50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

ロボットは、日本から。

2007-10-16 00:18:02 | マスコミ報道
ロボットが、ついに家庭に入り始めた! そんな話題を紹介する新聞記事が、先日フィガロ紙に出ていました。


(10日付です、NECのPaPeRoが家庭文化欄の一面に出ています)

私にとってロボットといえば、はじまりは鉄腕アトム。自分で歩き、走り、自由に空を飛び、考えたり、話すこともできる・・・21世紀にはこんなロボットが誕生するのでは、という淡い期待を抱いていたものです。しかし、そうした夢もさまざまな現実の前にいつの間にか色あせ・・・忘れかけていた頃、突如、ロボットが脚光を浴び始めました。

工作機械としては、着実のにその性能を進化させていたようですが、それが二足歩行のロボットとなって登場。ホンダの“ASIMO”でした。1990年代後半。それからは他メーカーも開発に加わり、ロボットの人間化が進んでいるようです。

そうした日本のロボット開発の状況は、時々フランスのメディアも伝えています。フィガロ紙も、“La plupart viennent du Japon”(ほとんどが日本生まれだ)と紹介しています。今や、ロボットといえば日本、というイメージはしっかりと定着しているようです。


(右端がご存知アシモ、中央がフランス製の人間型ロボットで名前はナオ(Nao)、日本ぽい名前ですね)

フィガロ紙の記事は、ロボットの現状とその明るい将来を少し詳しく紹介しています。今後のロボットの活躍の場は、無限にあるに違いない・・・それは、コンピューターが誕生したとき、人はこれほどまでの可能性を秘めた技術とは思わなかったのと同じことだ。今やコンピューターは、たんなる計算以上のことをやってのける。ワード、エクセルから、デザイン、そしてインターネット。それと同じことがロボットに起きても不思議ではない。

今現在、商業化され家庭に入り始めているロボットは、大きく2種類に分類できる。一つは、子供の学習教材的な役割を担っているロボット。乗り物や昆虫などの形をしているが、子供がプログラミングできるキットになっていて、遊びながらプログラミングを学べるようにもなっている。

もう一つは、家事用ロボットで、掃除、床磨きなどができるが、今はまだ主にオフィスなどで用いられている。しかし、さらに進化すれば、お年寄りに代わって多くの家事を代行することもできるようになるだろう。音声認識により喋ることもでき、人の顔を認識することにより、防犯の働きも担えるようになる。しかも、一人暮らしのお年寄りの体調が悪くなった際に、それを認識し、病院に連絡することも可能になる。また、ネット上の文字を読み返事を出したりすることもOK。さらに、ロボット自体がメディアとなり、テレビや電話などの機能を内蔵することもできる。

なるほど、ロボットの可能性は、無限大といってもいいほど、大きいものがあるようですね。こうした現状と将来性の紹介の後に、フィガロ紙の記事は、いかにもフランスらしいなと思わせるコメントを付け加えています。

ロボットの開発は、日本だけでなく、アメリカ、カナダ、韓国、フランスなどでも行なわれている。しかし、人間の姿形をしたロボットは、主に日本、韓国で開発されている。そこには、アジア諸国のアニミズムの影響が見て取れる・・・アジアでは、モノに感謝したり、モノにも霊的なものを認めたり、自然は共生する仲間である。つまり、アジアでは、自然界のあらゆるものに霊魂や精霊などが存在し、人間を取り巻く現象もそうした霊的なものによって惹き起こされるという、原初的宗教観が今でも生きている。一方、欧米では自然は征服すべき対象に過ぎず、宗教も一神教である。そういえば、キリスト教という一神教は進化した宗教であり、アニミズムや多神教を信じる人々は遅れている! こう信じている人がこちらには多くいます。遅れている進んでいるではなく、宗教観が違うのだと思うのですが、日本の辞書にも、アニミズムは「宗教の原初的な超自然観の一つ」(広辞苑)と出ているので、八百万の神なんていっているうちは宗教的には遅れているということなのでしょうか・・・(不勉強で、このあたり、確信なしです)。

そして、もう一つ。無限の可能性を秘めているロボット。そこに残されているのは、アシモフの「ロボット工学三原則」だ。

• 第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
• 第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
• 第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
(『われはロボット』小尾芙佐訳 昭和58年 早川書房 P5 より孫引き)

便利だからといって、何をさせても、あるいは何をしてもいいというわけではない。アシモフの三原則を忘れてはいけない・・・やはり、ここにはロボットをも決して対等とは見做さず、服従させるべきものであるという意識が滲んでいるような気がします。一方、日本では、可愛い、友達だ、仲間だ・・・科学者は別かもしれないですが、一般的には何も規制など設けず、受け入れてしまいそうですね。

ロボットにどう対応するか、そこにも彼我の差が、どことなく、表れているような気がします。へたの考え休むに似たり、でしょうか・・・

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