佐藤匠(tek310)の贅沢音楽貧乏生活

新潟在住の合唱指揮者・佐藤匠のブログです。

柔道考~日本的なるものの苦悩を中心に~

2007年09月24日 00時33分18秒 | スポーツ

 

 今更なんですけど、

柔道について書いてみます。

あ、知識は普通の人と同じです(笑)。

詳しい人、いくらでも突っこんでください。

 

 

 先日、世界柔道をやっていました。

見ていたんですけど、やっぱり面白いですよね。

で、考えずにはいられなくて、

筋道立てて考察してみたいと思います。

 

 

 誤審騒ぎがありましたね。

井上康生の試合はともかく、

鈴木桂冶の試合は、多くの日本人にとって、

首をかしげるものだったと思います。

 

 

 でも、これって、おそらく誤審だと思っているのは、

日本人だけなんじゃないかと思うんですね。

何故そう思うかというと、

「返し技」の見方というか、その定義だと思います。

で、それが、「相撲」にも関係していると思うんです。

 

 

 

 解説の篠原氏が言っていたとおり、

あの試合は、鈴木桂冶が一本取った(相手の背中がついた)あとに、

相手が鈴木桂治を投げているので、

普通に考えると、先に一本取っている、と思うわけですよね。

つまり、これをもっと筋道立てて考えると、

返し技というのは、「かけられた技を返す」から

返し技だと思うんですね。

あの試合に当てはめると、

「かけられた技を返したわけではなく、かかってしまった後に返した」

わけで、理屈で考えると返し技ではないわけですね。

かけられた技にかかっているわけで、

その技自体を返した形には、どう考えてもならない、

理屈立てるとそういうことで、

多くの日本人はこれに納得すると思うんです。

 

 

 で、これを相撲に例えたいと思います。

 

 

 土俵際、鈴木桂治が相手を倒します。

で、相手は背中がついた後に鈴木桂治を投げた。

これは、相撲でいえば、先に背中のついた相手の負けです。

疑いようがありません。

こういう見方が多くの日本人の中にあるから、

あれが鈴木桂治の負け、とは思えないのではと思います。

 

 

 で、相撲には、「うっちゃり」というものがあります。

でも、これは、例えると、

鈴木桂治の技がかかる(相手の背中がつく)前に、

鈴木桂治の背中をつけないと、うっちゃりにはなりません。

かかってからうっちゃっても、

それはうっちゃりにはなりません。

つまり、日本人の見る「返し技」というのは、

このうっちゃりと近い、そう思うんです。

そして、例えうっちゃりで相手を投げても、

相撲においては、「体が死んでいる」「死に体」

というのがあります。

死に体になった時点で負け、なわけです。

技にかかるという概念が、そういうことですね。

 

 

 でも、世界の傾向というのは、

最後に技をかけた方、という風に関係者が言っています。

多くの日本人は納得できないと思います。

上記の概念で考えると、

最後に技をかけるって言っても、

一度技にかかって背中をついている→負けている、だろと。

かかる前に技を返すのが返し技だと、

上記の様に理屈を考えれば至極当然なことだと。

 

 

 これ、死に体の話じゃないですが、

相撲において、土俵際、

うっちゃれない、返せないという時には、

自分から力を緩めて、土俵を割りますよね。

それは決して手抜きや八百長ではなく

それが相撲における礼儀であり、習慣です。

つまり、「負けること」に対して、

相撲では上記の考え方なんですよね。

でも、柔道での諸外国の選手にとっては、

「最後に投げた方が勝ち」なわけです。

日本人からすると、去り際、負け方が非常にみっともない。

(日本人からすると)負けているのに、

どういうことなんだ、ということです。

 

 

 柔道においては、残念ながらもう”スポーツ”です。

本来、道なるものの追求というのは、

上記の様に、相撲に通じるところがあります。

哲学なんですよね。勝つことも負けることも。

でも、

「見ている人が分かりやすいように」と、偉い人が言ってました。

あの山下さんも世界の連盟の理事かなんかの選挙で負けてしまい、

過去初めて、日本人がいなくなったんですよね。

上記の傾向は残念ながら強くなりそうですね。

 

 

 僕が、最近何に於いても思うことがあります。

 

 

 

「わかりやすくするということは、単純にすることではない。

分かりにくいことを、分かりやすいように説明することである」

 

 

 

 「分かりやすい=単純」

こういう考え方が当たり前の様にはびこっていますが、

僕は大いに異を唱えたい。違うと思います。

単純にするということは、本来必要である事の多くを省いてしまう、

そう思います。

単純にした時に、それによって省かれたことに、

世の多くの人が思いを巡らせられれば良いのですが、

残念ながらそうではない。

単純になったことを、そのまま受け取ってしまう。

政治で言えば、小泉純一郎の世を動かす時の手段でした。

この人は、政治を分かりやすくしたのではなく、

言葉上、単純にしただけなんです。

ルールを単純にするということは、

一見分かりやすくなったように思いますが、

それは、本来在るべき多くのものを省いてしまっている、

そこに思いをめぐらさないといけません。

 

 

 そのように、世界の動向というのは、

多くの場合、上記のような日本的なるものと

離れていってしまっています。

僕は原理主義者でも国粋主義者ではないのですが、

本質をねじ曲げることについては、

日本人はもっと大きな声を上げるべきだと思います。

 

 

 ついでに言えば、

日本人は、「負けたことを認める」美学があります。

シドニーでの篠原対ドゥイエの誤審がありましたが、

ドゥイエが「篠原の勝ちだった」と一言言えば、

例え金メダルがドゥイエにいっても、

日本人は納得する、そういう人種です。

勝負に対しての根本的な考え方が違うんですよね。

勝ち方、負け方に、形があるんですね。

これは、柔道においては、日本的なるものとして、

納得できる気がします。

 

 

 でも、日本の道なるもの、でないと、それは滑稽に感じます。

例えば、ボクシングで言えば、

亀田対ランダエタで、負けたランダエタに

「君は勝っていた」という何千通ものメールが届く、

これは、明らかに滑稽です。

日本で始まったわけではないこの競技に、

勝ち負けに対して、日本的な道なるものを持ち込むのは、

逆に、この競技の本質を削いでいる、そう思います。

 

 

 話が逸れましたが、

日本の「道」なる考え方、

日本のお家芸のスポーツにおいて、それはまさしく「本質」です。

日本人が本質を逸れれば、

それは日本人は受け入れません。

柔道で言えば、ちゃんと組まないで飛び道具なる技をかけ続ける、

そんなスタイルの日本人がいたとすれば、

それはおそらく、勝っても、

日本人には受け入れられないでしょう。

体操競技において、手先足先の揃った美しい体操を目指すのも、

ある意味、分かりやすい見た目や勝負を超えた、

「道なるもの」の追求だと思います。

世界の人からすると不可思議なのかもしれませんが、

その競技において、本質なるものがどこにあるのか、

そしてそれを追求するという姿勢、

それは譲るべきではない、そう思います。

ただ、これは先に挙げたように、

世界にスタンダードがあるものについては違います。

サッカーとかボクシングとか、

そういうものにまで当てはめようとすると、逆に滑稽になります。

逆に、そういうところでは、

日本人は、世界の本質について学ばないといけないのです。

 

 

 

 屁理屈でしょうかね(笑)。

異論のある方はどうぞ。

 


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
この話題になると、やっぱり、療養と称して故郷の... (せき)
2007-09-25 01:06:11
この話題になると、やっぱり、療養と称して故郷の異国に帰省中の、例の相撲取りを連想しますね。
返信する
 そうですね、あえて触れませんでしたが(笑)。 (tek310)
2007-09-25 22:34:17
 そうですね、あえて触れませんでしたが(笑)。
個人的には、日本で部屋にこもっている時から、
骨折しているのに病院へ行かなくていいんかいと思っていましたが(苦笑)。記者会見をしなかったのはまずかったですね。
 
 日本的なるもの、諸外国の人には理解しづらいでしょうね。でも逆に言うと、日本人も、諸外国のことをちゃんと理解していないのかもしれませんね。文化の理解というのは難しいことです。
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