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図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

すべてに

2012-12-12 12:07:21 | 日記
 


ひふみ神示17巻 地震(二日ン)の巻 第八帖 (三八五)
 生前の世界に、霊人が生活している。
山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。
しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなす神が歓喜していた、
その神が生後、地上世界にうつされて、
地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、
その結果が、死後の世界につづき、
死後の世界の様相は神の原理によって、
生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、
その神を幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的神に向って弥栄する面と、
外的、地上的に進む神と、その交叉融和することによって更に生み出され弥栄する
神と、その各々が各々の立場に於て、すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、
全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している。
而して、その現われとしては、和せば和するほど相離れ、遠ざかりつつ生長する。
また、生命の大歓喜として湧き出ている。
故に、地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、
霊人により育てられると同時に、
人々により生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。
かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、
真の三千世界の実相を十分に知り得ない。
故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。
新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。
この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、
何れも神の形に於けるが如く同一形式のものではあるが、
同一のものではない。
より小なるものより、より大なるものが生れ、
より大なるものより、より小なるものが生れ、
より新しきものより、より古きものが生れ、
より古きものより、より新しきものが生れる


地震の巻8帖はまだ難解な文章が続きます。
文字ではなく律動する線で書かれているのは、
人の概念にないものを示しているからでしょうか?
真の三千世界の実相のヒントが次の帖にあるように感じます。


 第九帖 (三八六)
 目に見えぬ存在、その作用、目に見える存在の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、
生命する。
これは根元からの存在であり用であるが、
動き弥栄する道程に於て、命の作用ナルトのうごきをなす。
目に見えぬ存在の立場よりすれば目に見えぬ存在は善であって、目に見える存在は悪、
目に見える存在の立場よりすれば、目に見える存在は善であって、目に見えぬ存在は悪である。悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。
善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。
悪は悪善として神の中に、
善は善悪として神の中に弥栄える。
作用がそこに現れ、呼吸し、脈打ちて生命する。
故に目に見えぬ想いは、生前界のみにては善なく、生命なく、
地上人との交流によって始めて善悪として力を生じ、生命してゆく。
地上人は地上物質界のみの立場では悪なく、生命なく、
目に見えぬ想いとの交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄してゆく。
而して、尚地上人は死後の世界に通じなければならぬ。
死後の世界との関連により複数的目に見えぬ悪善におかれる。
善悪善の立場におかれる場合が多いために、地上に於ける司宰神としての力を自ら与えられるのである。
善悪の生かされ、御用の悪として許されているのは、かかる理由によるものである。
善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、
悪のみにても また同様である。
故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。
何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。
悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、
地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、
その行為こそ、悪そのものである。
この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。
悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、
三千世界は弥栄となり、
不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。
この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。
地上人のもつ想念の本は目に見えぬ存在そのものであり、
目に見えぬ存在のもつ想念の本は神であり、
神のもつ想念の本は大歓喜である。
故に、地上人そのもののみの行為なるものはない。
何れも、神よりの内流による歓喜の現われであることを知らねばならぬ。
歓喜の内奥より湧き出づるものは、目に見えぬ存在に属し、
外部より発するものは体に属する。
目に見えぬ存在に属するものは常に上位に位し、
目に見える存在に属するものは、常に下位に属するのであるが、
目に見える歓喜と目に見えぬ歓喜の軽重の差はない。
しかし、差のない立場に於て差をつくり出さねば、
力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ない。
すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。
動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れてくる。
目に見えぬ世界にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。
目に見える世界のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。
悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。
常に、動き栄えゆく、大和のナルトの作用を中心とする上下、左右、前後に円を描き、
中心を 神とする立体的うごきの中に呼吸しなければならない
。それが正しきカムナガラの歓喜である。
カムナガラの歓喜は総てのものと交流し、
お互いに歓喜を増加、弥栄する。
故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。


霊、力、体の岡本天命氏の持つイメージと現代人の霊のイメージは変わってきているように感じますので、
目に見えぬ存在、その作用、目に見える存在に置き換えてみました。

現代の思考は、
「地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、
その行為こそ、悪そのものである」
そのものですね。
この度の選挙でも、色々な主張がなされていますが、
自分の主張の法則の下に総てをはめんとする一方的な考えの方ばかりですね。
この悪の作用に大和する方法があるのか?
目に見えぬ世界、その元である神を大切にすることでは?
日の大神様と月の大神様がご一体になられたとする日月神示を読む方も多くなりましたが、
大神様を祀っている方は何人いるのでしょうか?
アセンションという言葉を使う方は大神様が見えるのでしょうか?
日と月の調和した大神様が現れるとき、
内在神や先祖供養を日と月の大神様に結んで
祀られてるのでしょか?

マヤ暦で話題になっている12月21日は冬至の日でもあります。
日と月の周期では13日に新月のサイクルが冬至にむけてはじまります。
目にみえぬ大神様を祀る人が広がらなければ、
目に見えぬ存在が目に見える存在に作用し、
地震という目に見える変動が起こるように感じます。
目に見える世界は目に見えぬ世界と一体であり、
目に見えぬ世界の元は神である。

ご一体になられた神を祀る機会がすべてに用意されているのでしょう。


久しぶりに地震の巻の原本から画像を作成してみました。
3.11の震災が起きてからどうも地震の巻からは、イメージが浮かんで来なくなっていました。
画像の構成がイメージできたころ、ちょうど再び三陸沖の地震がありました。
単なる偶然なのでしょうが、地震の巻に関してなんらかのアクションをしますと
スマトラ沖地震、チリ沖地震、3.11の震災が起こります。
ただなんとなく、目に見えぬ元の大神様を祀る心が広がらないと
大きな地震を呼んでしまうのではないか、と思います。
でも、日本に普通に暮らしている人にとっては、
元の大神様を祀ることが地震を避けることになるということは
想定外のことなのでしょう。
古代では、世界中で神殿が作られ、神を祀ることが、あたりまえでしたが
今の市場経済の中で生きることを考える方には、受け取れない考えなのでしょう。
時代や土地が違うと常識はまったく異なります。
政治や経済が麻痺しないうちに目に見えぬ存在を大切にすることへ
想いの向きを変えることはできないのでしょうか。
江戸に元の大神様を祀る場所が産まれるといいですね。
コメント
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