50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

ありがとう!

2008-06-13 21:38:06 | パリ
4月以降とびとびの更新になりましたが、それでもこのブログを多くの方々が覗いてくださっています。本当にありがとうございます。

2005年12月から始めましたので、ほぼ2年半。仏文出身とはいうものの、卒業後25年間、フランスとは全く関係のない仕事をしてきましたので、4年前にフランス語を再開した時点では、ほぼビギナーのレベル。そして、それ以上に深刻だったのは、フランスに関する情報・知識のあきれるくらいの欠如。これはどうしようもない状況でした。そこで、日本でまずフランス語を何とかしようとフランス語学校に通ったり、ラジオ講座などを利用して1年ちょっと、何とか少し思い出したところでフランスへ。

そして、ソルボンヌの文明講座に通いながら、フランス語に集中。何しろ、当初は新聞などろくに読めないレベルでしたし、フランス語を話そうと思っても、口から出てくるのは、長年の海外駐在や研修で使っていた英語と中国語。話せず、読めずという状態でしたが、それでも昔取った杵柄に救われ、何とか1年で最上級まで終了。それから新聞を読み、テレビでニュースを見ることに比重を移して行きました。さらには、宿題に終われる生活にも少しは余裕が出来て、パリの街を歩く時間も増えてきました。そうして更に1年半。この4月からは、パリやイル・ド・フランス地方以外も見てみたいと、フランス国内、そして周辺国へとカバンを提げての旅へ。

ブログ開設当初からお付き合いいただいていた方々には言わずもがなの事ですが、上記のような背景が、このブログにも反映されています。少しは書く日本語の分量も増え、新聞などが取り上げる話題もご紹介できるようになりました。それを毎日。皆さんに少しは興味を抱いていただけるようなブログになっていたでしょうか。

そして、そうです、2年半・・・この数字に特に意味はないのですが、しかしこれをきっかけに、しかも私の誕生月である6月に巡ってきた13日の金曜日をもって、このブログを終了させていただこうと思います。何も今更宣言しなくても、すでにあまりのとびとび更新にすでに終了してしまったも同然なのですが、それでも愛着を持ってアクセスしていただいている方々が毎日400人前後と本当に頭の下がるほど多くいらっしゃいますので、きちんとご挨拶させていただこうと思います。

本当に長い間ご訪問いただき、ありがとうございました。アクセス数、そして何よりも皆さんの温かなコメントにいつも励まされておりました。どれほど感謝をしてもしきれません。これまで続けられたのも、そして続けることにより、少しはフランス社会の表面がなぞれたのも、皆さんのお陰です。

これからは、また別の視点で、日本とフランス、そして海外を見て行きたいと思っています。そして秋以降、なんらかの形で発表できればと、少年のような夢を抱いています。またどこかで皆さんの目に留まることができますように!

本当に、ありがとうございました。さようなら。


(最後まで、いつもながらで恐縮ですが、写真の後姿、私ではありません、悪しからず)



(註)1.はじめて弊ブログへご訪問いただいた方へ・・・2008年4月下旬以降は旅行記になっていますので、それ以前の分を先に読んでいただければと思います。


(註)2.日本からの続編「ふりかえれば、フランス」(blog.goo.ne.jp/higurashi55)、2010年7月からアップ中。よろしかったらご訪問ください。


パリの高校生は、燃えている!

2008-04-12 17:36:36 | パリ
『パリは燃えているか』という映画がありました。1966年、監督ルネ・クレマン、共同脚本の一人にフランシス・フォード・コッポラ、出演は有名俳優が綺羅星のごとく。“Paris, brûle-t-il ?”・・・今、そのパリで燃えているのは、高校生たちです。


11日のメトロ紙の第一面です。前日の10日、警察発表で35,000人、主催者発表で80,000人の高校生が全国で街頭に繰り出しました。以前もイギリス・メディアに、「フランス人は今もフランス革命を引きずっていて、何か不満があるとすぐに街頭へ繰り出すが、イギリスは議員を選んで、議会で討議する」と揶揄されていましたが、他国に何と言われようと、フランス式を貫くのがフランス人。ここ2週間で5日目の高校生による街頭デモです。


9日付のフィガロ紙ですが、高校生のデモの背景は、教師数の削減。政府の説明は、中等教育での生徒数が減少している(2000年の561万人から2006年には542万人へ)。一方、教師の数もその傾向に合わせて若干減ってはいるが(2000年の37万人から2006年の36万8,000人へ)、生徒数の減少ほどには減っていない。また、政府の中等教育予算は逆に増え続けている(2000年の479億ユーロから2005年の525億ユーロへ)。財政の健全化、公務員削減の一環として、来年度(今年の秋の新学期)から教員数の削減を行ないたい・・・教師の数が減るとどうなるか。一クラス32人の生徒数だったのが、政府曰くは33人、生徒側曰くは34人に増える。これでは、今までのようなきめ細かな教育が行いにくくなり、また教員の負担が増大する。しかも、選択科目も減らされる(例えば彫刻など)。これでは、教育の質を保つことが出来ない・・・




(10日のパリ、サン・ミシェルでのデモの様子)

というわけで、政府案への反対の意思表示として街頭へ繰り出しているわけです。もちろん、高校生だけで行なっているのではなく、教員組合も一緒に参加しており、正直な生徒曰くは、教員がかなり手助けしてくれているデモだそうです。しかし、それにしても数千人から数万人の高校生が街頭でデモを行い、意思表示をしている。その内容への賛成反対は措いておいても、その行動力、あるいは「参加」(アンガージュマン)への意識にはやはりフランス人のDNAを見る思いがします。社会、政治への関心の高さにも感心させられます。


10日のメトロ紙です。みんなが参加するからついてきた、といった感じではなく、しっかり自分の主張として教員削減に反対している、そんな表情が写真からも読み取れます。高校生の全国組織もきちんとあり(Union nationale lyceenne:高校生全国連合)、また社会主義者や共産主義者の高校生もそれなりに多いそうです。思い込みや独断専行もあるかもしれませんが、それでも少しでもきちんと世の中を理解し、自分なりの意見を持とうとしている姿勢は、さすがだと思います。日本では・・・野暮なことを言うのは止めましょう。

もちろん、フランスといえども高校生はいわゆる勉強をおろそかにしていいわけではなく、大学入学検定試験(Baccalauréat:バカロレア)の合格めざして、しっかり勉強をしています。


3日のフィガロ紙ですが、バカロレアの高校別合格率のトップ・テンとワースト・テンが発表になっています。全体の傾向としては、私立高校の合格率が良くなっているとか。このへんは、日本と同じような傾向なのでしょうか。Louis Le Grand(ルイ・ル・グラン校)とかHenri IV(アンリ4世校)といったパリの名門校はさすがにトップ・テンに名を連ねています。反対にワースト・テンにも、パリ市内や郊外の高校が数多く並んでおり、パリやその郊外では学校間格差が非常に大きくなっているようです。また、木骨組みの家屋で有名なTroyes(トロワ)の街の学校が上位にいるのは教師の質、地域の取組みといった特別な状況があるのかもしれませんね。

受験勉強、社会勉強、そして自我の確立・・・フランスで成人になるのは18歳と日本より2歳早いのですが、高校生たちを見ていると、さらに引き下げても大丈夫なような気さえしてきます。教育事情によるのか、社会を反映させているのか・・・野暮と知りつつ、やはり、思いは日本の高校生へ。


2008年4月7日。

2008-04-08 04:35:25 | パリ
ぽたん、ぽたんと、屋根から落ちる水滴の音とともに2008年4月7日の朝が開けました。窓から見上げる空は、青空。それなのに、屋根からは水滴が。その理由は、外に出て漸く知ることとなりました。


そうです、この冬初めての積雪。暖冬で、いろいろな花の開花も、木々の芽吹きも早かったのに、4月になってからの積雪。天気予報では、最低気温0度。どうりで、夜寝ていて寒かったはずです。夜来の雨が雪に変わっていたようです。一年前の今頃は、最高気温が27~28度もあり、昨年で最も暑かった時期。それが、今朝は積雪を見る。何という気候でしょう。こうした気候風土が住む人の精神に影響を与えないはずはないと思うのですが、どう影響を与えているのやら・・・

しかし、この国の人々が、「人権」に敏感なのは事実。そして今日、人権といえば、北京オリンピックの聖火リレー。人権擁護団体の抗議運動も行なわれることが予想されていましたが、実際に・・・

まずは、シャイヨー宮前のテラスでの抗議運動。

朝10時、そこにはすでにチベットの旗を捧げもった多くの人たちが集まっていました。希望者には、小旗やTシャツを配布し、連帯の気持ちを伝えています。

なお「国境なき記者団」が配布したのは、手錠が形作る五輪のデザイン。こうした抗議運動に参加しているのは、フランス人ばかりではなく、アメリカやいろいろな国から来ている人権擁護派の人々。交わされる言葉も、フランス語と英語。人権を守ろうという気持ちが国境を越えて集まっているようです。ただし、白人ばかり。アジアやアフリカでは人権意識はないのでしょうか。日本人の団体旅行のグループもいましたが、全く関心ないようで、記念写真を撮ると、さっさと次の場所へ。

中国に異を唱えているのではない、独裁体制に反対をしているのだ・・・中国と全面対決するのではなく、人権を擁護しない体制に反対しているのだと、中国国内の人権派との連帯を考慮したようなスローガンも掲げられています。昼12時過ぎ、さらに多くの人々が集まり、演説も始まりました。“Liberté au Tibet”(チベットに自由を!)、あちこちから叫びが聞こえてきます。

そして、セーヌをはさんだ対岸、エッフェル塔の足元では、12時35分、聖火リレーがスタート。物々しい警備と、各国からの人権擁護派とチベットの人々、そして中国政府支持の中国人グループ。

車道に飛び出す、チベットの人々。押さえつける警察。警護のクルマの直前に横たわり、身をもって聖火リレーを阻止しようとするチベットの人々。彼らがこれほどまでの行動を取る背景は・・・


聖火のトーチらしきものをもった車椅子の女性が通り過ぎましたが、本来の聖火リレーはこのあと。多くのフランス警察の車両と警護の中国人(話題の青と白の帽子を被っています)に取り囲まれて聖火ランナーが登場しました。周囲では、“Liberté au Tibet”(チベットに自由を)と「加油、北京」(北京、頑張れ)が木霊しあっています。

人権擁護派と北京政府支持派の間では全く小競り合いも起きず、それぞれが自己主張をしながら、聖火リレーを追いかけて舗道を行進して行きます。

聖火リレーは、一路セーヌを下り、パリの外に出たあと折り返し、凱旋門からシャンゼリゼへ。午後3時半、ここでは周囲のビルからも多くの人が見守っています。

オグルビー・ワン・・・広告会社のオフィスでは業務上関係があるのか、仕事が手につかないようで、多くの人たちが窓から眺めています。北京オリンピックの公式スポンサーのうち、パリでの聖火リレーでプロモーションを行なったのはコカコーラ、サムソン、レノボ(聯想:IBMのPC部門を買収した中国企業)のみ。

せっかく大金を投じてスポンサーになったのだからどんなチャンスも見逃さずイメージ向上を図りたい、とはいうものの、人権擁護派を敵に回すのも拙い・・・開会式への出席に悩む各国首脳のように、スポンサーたちも悩んでいるのかもしれません。

4時過ぎ、聖火ランナーはパリ市庁舎前へ。中国人街のひとつに近いせいか、多くの五星紅旗が。しかし、市庁舎の壁には、人権を擁護するポスターが(「パリは世界中の人権を擁護する」)。

市庁舎前広場では漢族とチベット族の小競り合いが。突き飛ばし合う女性たち、マイクの前で実情を涙ながらに訴えるチベット人女性。市庁舎前で大きな旗を振る、西洋人のチベット仏教僧。


この冬初めての積雪、そして眼前に見る聖火ランナーと人権擁護団体。2008年4月7
日は、雪原を渡るような寒い風の中、新たな記憶とともに暮れていきました。


丁寧な仕事ぶりに、感動・・・

2008-03-22 05:21:53 | パリ
今住んでいるスチュディオの階段、その踊り場に突然、ビニールシートが。



工事をする際の養生ですよね。建物全体で5ヶ所ある階段踊り場、その窓の下にビニールを一日がかりで張っていきました。それなりにしっかりした張り方ですので、ちょっと大掛かりな窓の修理でもやるのだろうと思っていました・・・実は、これが1ヶ月ちょっと前の出来事。

ビニールを張ったまま、何ら工事は始まらず、1週間後、再び職人さんがやってきて窓枠のさび落しをやっていきました。いよいよ工事が始まるのかと思ったら、また、何ら音沙汰なし。どうしたのやらと思っていたところ、10日後にペンキとともにやってきました。白いペンキで、とりあえず塗りましたという塗り方。下塗りなのでしょう。



そして再び、時が止まってしまったかのように、何ら進捗なし。1週間後、職人さんが再びペンキを持って登場。上塗りですね。これで完了なのだろうと思ったものの、ビニールの養生は残されたまま。いい加減だなと思っていたら、実はまだ工事は終わっていなかった。さらに1週間後、再び上塗りに。きれいに塗りあがりました。これで1ヶ月。時間はかかるものの、丁寧な仕事ぶり。タイム・イズ・マネーでは全くないものの、さすがフランス、職人の技、と感心したのですが、まだ養生のビニールシートは残されたまま。さらに上塗りするのでしょうか。それとも養生のシートを取りに来るのも1週間か10日後? 窓枠を塗り直すだけで1ヶ月以上、まだ、まだ終わらない・・・

同じ人が何ヶ所も担当している、しかも作業は時間をかけてゆっくりと進める。たぶんこうしたやり方のせいなのでしょう、以前にもご紹介したメトロの駅の工事、まだ終わっていません。


6号線、モット・ピケ・グルネル(La Motte-Piquet Grenelle)の駅。去年の3月からですから、もう1年。駅舎の補強工事は予定通り半年で終わったものの、エスカレーターの取替え工事が、まだ終わらない。今年の2月中には完成予定、とパネルまで作って言っていたのですが、3月、まだ完成していません。1週間に1日ではなく、1ヶ月に1日程度の作業で進捗しているのかもしれないですね。つい私などは、スケジュールは日単位で考えてしまうのですが(サラリーマン時代は、時間単位や時には分単位)、フランスでは週単位がどうも当たり前のようで(ちょっとした修理がすぐ2~3週間かかってしまいます)、そして時には月単位。『南仏プロヴァンスの12か月』によると南仏では季節単位だそうですから、メトロ駅の工事を担当している会社には南仏出身者が多いのかもしれないですね(?)。きっと夏の観光シーズンまでには完成するのでしょう。


このステンドグラスは、新装なった6号線・ビラケーム駅(Bir-Hakeim)のプラットフォームに取り付けられたもの。メトロを停めずに通過させての駅舎改修工事、予定通り3月11日には停車するようになりました。やればできるんだ、と思ったのですが、さすがフランス、そう簡単に問屋は卸してくれない。


エスカレーターは稼動していますが、地上に降りる出口が片方しか完成していない。しかも、地上に降りると、降りたほうの出口がまだ工事中。反対側まで歩いて出ていかないといけない状態。4月には完成すると、しっかり表示はしていますが・・・

やはり、ここは、ラテンの国。ゆっくり、急がず。とはいうものの、階級社会ですから、エリート層は猛烈に働いているようです。サルコジ大統領も睡眠4時間とか。確かに夜8時や9時にラ・デファンス地区からメトロに乗ってくるサラリーマンも結構います。しかし、庶民は、仕事よりも、ワインを飲んで楽しくやろうよ。人生は楽しむためにある。仕事は苦役、仕方なくやるものさ・・・階段のビニールシート、剥がされるのは、いつになるでしょうか。今月か、来月か、と考えるのは止めて、この春か、あるいは夏になるか、と自然に考えられるようになると、フランス暮らしももっと楽しくなるのでしょうね。でも、そうなったらなったで、日本に戻ってからが心配・・・


「大戦」最後の兵士、逝く。

2008-03-21 05:01:32 | パリ
先の大戦というと、日本では一般的に第二次世界大戦を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。でも、フランスでは第一次世界大戦(1914-1918)。“La Grande Guerre”(大戦)と呼ばれています。どうしてかというと、あまりに多くの戦死者を出したから。非戦闘員を除く、いわゆる戦死者が第一次大戦全体で900万人とか1,000万人と言われるなかで、フランスは136万人。一方、第二次大戦のフランス人戦死者は20万人台だそうで、これでは、大戦といえば第一次世界大戦を思い浮かべるのも当然かもしれないですね。因みに、日本の戦死者数は第二次大戦で230万人だったそうで、やはり大きな犠牲のあった第二次大戦がより身近な歴史になるのでしょうね。

また、第一次世界大戦までは騎士道精神がまだ残っていて、戦いに若干のロマンティックなイメージを抱く人もいたという資料もあります。しかも、開戦当時にはそれほど長続きせずに終結するだろう、というのが大方の予想だった。しかし、あにはからんや、古き良き騎士道の世界は、毒ガス、航空機などの近代兵器によって一変。しかも塹壕を掘ってそこから撃ち合うという塹壕戦も始まり、塹壕の中で泥にまみれての無残な戦死がふえた・・・戦争の実相を変えたという意味でも、「大戦」といえば第一次大戦を指しているのかもしれません。

・・・という「大戦」を生き抜いたフランス最後の戦士が、12日に110歳で亡くなりました。Lazare Ponticelli(ラザール・ポンティセッリ)、名前からうかがえるように、元はイタリア人(ラザーロ・ポンティチェッリ)。北イタリアで、大工などをしていた父、米収穫労働者(『にがい米』を思い出しますね)を母に、七人兄弟の貧しい家に生まれる。父が亡くなると、9歳で、二人の兄を頼ってパリへ。そして1914年、年齢を偽ってまで(当時はまだ16歳)、自ら志願して外人部隊へ。しかし、翌年イタリアが参戦すると、まだ国籍はイタリアでしたから、強制的にイタリア軍へ。塹壕で、敵味方の区別なく負傷兵を助けたともいわれていますが、自らも大怪我を。戦後は兄弟で金属・パイプ関係の会社を立ち上げ、経営者に。第二次大戦開戦時にはフランス国籍を取得していたものの、今度は年齢が行き過ぎていたため志願できず。しかし、レジスタンスとして戦ったとか。第二次大戦後は、会社の経営に当たり、引退後は家族に囲まれた平穏な老後。因みにこの会社、現在でも4,000人を雇用する立派な会社だそうです。

さて、こうして「大戦」を生き抜いた最後のフランス兵として、そして同時に最後のイタリア兵として110歳の天寿を全うしたPonticelli氏。17日に国葬として見送られました。



その模様を伝える18日のフィガロ紙です。国葬が営まれたのは、ナポレオンも眠るアンヴァリッド。サルコジ大統領やフィヨン首相はもちろんですが、シラク前大統領や左右を問わず首相経験者、そして現役閣僚などが列席。イタリアからも国防大臣が参列。テレビでも放送されました。

しかし、式自体は、Ponticelli氏の意向で、厳かなれど質素に。2005年に、シラク政権下で「大戦」最後の兵士は国葬として葬送することに決まったのですが、当時はまだ12人ほどが存命だった。それが去年には2人に減っていて、その頃からインタビューされることも増えたようです。Ponticelli氏は、塹壕で無残に死んでいった戦友たちは今や顧みられない。自分だけが国葬で英雄扱いされるのはゴメンだと、生前、国葬自体、固辞していました。そこには、謹厳実直で、賢く、正直、家族思いというPonticelli氏の人柄が出ているのかもしれません。しかし、今年1月にもうひとりの生存者がなくなると、ついに「最後の兵隊さん」に。その頃から、戦友たち全てを代表するということなら国葬を受け入れる。ただし、大仰な葬儀は止めてほしい。質素に。また政府の考えているパンテオンあるいは凱旋門の無名兵士の墓に埋葬するのも辞退する。家族の墓に葬ってもらいたい、と述べるようになっていました。その内容は、遺族からサルコジ大統領にも伝えられたようです。



葬儀に先立つ16-17日付けのル・モンド紙です。最後の兵士の国葬を盛大にしようとしているエリゼ宮・・・故人の願いははっきりしていたものの、政府の一部には別の考えもあったようです。16日の日曜日は統一地方選挙の第2回投票日。大苦戦が予想されていた与党としては、翌17日に国民の関心を国葬に向け、地方選敗北の影響を少しでも軽減したい・・・と思ったのかどうか、大仰なものになりつつあったようですが、しかし結局は、故人の意思が尊重されたようです。

なお、この記事で面白いのは、イラスト。向かって左側には、Ponticelli氏の埋葬場所の候補になっていた凱旋門の真下にあるSoldat Inconnu(知られざる戦士:一般には無名戦士)の墓にともる火。右側は、知られざる戦士ならぬSoldat Incompris(理解されざる戦士)・・・支持率が下がり続けているサルコジ大統領のようですね。ル・モンド紙にまでこうした風刺漫画が掲載されるようになってしまいました。

しかし、大統領としての弔辞とともに、アンヴァリッドにプレートを掲示したサルコジ大統領。そのプレートには次のように書かれているそうです。
« Alors que disparaît le dernier combattant français de la Première Guerre mondiale, la Nation témoigne sa reconnaissance envers ceux qui ont servi sous ses drapeaux en 1914-1918. La France conserve précieusement le souvenir de ceux qui restent dans l'Histoire comme les Poilus de la Grande guerre. »
(第一次大戦を生き抜いたフランス最後の兵士の逝去に際し、1914年から18年にかけて祖国のために戦った人々への感謝の気持ちを国家として捧げる。フランスは大戦の兵士として歴史の残る人々を決して忘れることはない。)

故人の意思を汲んでくれているようですね。そして、祖国のために戦った人々を忘れない・・・これは「大戦」の兵士だけでなく、第二次大戦時の兵士やレジスタンスを顕彰するプレートをあちこちで見かけることでも明らかです。また、その後の植民地独立戦争で亡くなった人たちも。



19日は8年にも及ぶアルジェリア独立戦争が1962年3月19日に終結した記念日。多くの参戦兵(今やみな高齢者)たちが記念碑のあるペール・ラシェーズ墓地に集まるとともに、シャンゼリゼをジョルジュ・サンクから凱旋門まで行進。シャンゼリゼ界隈は、胸にいくつもの勲章を付けたお年寄りたちであふれました。

その戦いの意義や背景はともかく、祖国のために志願して、あるいは為政者の命令により、戦場に赴き、帰らざる人となった人々へ敬意を表すのはフランスではごく当たり前のことのようです。しかし、国葬をイベントで終わらせるのではなく、戦争と平和について改めて考え直す機会とすべきだという意見もあるそうです。過去の戦争といかに対峙すべきか・・・いろいろ視点、いろいろな意見がどこの国にもあるようですね。


卒業!

2008-03-16 00:22:34 | パリ
『卒業』といえば、ダスティン・ホフマンですが、そんな懐かしの名画に関係なく、毎年行なわれている卒業式。日本では、ちょうど卒業シーズンでしょうか。高校、荒れる中学、そして小学校。大学はもちろんとっくに授業が終わり、新社会人になるための準備、あるいは、卒業旅行。パリでも、2月下旬以降、学生風の旅行者を数多く見かけるようになっています。



数人グループで、あるいはカップルで、観光名所を訪ね歩いたり、ショッピングを楽しんだり・・・いい思い出になるといいですね。

そして、このブログもランキングを卒業させてもらうことにしました。初めて登録した日記ランキングを半年、そしてこの人気ランキングは去年の3月18日(日)からで、ほぼちょうど1年になります。それを機として、同じ日曜日(16日)、つまり今日ですが、を最後にランキングにはお別れしようと思います。

より多くの方にこのブログを知ってもらいたいとランキングに登録しました。ある程度上位にいれば、宣伝効果になるだろうと思っていたのですが、思いのほか多くの方々からアクセスをいただけるようになりました。



一日平均のアクセスIP数で750前後。閲覧ページ数は一日1,500前後。同じ日に過去に遡って多くの記事を読んでいただく方もいるかもしれませんが、それでも毎日1,000人以上の方々に読んでいただいているようで、本当に嬉しく思っています。

また、コメントをお寄せいただいた方々、リンク先等に登録していただいている方々、ご支援ありがとうございます。改めて御礼申し上げます。

これからは、気の向くまま、時々更新をしていこうと思っています。もし、引き続き訪問してくださるようでしたら、17日の早朝にランキングからは消えますので、お気に入りにでも入れていただければ幸いです。

ランキングへの投票、大きな励みになりました。本当にありがとうございました。そして、時々はこれからも覗いていただければ幸いです。


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黄色いアリは、いなかった!?

2008-03-11 02:04:48 | パリ
かつて、日本人をこう呼んだフランスの政治家がいました。

「日本人は黄色いアリ」
「日本人はウサギ小屋のような小さなアパートに住み、2時間もかけて通勤している」
「黄色いチビ」
「日本人はアリ。何度殺しても出てくるアリ」
「日本は規則を守らず世界征服を企む」

今から20年ほど前の発言です。出る杭は打たれるの譬えどおり、経済が成長を続け、ましてバブル、世界の不動産を買い漁ったりしていた頃ですから、黄禍論が出ていたのでしょうね。

しかし、それにしても、言うも言ったり。ウサギ小屋に住む黄色いアリ・・・これがフランス人女性の見る日本人像だそうですよ。そう、フランス人女性、この発言は、1991年5月から翌年4月まで、1年間だけ首相をつとめたクレッソン女史(Edith Cresson)の発言です。フランス初の女性首相。公式な場での発言、非公式なもの、外国メディアとのインタビューでの発言・・・いずれにせよ、首相在任中も含めてこうした発言をしたそうです。しかも、所属は極右政党ではなく、社会党。ミッテラン政権下で首相を務めています。農民のデモと地方選挙での敗北で、1年足らずで辞任に追い込まれていますが、全く歯に衣着せぬ発言が多かったのでしょうね。

こうした発言に、日本政府はもちろん抗議したのですが、一切の謝罪なし。ただし、嫌いなのは日本人だけでなく、アングロ=サクソン嫌いでも有名だったようで、「イギリス男はみんなゲイだ」と言ったとか。これに対して、イギリスのタブロイド紙は、「イギリス男に振られたからだろう」と言ったそうです。さすが、ユーモアと皮肉の国のメディアですね。日本も、生真面目に抗議するより、日本がアリならフランスはキリギリス、今に困っても助けませんよ、くらい言っておけばよかったのかもしれませんね。

そうした背景があり(?)、日本人としてはぜひ見なくてはと出かけたのが、le Palais de la decouverte(パレ・ドゥ・ラ・デクヴェルト)でやっているアリに関する特別展。


地球上に10億の10億倍いるというアリと、10億の2,400億倍いるというシロアリを紹介しています。ただ、社会性昆虫ということでアリ(une fourmi)とシロアリ(un termite)は似ているといえば似ているかもしれませんが(特に日本語では同じくアリとつく名前ですから)、実際は全く別の仲間。アリはハチ目に属し、シロアリはゴキブリ目。しかし、フランスでも同じ仲間のように思われているのかもしれませんね、一緒に紹介されています。それも、発見パレスなんていうきちんとした博物館でやる展覧会でも。いかにも、細かいことにこだわらないフランスらしいですね(日本が真面目すぎるという声もありますが)。

館内は、実際にアリの巣の中を歩くような狭い迷路になっていて、所々で映像によるアリの紹介がおこなわれています。


また、広くなったところでは、パネルや映像、そして実際に生きているアリも含めて、さまざまなアリの生態を紹介しています。


そこで見つけた、アリの分布図。

アリとシロアリの主な種類ごとに用意されたボタンを押すと、その種目が分布している地域にランプが灯るようになっています。しかし、いくつかあるアリのボタンをいくら押しても、日本のところにランプが点かない・・・故障でしょうか。ところがシロアリの1種目を押すと見事に点灯。ということは、このイベントでは日本にアリはいない! と見做しているのでしょうか。黄色いアリ発言から20年近く経過して、フランスはついに日本人アリ論を引っ込めた!・・・なんて訳ないでしょうね。単に細かい点にこだわらないだけでしょう、きっと。

館内の特別展は、他にもいくつかあり、そのひとつが地震と津波に関するもの。地震と津波・・・その対策は、やはり日本が進んでいるようです。

地震の速報と津波警報の事例をNHKの映像を使って紹介していました。それに、津波はフランス語でも“tsunami”

その語源を日本語を挟みながら説明しています(パネルの間が空いているのは、いい加減な取り付けなのではなく、地震・津波による被害を表現しているようです。フランス的な凝り方ですね)。また、地震の揺れを体験してもらう施設もあるのですが、まるで遊園地。実際の家のようなつくりにはなっていないので、子どもたちもただ楽しんでいるだけのようでした。

アリ、そして地震・津波。日本とフランス、思わぬところでもつながりがあるようです。


“le Palais de la decouverte ”
グラン・パレの裏側、入り口はAvenue Franklin D.Roosevelt側
入場=7ユーロ

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詩人に10回目の春。

2008-03-10 02:44:11 | パリ
このタイトルから、どんな内容か、想像つきますか? 詩人て、誰? どうして10回目の春?

“Le Printemps des Poetes”・・・「詩人たちの春」という文化イベントが3日から16日まで各地で行なわれています。このイベント、今年でちょうど10年目、というわけです。


(イベントのプログラムです)

1999年に始められたイベントで、最近日本でも行われている“La Fete de la Musique”(音楽のお祭り:こちらは1980年から)の「詩」版と見做していいようなイベントです。詩をもっと身近に、普段の暮らしに詩を! そんな願いで始められたそうですが、世話人のJean-Pierre Simeon(ジャン=ピエール・シメオン:1950年生まれ、数多くの賞を受賞している詩人)によると、詩のイベントなど最初は誰もまともに取り合ってくれなかった。どうして詩のイベントを、それも一般の人を対象に・・・詩はごく一部の愛好者に支持されているもので、日常生活からは消え去ってしまったもの。こんなふうにフランスでも思われていたそうです。

そこで、このイベントの目的は、エリートにだけ愛好されているような詩のイメージをぶち壊せ! 現実の生活、日常の生活に詩は生きていることを理解してもらおう!

こうした目的を達成するために、まずは、詩との出会い、詩人との出会いの場を! 多くの街で、その街に住む詩人が朗読を行い、詩に触れる機会を提供する。そこでは、単に朗読を聴くだけではなく、詩人と直接話す機会も設ける。

さらに、他の分野とのタイアップとして、郵便局や国鉄の駅、書店などで、詩の印刷されたリーフレットなどを配布する。また、公立図書館では、作品の展示なども。

(トロカデロにある市立図書館では、子供向け作品の展示を)

そして、恒例になっている、メトロ・サン・ジェルマン・デ・プレ駅での詩の投影を期間を延長して行なう・・・

(4月中旬まで、丸天井に詩の投影が行なわれています)

(プラットフォームには詩の作品が展示されていますが、その中には俳句の作品集も)

こうしたイベントが、今年は、フランス全土で1,400、その内400あまりがパリとその近郊で行われています。そのひとつ、6日に行なわれた朗読会に行ってきました。

会場は、ご存知の方も多い6区にあるアリアンス・フランセーズ。実はこの語学学校の地下には立派なホールがあります。

160~170人収容できるのですが、この夜は三分の一くらいの入りでした。しかも、聴衆はほとんどが中高年。詩人たちの意気込みは分かりますが、これが実態なのかもしれないですね。

まずは、去年Le Prix de la Vocation(ヴォカシオン賞)を受賞した新進気鋭の詩人・Vincent Calvetによる自作の詩の朗読。いかにも芸術家といった雰囲気を持った詩人で、手書き原稿の詩を朗読。詩といっても長いです。A4サイズの紙15枚ほど。朗読に10分ほどかかりました。はじめに編集者がごく簡単な紹介をしただけで、読み終わると拍手とともに壇上から降りて、お役ごめん。

つぎに登壇したのが三人の詩人たち。やはり編集者から簡単な紹介があり、後はそれぞれが自作の朗読。
・Mikael Haudchamp:1975年生まれ。2002年に初の詩集を出版。
・Jean-Yves Massonn:1962年生まれ。翻訳、編集も行ない、ソルボンヌの教授でもある。多くの詩集を出版。
・Jean-Claude Dubois:1954年生まれ。1988年に詩の賞を受賞。
編集者が紹介したように、三人の作品にはそれぞれに特徴があるようですが、それぞれの人となりにも個性が・・・

(左端、立っているのは紹介担当の編集者)

バッハやシューベルトなどの曲に喚起されて書いた詩なので、まずは、シューベルトの曲を聴いてもらってから朗読をしたい、では音楽を・・・30秒、1分・・・音楽が流れてこない。2分・・・さすがに係りの女性が、機械の調子がよくないので、まずは朗読を先にやってもらえませんか。いかにも大学教授といったイメージの詩人、にっこりと微笑んで、ノン! 事前に3回もテストをしたのだから、大丈夫なはず・・・さらに30秒。やっと曲が流れてきた。数分聞いた後、そのイメージで書かれた詩の朗読。長い詩を二編朗読。

つぎに若手の詩人。こうした席で読むのはあまり経験がなく、しかも上がりやすいので、とはじめに言っていたように、朗読はちょっと早口。詩集を持たない手は、汗ばむのか、ズボンの膝のところを幾度となく擦っている。長編の詩、時間の関係でそのいくつかのパートを朗読。

もうひとりは、最近はあまり出版していないのか、20年ほど前の作品なので、自分で読み返しても恥ずかしいとかいいながら、短い詩を朗読。一作読み終えると、次に読む作品をページを繰りながらその場で探しては、朗読。

全部で四人の詩人の自作朗読、合わせて1時間ちょっと。拍手とともにお開きでした。

詩には音楽としての側面もあるのでしょう。読むだけでなく、聴く。フランスでは、詩の朗読会が書店などでもよく行なわれています。それを大規模にして、より多くの人に詩を聴く機会を・・・プログラムによると、ジャズ演奏とのコラボレーションなんていうのもあります。また聴きに行ってみたいと思っています。「詩人たちの春」、日本でも駐日フランス大使館や日仏学院・学館、アリアンス・フランセーズなどで始めているようですが、詩を聴くチャンスが広がってくると良いですね。それも、フランス語だけではなく、日本語の詩を聴く機会も!

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女性の地位は、向上しましたか。問題はないですか。

2008-03-08 02:44:07 | パリ
3月8日は、国連の定める「国際婦人デー」。日本での取り組み、あるいは、メディアでの取り上げ方はどうですか。日本にいた時には、あまり気がつきませんでした。日本では、女性の地位は十分に改善されているということでしょうか。それとも、諦めなのか、今以上のことを望まないということなのか・・・フランスでは、まだまだ大きな課題になっているようです。


5日から、「国際婦人デー」を記念して、偉人を祭るパンテオンの正面に9人の女性の肖像画が掲げられています。いずれも、女性の解放、地位向上に貢献した人たちです。どんな女性たちでしょうか・・・9人を生まれた年代順に簡単にご紹介しましょう。

・Olympe de Gouges(1748-1793)政治家。フランス最初のフェミニストの一人。『女性と市民の権利宣言』などを著すも、断頭台の露と消える。

・Solitude(1772-1802)フランス領グアドループでの奴隷解放運動のヒロイン。1794年にいったん廃止された奴隷制度がナポレオン1世によって1802年に復活。それに反対して立ち上がった人々を代表する女性。出産の翌日、処刑される。

・George Sand(1804-1876)作家。離婚の自由と男女平等を主張し、自らも実践。ミュッセやショパンとの恋愛が有名。

・Maria Deraismes(1828-1894)政治家。フェミニズムのパイオニアで象徴的存在。女性の権利、子どもの権利、民主主義、男女の別のない「人権」を主張。

・Louise Michel(1830-1905)政治家。パリ・コミューンに参加した、戦う女性活動家。



・Marie Curie(1867-1934)科学者。ノーベル賞を二度受賞。物理学賞を1903年に、化学賞を1911年に。

・Colette(1873-1954)作家。社会的制約を拒否した自由な精神の持ち主。性の解放も主張。レジオン・ドヌール勲章を受賞。国葬に。

・Simone de Beauvoir(1908-1986)作家、哲学者。『第二の性』などを著し、女性解放の先頭に。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」はあまりに有名。

・Charlotte Beldo(1913-1985)レジスタンス。抵抗運動に加わるも、捕まりアウシュビッツへ。そこを生き延びた49人の女性の一人。戦後は執筆活動も。

・・・信じる道に命を捧げた女性たちといってもよさそうですね。女性解放、そして何よりも人間としての尊厳を求めて立ち上がった女性たち・・・そして、今日の社会がある。

ところで、フランス男性は、女性に優しい・・・表面的にはそう見えますが、制度的には男性中心が根強く残っている社会のようです。女性に参政権が認められたのも、ようやく第二次大戦後。女性に門戸を開放したのが、やっと1972年という名門校まであります。その名門校とは、エコール・ポリテクニク。日本では「理工科大学校」とも訳されている、グランゼコールの一つで、文字どおり理科系の最高学府。1794年、フランス革命の混乱時に誕生したこの学校は、ずっと男子だけを入学させ、女子禁制でした。1972年(昭和47年)にはじめて8名の女子学生の入学を認めたそうです。

その翌年に入学した女性が、このたび、この男性中心の伝統を持つ名門校の理事長(日本風に言えば、たぶん学長でしょう)に女性としてはじめて就任することになったそうです。


7日付のフィガロ紙です。たまたまとはいえ、「国際婦人デー」を前に、重要なポストが女性に解放されたと伝えています。その女性は、Marion Guillou、53歳。エコール・ポリテクニク卒業後、農産加工品の安全性を中心とした専門家として、政府内で、研究機関で手腕を発揮するとともに、狂牛病発生時には駐英フランス大使館に出向しその対策に尽力したそうです。役人当時は、社会党政権になろうと保守政権になろうと担当大臣とうまく協調して、専門分野の行政をしっかり行なったそうですし、また、国立農業研究機構の理事長のときには、組織内の対立を時間をかけて解決し、研究機構が持続的に発展できるような体制作りに成功したとか。こうした経験が、フランス国内の大学だけで育ったほかの研究者にない強みなっているそうです。何しろ、学際、産学協働、国際競争の時代ですから。本人は、たまたま世代交代の時期にうまく当たっただけと謙遜しているそうです。

もうひとつ、「国際婦人デー」関連の話題が、7日のディレクト・マタン・プリュス紙に出ています。


「沈黙との戦い」・・・フランスの大都市郊外には多くの移民が暮らしています。中心は旧植民地から移り住んだ人々。そこでは、出身地の風習、しきたりが今でも生きていて、女性にとってはいっそう生き難い環境になっているそうです。そうしたエリアでの女性の地位向上、問題解決に取り組む団体も多くありますが、そのひとつ“Ni putes ni soumises”(娼婦でもなく服従でもなく)の代表を長年務めて、現在フィヨン内閣の都市政策担当閣外相になっているのが、本人もアルジェリア移民二世のファデラ・アマラ女史(写真中央)。親が決める結婚の強制、男性からの暴力、例えば、態度が気に入らないというだけで交際相手に殺された女性、結婚を断ったところ相手の男性にガソリンをかけられ火をつけられた女性・・・これらが21世紀のフランスで実際に起きている事件です。女性を取り巻く環境の改善を! アマラ閣外相の取組みが続きます。


「国際婦人デー」の8日、300ものカフェ・レストランでは女性客にバラの花をプレゼントするそうです。やっぱりフランスはおしゃれですね。でも、女性を巡る問題は、上記をはじめまだ解決していないものが多くあるようです。どちらを見るかで、フランスにおける女性の立場も、羨ましくなったり、気の毒に思えたり・・・くどくて恐縮ですが、良いところもあれば、嫌なところもある。さて、日本ではどうでしょうか。女性の日は、3月3日のお雛様でおしまいでしょうか。子ども中心の社会。でも、大人の女性にとって、生きやすい社会ですか。生きがいの持てる社会ですか。幸せを実感できる社会ですか・・・

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切手を貼って、手紙を出そう・・・というイベント。

2008-03-05 02:41:00 | パリ
最近、手紙を出したことはありますか。もちろんですとも、年賀状!・・・確かに、賀状も手紙ですが、はがきではなく、便箋に文を認め、封筒に入れて、切手を貼り、郵送する・・・なぜか、大昔のことのように思えますが、まだ30~40年ほど前までは(個人差が大きいとは思いますが)そうしていたのではないでしょうか。でも、いつの間にか、手紙よりもっぱら電話、手紙は賀状と旅先から出す絵葉書、それに事務手続き上必要な書類の郵送、それくらいになってしまいました。それがさらに、インターネットの普及で、いっそう手紙離れが進行。それはそれで時代の趨勢。抗っても仕方ないと思うのですが、たまには手紙でも書いてみると、気持ちの整理、あるいは思わぬ感情の発見が自分の中にあったりするかもしれません・・・などと、これではまるでコマーシャル!

実はそうなんです、3月1日・2日は、切手の祭典。

2月29日のメトロ紙に出ていた広告です。タイトルは“Fete du Timbre”切手のお祭りですが、実は正式名称が別にあって“La Fete du Timbre et de l'Ecrit”、切手と文を認めることの祭典・・・まずは、手紙を書こう、そして切手を貼って郵送しよう! もちろん主催はフランス・ポストなのですが、いくら広告とはいえ、正式名称を使わないあたりが、日本とは違いますね、大した問題ではないですが。

この切手の祭典、始まったのが1938年だそうですから、今年で丸70年。しかし、特に何も謳っていません。昨年70周年を祝ったのでしょうか。でも、どちらにせよ、これも些細なことです。

さて、さて、今ではこの切手イベント、フランス全土115都市で行なわれているそうです。パリの会場になっている、11区のキロン・エスパース(Kiron Espace)に行ってみました。

しっかりバナーが貼られ、準備は良くできているようです。このイベント会場のすぐ前が郵便局ですから、そこの職員がもしかして準備したのかもしれないですね。


イベント・キャラクターは、ドルーピー(Droopy)・・・1943年にアメリカでテックス・アヴェリー(Tex Avery)によって創り出された短編マンガの主人公。少し眠そうな表情は常に変わらず、作品によって、警察犬になったり、普通の犬になったり。でも、どうしてこのマンガの主人公が切手イベントのキャラクターに使われているのでしょう? ご存知の方いらっしゃいますか。会場ではアニメも上映されていました。


会場は、それほど広くないのですが、ハリー・ポッターやドルーピーをはじめ多くの記念切手が展示されたり、売られていました。販売窓口には、例によってなかなか進まない長い行列ができていたのですが、そこで気付いたのは、大人ばかり! 切手収集は、日本では子ども時代に趣味にする人は多いのですが、大人になっても続けている人はそれほど多くはないのではないでしょうか。こうしたイベント、日本なら大勢の子どもたちが来ているところでしょうが、パリでは会場にいるのは大人ばかり。それも、年配の人ばかり。e-mailなんかそんなもの知らない、気持ちを伝えるのはやはり手紙さ、という世代なのか、あるいは切手収集人気がジリ貧で、若い人がやらないのか。いずれにせよ、正式タイトルに“l'Ecrit”と付け加えられているように、フランスでも郵送される手紙の数が減っているのでしょうね。やはり、ネットの普及で、メールに取って代わられているのかもしれません。ただそれでも書類文化のフランスでは、事務手続き上、どうしても郵送しなくてはいけないものも多く、日本よりはまだ郵便件数も多いような気もしますが、それでも以前と比べれば激減しているのでしょうね。


会場では、切手の保存上の留意点や、集める際にはテーマを絞って収集すると面白いとかいった注意をまとめた「切手収集ガイド」や本のしおり、そして今年のカレンダーなどを無料で配っていました。昨年末、5ユーロを寄付した際にもらったフランス・ポストのカレンダーよりも高級なカレンダーが自由に持って帰れるようになっていました。ちょっと複雑・・・

ネットに押され、郵便事業者としては、やはり何らかの対策を行わないと、この先明るい展望が開けてこないのは、世界共通なのでしょうね。起死回生のアイディアが出ますかどうか・・・

切手といえば、パリには切手市もあります。帰り道に寄ってみました。以前にもご紹介したことがあるのですが、場所は8区、エリゼ宮の近く。レストラン・マキシムのすぐ前の道に切手商が店開きしています。

マルシェのような店構えをする切手商もいますが、もっとカジュアルに、ベンチの上で店開きの人も。

商売成立、お互い満足しての握手でしょうか。

そして、すぐ前、シャンゼリゼに面した公園には・・・

モクレンが満開。先週末の最高気温は13度ほど。この暖かさなら、ベンチでの商売も問題なしですね。

本当なら、こうした切手のイベントや切手市の様子を手紙で出したいところですが、今日も今日とて、ブログでご紹介。フランス・ポストさん、ごめんなさい、とあまり心にもないことを言って、今日はこれで失礼します。

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