50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

巡礼の旅・・・オーヴェル・シュール・オワーズ

2008-05-14 00:10:00 | フランス
パリから北西へ約30kmのところにあるオーヴェル・シュール・オワーズ(Auvers-sur-Oise)の街。鉄道で行くには、ポントワーズで乗り換え、乗り換え時間も含めて1時間10分ほど。それが、今は(10月まで)毎週末と祝日に直通列車が1日1往復運行されています。所要時間わずかに30分。



今日では多くの観光客が利用する直通列車ですが、100年以上前の19世紀後半には、ある芸術家たちがよく利用していたそうです。パリから列車で簡単に行ける土地でありながら、光あふれ、豊かな自然がある農村の暮らし・・・そうした風景に惹かれてこの街を訪れたり住んだりしたのが、印象派を中心とした画家たちでした。コロー、ドーミエ、ドービニー、セザンヌ、ピサロ、ルノワール・・・そうした流れの最後に彗星のごとく加わったのが、ご存知、ゴッホ(Vincent Van Gogh)です。

パリに馴染めず、豊かな光と農村風景を求めて南仏に向かったものの、ゴーギャンとの神経をすり減らす芸術論議に疲れきり、自らの片耳を切り落としたゴッホ。てんかんと診断され、その再発に悩み、自ら精神病院へ。そして、北フランスに戻ることにした際に勧められたのが、画家たちと交流の深いガシェ医師(Docteur Gachet)のいるオーヴェル・シュール・オワーズの街。

ゴッホがこの街に着いたのは、1890年5月20日。落ち着いたのは、ラヴー亭(Auberge Ravoux)、今では「ゴッホの家」(Maison de Van Gogh)と呼ばれています。

この家の3階、つまり屋根裏部屋に住むことになりました。天窓だけの部屋、広さはわずか7㎡。棚、壁、床・・・今でもゴッホが住んでいた当時のままで保存されています。それは、決して、後世有名になったゴッホが住んでいたからではなく、自殺者の部屋だったから。自殺者の部屋は誰にも貸さない事になっていたそうです・・・


(ゴッホの生涯を簡潔に紹介するパネル、日本でのゴッホ人気を裏付けるように日本語表記もあり)

いつかどこかのカフェでぼくの個展が開かれるように・・・そうしたゴッホの直筆が壁にかけられている屋根裏部屋。ゴッホがそこに住んだのは、わずか70日。1890年7月27日に猟銃で自殺を図ったものの死にきれず、自力で部屋まで戻り、当時パリに住んでいた弟のテオに看取られながら7月29日、37歳4ヶ月という人生に幕を下ろしました。経済状況や家族との確執などが原因とも言われています。

オーヴェル・シュール・オワーズでのゴッホの暮らしは、ひたすら絵を描くこと。生活費は、テオが送ってくれる毎月150フランだけ。約三分の二が家賃に消えていく、赤貧の生活。それでも、画架や絵の具などの道具を背負っては毎日、村の中を歩き、気に入った風景の前で絵筆をとっていたようです。70日の間に70点と言われる多くの作品を残しています。1日1作品!


(ゴッホ公園にあるザッキン作のゴッホ像です)

観光客用に、ゴッホやその他の画家が残した作品を画家が描いた場所でパネル展示してくれています。ゴッホの絵だけで32点あるそうですが、観光協会でくれる地図にはセザンヌなどの作品も含めて18ヵ所が表示されています。オワーズ川と小高い丘に挟まれた東西に細長いオーヴェル・シュール・オワーズの街。

(ゴッホも描いたオワーズ川、対岸のように見えるのは実は島)
わずか18ヵ所といっても、徒歩で巡るのは暑い季節には体力勝負になります。


オルセー美術館に所蔵されている『オーヴェルの教会』のモデルとなったノートルダム教会。駅のすぐ東の小道を登ったところにあります。


自らも絵筆を取り、画家たちとも交流の深かったガシェ医師の肖像画(『医師ガシェの肖像』)です。描いたのは、もちろんゴッホ。毎週日曜日、昼食に招かれていたゴッホは、ガシェ医師に身体的にも精神的にも自分に近いものを感じ取っていたとか。

医師は片肘をついているのですが、その場所がガシェ医師宅の庭、写真中央のガラスのケースに入っているテーブルの上です。

ノートルダム教会からさらに北東へ、畑に囲まれた村の墓地に、今ゴッホは眠っています。

隣には、1891年、敬愛する兄の後を追うようにこの世を去った(オランダで病死)テオが眠っています。

周囲には、今でも、ゴッホが愛したような光あふれるのどかな田園風景が・・・ゴッホがやってきた5月下旬にも菜の花はまだ咲いていたでしょうか。

墓地のすぐ近くの農道には、『カラスのいる麦畑』・・・苦悩と孤独感を表現しようとしたそうです。

人口7,000人の村に世界中から年間40万人もの観光客、というよりゴッホ巡礼者がやってくるオーヴェル・シュール・オワーズ。日本からの巡礼者も多いようで、ゴッホの家でその作品を紹介する映像にも日本語がきちんと入っています。また、ゴッホの家を支援するため500ユーロの寄付をすると、ゴッホの部屋の鍵が会員証としてもらえるそうで、現在4,700人、その中にはアメリカでの根強いゴッホ人気を裏付けるかのように、ビル・ゲイツ、ビル・クリントンの名も見られるそうです。


訪れた5月8日は、文字どおり雲ひとつない快晴、最高気温も25度を越える真夏のような一日。パリから30kmとはとても思えない、透き通るような夏の陽射しが、街の小道で、ゴッホの墓を覆うツタの上で、軽やかに踊っていました。


城と森の一日・・・シャンティイ

2008-05-09 21:46:42 | フランス
5月に入って、パリは快晴続き。最高気温も25度前後まで上がってきています。初夏、フランス人にとっては真夏のような気候です。雲ひとつない快晴の日には、どこかへピクニック・・・と、4日に出かけたのが、シャンティイ。

パリから北へ40kmほど、快速電車で30分弱、RER(近郊鉄道)でも45分で行ける場所にシャンティイの街があります。この街を有名にしているのは、ルネッサンス様式の城。



この城、最寄のシャンティイ・グビィユー駅から2.5kmほど。しかも、歩くしかないというピクニックにはもってこいの立地です。

駅から城へはRoute de l'Aigle(ワシの道)が便利とガイドブックに出ていたりしますが、ご覧の通り、すぐ近くに車道があるとは言うものの森の中の小道。女性が一人で歩くにはちょっと・・・かもしれません。少し遠回りでも、街の中心街のほうを通っていくほうが安全かもしれないですね。

さて、シャンティイ城は、14世紀に建設されたオルジュモンという要塞があった場所に、1560年頃、モンモランシー大元帥のために立てられたといわれる城です。



北東部分に当たるグラン・シャトーはフランス革命時に破壊されてしまいましたが、ルイ・フィリップの息子であるオマール公(1822-1897)の絵画コレクションを収容するために1875年から10年ほどの歳月をかけて再建されました。そして完成の翌年、1886年に、オマール公はシャンティイ城をフランス学士院に寄贈。ただし、展示方法を変えないようにという要望を添えたそうです。



今日ではコンデ博物館と呼ばれるグラン・シャトーにはオマール公が受け継いだり、自ら蒐集した美術品が、オマール公の所有時と同じように展示されています。それらの中には、ラファエロ、ドラクロワ、コロー、プッサン、ワトーなどの傑作も含まれています。


(小さいですが、左側、ラファエロの作品です)

なお、絵画以外に工芸品も展示されていますが、その中に、瀬戸焼の壺、柿右衛門といわれる皿なども混じっています。19世紀、日本の美がフランスで話題になっていた一例のようですね。

プティ・シャトーに入ってすぐのところにあるオマール公の図書室には、11世紀からの古書(113,000冊の印刷本と700冊の手稿本)が所蔵されています。貴族階級の教養の幅の広さを表しているようです。


シャンティイ城には、ルイ14世時代の有名な料理人、ヴァテールの厨房を改装したレストラン、ラ・キャピテヌリーがありますが、団体の利用が多いため、早めの予約が必要なようです。4日も団体の予約で満席。利用できませんでした。

そして、ヴェルサイユなどの庭園を設計したル・ノートル作の庭園では、博物館に名を残すコンデ公がルイ14世を招いての大饗宴を開催したとか。


イギリス庭園や農村の擬似集落(Hameau)、子どもの遊戯ゾーンなども整備されていますが、

やはり、木洩れ日の中を歩く森の散策が楽しいひと時です。

新緑、そよ風、小川・・・

この城の隣にあるのが、競馬場と馬の博物館。オマール公の兄がイギリスの競馬に夢中になり、自らも騎乗。その影響で、城の隣に競馬場を整備。

そして豪邸と見間違う厩舎を建てたようです。


城と庭園の入場料が10ユーロ。そしてオーディオ・ガイド(日本語あり)の利用料が2ユーロ。ただし、オーディオ・ガイドを借りる際には身分証明書(滞在許可証・パスポートなど)を預けなくてはなりません。それほど返さない人が多かったのか、万一に備えてのしっかりした対策なのか。ただ、借りる方からしてみれば、大切な身分証明書を預けて無くならないかの方が心配です。何しろ、人の出入りの多い入り口脇のテーブルに堂々と蓋もせずに置いたままなのですから。


城のすぐ前は広い緑地と有料駐車場。芝の上では、家族連れがサンドウィッチを頬張ったり、サッカーやバレーボールに打ち興じたり。アイスクリームなどを売る店も登場。今年の5月上旬は、1日・8日・12日が祝日。大型連休にしている人も多いようです。有給休暇は多く取得率も高いですが、それでもまとまって休めるのは嬉しいのでしょう、言ってみればフランス版、ゴールデン・ウィーク。太陽を全身に浴びて、寛いだ休日を過ごしていました。


行きつ戻りつ・・・ストラスブール

2008-05-03 00:10:00 | フランス
4月24日からは、東と北へ。ストラスブール、ケルン、ブリュッセル、ブリュージュと回ってきました。それぞれに個性的な街。どんな表情をしていたでしょうか・・・

ドイツとフランスの間を振り子のように行きつ戻りつしたアルザス地方。その中心地、ストラスブール。言葉もドイツ語になったり、フランス語になったり。今は言うまでもなくフランス語なのですが、かなりドイツ語の影響があるのでしょうか、店頭で聞く言葉も独特のアルザス語になっているようです。


ストラスブール駅の外観です。街の名前の由来が、ドイツ語で「街道の街」というだけあって、昔から交通の要所。駅舎も伝統を感じさせる石造りなのですが、今ではそれを透明素材で覆って近代的なイメージにしています。さすがは、EU欧州議会のある街。明日をめざす心意気が感じられるようです。駅前はきれいな広場になっていて、芝の上で昼食を食べる若者や旅行者たち。そしてその半円形の広場を囲むように並ぶ多くのホテル。活気と安らぎが同居する街といった印象を与えてくれます。

この街の見所は、木骨造りの家々が並ぶ地区(プチット・フランス)とノートルダム大聖堂、そしてクリスマスの飾りつけ・・・


イル川がお堀のように取り囲む旧市街の西の端が、プチット・フランス(小さいフランス)と呼ばれる一帯で、多くの木骨造りの家々が保存されています。

地上階が階上より狭いのは、昔、地上に接している部分の面積で税や家賃などが決まっていたからとか。しっかり者の街といった伝統がありそうですね。

運河のようなイル川には遊覧船が航行し、

川端のカフェでは多くの観光客が憩いのひと時を・・・絵ハガキそのままのような街並みが続いています。

そして、その一画に一年中、クリスマスのオーナメントを扱っている店があります。

もみの木を使ったクリスマスツリーの発祥の地と言われているように、アルザス地方はクリスマスを盛大に祝うようです。ここストラスブールでも冬になると大きなクリスマス市が立ちます。クリスマスツリー、飾りつけ、クッキー、ホット・ワイン・・・さすがに4月では市はありませんが、オーナメントだけはお気に入りを記念に買うことができます。

プチット・フランスから東へゆっくりと旧市街を歩いていくと、ノートルダム大聖堂が見えてきます。

この大聖堂の特長は、天へ向かって伸びる尖塔が1本だけということ。パリのノートルダム寺院のように、2本の尖塔が並ぶシンメトリーな美しさになっている聖堂が一般的なようですが、この大聖堂では142mの尖塔が1本だけで、その垂直な伸びやかさが意思的な強さを感じさせてくれます。そうした印象はドイツ的な気質につながっているのではないかという気がしてきます・・・

ステンドグラス、そしてキリストや使徒たちの現れる大時計など内部にも見るべきものが多いノートルダム大聖堂。その建設は12世紀頃から始まったそうです。

プチット・フランスから大聖堂へ、そしてトラムの走る道を越えてグーテンベルク広場へ、さらにラファイエットやブティック、銀行などパリと同じような店が建ち並ぶクレベール広場へ。そしてまたイル川沿いにプチット・フランスへ。木骨造りの家々が立ち並ぶ道や石畳の道を行きつ戻りつ、気ままな散歩・・・人口25万人ほどの街とはいえ、旧市街はそれ程広くはなく、ゆっくりと散歩が楽しめます。

広場の名前に名を残す印刷技術のグーテンベルクや宗教改革のカルヴァンをはじめ、ゲーテ、モーツァルトなどが一時的とはいえ滞在したという歴史ある街、ストラスブール。大聖堂やプチット・フランスなどを含むその旧市街は、1988年にユネスコの世界遺産に登録されています。


プロヴァンスへ④ 古代ローマの壁と門~オランジュ

2008-04-25 00:10:00 | フランス
アヴィニョン中央駅から北へ急行で15分のところにオランジュ(Orange)の街があります。今回行くまでは、名前も聞いたことがないほどでしたが、そこには古代ローマの大きな遺跡がありました。


古代劇場です。大きいですが、このオランジュの古代劇場を有名にしているのはその大きさよりも背後の壁。建設当時の壁が現存する古代劇場は、わずかに3ヶ所。トルコとシリア、そしてここオランジュにしかないそうです。イタリアにすら残っていない壁のある古代劇場・・・西暦1世紀、アウグストゥスの治世下に建設され、役者が、踊り手が、音楽家が1万人の観衆を魅了したステージ。

当時は悲劇が上演されることが多かったそうで、間に即興の愉快なパフォーマンスが演じられていたとか。

高さ36m、長さ103mという壁の中央・上部にはアウグストゥスでしょうか、ローマの偉人の像が立ち、途中で折れてしまったとはいえ、柱も元の場所に戻されています。こうした折れた柱が物語るように、この大きな壁を残す古代劇場も平穏無事に今日に至ったのではなく、時代の荒波にもまれてきたそうです。壁から家屋が立ち並んだり、土の部分が畑に変えられたり、街を攻め落とそうとする敵の攻撃が加えられたり・・・さまざまな試練を乗り越えて、古代ローマの威容を今日に示すオランジュの古代劇場。そこには古代ローマ人たちの土木技術の素晴らしさが遺憾なく発揮されています。水道橋と同じように、その水準の高さにただただ感じ入るばかりです。

また、当時から客席に身分による差があったそうで、ステージの近くには貴族などの上流階級が席を占め、上の方、つまり天井桟敷には庶民が陣取り、盛んに野次を飛ばしていたそうです。こうした伝統、古代ローマ時代からあったのですね。

ローマ人たちの声が聞こえてきそうな、観客席下の通路。当時からあったというビールを片手に、芝居の話をしながら、昔のローマ人もこうした通路を歩いていたのかもしれません。


外から見た劇場の壁。あまりに大きく、フレーズからはみ出してしまいます。

古代劇場を後に、街の北の端へ向かうと、そこにはシーザーの残した遺跡が立っています。

シーザーのプロヴァンスでの勝利を記念して作られたものだそうで、シーザーの功績を讃える場面が彫られているそうです。黒ずんでしまっていたり傷んでいるところもありますが、何しろ2000年前の石に直接触れることのできる遺跡。改めて古代ローマの技術力の高さに感心させられてしまいます。

この門の下の道は当時、アルルとリヨンを結ぶ幹線道路だったとか。多くの古代ローマ人たちが行き交ったのでしょうね。何を話し、何を考えながら歩を進めたのでしょうか・・・

プロヴァンス地方の北の玄関口であるオランジュ。人口はわずかに3万人ほどですが、古代ローマからの遺跡が残り、この人類の遺産は1981年にユネスコの世界遺産に登録されています。観光地というには整備がまだ不十分な街並みですが、却ってそれが古からの遺跡と不思議とマッチしています。

・・・プロヴァンスの旅。パリからTGVで3時間弱ですが、白く乾燥した土地にはオリーブが茂り、家々の屋根にはオレンジ色がかった西洋瓦が並び、壁も黄色や薄いピンクで、そこに取り付けられた雨戸も水色だったり、草色だったり・・・

(古代劇場の客席から見たオランジュの街並み)
パリとはまったく違った街並みが続いています。そして、異邦人と見るや歩いてくるのを待ってまで場所を教えてくれる親切な地元の人たち。パリはパリ、パリ以外が本当のフランスだ・・・こう地方の人たちが言うのはその通りなのかもしれません。南仏の光と人情。乾いた空気の中で、心は逆に癒されていくようです。


プロヴァンスへ③ 噴水とセザンヌの街~エクス・アン・プロヴァンス

2008-04-24 00:10:00 | フランス
アヴィニョンTGV駅からTGVで一駅、約20分でエクス・アン・プロヴァンスTGV駅に着きます。シャトルバスで街の中心付近へ。街の中心をほぼ東西に横切っているのが、ミラボー通り。その入り口で、大きな噴水が出迎えてくれます。


エクス・アン・プロバンスという街の名が湧き水に由来している(古代ローマの将軍・セクスチウスがこの地を治めたことから、街中に多い湧き水を彼の名にちなんでセクスチウスの水、アクアエ・セクスチエと呼んだ)ことからも分かるように、街のいたるところに泉があり、しかも個性的なデザインの噴水になっています。


苔むした台座からちょろちょろと湧き出る泉、

花市が開かれる広場の泉、

この街でよく見かける黄色い壁の建物の前に建つ泉、

また、これは古代ローマ時代から共同浴場に用いられていた泉で、今日では中央上にセザンヌの肖像画が彫られています。

噴水と同じように、あるいはそれ以上にこの街を有名にしているのが画家のセザンヌ。この街で生まれ、この街でその人生を終えています。

ポール・セザンヌが生まれたのは1839年1月19日で、ミラボー通りの先、オペラ通り28番地に今もその建物は残っています。


父親はソフト帽の仲買人をしていたそうですが、裕福な家庭だったようです。中学以来、後に作家となるエミール・ゾラとの友好を深める。エクスの大学で法学を専攻するものの、幼い頃から夢中になっていた絵画を諦めきれず、大学を中退するとパリへ。しかし、なかなか馴染めず、最終的には再びエクスへ。1901年にはエクス郊外のローヴにアトリエを建て、1906年に死去するまでエクス市内の自宅から通っては制作に没頭する・・・そのアトリエが今でも残っており、一般に公開されています。

2階がアトリエになっていて、セザンヌの絵筆などがモチーフとなったりんごや梨などとともに並び、壁に吊るされたコートや帽子、制作時に着た作業着などが当時の生活ぶりを忍ばせています。なお、チケット売り場は1階にあるのですが、その窓口の女性が日本語を話します。また、このアトリエを紹介した日本の雑誌も2階に用意されていて、日本人と分かると見せてくれます。日本でのセザンヌ人気を物語っているようですね。

エクス・アン・プロヴァンスでのもうひとつの観光スポットが、サン・ソヴール大聖堂(Cathédrale Saint-Sauveur)。

西暦2世紀には建造が始まったといわれるこの大聖堂もセザンヌと関係があります。妹のローズの洗礼が行なわれたのもここですし、何よりも1906年10月24日の午前10時からセザンヌの葬儀が行なわれたのもこの大聖堂だったそうです。

サン・ソヴール大聖堂内には美しいステンドグラスや大きなパイプオルガンがあり壮麗な印象がありますが、ここで特に印象的なのはロマネスク様式の回廊。

一定時間ごとに回廊への扉が開いて、フランス語による解説付きのツアーになるのですが、さすがは天国への鍵というべきか、あるいは、今でも街中で多くの鍵屋さんを見かけるフランスらしいというべきか、解説者が扉の大きな鍵をしっかりと握り締めているのが印象的でした。もちろん、聖書の場面を刻んだ彫刻や1本ごとのようにデザインが異なる柱など見所はたくさんあります。


プロヴァンス伯爵領の首都で、早くからこの地方の学問や政治の中心地だったエクス・アン・プロヴァンス。今でも人口は15万人近くあり、メトロ紙や20分紙などの無料紙も発行されています。それだけに黄色い壁の建物が続く通りにもどことなく都会的な雰囲気があり、南仏の明るい光と微妙なハーモニーを奏でています。


プロヴァンスへ② ローマ遺跡とゴッホの街~アルル

2008-04-23 00:10:00 | フランス
アヴィニョン中央駅から急行で20分、アルル(Arles)の街へ着きます。アルルの人口は約5万人。この南仏の小さな街が日本でも有名なのは、タイトルにも記した古代ローマ遺跡とゴッホのお陰。



まずは、古代遺跡から訪ねていきましょう。

アルルの街の歴史は、ケルト人が住み始めた頃に始まり、やがてギリシャの植民都市に、そしてシーザーの時代にローマの領土となりました。「ガリアの小ローマ」(la Petite Rome des Gaules)と呼ばれたこの時代がアルルにとっては最初の黄金時代。多くの古代ローマ遺跡が残っています。

古い城壁の間の道を通って街の中心へと向かうと、大きな円形闘技場の壁が見えてきます。

西暦90年頃に作られたというこの闘技場(l’Amphithéâtre)は、最も広い部分で直径136m、2万人を収容できるそうです。

単に遺跡として観光の目玉になっているだけでなく、今でも闘牛やイベントなどに使われているため、近代的な補修や増設が行なわれており、内部は外観ほどには古代遺跡という雰囲気を持っていないのが残念ではあります。しかし、文化遺産を今日の市民生活とともに生きたものとして活用していくとなると、どうしてもこうなってしまうのかもしれないですね。

円形闘技場から数分歩くと、そこには古代劇場の跡が。この古代劇場(le Théâtre Antique)は西暦1世紀末に作られたもので、当時は1万人ほどを収容できたそうですが、今ではひどく破壊されてしまっており、2本の高い柱と数本の柱の基礎部分、それに観客席の一部が残っているだけです。

しかし、壊された部分の一部が何気なく転がっていて、かえって「つわものどもが夢の跡」といった雰囲気を醸し出しており、古代ローマ人たちの叫びやささやきが聴こえてきそうです。

しかも、遺跡の陰ではイチジクの葉が風になびき、実が輝いています。キリスト教を迫害し、やがては受け入れた古代ローマの遺跡に、聖書の世界にあるイチジクが。出来すぎの感もしますが、悠久の時の彼方へ思いを馳せることができそうな空間です。

ローマといえば忘れられないのが、共同浴場。この街にもコンスタンタン(les Thermes de Constantin)という共同浴場跡が残っています。

西暦4世紀に造られたこの共同浴場は、いくつかの部分に分割されており、プールのようになっていたり、マッサージを受ける場所だったり・・・お風呂大好きな古代ローマ人たちの社交の場にもなっていたようです。

古代ローマの遺跡が多いアルルの街ですが、その中で中世の香りを漂わせているのが、サン・トロフィーム教会とその修道院(le Cloître Saint Trophime)。

12世紀から14世紀にかけて建立されたもので、ロマネスク様式とゴチック様式の回廊が残っています。

こうした古代ローマと中世の遺産は1981年にユネスコの世界遺産に登録されています。

そして、アルルで忘れられないのが、ゴッホ。跳ね橋(ヴァン・ゴッホ橋)があまりに有名ですが、それ以外にも彼の絵の対象となった風景があります。

ゴッホが治療を受けたという病院(l’Hôpital d’Arles)跡にできたエスパス・ヴァン・ゴッホ。その中庭はゴッホがいた当時のままに保存され、絵と同じ風景を今も見ることが出来ます。

他にも、『夜のカフェ』のモデルとなったカフェ(Café de Van Gogh:写真中央の黄色い建物)、

そして『星降る夜』など、

ゴッホの足跡を辿ることができます。

小さな街に多くの歴史遺産。そして今そこに暮らす人々は、とても親切です。地図を片手に歩いていると、わざわざ追いつくのを待ってまで、どこへ行くのか、闘技場ならこの先だよと親切に教えてくれたお年よりもいました。

(市役所前の広場です)
歴史と人情の街、アルル。ミストラルでしょうか、冷たい風が吹いていましたが、心は温かくなる街でした。


プロヴァンスへ① 法王庁と、あの橋~アヴィニョン

2008-04-22 00:10:00 | フランス
プロヴァンスでの拠点にしたのは、アヴィニョンの街。パリからTGVで2時間40分ほど。この街からはアルル、エクス・アン・プロヴァンス、オランジュなどの街へ鉄道網が放射線状のように延びていて、乗り換えなしで行くことができます。

そして、アヴィニョン(Avignon)といえば、14世紀の法王庁の跡と、♪橋の上で輪になって踊ろよ・・・で有名なサン・ベネゼ橋。


ローヌ川にかかるサン・ベネゼ橋(le Pont Saint-Bénézet)が完成したのは12世紀。当時は当然、対岸まで続く全長900メートルの橋でした。ローヌ川最下流の橋ということで、アヴィニョンを交通上、商業上いっそう重要な街にしたそうです。

しかし、ローヌ川の度重なる洪水で、対岸側から崩れ、今では4本の橋げたと聖ベネゼを祀るサン・ニコラ礼拝堂(Chapelle Saint-Nicolas)を残すだけになっています。


サン・ニコラ礼拝堂の壁面ですが、数多くの落書きが。お陰で鉄柵ができてしまっています。文化遺産の重要さに思い至らない人は、世界中どこにもいるようですね。一度傷つけられてしまったものは、元には戻らない。残念なことです。


橋見学の入り口であるシャトレ(Châtelet)には、有名な歌を紹介するスペースもあり、ミレイユ・マチューなどの歌声でこの曲を聴くことができます。
♪Sur le pont d’Avignon, on y danse, on y danse
Sur le pont d’Avignon, on y danse tout en rond♪
(アヴィニョンの橋の上で、踊ろよ、踊ろよ、
 アヴィニョンの橋の上で、みんなで輪になって踊ろ)
橋の上で、輪になって踊っていた家族もいて、ほほえましい光景でした。

このサン・ベネゼ橋のすぐ脇にあるのが法王庁宮殿。

フランス人であった法王クレメンス5世が法王庁をアヴィニョンに移したのは1309年。十字軍の失敗などから教皇権が衰退し、時のフランス王フィリップ4世のチカラに屈するカタチでの移転だったそうで、古代のバビロン捕囚に因んで「教皇のバビロン捕囚」とも言われているのはご存知の通り。1377年まで7人の法王が即位したようですが、その後法王がローマに戻っても、フランスの後押しを受けた別の人物が法王としてアヴィニョンで即位し、ローマの法王とアヴィニョンの法王がともにその正統性を主張し、教会大分裂といわれる事態になってしまったとか。さらに失墜した法王や教会の権威を前に教会改革の動きが出始め、やがては、近代の宗教改革にまで繋がるのだそうです。

という歴史を持つアヴィニョンの法王庁宮殿。見上げる巨大な壁の高さは50m、厚さは何と4m。

フランス革命時に多くの像が破壊されたり、持ち去られてしまったりしたそうで、今日では当時の華やかさはほとんど見る影もないのですが、それでも、さまざまな資料や現存する品々などにより、当時へ思いを馳せることもできるような展示になっています。また、金色に輝く聖母像と磔刑に処されたイエスの像が遠くからも見えるよう、宮殿の上とすぐ前に飾られています。

わずか68年といえども法王庁があり、またローヌ川の水運などを利用して商業の中心地としても栄えたアヴィニョン。

文化や芸術の香り高い伝統も併せ持つからでしょうか、今でも、街並みは落ち着いた美しい佇まいで、多くの観光客を惹きつけています。

そして、その中心地である歴史地区は1995年にユネスコの世界遺産に登録されています。


夏の思い出、小さな旅―2

2007-09-23 00:25:57 | フランス
歴史の街、アンジェ・・・古くからヴァイキングの浸入、百年戦争、革命、宗教戦争と幾多の騒乱に巻き込まれてきました。多くの犠牲者を弔うためでしょうか、旧市街には多くの教会が建っています。

その代表は、アンジェ城のすぐ近くに建つサン・モーリス大聖堂(Cathedrale Saint-Maurice)。

12~13世紀に建立された教会で、アンジェ・ゴシック(プランタジネット様式)を示す代表的建物といわれています。奥の部分が広く、重厚な印象です。

特に、丸天井の曲線美、そして12世紀から16世紀までの間に作られたというステンドグラスの華麗さで、多くの人々を魅了しています。

もちろん、15世紀に制作されたバラ窓も忘れることができません。

そして、入り口。その歴史の長さ、重さを如実に物語っています。


そして、もう一つ、アンジェの歴史を今に伝えるのが、旧市街の石畳の道々。細く曲がりくねった石畳の道を歩いていると、靴音が周囲にこだまして、何世紀もの昔にタイムスリップ・・・中世のアンジェの人たちの囁く声すら聞こえてきそうです。






また、アンジェ城でも思わぬところに、歴史への扉があります。

この扉をこっそり開けて、いにしえのアンジェ人が歩み出てきそうな雰囲気です。建てられてからのすべての時間が濃密に重なっている空間・・・


そして、さあ、中世から、21世紀の光の中へ。中世の旅の終焉です。



アンジェの街。いかがでしたか。観光の目玉はアンジェ城ですが、中世の街並みを残す旧市街も素敵な佇まいを見せています。パリからTGVで日帰りの観光。ちょっと足を伸ばして、中世を覗いてみませんか。


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夏の思い出、小さな旅―1

2007-09-17 00:44:48 | フランス
この夏訪れた、街。パリからの小さな旅。いくつかご紹介しましょう。

まずは、アンジェ。パリから西へ300km。TGVで1時間半の距離のところに、アンジェの街があります。ロワール地方に属するメーヌ・エ・ロワール県の県庁所在地。人口およそ15万人。周辺地域を含めたアンジェ圏で約26万人。古い歴史を有する町ですが、今ではアンジュー・ワインやリキュールなどの農産品はもちろん、エレクトロニクス関連など新しい産業も発達しています。

アンジェは、紀元前、漁師や猟師たちの住む小さな集落でした。やがて、ローマ人、ノルマン人などに支配され、その後はイギリスとフランスとの間を振り子のように揺れ動いてきました。そうした歴史をもつこの街がアンジュー公国となったのは、1246年。聖王ルイが弟のシャルルにこの地方を与えたのがはじまり。しかし、時あたかも百年戦争の最中。正式にフランス領となったのは、1258年。そして1480年、善王ルネの死をもって幕を閉じるまで200年以上、アンジュー公国の首都として栄えました。

今日、この街の観光の目玉となっているのは、メーヌ川沿いにそびえるアンジェ城。

基礎は、聖王ルイによって1228年から10年の歳月をかけて造営されたものです。

(説明用の模型です)
ロワール地方に建つ城ですから、華麗なイメージをいだきがちですが、上の写真でお分かりのように、隣国ブルターニュ公国からの攻撃に備える軍事目的の城として作られました。

城壁には高さ30m以上の塔が17基あり、矢狭間が取り付けられていて、いかにも戦いの城といった面構えです。


しかし、14・15世紀にはナポリ王を兼ねた王たちにより華麗な建築様式がつけ加えられ、華やかな社交が繰り広げられたそうです。今では、庭園、礼拝堂、王室居住棟など戦いとはかけ離れた施設を城壁の内部に見ることができます。

(礼拝堂のステンドグラスです)

さて、この城の最大の見ものは、最古にして最大のタピストリーといわれる『ヨハネの黙示録のタピストリー』です。

高さ5m、幅130mという壮観さ。アンジュー公ルイ1世が竪機職人ニコラ・バタイユに依頼したもので、1373年から1383年にかけて制作されたのではといわれています。15世紀から18世紀途中まではすっかり忘れ去られていましたが、19世紀中ごろから修復されて、今日に至っているそうです。

こうした図柄が70面以上。新約聖書の最後にある聖ヨハネの黙示録(新しい世界へ移る神の啓示)を見事な構図、豊かな装飾性で織り成しています。まさに圧倒的な美です。

建設当初、城壁には屋根が備えられていたそうですが、宗教戦争時に取り除けられてしまいました。しかし、城壁自体は破壊を免れて、その雄姿を今も見せてくれています。その城壁の上、今では、素敵な使われ方をしています。

このように30mもあろうかという高い城壁の上は、いまや一面の緑に。コーナー部分は、きれいな花畑。

そして、狭い通路部分は、なんとブドウ畑。城壁の上のブドウ畑です。

とびきりのアンジュー・ワインが生まれるのかもしれないですね。

アンジェの街は城でもつ・・・とはいっても、それ以外にももちろん見所はたくさんあります。ちょっと間をおいて、次回、いくつかご紹介しましょう。

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中世の祭り―プロヴァン③

2007-06-30 00:32:17 | フランス
プロヴァンの中世の祭り、今日はそのご紹介の最終回―――。このお祭りでは、単に衣装だけでなく、中世の暮らしぶりも紹介されています。

暮らしといえば、まずは食事。

大きな鍋で煮物。テーブルの上にはワイン、チーズ、パン・・・。

肉は串に刺して、豪快に焼く! ぶたの丸焼きも、もちろんありました。

このご婦人たちはフルーツや野菜を鍋に入れて煮ていました。スープ作りでしょうか。

食べるためには、もちろん働かなくては・・・。

鉄は熱いうちに打て。ふいごで火をおこし、熱くなった鉄をトンカチ、トンカチ。

鉄板ができたら、それを形作って道具づくり。修理もするのでしょうね。

人を楽しませるのも、立派な仕事。

中世の吟遊詩人かと思いきや、フルートが何とも現代風。でも、これも、ご愛嬌。

子どもたちを喜ばせるのは、操り人形。木の食器をつかんだり、器用なおばあさん人形でした。

町を守るのも大切な仕事。

火縄銃のようなものの実演。あまりに大きな音に泣き出す子どもまでいました。手前にあるのは投石器でしょうか。武器は剣だけではなかったのですね。

犯罪を取り締まるのも、これまた昔からの仕事。

犯罪者はこのように扱われたようですね。

こうした残忍な刑も。かごに入れられたままで、ミイラのように。


狭い旧市街に、ものすごい数の参加者、見学者が集まり、歩くにも一苦労。いってみれば夏のカーニヴァル。中世の街、プロヴァンが一年でもっとも輝く日、それがこの中世の祭りなのかもしれません。

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