TAOコンサル『市民派アートコレクターズクラブ』

「注目の現代作家と画廊散歩」
「我がルオー・サロン」
「心に響いた名画・名品」
「アート市民たち(コレクター他)」

久留米絣のモンペ

2012年08月11日 | 私の数寄な一点展


 広い駅の構内では、地方の産品を期限付き販売している出店を時々見かけます。とあるJRの駅構内の通路にて、帰宅途中の私の足を止めたのが「久米絣」。さまざまな色調の作務衣やモンペに姿を変えた「久留米絣」たちが並んでいました。先染めの木綿糸で織ってあるため、風合いや色合いに深みを感じさせてくれます。特に単調ではない微妙な色の深みがなんともいえません。質感もしっかり。触り心地もしっとり。「これは、いいな!」。
 あれやこれやと見ているうちに、ダントツで気に入ったのが、モンペのようなブカブカパンツ。赤茶というかエンジ色とくすんだ若草色の糸で織られています。赤と緑という反対色の混ざり具合と馴染み具合に惚れ惚れ。ところどころに糸が毛玉のようにボコッと丸くかたまっている、という表面の小さな凹凸たちも気に入りました。(写真はだいぶ光で色がとんでしまってますが、実際はもっと落ち着いた色です。)
 レジへと向かいかけた私に、60歳ぐらいの女性の店員が寄ってきました。もちろんモンペ姿。「お姉さんが履くの? うれしいわ。東京の若い人がこれ履いてくれるのね。じゃああなた、1000円引いときます」。一方的なディスカウント成立。本当にうれしそうな笑顔で白いビニール袋に入れて、手渡してくれました。
 モンペというと足首の部分にゴムが入っているイメージですが、これは違います。見た目ではモンペと誰も思わない裾の形状。おばさんはモンペと言っていましたけれども、モンペには見えないから普通に外で履けるところがいいではありませんか。
 さあ、おばさんの笑顔に応えるべく、このモンペを履いて街へ出かけようではあるまいか。ところが、だったのです。上着に何を合わせてみても、なんだかしっくりきません。問題は、モンペのラインにありました。お尻のあたりも太もものあたりもダボっとして、裾にかけて曲線的にならだかに細まっていく。おそらく思うに、80年代半ばあたりのラインなのではないでしょうか。
 ううむ、このままでは引き下がれぬ。実家のミシンでこのラインをスリム化させようという構想がにわかに膨らんだのでありました。が、あっけなく断念。全部一旦ほどいて大改造を施さなければ無理。そう母と妹に一蹴されては涙をのむしかありません。モンペのおばさん、ごめんなさい。せめて近所のスーパーへの買い出しが限度。その代わり部屋着として大活躍して、現在に至ります。
 けれども、やっぱり大改造に挑戦してみてもよかったと少し後悔。室内と近所圏内に活躍の場をとどめておくのには、とってもとっても惜しい素材だとつくづく思うのです。久留米のおばさんたち、モンペや作務衣にこだわらない新しいデザインの久留米絣をつくっていただけないものでしょうか。絶対に売れると思うのですけれども。ニーズは絶対あるのにな。と思いつつ履き続けて、早10年。いまだに丈夫、丈夫。重宝しています。さすがに色あせてきてしまいましたが、それもまた味わい。(山本理絵)

インド人からのお礼のサリー、をいただく

2012年08月08日 | 私の数寄な一点展
 

 私の初めての海外旅行はインド。20数年前のことになります。町を歩けば、向こうからゾウがやってくるし、牛ともすれ違う。足元には牛の落とし物、天からは鳩の落とし物。そんな中、行き交うインド人たちの美しいこと、怪しいこと。まとっている衣服の面白いこと、興味深いこと。お土産として買わない手はありません。けれども、サリーを持ち帰って日本で着る機会などないだろな。そんな現実的思考に従った私は、パンジャビドレスを購入。上下バラバラで着用すれば、インドの民族衣装だなんて分かりません。のちに、ちゃっかり会社にまで着ていったのでありました。
 けれども、ときどきサリー姿のインド人とすれ違うと、こう思ったりもするのです。1着現地で仕立てておいてもよかったかもね。なので、KSさんからの思いがけない言葉に歓喜したのは言うまでもありません。「昔お世話したインド人の方からお礼にいただいたサリーがあるの。ずっと仕舞い込んであるのだけど、もらってくださらない」。しっぽフリフリ状態な私。
 つい先日、そのサリーをいただきました。ほんのり紫に傾いたようなセロリアンブルーのシルク素材。そこに配されたとても繊細な銀糸の刺繍。刺繍は3種類。両耳に帯のような刺繍、ところどころにアクセント的な刺繍、1メートルぐらいの幅で両耳いっぱいに広がる刺繍。おそらく1メートル幅の刺繍が、サリーを巻いた時に最後にふわりと肩から垂らして見せる部分になるのではないでしょうか。サリーならではの刺繍の配置にちがいないと見入ってしまいます。というきちんと考えられた刺繍のバランスを無下にすることなどできはしません。巻きスカートやスカーフに仕立てるのもありかなという、私の頭の中にぼんやりと浮かんでいたアイデアの、なんと無礼千万なこと。これらには静かに後ずさりし頭の中から退室いただいたのでした。
 これはフォーマル用のサリーということで、ボレロのような上着もセット。ちゃんと袖口にも、刺繍がぐるりと囲むように仕立てられています。ボタンはなし。生地にボタンホールなどないところがいいです。代わりに、糸で作ったループに小さなフックをひっかけて身頃の前を閉じるようになってます。ボレロの丸い立体的なラインは、KSさんの採寸に合わせたもの。一点一点の手作業をじんわり感じさせてくれます。
 いっぽう、本体(?)のサリー。こちらは5、6メートルほどの長~い生地。一切、切ったり縫ったりという箇所がありません。約4500年前のインダス文明までたどることのできる、世界最古の民族衣服らしさに頷くばかり。この長~い歴史の間、長~い生地のまま、姿形を加工されることなく今に伝わってきただなんて。シンプルなだけにバリエーションが楽しめるところがすでに完成形を成していて、進化する必要などなかったのかもしれません。着方としては、まずは下半身に巻きスカートのように巻き付けてから上半身へと被せる、という流れ。巻き方はいろいろあるそうです。地域により10以上。この、自在に形をつくれるところが、日本の民族衣装である、きものの帯を結ぶ表現に、どこか通じている気がしてなりません。
 もちろん、このサリー、眺めているだけではかわいそう。その昔、現実的に考えて「サリーは日本で着る機会がない」とパンジャビドレスを選んだ私。あれから20年あまり経過して、こう思うわけです。「着る機会がない」のなら「着る機会をつくってしまえ」。インド人とお友達になるか、インドに再び赴くか。そういえば、20年うん年前に一緒にインドに旅して、鮮やかなピンク色のサリーを買い、インドで着たまま成田空港に到着し、自宅へと堂々帰った友達が1人だけいました!記憶が急に蘇ります!イナジョー(彼女のあだ名)、いまどこにいるのかな。

 KSさん、本当にありがとうございます。なんとか着こなした姿をお見せしたいと思っています。しばしお待ちくださいませ。(山本理絵)

メヴレヴィーのセマー人形

2012年06月05日 | 私の数寄な一点展


 戸越銀座商店街を少しそれたところに「ぐるり屋」という古道具屋さんがあります。時々立ち寄るちっちゃなお店。食器、棚、レコード、バッヂ、置物、本、楽器、などが、店内にぎゅぎゅっと詰め込まれています。そこで一目惚れしたのがこの真鍮製の人形。「メヴレヴィーのセマー人形。回ること、それは神との合一!ルミー(トルコ)」という手書きメモが添えてあります。さっぱり意味不明。けれども気になる。どうやら回転する人形であることは分かります。そっと指で押してみると、スムースにくるくる。手のひらサイズですけれども、安定感ある回転ぶり。
 この人形は、首の傾け方、腕のラインの伸び方、手のひらと指の角度の作り方、それぞれのバランスと全体のバランスが絶妙。角度をいろいろ変えて見ても、黄金律ならぬ黄金角度をつくっているようで美しい。回転した時にもそれは感じさせてくれます。顔は美男というよりユーモラス。丸い鼻に口ひげにおちょぼ口。朴訥とした表情をしているくせに、シャンと完璧な角度を振付けているように見えるというバランス。思わずクスッとしてしまう。
 これは気になる。レジ台で何やら作業中の、おそらく店長さんに、この人形の正体の解説を請いました。

メヴレヴィーのセマー人形とは……
メヴレヴィーとは、イスラム教の神秘主義の教団の一つ。13世紀にルーミーが創始。20世紀初頭のトルコ革命で異端扱いされ解散させられた。セマーとは、スカートをはいた信者(男性)が音楽にあわせて、くるくると回転をし踊ることで祈りを捧げる宗教行為。回転は宇宙の運行を表し、回転により神との一体を図る。現在、古都コンヤにある霊廟は博物館として開放されており、旋舞はルーミーの命日(12月17日)から1週間ほど披露されている。YouTubeなどに動画もあり。

 ルーミーという人物は、著書も何冊かあり、「詩作が素晴らしい」と店長さんは語ります。古道具屋を営む人は詳しい。さすが。すると店長さんは明かしました。
 じつは、古道具をいろいろ仕入れる時に元の持ち主にいろいろ訊くそうなのですが、分からないことも多いのだとか。なので、持ち帰ってから、一生懸命インターネットなどで検索して調査。小さなキーワードや形の手がかりから、少しずつ正体に近づいていく。それでもハテナマークの残ってしまうモノはどうしてもある。けれども、別のモノについていろいろ調査をしていくうちに、ある日、ふと以前分からなかったモノとの接点が表れて、スパーンと世界が結びつく。思いがけないところから、正体が明らかになることがあるそうです。「そこがこの仕事の面白いところでもあるんですよね」。

 この人形、即持ち帰りたかったのですが、持ち物を増やさない主義でいこうと決断したばかりだった私は、ひとまずお別れ。店に来てはこの人形を回転させて楽しむ人もいるとのこと。次回来た時にはなくなっている可能性が高いといえます。けれども、数週間後に立ち寄った時、私はこのセマー人形と再会できたのでした。
 というわけで、テレビの横でセマー人形はくるくる我が家で踊っています。(山本理絵)


動物だくさんのキリム

2012年06月02日 | 私の数寄な一点展


 10年以上前にソファーを物色していた時のこと。展示してあるソファー、の下に敷いてあるキリムが気になってしまいました。しばらく後にたまたま「キリム」の看板に遭遇。そのまますーっと入店。すすーっと衝動買い。といういきさつで出会ったのが、この1枚です。
 そのお店には、キリムがミルフィールのようにデデーンと積まれていました。重たい1枚1枚を順にめくっては眺め、好みの1枚を探すなど、シロウト客には無理な状態。「動物がモチーフになっているものを探しているのですけど」というなんとなしの希望を口にしたところ「そういう探し方をする人は珍しい」との返事。後で知ったのですが、動物モチーフ主体のキリム自体が少ないようです。珍しいと言われるのも無理ありません。「確か、何枚かあったはず」と、高々と積まれた重たいキリムをパッターン、パッターンとめくっては獲物を探す店員さん。しばらくして堆積キリム層の中から3枚が捕獲されました。
 悩んだ挙げ句、我が家に迎え入れる1枚を選出。一番動物の数が多く賑やか、そして色彩が無難、というのがその理由です。「50年ほど前に織られたもの」と当時、説明を受けたようなかすかな記憶あり。ここの色はくるみ、ここはザクロで染められ、どこどこあたりで作られたキリム…といったウンチクもいろいろ教えてもらったというのに、悲しいかな今となってはすっかり忘却の彼方へ。

 キリムとは、約6000年前から、ペルシャの遊牧民が敷物・テント・間仕切り、袋などとして使ってきた織物。アフリカ、中近東、中央アジア、インドなどの遊牧民が、移動生活の中で日々使うものなので、絨毯よりも丈夫で軽い特徴を持ちます。家畜からウールを紡ぎ、周囲に繁る草木で染色。遊牧民たちは、アニミズムやシャーマニズム、偶像崇拝禁止のイスラム教徒が多いようです。そのせいか、キリムの模様には、それぞれにシンボルとして何かしらの意味が込められているとのこと。幸せ、豊穣を意味する星、魔除けの目、生命の水流、子孫繁栄の箱。他にも羊の角や狼の口、鳥、サソリを表す、さまざまな模様が見られます。
 このキリムにも、動物の間にまでいくつもの模様が犇めいています。サソリかな? 星かな? 川かな? などと分からない模様のオンパレード。動物にしても、馬や鳥や人はよく分かるのですが、ヤギらしき動物、ネコらしき動物など、正体不明も散らばっています。
 一見シンメトリーのようでアシンメトリー。同じに見える動物や模様も、一個一個違っています。模様の配置にも、ルールがあるようで、じつはそうではない。左右に並ぶ数が違っていたり、長さがズレていたり。きちっとした形式や厳密なルールを気にしていない、自由な構成や並びが見られます。そこに潜んでいるのかもしれません。このキリムが、イキイキして見えて飽きさせない秘密。
 私は特に、人や動物の胴体の中に別の動物が配置されているところが気に入っています。「星の王子様」に登場する「ゾウを飲み込んだウワバミ」の絵のよう。食物連鎖でも表現しているのでしょうか。それとも輪廻転生だとか内なるコスモスなど、表現しているのでしょうか。

 キリムを織るのは女性の仕事。母から娘へと伝えられる手作業なのだそうです。ですから、デザインも色彩も同じものはありません。ナントカ流とかナントカ派というのは、もちろんなし。文化として受け継ぐとか、頑なに守ろうをいった気負いや堅苦しさはいっさい感じられない。他人に見せようとか、作品をつくろうとか、商品として売ろうとか、おそらくそういった気持ちは彼女達にはなかったのではないでしょうか。ただひたすら、家族のために、家族を想って織っていた。だからこそ、なんともいえぬ温もりがこのキリムからは伝わってくるのでは。とも思うのです。
 敷き始めて10年以上が経過しましたが、いい加減な手入れしかしていないというのに丈夫、丈夫。温もりもまったく色褪せていません。(山本理絵)



伊勢和紙でつくる名刺

2012年06月01日 | 私の数寄な一点展


 新しい名利は、和紙でつくるのだ。そう決めこんでいました。どこの和紙にしようかなといろいろ検討。まさかないでしょうと思いつつ、生まれた土地の名前を入力して検索してみたら、ヒットするではありませんか。その名は、伊勢和紙。知ってしまったからには、伊勢和紙で名刺をつくるほかありません。
 その前にリサーチ。手触りは一応は確かめてみたいもの。けれども、なかなか東京では売っていないもようです。そこで、伊勢出身の母親にヒアリング。すると「外宮さんの近くにお店があったと思う。おじいちゃんならよく知ってたかも」との情報が。祖父はとっくに天国。ならばと直接、大豊和紙工業さんにコンタクト。すると、とってもご親切なことに、見本の名刺を郵送してくださったのでした。ところが、色は真っ白しかないとのこと。無垢な心の持ち主でない私に純白は不似合いなわけです。できれば、草木染めのような色がいい。それに、もっともっと荒削りで無骨な植物の繊維を感じさせる手触りがいい。などと、次々と欲が出てしまう。
 大豊和紙工業の社長、中北さんいわく、「4月、5月になれば(3月のやりとり)少しづつバリエーションもできていくと思います。手漉きの作業は順次進めていて、そのときどきの原料の残りで名刺も作っていこうと職人さんたちと話をしていたところです。チリの入った未晒し楮や、藍染めの名刺や杉皮を砕いて入れたものなど考えています」とのこと。こんな小口の個人客に、なんてご丁寧な対応なのでしょう。けれども、名刺づくりに1、2ヶ月も待てません。私は、後ろ髪をひかれつつ和紙名刺を断念。次に刷るタイミングに、満を持してお願いすることにしようと誓ったのでした。耳付き(淵が直線的に裁断されていない)和紙への印刷は難しそうですから、印刷会社も限られてしまうはず。印刷ではなくハンコを作って押すという手もあります。和紙の名刺らしさを活かすにはどうすればいいか。そんなアイデアも固めながら。
「はい、それならすぐに送付しますね」と簡単に和紙名刺が実現しなくて、今ではよかったと思っています。すぐに出来上がらずに、時間がかかるものをじっくり待って、ようやくお目にかかれるほうが、愛着もわくというもの。名刺ですから、愛着わきすぎて配りたくなくなるのも困りますが。これだ!という色と風合いの伊勢和紙に出会えることを、気長に待ちたいと思います。そもそも、伊勢神宮に和紙を代々奉納している会社に、名刺をつくってもらうなんて、今の私には贅沢すぎますしね。
 「今回は普通の紙で名刺を作ることにします」とお伝えしてから3か月あまり。6月の下旬に、中北さんから「藍染めの名刺出来上がりました」と写真付きのメールが届きました。「藍染めの名刺が約200枚出来上がりましたのでご案内申しあげます。20枚で税込840円です」とのこと。お値段も良心的。けれども、私はまだまだ名刺の残量が豊富なので今回は見送り。藍染め名刺は、とても涼しげで今の季節にもぴったり。こんな名刺を差し出してみたいけれども、差し出されてもみたい。

 中北さんの会社のホームページでは、和紙にまつわる歴史の記述などもあり面白いです。三重県生まれの本居宣長「玉勝間」の一節も掲載されていたので、転載します。

~~紙の用、物を書く外いと多し。まづ物を包むこと、また箱籠の類ひに張て器となす事。又かうより、かんでこよりと云ふ物にして物を結ぶ事などなり。これらの外にも猶ことにふれて多かるべし。然るにもろこしの紙は唯だ物を書くにのみ宜しくて、件の事どもにはいといと不便にぞありけり。かくて皇国には国々より出る紙のいと多くて、厚きうすき、強(こわ)きやはらかなる、さまざまあげも尽くしがたけれど、物書くにはなほ唐の紙に及(し)くものなし。人はいかがおぼゆらむ知らず。我は然(しか)おぼゆるなり。~~~

 日本の紙は用途が多い。書写材料としてだけではない。という内容だそう。本居宣長は、短い期間ですが、紙屋さんの養子となっていた記録があります。その体験がくだんの一節に反映されているのかもしれません。本居宣長の言葉通り、中北さんの会社では、伊勢和紙の可能性を模索されています。写真プリント用の和紙もあるとは意外。中北さん、今後とも、名刺に限らず新作のご案内をどうぞよろしくお願いいたします。(山本理絵)