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映画の王様

映画のことなら何でも書く

「蒲田パレス座」9『タップス』『未知への飛行』『天国の門』

2022-12-06 06:12:01 | 違いのわかる映画館

『タップス』(81)(1982.11.1.)

 小森のおばちゃまが、やけに褒めているのを耳にし、これはまた甘い青春ドラマなのかなと思っていたら、どうしてどうして、実にシリアスな一級の映画だった。おばちゃまごめんなさい。

 学校の閉鎖に反対する生徒たちが、武器を手に立ち上がったというだけでは、ちょっと過激な学園紛争ドラマで終わってしまうが、この映画の場合、舞台が仕官養成学校、つまり軍隊一歩手前の教育現場であり、そこで軍隊式の教育を受け、外部との接触もほとんど持たずに、閉鎖的な生活を送る若者たちが主人公となれば、話は込み入ってくる。

 彼らにとっては、校長でもある将軍(ジョージ・C・スコット)の言葉は神格化され、知らず知らずのうちにその言葉に縛られ、正常な判断を見失っていく。

 分別のある大人ならともかく、彼らはまだ若く、中には子どもまでいるのだ。価値観や生きがいを見付けにくい今の世の中にあって、目の前に分かりやすい名誉や地位が転がっていれば、それに飛びつくのは当たり前だ。

 考えたら、これはちょっとしたファシズムであり、死を美化して名誉と結び付ければ日本の特攻隊と変わりはしない。しかも、彼らは一本気で真面目な性格だから、なおさらこうしたシステムに魅力を感じるのだろう。

 だから、彼らの姿が、『動乱』(80)などで描かれた2・26事件における青年将校たちの姿と重なるところもある。どんな国であっても、偏った教育は悲劇を生み、やがてはその国を不幸に陥れかねない。そんな警鐘を鳴らしてくれた映画だったという気がする。監督はハロルド・ベッカー。

 リーダー役の青年を演じたティモシー・ハットンが、『普通の人々』(80)の息子役からさらに成長し、この難役を見事に演じ切っていた。期待の新人が登場した。

【今の一言】この頃は、生徒役で共演したトム・クルーズやショーン・ペンをしのいで、ティモシー・ハットンが一番星だったのだ。


『未知への飛行』(64)

 アメリカの軍事コンピューターが、誤ってソ連に対する核攻撃指令を発する。命令を受けた爆撃機は、直ちにモスクワへ向けて発進、帰還可能ポイント=フェイル・セイフ(映画の原題)を超えてしまう。

 やっと日本で公開されたこの映画は、1964年製作だから、今から18年前の映画ということになる。これには実に驚いた。こんなにすごい映画を18年も前に作り、しかも、今でも核の恐ろしさを伝え得る力を十分に持っているのだから。

 時代背景に、米ソの冷戦があったにせよ、ここまでの映画にしたのは、まさに監督シドニー・ルメットの力であり、大統領役のヘンリー・フォンダをはじめとする、キャストの熱のこもった演技の賜物だろう。

 この映画の前は、『渚にて』(59)を除けば、アメリカ映画の描く核戦争の世界は、どこか楽天的だったような気がする。核戦争が起きれば、そこには、もはや絶望と死しかないはずなのに、生き残った者たちによる、アドベンチャー風のストーリーを作り上げてきた。そこには核の恐ろしさを感じることもない。

 それに比べて、この映画が優れているのは、米ソ首脳の姿だけを描く手法、つまり、鳥瞰図的な視点で押し通し、見ている我々に、レーダーを追うサスペンスを感じさせ、彼ら首脳と同じ気分にさせて、一種高尚なゲームのやり取りや駆け引きを味合わせる。

 ところが、もしこの映画のようなことが現実に起こったら、首脳が勝手に決めた安全策で、跡形もなく消されてしまうのは、我々市民なのだということに気付いてゾッとさせられる。そうした恐怖を、我々に感じさせただけでも、この映画の存在は大きいといえるだろう。

 映画は所詮娯楽に過ぎないのだが、たかが映画は、こんなに恐ろしく、切実なメッセージを、伝えることもまた可能なのである。

 


『天国の門』(80)

https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/1f34980b493bc90fff77535d71b9993a

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「蒲田パレス座」ポルノ編

2022-12-05 22:37:27 | 違いのわかる映画館

 ここは、オデヲン座と同じように、一般作とポルノを交互に上映していた。なので時々そういう映画も見た。


『タブー・セックス 恥辱』(80)(1982.4.3.)

 昼寝するには映画館がいいということでパレス座へ。余計体が痛くなって最悪だったが、ケイ・パーカーという、妙に色っぽい女優を発見した。


『メンズ・クリーム 汚女』(82)(1983.2.15.)

グロリア・レナード

『アネット・ヘブン 淫肉エアロビクス』(81)

 試験中はレポートが重なったこともあってバイトを休む。おかげでちよっとした暇ができた。まともな映画を見るとかえって疲れそうな気がしたので、パレス座で時間つぶし。居眠りしながら、ちらちらと見ていたのだが、この映画はちょっとした拾い物だった。

 外国のポルノ映画は、ただセックスシーンを見せればいいと思っているのかもしれないが、何の必然性もなく、いきなりそのシーンが始まることが多いが、この映画は、ストーリーが割としっかりしていた。それにしても、日本の配給会社が付けるタイトルは笑える。この映画にしても、原題は主人公の名前の「チャーリー」なのに…。しかも、主演はアネット・ヘブンではなくジェシー・セント・ジェームズだった。


『ベロニカ・ハートのクレイジー・デルタ』(81)(1983.4.10.)


『令嬢物語 ハードコア』(81)(1983.9.11.)

ベロニカ・ハート


『毛皮のビーナス』(69)(1983.12.26.)

ラウラ・アントネッリ

『聖女アフロディーテ』(82)

バレリー・カプリスキー

『チェーン・ヒート』(83)

リンダ・ブレア


『ビッチ・ウーマン 中年妻の背徳』(84)(1984.6.18.)

リー・キャロル


 

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「蒲田パレス座」7『普通の人々』『チャンプ』

2022-12-05 13:19:06 | 違いのわかる映画館

『普通の人々』(80)(1981.11.5.)

 ロバート・レッドフォードが、監督第一作目で、アカデミー賞の作品、監督、助演男優、脚色賞を受賞しただけあって、とても前評判が高い映画だった。

 遅ればせながら見てみたが、正直なところ、あまりピンとこなかった。“普通の人々”とはいうものの、庭付きの結構広い家に住み、マイカーを所有し、週末やクリスマスはゴルフやパーティ…。これらを見せられると、やはりアメリカだなあという感慨を抱かされる。日本の“普通の人々”の生活水準と比べて見てしまうからかもしれないが、どこか違う世界のお話のように見えてしまうのだ。

 確かに、この映画が描いた、父(ドナルド・サザーランド)、母(メアリー・タイラー・ムーア)、息子(ティモシー・ハットン)の三者三様の心の葛藤は、形は違えど、どこの家族にも存在するものだろう。けれども質が違う。最近、日本でも、女性の自立が叫ばれているが、欧米に比べればまだまだその足元にも及ばない。

 この映画の母親のように、自分の世界を持ち、それを守ろうとする女性像は、まだまだ珍しいものとして映る。また、息子を治療する精神分析医(ジャド・ハーシュ)の存在も、甚だアメリカ的だ。

 この映画で描かれている家族が、本当にアメリカの“普通の人々”なのだろうか。だとすれば、中流、あるいは上流階級という地位に溺れてしまった人々の甘えから生じる問題がアメリカの病の素なのか、という疑問が拭い切れない。

 この映画の登場人物たちは、みんなどこか甘えているように見える。別に貧しいわけでもないのに、ただ互いに傷つけあって、本音を隠し合って生きている。貧しい家に育った自分から見れば、うらやましささえ感じてしまう。そんな家族だから、何か大きな事件が起これば一瞬にして崩壊してしまうのだ。

 アメリカでは、この映画を見た人たちが絶賛したのだという。何のことはない。みんな「自分は中流だ。上流だ」という意識があるから、この映画に感情移入することができたのだろう。

 自分としては、同時期に見たドキュメンタリーの『アメリカン・バイオレンス』(81)の方が衝撃的だった。アメリカの病の本当の根っこは、こんな中流家族の問題よりも、もっと恐ろしく、奥深いところにあるはずだ。

 などと書いてきて、ちょっと、中流、上流階級に対するコンプレックスが出過ぎたかなと反省。

 息子の精神状態を、徐々に解き明かしていくという手法は、謎解きの要素もあって効果を上げている。出演者も、それぞれ、難しい心理表現を見事に行っている。中でも、精神分析医役のジャド・ハーシュが光る。確かに、監督第一作目でこれだけの心理劇を撮ったレッドフォードの手腕はたいしたものなのだろう。

【今の一言】今から40年前、貧乏大学生は、この映画を見てこんなふうに感じたのだ。あの頃から見れば、一見、日本人の生活レベルは向上し、女性の自立も進んだかに思えるが、果たして本当にそうなのだろうかという気もする。


『チャンプ』(79)(再)(1980.11.24.丸の内ピカデリー.併映は『クレイマー、クレイマー』)

 とにかく泣かせてくれる映画だ。何と言っても、子役のリッキー・シュローダーがお見事。憎らしいほどうまくて、抱き締めてやりたくなるぐらいかわいい。

 例えば、スーツを着てはにかむところ、馬への愛情を示すところ、父親をたしなめるところ、父親との別れ、再会、そしてラストの「チャンプ・ウェークアップ」の叫び…。いやはやまいりましたという感じ。

 加えて、父母役のジョン・ボイト、フェイ・ダナウェイのうまさ、アーサー・ヒル、エリシャ・クック・ジュニア、ジャック・ウォーデンという隙のない脇役たち。フランコ・ゼフェレッリの泣かせの演出、デーブ・グルーシンの甘美な音楽…。

 子どもが死んでしまう悲劇の映画は多いが、この映画は父親が死んでしまう。それも、ボイトの見事なファイトシーンの後の実にあっけない死。これではまるで『がんばれ元気』のシャーク堀口じゃないか。だが、最後に、この男は初めて本当の意味のチャンプになれたのかもしれない。

 それにしても、このシュローダーといい、『クレイマー、クレイマー』のジャスティン・ヘンリーといい、アメリカ映画の子役は皆すごいなあ。

名セリフ「パンツを一人で脱げないのは男じゃないんだぞ」

【今の一言】この映画、最初は当時付き合っていた彼女と一緒に見たのだが、この時はもう振られていたので一人で見たのだった。

 

 

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「蒲田パレス座」6『未来元年破壊都市』『宇宙の7人』『アルタード・ステイツ 未知への挑戦』

2022-12-03 06:17:48 | 違いのわかる映画館

 パレス座で3本立て。今回はSF特集(といえば、聞こえはいいが…)。

『未来元年破壊都市』(79)(1981.11.2.)

 以前、『世界が燃えつきる日』(77)という映画を見た時に、核戦争後の地球の描き方の甘さに怒りを覚えた記憶がある。まるでアドベンチャー風のストーリーで、核の恐怖や、核戦争がもたらす悲惨さなどは全く伝わってこなかったからだ。

 残念ながら、この映画にも同様のことが当てはまる。復讐あり、撃ち合いありで、あたかも、SF風の西部劇のようで…。アメリカ人は楽観的といおうか、所詮は映画なのだから、ただ楽しめればいいと思っているようだ。

 核の恐怖が叫ばれてから、いろいろな映画が作られている。古くは『渚にて』(59)や日本の『世界大戦争』(61)、最近では、『猿の惑星』シリーズや前出の『世界が燃えつきる日』、そして日本の『復活の日』(80)…。

 これらの中でも、佳作と呼べるのは、『渚にて』と『世界大戦争』、またアイデアの素晴らしさも含めて、最初の『猿の惑星』(68)ぐらいだろう。ほかのほとんどの作品が楽観的なのに対して、これら3作は絶望的なのだ。

 この絶望こそが、核戦争後の地球の姿だろう。この映画のように全く絶望感がないものは、逆の意味で怖いのである。

 ひょっとしたらアメリカは、核戦争後も、平気で生きていけると思っているのかもしれない。そんな少々大げさな疑問も湧いてくる。そんなわけで、時代遅れ的なものを感じさせる映画だった。

 映画そのものは散々だったが、アーネスト・ボーグナインのほか、いかれた軍曹役のアート・カーニー、略奪者の親方役のアンソニー・ジェームズ(相変わらずの変質者ぶり)など、脇役は面白く、しかも、あのウッディ・ストロードの姿を見た時は思わず感動させられた。随分年は取っていたが、あのスリムなボディは健在だった。彼らを見られただけで良しとしよう。


『宇宙の7人』(80)

 タイトルを見た時から、きっとまた『七人の侍』(54)のパロディ的なものなのだろうという、嫌な予感はしていたが、その予想は見事に当たってしまった。

 よく出来ていれば、「スペースファンタジー版『七人の侍』」とでもなるのだろうが、お世辞にもそんなことは言えない出来だった。多分、半分子ども向けに作られたのだと思うが、『スター・ウォーズ』(77)のようなハチャメチャな面白さも、『未知との遭遇』(77)のような哲学的なメッセージ性もない。

 ただ、七人集めて敵と戦うというパターンに、個々の宇宙船に乗ったキャラクターを当てはめただけで終わってしまっている(『荒野の七人』(60)に出ていたロバート・ボーンが、この映画にも出ているところは面白かった)。

 また、監督がジミー・T・ムラカミという日系人だからか、妙に浪花節的なストーリー展開がある(それ故、日本人には見やすいところもあるのかもしれない)。何と言っても、主人公のカップルを残して、あとはみんな名誉の戦死を遂げるのだから。

 こういう映画を見ると、アメリカもバカな映画をたくさん作っているだなあ、という変な安心感を持たされる。

【今の一言】この映画の製作総指揮はロジャー・コーマン、脚本はジョン・セイルズ、音楽はジェームズ・ホーナー、特撮スタッフの一人にジェームズ・キャメロン…。今では信じられないようなスタッフが作ったのだ。


『アルタード・ステーツ 未知への挑戦』(80)

https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/c67a90d39617af78d6136c4ebe402d9e

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「蒲田パレス座」5『ガールズ』『プライベート・レッスン』『殺しのドレス』

2022-12-02 10:03:06 | 違いのわかる映画館

『ガールズ』(79)(1981.9.9.)

 友情は男の特権じゃありませんよ、といわんばかりの映画。4人のハイティーンたちの進んだ行動には恐れ入った。遊び回って、子どもが出来て、それをおろすための費用を調達するために男をたぶらかす。これが友情なのか? と情けない思いをしながらで見ていた。

 で、ここまでだったら、何のことはない話だが、仲間の一人がたぶらかした男に犯され、彼女の本当の素性もバレてしまう。さて、ここからが本当の友情物語になるのである。

 落ちるところまで落ちてしまった仲間をどうするか…。というわけで、ラストはちょっぴり考えさせられはするが、ここまでしないと本当の友情は生まれないのか、というのが実感だった。監督は『エマニエル夫人』(74)のジュスト・ジャカン。

【今の一言】仲間の一人がアンヌ・パリローだったようだが、全く覚えていない。


『プライベート・レッスン』(81)

 何じゃこれは! 金持ちのボンボンの火遊びに、ちょっぴり細工を加えただけじゃないか。こんなの1本じゃ金を払って見る気にもならないが、3本立てだから仕方ない。

 しわの増えたシルビア・クリステルと、かわいげのないませたガキとのラブシーンだけに目を注いで、あとは暇を持て余す始末。

【今の一言】と、酷評しているが、要は主人公に嫉妬していただけなのかもしれない。この映画でアメリカ映画に進出したクリステルだったが、結局うまく行かず、先年亡くなった。


『殺しのドレス』(80)

 これが目当てだった。あとの2本はどうでもいい。これさえ満足させてくれる映画なら。何たって監督はブライアン・デ・パルマだもんな、と期待をしながら見始めた。

 いきなり出だしから引きつけられた。ヒッチコックの『サイコ』(60)のジャネット・リーをほうふつとさせる、アンジー・ディキンソンの何ともエロチックなシャワーシーン、そして移動撮影を駆使した美術館のシーン、タクシー内での情事、エレベーター内の殺人へと続いていくのだが、デ・バルマお得意の移動撮影、カットバック、スローモーションがフルに活用され、ビノ・ドナジオの甘美な音楽の効果もあって、一瞬たりとも目が離せない。

 そして、殺人を目撃したナンシー・アレン演じる売春婦と、殺された女(ディキンソン)の息子(キース・ゴードン)が手を組んで犯人を追っていくのだが、最初に女が殺され、男女のカップルが犯人を追い詰めていく点、あるいは、犯人が女装した性的倒錯者である点など、ここでも『サイコ』の影が浮かんできてしまう。

 恐らく『サイコ』の存在がなければ、この映画が生まれなかったことだけは確かだろう。その点、ヒッチコックのものまねと言えなくもないが、とはいえ、この映画はデ・パルマでなければ撮れなかっただろうとも思う。

 ヒッチコックにこれほどエロチックな映画が撮れるかといえば、それは疑問だし、ニューヨークの描写にも独特のものがある。この映画は、病的な街・ニューヨークの存在がなければ成り立たないのだから。

 そして、ラストにもう二つばかり、デ・パルマのしゃれたサービスが用意されていた。いやはや、楽しませてくれました。この映画を見ると、デ・パルマがヒッチコックの後継者と呼ばれることに異論はなくなった。
 
 それにしても、ナンシー・アレンのあばずれ女ぶりが、よかったなあ。

【今の一言】これを読むと、40年前は、われながら随分デ・パルマのことを買っていたんだなあと思う。

 

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「蒲田パレス座」10『マッドマックス』『マッドマックス2』

2022-12-01 13:32:51 | 違いのわかる映画館

『マッドマックス』(79)『マッドマックス2』(81)(1983.6.29.)

https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/615bcdf38735ab0b704554eb7a875d8c

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「蒲田パレス座」8『ジェラシー』『ミッドナイト・クロス』

2022-11-30 18:11:06 | 違いのわかる映画館

『ジェラシー』(79)(1982.6.21.)

https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/ffb3a82504af584a6c80804dc91170b5

『ミッドナイト・クロス』(81)

https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/f3f733cdf2313994765e94d173c6c248


 

 

 

 

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「蒲田パレス座」4『クルージング』『ラスト・ワルツ』『アメリカン・ジゴロ』オールナイト

2022-11-28 23:27:25 | 違いのわかる映画館

『クルージング』(80)(1981.7.4.オールナイト)

 ゲイの男たちが被害者となった連続殺人事件の捜査のため、おとり捜査でゲイの世界に潜入した警官スティーブ・バーンズ(アル・パチーノ)が、葛藤しながらも、やがてゲイの世界の熱気に取り込まれていく様子を描く。

 今までも、ゲイを扱った映画はあったが、これほど直接的に、その世界を見せられたのは初めてだった。『フレンチ・コネクション』(71)『エクソシスト』(73)など、見世物的な映画を作らせたらなかなかのウィリアム・フリードキンが監督しただけに、かなりハードな描写があった。特に、秘密ゲイバーで繰り広げられる狂態はすさまじかった(フリードキンが同じくゲイを扱った『真夜中のパーティ』(70)は未見)。

 一体、何が彼らをこうした世界に引き込むのだろう。最初の殺人事件の被害者と犯人との間でこんな会話があった。「どうしてこんな所に来たの?」「愛が欲しいからさ」。つまり、愛に飢えた男たちの行き着く先ということなのか。いずれにしても、自分の理解の及ばないところで、こうした世界が歴然と存在していることだけは確かだ。

 この映画の主人公のスティーブのように、全くその気がなくても、その世界に染まってしまう怖さが描かれる。男の精神の奥底に、こうした欲望が隠れているのだろうか。それが、何かのはずみで現れてくるのだとしたら、自分だって分からないと思わされる。あな恐ろしや。

 パチーノには、本当に感心してしまう。ちょっと病的な役をやらせたら、彼の右に出る者はいないだろう。だからこそ、今の病めるアメリカに、彼の存在価値があるのだろう。

【今の一言】今なら珍しくもない題材だろうが、40年前は奇異なものとして捉えられていた気がする。隔世の感がある。


『ラスト・ワルツ』(78)

 ザ・バンドが、1976年11月25日にサンフランシスコのウインターランドで行った解散ライブの模様を記録したドキュメンタリー映画。監督はマーティン・スコセッシ。 

 ザ・バンドのことはよく知らなかったので、もっとハードロックっぽいものを勝手に想像していたのだが、どうして、どうして、さまざまな音楽の要素がぶち込まれたライブの記録だった。まあ、彼らに言わせれば「さまざまな音楽の行き着く先がロックだ」となるのだから、当然なのだろうけど。

 それにしても集まったメンバーのすごいこと。主役のザ・バンド(ロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、リック・ダンコ、レボン・ヘルム)のほか、相変わらず病的なニール・ヤングとジョニ・ミッチェル、ヴァン・モリソンとニール・ダイヤモンドの圧倒的な声量、ロックギターの雄・エリック・クラプトンとロバートソンとの競演、黒人ブルースのマディ・ウォーターズまでもが顔を出し、最後は大御所・ボブ・ディランが登場し、おまけにロン・ウッドとリンゴ・スターがくっ付いて…。よくもまあ、これだけ集まったものだ。

 『ウッドストック』が示した、ジャンルを超えた音楽の力や連帯感、エネルギーのぶつかり合いが、この映画でも見られた。加えて、ザ・バンドの面々の生きざまを、彼ら自身が語っていく。

 そこには自然と、プレスリー、ベトナム戦争、ニューヨークの魔力といった話題が飛び出し、何となくアメリカの現代史が浮かび上がってくるところが興味深かった。そして、見終わった後は、心地よい疲労感を覚え、映画ではなくコンサートを見たような気持ちになった。

 何と、この映画は、マイケル・チャップマン、ラズロ・コバックス、ビルモス・ジグモンド、ヒロ・ナリタら、7人のカメラマンが撮ったらしい。なるほど、あの臨場感の秘密はここにあったのだ。一つだけ残念だったのは、曲の訳詞が字幕で出なかったことだ。


『アメリカン・ジゴロ』(80)

 ビバリーヒルズで金持ち女を相手に生きる高級ジゴロのジュリアン(リチャード・ギア)は、上院議員夫人のミシェル(ローレン・ハットン)と出会い、彼女を愛し始めるが、殺人事件に巻き込まれてしまう。

 『タクシードライバー』『愛のメモリー』(76)などの脚本を書いたポール・シュレイダーの監督作だが、失望させられた。ただただ、しゃれたファッションと主人公のカッコ良さに、妬みを感じながら見とれるだけ。人物描写もしっくりこないし、脚本作に見られた病根を掘り出すような鋭さもなく、ただうわべの華やかさを追っているだけのような気がする。

 だから、ジュリアンが無実の罪で逮捕された時も、全く同情は湧かず、むしろ「ざまあみろ」みたいな気持ちになった。まあそこが、上流階級やうその世界でしか生きられないジュリアンへの強烈なしっぺ返しになっているのかもしれないが…。

 最も印象に残ったのは、主題歌となった、ブロンディの「コール・ミー」だった。

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「蒲田パレス座」3『グロリア』『チャンス』

2022-11-22 00:32:32 | 違いのわかる映画館

『グロリア』(80)(1981.6.22.)

https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/ce00b8e86a1ad95fef85c884687b8cf6

『チャンス』(79)

 言葉の意味は、聞く側の解釈によっていかようにも変化する。だから、それが一国の政治に関わるようなことなら、よほど選んで発言しなければならないだろう。そこにはさまざまな思惑が含まれ、本音と建前がある。また、影響力のある人物が発言すれば、それが正しいこととして解釈されたりもする。

 この映画は、そんな状況を、見事に皮肉っている。言葉の勘違いと言ってしまえばそれまでだが、実際にこの映画のようなことがあれば(必ずしも起きないとは言えない)、それは勘違いという一言では済まされないだろう。

 何しろ、政治に全く関係のない一介の庭師が大統領に対して影響力を持ち、やがてはその対抗馬にまでされてしまうのだから。それも本人の意思ではなく、勝手に勘違いした周りが、そう仕向けているのだから怖い。

 だから、見ながら笑った後で、ふと「おや?」という気持ちになる。これは笑っているだけでは済まないぞという感じだ。

 また、テレビばかりを見て暮らしてきた主人公のチャンスのズッコケぶりも、よく考えたら笑うに笑えない。それは、チャンスや彼の周りの人々のどこかに、自分を見る思いがするからなのかもしれない。

 チャップリンの映画もそうだが、優れた喜劇映画に風刺は不可欠なのだ。その意味では、ハル・アシュビー監督大健闘の一作である。

 チャンス役のピーター・セラーズがお見事。あの「ピンク・パンサー」シリーズのクルーゾー警部とは打って変わった抑えた演技を見せる。改めてその芸達者ぶりを知らされ、亡くなったことが惜しまれた。


 

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蒲田パレス座2『ハンター』『エクスタミネーター』

2022-11-21 14:06:22 | 違いのわかる映画館

『ハンター』(80)(1981.5.1.)

 スティーブ、あんたも俺たちと同じように弱いところもある人だったんだねえ。この映画では、『大脱走』(63)『ブリット』(68)のようなカッコ良さは見られず、『ネバダ・スミス』(66)『パピヨン』(73)のような執念も見られず…。だから、あんたの出た映画の中では、カッコ悪い方に入るけど、でも、身近で、人間くさくて、正直なこの映画、俺は好きだよ。

 『真昼の決闘』(52)のゲーリー・クーパーや『ラスト・シューティスト』(76)のジョン・ウェインのように、かつてのスターが、年を取った自分に見合った役を演じるには、相当な覚悟がいると思う。それは、衰えた自分を認め、なおかつ観客にもそれを知らせることになるのだから。

 この映画でも、あのスティーブ・マックィーンが、おんぼろ車の扱いにおたおたし(『ブリット』とは大違い)、追っ掛けのシーンでは息を切らせ、屋根から屋根へのジャンプを躊躇し、敵に張り倒され、老眼鏡を掛け、「年を取った」「疲れた」などとのたまうのだ。

 そこには、アクションスターとして俺たちを酔わせた彼とは別人の男が存在した。でも、それががんと闘い亡くなった実際の彼の姿と重なって、何だか寂しさと感動で胸がいっぱいになった。どうしても、この映画を、彼の死から離れて見ることはできなかったのである。

 恐らく、彼はこの映画の撮影中に、がんとの徹底的な闘いを誓ったのだろう。だから、何もそんなところまで見せなくてもいいのにと見る側が思うような、疲れたアクションややつれた姿を必要以上に見せたのではないか。「俺は病気でこんなになっちまったけど、最後まで闘うぜ」とでもいうように。

 ところが、ラストの子どもを抱いた笑顔と「ゴッド・ブレス・ユー(お大事に)」の一言は、達観した彼が観客に向けて発した遺言のようにもとれる(そこに重なるミシェル・ルグランの音楽がまたいい)。だから、この映画は、闘いか諦めかという当時のマックィーンの揺れる心を象徴しているような気がして、とても心に残るのだ。監督はバズ・キューリック。

https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/4457863a43984a43a30d50ef1ae09aa6

「男もほれるカッコいい男」
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/c2d19a8408e75870e3711cd9305ab295


『エクスタミネーター』(80)

 B級映画(本来は、映画に等級を付けてはいけないと思うが…)にしては、なかなかの出来である。監督・脚本はジェームズ・グリッケンハウス。

 70年代以降のアメリカ映画の傾向の一つである“ベトナム帰り”ものに、超バイオレンスを加味したこの映画は、数年前にチャールズ・ブロンソンが主演した『狼よさらば』(74)を思わせる内容だが、一味違うのは、主人公(ロバート・ギンティ)がベトナム帰りであるが故に、次第に殺人に酔っていくところである。

 確かに、殺す相手は憎むべき奴らではあるが、その殺し方が尋常ではない。それは、戦場という極限状態を体験した者にしかできないすさまじいものだった。そこが、いかにも今の病めるアメリカの姿と重なるような気がして、印象に残った。

 『狼よさらば』も、この映画も、最後は主人公が生き残る。アメリカにもまだこのぐらいの良心は残っているという感じがして、殺伐とした映画のラストとしては、少しは救われる思いがした。

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