TAOコンサル『市民派アートコレクターズクラブ』

「注目の現代作家と画廊散歩」
「我がルオー・サロン」
「心に響いた名画・名品」
「アート市民たち(コレクター他)」

藤岡れい子展@ぎゃらりぃサムホール

2012年11月02日 | 気になる展覧会探訪


 藤岡さんは「水」をテーマにずっと作品を描かれている。そんなお話を以前聞いた時、なぜ「水」を選んだのか、いつか伺ってみたいなと思っていました。
 チャンス到来。個展を初めて観に行ったのですが、会場にご本人の姿があったのです。他の方とお話をしてらっしゃったので、まずはとにかく鑑賞。どのキャンバスにも、描かれていたのは「水」。といっても、いわゆる透明の水ではない水の姿でした。光の反射、水紋、ゆらぎ、きらめき、水面に映り込む景色など。「水」そのものではあるのですが、風や光や色や季節や肌触りや匂いなど、別の何かを受け止め、受け入れた「水」の姿がそこにはありました。水といえば、蛇口をひねれば棒状に流れ出るものだったり、プールの中に四角く詰め込まれたものだったり、放物線を描きながらしぶきをあげる噴水を想像しがち。けれども思い浮かべてみると、羊水、海水、泥水、清水、雨水……水の佇まいは色々。それは漢字を眺めても分かります。水の流れを表している「三水偏」の文字は1700以上もあるとか。雨を部首に持つものも300以上。あらためて「水」の姿形の限りなさや包容力といったものに思いを馳せずにはいられません。
 映画「SAYURI」の冒頭には、こんなモノローグがあります。……私は水の性分だと言われる。水はとめどなく流れ続け、岩に当たっても方向を変えて流れ続けていく……。どんな環境も受け入れて順応していき、さまざまに形を変えながらも確かに存在している、という主人公の運命や生き方を水にたとえています。水の描写も随所に行き届いていた映画だったような気がします。
 作品をひと通り見終えた時、藤岡さんは他の方とはもうお話をしていませんでした。でも、なぜ「水」がテーマなのでしょうかなどとご本人に尋ねるのは野暮というものだなー、と感じたのでした。ところで、藤岡さんのお名前「れい」の漢字も、偏は「ニ水」でなくて「三水」。水がたおやかに流れています。(山本理絵)

(ぎゃらりぃサムホール 東京都中央区銀座7-10-11 日本アニメーションビル2階)

関根淳伸展@新井画廊

2012年11月02日 | 気になる展覧会探訪
 土佐育也氏に誘われ、ご友人関根淳伸氏の個展に出かけた。土佐氏と私は同じ損保業界出身のシステムコーディネーター、時々ランチをしたり美術館を訪ねる等の交流が続いている。この日はこのコーナーにアート記事を書いている山本理絵さんを誘って出かけた。(山)

(左から2番目が関根淳伸氏) 

関根さんは元SE。定年を待ちきれずに退職して、翌日にはアルプスの山に向かって筆を握っていたとか。以来20年、韮崎で山々を描き続けています。誰にも教わらず、ただただ山に入って、山と向き合っての独学。最初はずっと山に圧倒されっぱなしだったそうです。そんな山たちが包み込んでくるプレッシャーから開放されるまで、要した歳月は10年。開放されてからというもの、「絵が変わった。柔らかくなった」と、関根さんの絵を長年見てきたおヒゲの演劇人は頷きながら教えてくれました。筆の使い方や色の塗り方といった技の研磨も影響しているのかもしれません。けれども、きっとそれは瑣末なこと。そんなことよりも、山と対峙した時の関根さんの心の状態が、10年の間にゆっくりとおおらかに変わってきたからこそ、絵が柔らかく変わってきたに違いありません。ふと、「スモーク」という映画のシーンを思い出します。10年以上も毎日、同じ時間に同じ場所で同じ街角の風景写真を主人公は撮り続けます。けれども行き交う人が違うから、同じ場所でも違って見えるーー。アルプスの山々は何にも変わっていないのに、それに向き合う人間の心の状態が変わったから、山も違って見えるし、絵への表現も変わってきたといえるのではないでしょうか。
 後日、関根さんから、お礼状が届きました。そこにはこんな一節が。「~ある日、小学3年生の男の子に『おじさんの絵は前よりよくなった』と云ってもらいました~中略~次回は『ダメダメ』と云われないように努力する所存です~」。芸術に詳しそうな演劇人の審美眼と純粋な少年の目が期せずして一致しているところも興味深いのですが、小学3年生の意見を葉書に書き留めて伝えるという関根さんの喜び方がいいなと思ったのでした。(山本理絵)

※新井画廊(中央区銀座7-10-8)