた。

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