硝子戸の外へ。

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体罰は是か非か。 その2

2013-01-14 17:19:31 | 日記
多種多様な人間の集団の統制を図る場合、恐怖という方法はその手段の一つである。
恐怖を与える者が恐怖を与える行為の中に愛情や思いやりという感情が宿っていると思っていても、恐怖を受け取る側にはその愛情や思いやりを受信できるとは限らない。そこに思考の落ち度がある。教育者であるならばこのズレに気づいていなければ、自身者にとってそれは只の暴力行為でしかない事を意識しなければならなかったはずである。

配慮のない体罰はどんなに飾ろうとも、暴力行為でしかない。

体罰を持って統制を図ろうとするならば、それこそ信頼関係がそこに築かれていなければならない。
その事について顧問はどう思っていたのだろうか。結果を出している。それが=部員との信頼関係の証であるとでも思っていたのであろうか。人間の感情は複雑である。もしそう思っていたならば大変な驕りであったとしか思えない。

結果は目標として必要であるし、努力する為のモチベーションもある。達成した時の幸福感や努力しても目標を達成できなかった時の挫折感を多感な時期に体験しておくことは大切である。しかし、多感な時期だからこそ、些細な事によって歪みが生じてしまうことを予測しておくべきであったと思う。もし、学校の知名度を上げる事が結果の最大の目的であったなら、ビジネスであったらまだしも、本来の目的から逸脱しているように思われる。

そう考えると、彼の周りにいた大人と呼ばれる人達、彼の様子に気づいても口に出せない雰囲気を作り出していた者たちは、彼がそこまで追い込まれている事に気がつかないのも頷ける。

なぜなら、大人たちが大切だったのは、彼の人生ではなく、私達の職であったからなんだろうと思うのです。

自身の職を大切に思うのは自然であるけれど、他者を犠牲にしてまですることであろうかと考えるのです。

そう思うと問題の根はかなり深い。

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