TAOコンサル『市民派アートコレクターズクラブ』

「注目の現代作家と画廊散歩」
「我がルオー・サロン」
「心に響いた名画・名品」
「アート市民たち(コレクター他)」

現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展~ヤゲオ財団コレクションより

2014年06月26日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩
 
 ヤゲオ財団コレクションは、野球にたとえるなら素晴らしい投手戦では、と思いました。オーナーは、学生時代にプログラミングのアルバイトしながら購入するほどアートに造詣の深い人物だとか。いちばんリラックスできるバスルームにお気に入りの絵をかけているそうです。もちろん湿気対策は施して。そんな絵や写真や立体が75作品、展示されています。もちろん日本人の作品も。
 ところで、スティーブ・ジョブズは、リラックスした散歩や瞑想の時間にアイデアが浮かんだという話があります。何もしないぼんやりした時間に、脳内の記憶や認識が整頓されて創造性が発揮しやすくなるという脳の働き「デフォルトモードネットワーク」も取り沙汰されています。たしかに、過度な情報や義務感や目標という、言わばノイズにまみれていては、見えるものも見えないし掴めるものも掴めなさそう。ヤゲオ財団のオーナーは、バスルームでボーッとしながら好きな絵を眺めている。そういう時間があるからこそ、一代で大手企業を作り上げることができたのかもしれません。
 ヤゲオ財団コレクションは世界のコレクショントップ10にランクインしているそうです。日本人によるコレクションというのは何位ぐらいに入っているのでしょうか。(山本理絵)
※2014年6月20日~8月24日 東京国立近代美術館

三浦逸雄・・インテリオール・空間表現を追い続ける作家

2014年06月24日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩
東邦画廊の記事に掲載した三浦逸雄は若い頃スペインに渡り約10年学んだ作家である。作品購入後知ったことだが、洲之内コレクションにも収蔵されている。長くお会いしていないが、現在も北海道で静かに作品制作を続けているものと思われる。

作家が長く追い続けている作品の主題はインテリオール。作家によれば、インテリオールとは閉じられた、或いは内面化された空間のこと。

これは新潟砂丘館での私のコレクション展のDMに使わせていただいた作品。

作品は人物が佇むか腰かけているといった室内風景が多い。どれも素っ気ないほど単純な構図だが、その空間表現が素晴らしい。描かれた人物は、その空間のなかでみずからの居場所を見つけ、静かに存在している。


銀座の夫婦善哉・・東邦画廊は今年50周年!

2014年06月24日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩
私は6~7年前、癌を患い、主宰していた市民派アート活動の旗を降ろした。親しくしていた画廊も多かったが、その後どこもご無沙汰続きである。銀座の東邦画廊もその一つだが、オーナーの中岡氏と他の画廊でバッタリお会いしそのまま画廊を訪ねた。私はここで10年ほど前に三浦逸雄の作品を購入した。名前も経歴も知らなかったが、躊躇なく購入。いい作家である。
 銀座の夫婦善哉

そもそも日本の美術業界は閉鎖的でこの儘では縮小しかねない、海外への作家紹介やオークションなど作品流通にもっと力を入れるべきというのが持論であったが、実は画廊以外で買ったことがない。何故か。やはり、コレクターにとっての画廊訪問の醍醐味はオーナーの美術への見識や人間性について共感することにあり、そんな会話の中でふと作品が欲しくなる。これが心地いいのだ。
 三浦逸雄作品

東邦画廊の扱い作家は山口長男や難波田龍起などレベルが高い。中岡氏はかつて文学青年であったのだろうか。その美術論や作家評は聞いているだけで時間を忘れる。ご出身は私の母方と同じ愛媛。俳句やお華も楽しむ風流人、奥様はお茶の達人。そう、ご夫妻は銀座の夫婦善哉だ。
この日ご夫妻は、三浦逸雄作品を次々壁に並べてくれた。それらをながめながらご夫妻と美術談義。こんな贅沢な作品鑑賞はなかなか経験できない。これも画廊ならではの醍醐味である。

脇田和展・・鳥をテーマにした詩情豊かな作品たち

2014年06月22日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩
 銀座のギャラリー繭を数年ぶりに訪ねた。オーナーの梅田さんとは30年来のお付き合いである。かつて他の友人も含め4人で香港の骨董街を徘徊した仲だ。懐かしい。その後も東南アジアの古裂などを中心に扱っているのかと思ったら、絵画もやっているとのこと。偶々数日後も脇田和展を開催するという。ええっと驚いた。脇田和といえば、絵画コレクションを始めた30年前に、一点欲しいと思いながら叶わなかった作家だ。


 という訳で会期初日に出かけたら、質の高い油彩作品や味わい深い素描や版画が並んでいる。嬉しいね。しかも会場にはお一人の紳士がおられ、早速、梅田さんからご紹介いただいたのだが、作家のご子息で軽井沢脇田美術館の館長であるとのこと。お父上の思い出話や美術館のことなど暫し歓談。脇田和の作品のテーマは鳥や少年だが、その少年のモデルはこの館長なのだそうだ。
脇田和美術館館長

 脇田和は若い頃ベルリンに渡って修行した正統派の画家である。作品のテーマは少年や花、鳥たちであるが、象徴的なモチーフはやはり鳥。しかも単なる写実の鳥ではなくそのデフォルメされた作品は優しさと詩情に溢れ、観るものを魅了する。


川島清新作版画展「埠頭茎」@ギャルリー東京ユマニテ

2014年06月20日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩

 川島清さんは、彫刻作品をずっと発表されてきたそうですが、今回展示されているのは、硫黄を使っての銅版画。版画とはグッと版を抑えて紙に色や形を移すものだという単純な知識しか私は持ち合わせていません。ですから、グッと押え込んだぶん、静動でいうなら「動」の部分は抑制され、泰然自若とした「静」の部分が表出しやすいものなのでは。そんなイメージを持っていました。ところが、白色の紙に一色だけ、墨色だけが覆う作品からは、「動」が強く伝わってきます。瞬間的だけれども力強い、ほとばしりや勢い、というものを受け止めずにはいられません。とはいっても単に力任せな「動」ではなく、ある抑制の効いた「動」です。「静」と「動」が同居した間(ま)を、時間の一瞬として真っ白な紙に捉えさせているように感じました。
(ギャルリー東京ユマニテ 東京都中央区京橋2-8-18 昭和ビルB2F)

武田洲左展「褻にも晴れにも」@井上画廊

2014年06月20日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩


 極彩色の色々を目の前にしたとき、しばらくたじろいでしまいました。なぜか。日常生活の中ではおよそ目にすることのない極彩色の世界というものに、身体と頭がどう対処していいか戸惑ってしまうせいではないでしょうか。たじろぎを覚えても、静かに通り越させて目を伏せずに正視。じっと作品の前に立ち続けると、どうなるか。極彩色たちが見せる繊細な蠢きの多様さに目が奪われます。流れたり、うねったり、跳ねたり、跳ね返ったり、飛び散ったり、逆流したり、干渉したり、離れたり、合流したり。自由自在に空間の中で形を変えることが可能な液体の蠢きの豊かさ、これは液体だけに限ったものではないのでは。そんなことを感じさせてくれた気がしました。非日常の色彩と、それらが為す静止を知らない蠢きは、頭や身体にザワザワと適度な揺さぶりを与えて、そして何らかの快適な刺激を確かに送ってくれるのです。
※菊地武彦さんとの同時開催の個展ですが、今回は武田洲左さんの作品について記しました。(山本理絵)
(井上画廊 東京都中央区銀座3-5-6 井上商会3F)

ヤゲオ・コレクション展・現代美術ハードコアの収集

2014年06月19日 | モダンアート
東京国立近代美術館のヤゲオコレクション展を観て来た。まず、現代美術のハードコアは世界の宝という展覧会のサブタイトルがいい。並んでいる作品も、アンディーウォーホルをはじめ、マーク・ロスコ、ウィレム・デ・クーニング、ゲルハルト・リヒター、フランシス・ベーコン、杉本博司など、まさに現代美術のハードコアの作家のものばかり。私は30数年前にコレクションを始めた初期、これらの作家の研究に力を入れたこともあり、嬉しい展覧会であった。個別には中国の作家サンユー(常玉)の作品や杉本博司の最後の晩餐などが素晴らしかった。


このヤゲオコレクションのことは最近現代美術の世界で話題になっているが、台湾のヤゲオコーポレーションの会長であるピエール・チェン氏が25年間に収集したもので、西洋と東洋の現代美術を対象にするなど作品収集の方針は注目に値する。特に素晴らしいのは、まさに現代美術の中核作家を中心に取り組んで来たこと。


このコレクション展を観て改めて考えさせられたことがある。アメリカには現代美術コレクションが幾つかあるし、台湾にもヤゲオのような素晴らしいコレクターが出現した。しかし日本にはない。何故なのか。日本人はゴッホや印象派など評価の定まった作品への収集意欲は強いが、現代美術への関心は薄い。高度経済成長も経験したというのに、日本の資産家も企業家もこういうコレクションをする勇気がなかったということか。伝統的な美術も素晴らしいが、やはり、いまだ評価が定まっていない同時代の美術に挑戦するくらいの精神を持ってほしいものだ。


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三木富雄の「耳」 @東邦画廊

2014年06月18日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩

(東京国立近代美術館所蔵の耳)

 何の変哲もない普通の耳の形のオブジェ。と、だけしか、「写真で見たとき」には感じませんでした。実際にフロアに横たわる、巨大で重厚な耳を目の当たりにしてびっくり。普通の耳といえばその通りです。普通の耳の形をしているだけのように見えますが、耳の持つ曲線と起伏の様子に見入ってしまいました。小宇宙のような、枯山水のような、不思議な佇まいを感じるのです。
 耳には100か所以上のツボがあるそうですが、胎児の形はちょうど耳の形にあてはまり、ツボが効く位置と胎児の身体の位置がだいたい一致しているそうです。あるフランスの学者も50年以上前に、人間の発生段階と耳の形が一致するという、人体投影仮説を唱えたとか。胎児に最初に発生する感覚器官は耳だそうで、臨死・瀕死状態では最後に耳だけが聞こえるという話もあります。人間の感覚は耳で始まり耳で終わると言えるのかもしれません。
 耳の作品ばかりひたすらつくり続けた三木さんは、特にその理由を語らずに夭逝。耳は単なる人体の器官の1つではなくて、別の何かを内包しているといったことを、もしかしたら感覚的に感じ取っていたのではないでしょうか。(山本理絵)

三浦康栄展・・ジャコメッティー風の細い裸婦が印象的

2014年06月17日 | 気になる展覧会探訪
三浦康栄氏は米国大手IT企業時代から絵画制作を趣味としてきた。静物画や人物像を得意としており、元々日曜画家の領域を超えたものであった。その彼が会社をリタイアしてから制作に熱が入り、数年前独立して画家デビューしてしまった。



今回はモデルを使った女性像に力を入れており、特にジャコメッティー風に細く描かれた裸婦がいい。清楚な雰囲気を漂わせ、一輪の花でも見ているようだ。
その他、自画像は昨年以上にいい出来であり、又、力強く一気に線が引かれたクロッキーにも感心してしまった。



ミズテツオ展・・・円熟期のフラッグと無名時代のひたむきな作品

2014年06月14日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩
銀座ギャラリーゴトーのミズテツオ展を観てきた。本格的なフラッグの久しぶりの展覧会である。そのせいか、力がこもった完成度が高い作品が多かった。偶々この時期、画廊香月では同じ作家の若い頃の作品展が開催されており、汚れた封筒の裏に描かれた女性像など貧しい時代のひたむきな作品が並んでいた。つまり、我々はミズテツオの無名時代と、円熟しつつある現在の作品を同時に見ることができるという訳だ。しかし、そのいずれもがミズテツオの世界であり、フラッグ作品に到るまでのこの作家の魂の世界に触れることができる。




ミズさんという人は一見無頼な男に見えるが、その目は少年のようだ。言葉は乱暴ぶっているが、優しい人なのであろう。その人間に対する優しさの感性を失わない限り、いい絵を描き続けるに違いない、と私は思っている。

野澤義宣・・己の魂・生き様を描くのか己事記展

2014年06月14日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩

 展覧会のサブタイトルは己事記、己の生き様の記といった意味であろうか。
色んなものが描きこまれた一見抽象に見える作品や蹲る人間の頭上に光が見える作品など、いずれも作家の魂の軌跡を見るが如き心に迫る作品である。
寒山拾得をテーマにした絵や稚児を描いた絵は解脱した修行僧が描いたかのような力の抜けた作品もいい。




 この日作品に惹かれ、暫しの時間作家と語り合ってしまった。若い頃寺の住職が教える無私の意味がわからず、インドを5か月もの間仏像を描きながら放浪してしまったこと、そして結局ヴェナレスまで行ったことなど。語る野澤氏の風貌は修行僧そのものであった。

 心に沁みる展覧会であった。自分の絵は真っ黒な絵に始まったが、真っ黒な絵で終わると思うとのこと。よき画家人生であることを祈りたい。

ミズテツオ展 @ギャラリーゴトウ

2014年06月12日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩

 くりくりした髪型と面長な顔立ちのせいか、ミズさんはサッカーのラモス瑠偉にどこか似た雰囲気。けれども、ラモスのスピーディーな雰囲気と作品は裏腹。色づいたいくつかの形の狭間にある、境界のような線には、最適な行き先を求めるようにゆっくりと進んでいったような動きが感じられます。ときに迷いながらもじっくりと刻まれていき、確実に堆積していったたような線の成り立ち。そして、その線には、最大限に音量を上げると、脈脈と流れる細胞液の音が聞き取れるような息づかいを感じます。顕微鏡で拡大することで、初めて可視できる細胞の生命の力を見たときの驚きに似た感覚を抱かせてくれるのです。静止しているかに見えても、じつはいつだって動きを止めてはいないという線。会場内を繊細に目配りして、あちらこちらへと動き回っては会話しているというミズさんの身のこなしと似ているように思いました。やっぱり、どこかラモス。(山本理絵)

太田保子展 インサイド・ストーリー @ギャラリー砂翁

2014年06月12日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩
  太田保子さん

 太田さんはネコ好きだそうです。何匹ものネコが月光浴しているような大作からは、そんな眼差しが伝わってきます。この「月夜の集会」と同じ傾向の色彩を感じる作品には「サウンド」というタイトルがつけられていました。こちらはネコ不在。抽象画のように見えます。音の高低や長短や質が譜面化されて、そして、絵画化されていったようなイメージ。キャンバスの中で音がサラサラと流れているよう。太田さんご自身の雰囲気からして、きっとクラシック音楽かと思いきや、水のサウンドなのだそうです。水といっても、滝の音でも岩を穿つ波の音でもなさそう。静かに流れる緩やかで静かな川の音ではないでしょうか。ふと、「月夜の集会」を振り返ると、ネコたちは広がる水面の手前に佇んでいます。こちらの水面も穏やか。(山本理絵)

野澤義宣展 @ギャラリー砂翁

2014年06月12日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩


 どこかお坊さんのような風貌と雰囲気が野澤さんに漂っているせいでしょうか。この世とあの世の合間の世界のような、遠野物語のような、そんな不思議な世界観を作品たちはまとっています。といっても、恐怖や不気味よりも、温かさや懐かしさのまさった世界。じつは金縛りを描いたという絵でさえ、光の塊には母性愛のようなやわらかさがあり、光の筋からは神々しさが放たれているように見えるのです。野澤さんにかかればきっと、化け物だって幽霊だって妖怪だって、懐の深いやさしい存在へと変わるのではないでしょうか。それはたぶん、固定概念を取りさらって、視線を対象物と同じ高さに持って行くことができるからこそ、なせる表現なのかもしれません。言葉が通じないに関わらず、インドを一人放浪しながら仏や僧のスケッチをした経験にも頷けます。(山本理絵)

三浦康栄展 @Gallery銀座一丁目

2014年06月12日 | 注目の現代美術作家と画廊散歩


 会場入ってすぐ左の壁に自画像。よく描かれるそうですが、捨ててしまったものもあるそうです。その横には静物画が数点。そしてその先からは、女性を描いた作品が並び、裸婦像が目を惹きました。中でも、バレリーナのようなポーズをして立っている痩せた裸婦が印象的。女性らしい丸みのある体型ではないところと、きっとバレリーナではないためだと思われる立ち姿のおぼつかなさが相まって、不安定さを増幅させているように感じました。けれども、この不安定さは、単に、体型や体勢からくるものではなさそう。逆に、モデルになっている女性自身の心情の不安定さが先にあるのでは。それが、体型や体勢にもさらに作用したのではないでしょうか。不安定の三位一体に魅力を感じました。ところで、三浦さんの自画像シリーズも見てみたいです。ズラリ並ぶと、三位一体、四位一体、五位一体……となって何かが醸し出されてきそう。捨てるのはもったいない。(山本理絵)