勝手に「偉人通り」と名づけたくなる通りが、6区にあります。Rue de Seine(セーヌ通り)、名前もいいですね。マビヨン(Mabillon)とオデオン(Odeon)の間、サン・ジェルマン大通りからセーヌ河畔までの500mほどの道なのですが、この通りに住んだ偉人たちを紹介するパネルが通りに面した建物に次々と掲示されています。
サンジェルマン側から撮った写真です。突き当たりのドームは学士院のものです。では、パネルを1枚ずつ見ていきましょう。
シャンポリオン(Champollion)の住んでいた家です。シャンポリオン・・・懐かしいですね、むかし世界史で習いましたよね、ロゼッタ石に書かれた文字を解読し、古代エジプトのヒエログリフを解明した。それが1822年9月のことで、「エジプト学の父」といわれるシャンポリオンがここに住んでいたときだそうです。1790年生まれですので、ヒエログリフを解読したのは32歳のときだったのですね。後にコレージュ・ド・フランスのエジプト学の教授になりましたが、1832年、42歳の短い生涯を終えています。
二人の有名人が同じ建物に住んだようです。
まずは、上のパネルに書かれているFrancois du Mouriez du Perier(デュ=ムリエス=デュ=ペリエ)。近代的消防隊を世界ではじめて創設した人で、1723年6月21日にここで逝去したそうです。商売センスにあふれたこの人物は、まず1699年に移動消火ポンプの製造独占権と専売権をルイ15世から取得。そして、1716年に世界初の近代的消防隊を創設し、自ら隊長になったそうです。近代的消防もフランスから始まっていたのですね。フランスの消防隊はとても人気があるのですが、この歴史がその人気の一因かも知れないですね。
下のパネルで紹介されているのは、Janos Batsanyi、なんて発音するのでしょう、ハンガリーの詩人です。1763年から1845年までの人生、そのうち1812~15の3年間をパリで過ごしました。どうもここに住んだようです。愛国的作風で知られ、またナポレオンの演説にいたく感動し、その言葉をハンガリー語に訳して紹介したそうです。この詩人、全く知らなかったのですが、ヨーロッパでは結構知られているようで、ネットで簡単に探せました。
次は、Charles Barbaroux(シャルル・バルバルー)。フランス革命期の活動家です。公会議の議員になり、ジロンド派に所属。マーラーやロベスピエールとやりあいましたが、残念ながら敗れて、最後はギロチン台の露と消えたそうです。その彼が1791年に住んでいたのがこの場所。なお、一説によると、ストラスブールに駐屯していた工兵大尉、ルージュ・ド・リールが一夜にて作詞作曲した『ライン軍のための軍歌』を、バルバルーが故郷のマルセイユで創設したマルセイユ義勇兵という組織が歌って広めたことからこの歌が『ラ・マルセイエーズ』と名づけられ、やがてフランス国歌になったとか(諸説あるようです)。
最後は偉人ではなく、偉人たちの集まるところです。Academie des Sciences(フランス科学院)です。1622年、時の宰相コルベールの建議に従いルイ14世が創設しました。今ではフランス学士院にある5つのアカデミーのひとつで、150人の正会員(終身)、300人の準会員、120人の外国アソーシエイトからなっているそうです。学士院の建物は立派なのですが、科学院のパネルのある建物は、伝統と威厳を殆ど感じさせない建物で、ちょっとビックリです。
学士院の脇でセーヌ河畔に出ます。歩行者専用のPont des Arts(ポン・デ・ザール)を渡ると目の前がもうルーブル美術館!
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サンジェルマン側から撮った写真です。突き当たりのドームは学士院のものです。では、パネルを1枚ずつ見ていきましょう。
シャンポリオン(Champollion)の住んでいた家です。シャンポリオン・・・懐かしいですね、むかし世界史で習いましたよね、ロゼッタ石に書かれた文字を解読し、古代エジプトのヒエログリフを解明した。それが1822年9月のことで、「エジプト学の父」といわれるシャンポリオンがここに住んでいたときだそうです。1790年生まれですので、ヒエログリフを解読したのは32歳のときだったのですね。後にコレージュ・ド・フランスのエジプト学の教授になりましたが、1832年、42歳の短い生涯を終えています。
二人の有名人が同じ建物に住んだようです。
まずは、上のパネルに書かれているFrancois du Mouriez du Perier(デュ=ムリエス=デュ=ペリエ)。近代的消防隊を世界ではじめて創設した人で、1723年6月21日にここで逝去したそうです。商売センスにあふれたこの人物は、まず1699年に移動消火ポンプの製造独占権と専売権をルイ15世から取得。そして、1716年に世界初の近代的消防隊を創設し、自ら隊長になったそうです。近代的消防もフランスから始まっていたのですね。フランスの消防隊はとても人気があるのですが、この歴史がその人気の一因かも知れないですね。
下のパネルで紹介されているのは、Janos Batsanyi、なんて発音するのでしょう、ハンガリーの詩人です。1763年から1845年までの人生、そのうち1812~15の3年間をパリで過ごしました。どうもここに住んだようです。愛国的作風で知られ、またナポレオンの演説にいたく感動し、その言葉をハンガリー語に訳して紹介したそうです。この詩人、全く知らなかったのですが、ヨーロッパでは結構知られているようで、ネットで簡単に探せました。
次は、Charles Barbaroux(シャルル・バルバルー)。フランス革命期の活動家です。公会議の議員になり、ジロンド派に所属。マーラーやロベスピエールとやりあいましたが、残念ながら敗れて、最後はギロチン台の露と消えたそうです。その彼が1791年に住んでいたのがこの場所。なお、一説によると、ストラスブールに駐屯していた工兵大尉、ルージュ・ド・リールが一夜にて作詞作曲した『ライン軍のための軍歌』を、バルバルーが故郷のマルセイユで創設したマルセイユ義勇兵という組織が歌って広めたことからこの歌が『ラ・マルセイエーズ』と名づけられ、やがてフランス国歌になったとか(諸説あるようです)。
最後は偉人ではなく、偉人たちの集まるところです。Academie des Sciences(フランス科学院)です。1622年、時の宰相コルベールの建議に従いルイ14世が創設しました。今ではフランス学士院にある5つのアカデミーのひとつで、150人の正会員(終身)、300人の準会員、120人の外国アソーシエイトからなっているそうです。学士院の建物は立派なのですが、科学院のパネルのある建物は、伝統と威厳を殆ど感じさせない建物で、ちょっとビックリです。
学士院の脇でセーヌ河畔に出ます。歩行者専用のPont des Arts(ポン・デ・ザール)を渡ると目の前がもうルーブル美術館!
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なんか堰かせるみたいで悪いのですが(笑)
まさに「偉人通り」ですね。無教養の私には、ブログに出てくる
偉人・建築などをネットで勉強中です。
文章表現が皆さんとは違うような気がしているんですが。
サラッ~と読みやすいのには感心しています。
日本も寒くなってきました。
又 来ます。
コメントありがとうございます。朝一番の楽しみとは、うれしい一言です。
名前を知っていただけの偉人とか建築物とか、私も調べて紹介しています。このブログを書くことにより、フランスやパリに関する知識も増えてくるのではないかと思っています。
引き続き、ご訪問、よろしくお願いします。
Can you please remember where you've found tha house Barbaroux lived in? I tried to find through Google Maps, but just can't see such a house at rue de Seine.
It's very important to me, can you help me with this?
Best regards,
Arthur
Thank you for your e-mail.
Though I found the house at the "rue de Seine", I don't rememer now where the house is exactelly. I took the picture 6 years ago.
I'd like to recommend that you walk along the street to find the house. The street is not long. I'm sure that the house exists at rue de Seine, as my picture shows the panel with his name.
Best regards,
Take