佐藤匠(tek310)の贅沢音楽貧乏生活

新潟在住の合唱指揮者・佐藤匠のブログです。

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2011年07月29日 01時44分39秒 | デジタル・インターネット
 
 一つ思うことは、
その人は何を生業にしているのか、
ということです。
 
 
 昨今のネット絡みのいろいろを見たりして、
「色」がつくことに
ちょっと無頓着なのではないかと感じるんですね。
 
 
 ものを表現する手段として、
書くことや話すことを生業としている人は、
それで良いのだと思います。
 
 
 でも、「役者」だったり、
「音楽家」だったりとしたら、どうなのか。
 
 
 与えられた役を演じたり、
既存の作品を演奏することが、
その人の表現手段だと思うんですよね。
個人的に、そもそも役者さんとかが
バラエティで自分のことを語るのは、
本来あまり良いことじゃないと思うのと同じで、
演じる「役」でなく、
奏でる「音」でなく、
本人のイメージや思想が先に立つということは、
役者や音楽家にとってはあまり好ましいことじゃない、
と思うんですね。
 
 
 そう考えれば、
演じることや奏でることをまず第一に、
最も重要なこととして考えている人(役者や音楽家)なら、
その本業じゃない表現手段で何をどこまでするか、
ということだと思います。
 
 
 それでも言いたい、書きたい、
という人は、
演じたり奏でたりするより、
本や脚本、作曲など書く方の仕事をしたり、
それを監督したりする仕事をすべきだと思います。
 
 
 演じたり奏でたりする人も、
出演する作品を選んだり、
演奏する曲を選ぶことでの表現もありますよね。
でも、その人が本業を本当に大事にしているなら、
自分の発言や書いたことのせいで、
その本業が自分の意図しない部分で狭まっていくとしたら、
それはやはり浅はかというべきなのだと思います。
そういう制約の中で本業の表現活動をしないといけない。
それを本当に覚悟してのことなのだろうか、と。 
 
 
 これは本当に強く思うのですが、
作品を観る側聴く側、
あるいは作品を表現する側、
どちらの立場だとしても、
個人の思想、というか、予断、とでもいうのか、
そういうものを持つということが、
いかにマイナスなことが多いか、
ということを感じます。
勿論、その人の生きてきた部分や接してきたもので、
いろいろな物差しが出来上がっているのも事実で、
結局はそれを通してしか見聞きできないわけですが、
でもそこから如何に自由であれるか、
ということが、表現の受け手としても、
特に表現する側として、どれだけ重要であるかということ。
 
「これは◯◯人が作った」「◯◯人が演奏している」
「これは◯◯の国の作品だ」
 
 そのフィルターを通してしかものが見られなければ、
いろいろなものを正しく理解できるだろうか、という話。
「する気が無い」「そういう思想だ」
と言い切れる人とはここでお話しが終わりになりますが。 
 
 
 音楽の前で嘘はつけないのが音楽家、のはず。
 
 
 いろいろな色のついた情報に接するたびに、
そんなことを感じる最近。
  
 
 まあ、色のついていない情報なんてものは
そもそも情報の受けてに立てば、存在しないんでしょうけど、
その辺はメディアリテラシーという話になってきますが。
だから、ネットとの付き合い方は年々微妙になってきています。 
 
 
 立場をハッキリさせて書くことの重要性
(個人的には意味なく匿名の人の意見に興味は無い)と、
名前を出している以上は本来は諸々を承知してのことで、
プラスもマイナスも含めて、ということですが。