50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

所得申告。

2007-05-31 00:32:33 | パリ
フランスの所得申告の締め切りは、基本的に5月末。インターネット上で申告する場合は、エリアによって、6月12日、19日、26日とデッドラインに差がありますが、いずれにせよ今が所得申告の締め切り時期。というわけで、メディアでも、いろいろ取り上げられています。


(ちょっと古いですが、24日付のmatin plus紙です)

私のビザはビジタービザ。滞在許可証の更新は1年ごとになるのですが、その際、所得申告の控えを添付する必要があります。でも、ビジタービザの場合はフランス国内で一切働いてはいけない、つまり所得があってはいけないのですから、所得申告をするというのも変なのですが、きっと、所得がなかったことを証明するために必要なのかもしれないですね。必ず所得申告をし、その控えを他の多くの書類と一緒に提出することになります。

今回は2度目の申告になりますので、必要書類は、税務署から4月下旬に郵送されてきました(上の新聞記事の右上の写真が同じ書類の一部です)。送られてきた書類は、しっかりリサイクルできる袋に入っていました。環境への配慮もなされているようです。なお、滞仏1年目の所得申告は、こちらからアクションを起こさない限り、なんら連絡はありません。

また、滞在2年目からは、口座を持っている銀行から課税対象となる利息の通知が事前に届きますので、必要事項を申告用紙に記入すると共に、必要な部分を添付することになります。今年はその記入がはじめてで、記入場所が分からないため、税務署で担当者に聞いて提出することにしました。


申告に行ったのは16区の税務署。メトロ1号線、ポルト・マイヨの駅のそばにあります。去年の滞在許可更新の際、この所得申告を知らずにやっていなかったので、なんと9月にこの16区の税務署に相談に行ったのですが、ここが同じフランスのお役所か、と信じられないほど非常に親切でした。去年の1月1日に住んでいたところを管轄する税務署を調べ、電話でそこで間違いないか確認し、行き方まで教えてくれました。今年の対応はどうでしょうか。窓口の担当者によって対応に大きな差があるフランス、若干の不安を抱えながら行ってきました。

案ずるより・・・で、今年も親切な対応でした。利息分は最後のDivers(その他)の欄に記入すればいいということで、その場で書き込み、即終了。実に簡単なものでした。何も分からない1年目は右往左往して大変でしたが、2年目ともなると、少しは事情が分かって、動きやすくなるものですね。火災保険の更新・支払いも済みましたし、滞在許可の更新の準備は、回数を重ねるごとにスムーズに行きそうです。

なお、新聞記事によれば、送られてくる申告用紙には、所得以外の部分はすでに印字されているのですが、時として間違いがあるので、確認することが大切だそうです(このあたり、フランスらしいですね)。

また、大統領選のお陰で、今年は減税されるようで(と言っても、私にはまったく関係ない話なのですが)、最高税率が60%から50%へ(この減税で、外国へ移住していた著名人が戻ってくるとか)。また、学生の場合も、条件つきながら申告しないで済む人が増えるそうです。

今日31日、フランスでは、窓口での所得申告が締め切られます。所得申告が終われば、後は、ヴァカンスへ、一直線―――。

↓アクセスランキングへ「励みの一票」をお願いします!

人気blogランキングへ


60回目のカンヌ。

2007-05-30 01:00:22 | 映画・演劇・文学
27日、60周年を迎えたカンヌ映画国際フェスティバルの授賞式が行なわれました。


28日付のLe Figaro(フィガロ紙)です。ジェーン・フォンダからお祝いのキスを受ける、パルム・ドール(最高賞)を受賞したルーマニアのCristian Mungiu(クリスティアン・ムンジウ)監督のうれしそうな表情が第一面を飾っています。

何しろ、60回目という記念すべき年のパルム・ドール。その栄誉はどの作品に輝くのか、また他の賞は誰が受賞するのか・・・デパート「ボン・マルシェ」のイベントは以前ご紹介しましたが、例年にも増して大きな話題となってきた今年のカンヌ。結果は、フィガロ紙の見出しに「ルーマニアの驚き」とあるように、“4 mois, 3 semaines et 2 jours”(『4ヶ月、3週間と2日』)というタイトルのルーマニア映画が受賞しました。

(雑誌『カイエ・デュ・シネマ』5月カンヌ特集号、写真はパルム・ドール受賞作の1シーン)
80年代、共産主義政権下のルーマニア。非合法の中絶をするため悪徳医に体をゆだねる友人を何とか助けようとする若い女性の話だそうです。早くから有望視されていた作品が、最終的に受賞。進境著しいルーマニア映画の受賞であり、悲劇的なテーマが印象的だったようです。29日付のmetro(メトロ紙)は、映画はただ笑い転げるだけのものではない、時には主人公たちと一緒に悩んだり悲しんだりするものだ、というメッセージを審査員たちはこのパルム・ドールに託したのではないか、と言っています。


これは同じく28日のフィガロ紙の別刷り、主な受賞者リストです。上から2番目に記載されているのが、パルム・ドールが期待されていた河瀬直美監督の『殯の森』。惜しくもパルム・ドールは逃しましたが、それでも準グランプリにあたるGrand Prix du Jury(審査員特別賞)を受賞。10年前に『萌の朱雀』で新人監督賞にあたるカメラ・ドールを獲得している河瀬監督、早晩、必ずやパルム・ドールを受賞することでしょう。

60周年記念大賞は、ガス・ヴァン・サント監督の“Paranoid Park”(『パラノイド・パーク』)、主演女優賞が『シークレット・サンシャイン』で韓国女優のチョン・ドヨン、主演男優賞は『ザ・バニッシュメント』のコンスタンティン・ラヴロネンコ。監督賞は“Le Scaphandre et la Papillon”(『潜水服は蝶の夢を見る』)のジュリアン・シュナーベル監督。


1週間ちょっとの期間中、多くのスター、映画関係者がカンヌに集まりました。賞だけでなく、新作の売り込み、買い付けの場でもあるため、ホテルで、レストランで、あるいは、こっそりと、いろいろな場で旧交を温める交歓、あるいはタフな商談が行なわれたようです。右下の3人の美女が並んでいる写真、左がカトリーヌ・ドヌーヴ、右が娘のキアラ・マストロヤンニ、中央にいるのが審査員賞を取ったアニメ『ペルセポリス』の原作者であり、共同監督のマルジャン・サトラピ。ドヌーヴ母娘はこのアニメに声優として参加しています。左上の写真は今回の審査委員たちで、左から4人目、髪に手をやるアジア系の女性が、マギー・チャンです。堂々たる、世界のトップスターですね。

堂々、と言えば、忘れられないシーンがこれ。

21日付のmetro(メトロ紙)に掲載された、60回を記念して集まった著名監督たちの写真ですが、左手前にいるのが、紋付袴の北野武監督。存在感がありますね。ぜひ、また新作でカンヌに戻ってきてほしいものです。

さて、60年目のカンヌから、どんな名作が私たちの目の前に現れ、そして記憶に残っていくのでしょうか。多くの作品の公開が待たれます。

↓アクセスランキングへ「励みの一票」をお願いします!

人気blogランキングへ


滑り出し上々、サルコジ政権。

2007-05-29 00:47:38 | マスコミ報道
サルコジ氏が大統領に就任して10日余りが過ぎました。正式に就任するやドイツへ飛び、メルケル首相と首脳会談。また、フィヨン首相を任命すると、一緒にテレビカメラの前でジョギングを。組閣は15人という少数精鋭。その内7名を女性閣僚に。そして、ベルギーのEU本部へ飛び、会談。

矢継ぎ早の行動をフランス国民はどう評価しているのでしょうか。25日付のLe Figaro(フィガロ紙)がアンケート結果を紹介しています。



サルコジ大統領の施政スタイルが期待通りだと評価する層が全体で70%。先の選挙でサルコジ候補に投票した人では当然ですが99%、極右・ルペン候補に入れた有権者では93%、中道のバイルー候補を支持した人たちで69%、社会党・ロワイヤル候補に投じた層でも34%が評価しています。

高い支持を得ているサルコジ流のスタイル。今までの大統領と比べ異なっていると思っている人が87%。前任者たちとはやり方が違うが、それだけ、変革をもたらしてくれるのではないか、と期待しているようです。社会党支持層だけでは83%が今までとはスタイルが違うと見ており、一方そのスタイルを支持するのは34%。社会党のミッテラン大統領時代などとは大きく異なる政治スタイルへの不安・不満が強いのかもしれませんね。

また、そのサルコジ・スタイルとは、ダイナミック(91%)・モダン(85%)・硬直的でない(75%)・派手な(52%)といった特徴があるようです。

多くの改革を一気に進めようとしているサルコジ大統領。そのことへも67%が支持をしています。改革は一つ一つ行なったほうが確実だというのは32%に留まっています。一気の改革へ、戸惑いよりも、期待のほうが大きいようです。


(この写真は26-27日付のル・モンド紙から)

就任の記念写真、前任者の何人かと同じように、本棚をバックに撮っているのですが、そこは改革の人、はじめてフランス国旗の横にEUの旗を並べました。フランスがEUの単なる一員になることには我慢がならず、EU全体がフランスのようになればいい、という人が多いのではないかと分析されることの多いフランス人とEUの関係。この写真からは、フランスもEUの一員であることが印象的に伝わってきます。もちろん、単なる一員ではなく、重要な一員ということなのでしょうが。この写真については、10点満点で5.9点。ポジティブに捉えている人が30%、否定的な人が43%。この数字だけを見れば、EU憲法を国民投票にかけると、また否定されるかもしれませんね。そのあたり重々承知なのでしょう、サルコジ大統領は、EU憲法をコンパクトなものにした上で、国会で決議したいと言っています。

なお、こうした数字に表れていない声としては、サルコジ大統領を支持する層からは、・エリゼ宮に鎮座ましましているタイプではなく行動の人だ・現代的で現実に即した行動を取れる人だ・大統領であると共に大臣でもあるかのように、問題にコミットする人だ・即、行動を起こせる人だ、という評価の声が伝えられています。しかし、支持する層の中にも、自分の期待にそぐわなければすぐ大臣をすげ替えるのではないか、その結果大統領の顔色をうかがう大臣が増えるのではないか、といった不安も出ています。

反サルコジ派からは、・いつも選挙のことしか考えていない・ご都合主義だ・メディアに注目されることを念頭においたポピュリズム政治ではないか、といった意見が出されています。

要は、外見はいままでの大統領とは違っているが、その「権力」を行使するということにはかわりがないのではないか、ということのようです。でも、その政策の結果はフランス国民の生活に跳ね返ってくるわけですから、常にチェックを怠らないことが大切。でも、こんなことは、大人のフランス人たちは疾うに自覚しているのでしょうね。

アメリカ流、選挙に強い、ポピュリズム政治・・・フランスが、日本と同じようになって来つつあるのでしょうか。サルコジ大統領、小泉前首相とは非常に馬が合ったかもしれないですね。安倍首相は同年代だからうまくいくと言っているようですが。さて、日仏関係は、どうなるでしょうか。

↓アクセスランキングへ「励みの一票」をお願いします!

人気blogランキングへ


ピカソとカルメン。

2007-05-28 00:35:49 | 美術・音楽
いま、ピカソ美術館で“Picasso - Carmen”(ピカソ・カルメン)という企画展が開催されています。



いくらフランスに住んで制作活動をしていたといえ、ピカソはスペイン人。「カルメン」のもつ情熱・アウトサイダー・反逆といったイメージを嫌いであるはずがありません。「カルメン」を描いた作品があって当たり前・・・と、この企画展を知れば思えるのですが、ではその具体的な接点は、と問われると、はたと困ってしまう、そんな程度の知識しかなかったのですが、ピカソとカルメン・・・惹かれるものがあり、出かけてきました。


いかにもスペインといった、黒のレースをイメージさせる会場装飾です。そして、髪飾り、扇・・・スペインが出迎えてくれます。展示されているのは200点ほどの絵画、デッサン、版画、挿絵、写真など。何しろピカソの多作ぶりは有名で、もっとも多作な画家としてギネス・ブックにも載っているほどですから、カルメンに関係する作品が200点といっても驚くにはあたらないのかもしれないですが、それでも、多くの作品です。


ポスター、パンフレットに使われているスペイン女性やこうした闘牛士の写真、


そして、いかにもキュビズムの創設者といった作品が並んでいますが、今回特に注目されたのが、メリメの本に描かれた水墨画です。


メリメの小説『カルメン』が発表されたのは1845年。そしてビゼーのオペラが上演されたのが1875年。ピカソはそのあと1881年の生まれで、20世紀に入るとすぐパリに住み始めましたので、それらを読んだり観たりするチャンスはあったのではないでしょうか。実際、ピカソはカルメンに多大な興味を抱いていたようです。興味というより、憑り付かれていたといった方がいいくらいだ、と言う人もいるくらいです。情熱的というか、男の一人や二人、簡単に破滅させてしまうほどの魔性の女性、カルメン。

ピカソは、1957年に出版されたメリメの『カルメン』の余白に、水墨画を中心に彩色したものも含め、多くの挿絵を描いています。


そして、暗く血の騒ぐ儀式、闘牛。カルメンと闘牛・・・祖国スペイン、というだけでなく、ピカソはそこの何か共通するものを見ていたのではないでしょうか。しかも、両者が似ているだけでなく、そこに自分自身を見出していた画家・ピカソ。カルメンは、女性という鏡に映ったピカソ自身だ、といわれる所以かもしれません。情熱・アウトサイダー・反逆、それらの化身がカルメンになり、ピカソになったのでは・・・そう思えてきます。


ピカソ美術館
5 rue de Thorigny(火曜日休館)
“ピカソ・カルメン”展は7月24日まで

↓アクセスランキングへ「励みの一票」をお願いします!

人気blogランキングへ


ルテティアからパリへ。

2007-05-27 00:54:41 | パリ
ノートル・ダム大聖堂前広場の西の端に“Le crypte archeologique du Parvis Notre-Dame a Paris”(パリ・ノートル・ダム前広場の考古学的地下礼拝堂)があります。こうした長い名前ですが、実際には「パリの歴史地下博物館」といったところです。

一般に公開されているのは、パリがまだルテティアと呼ばれていた時代の遺跡です。実際にそこにあった建造物の一部などが保存されていて、見学できるようになっています。


ルテティア(今のパリの地域)に人が住み始めたのは、旧石器時代とか。鉄器時代に入ると、ケルト人が移り住み、その中のパリシイ族(後のパリの語源)が紀元前3世紀にはシテ島に定住するようになったそうです。当時の金貨が見つかっており、繁栄ぶりと美的センスの良さを示しているとか。ルテティアはその後、紀元前53年にはシーザーの支配下に入り、翌52年にアルウェルニ族の首長ウェルキンゲトリクスによる反乱にパリシイ族も加わりますが、ローマ軍に鎮圧されてしまう。シーザーの『ガリア戦記』にもこのときの戦闘が紹介され、そこで「セーヌ河上の島に位置するパリシイ族の町」として歴史上はじめて登場することになります。その後、ガリアの村からガロ=ローマの街として発展していくことになります。


当時の舗石まで保存されています。この道をどのようなパリシイ人が、ローマ人が、どのような服で、何を話しながら歩いたのでしょうか。


また、井戸の跡(左)と柱の土台も見ることができます。パリの地層には建設に不可欠の石や石膏が豊富だったそうですが、そのことを物語っている遺跡が多く残っています。

ガロ=ローマ時代には開発の中心がシテ島からセーヌ左岸に移っていましたが、3世紀末に始まるゲルマン人の進入により、シテ島の自然の要塞としての価値が見直され、シテ島が再び中心に戻ったとか。


3世紀の街並みの模型が展示されています。手前が左岸、奥にシテ島、そしてほんの少しだけ開発された右岸。幹線道路を作り、それと直角に交わる道路とで碁盤目状の街を見事に造っています。左岸には、浴場が3つ、劇場1つ、フォーラム1つ、闘技場が1つあったそうです。いかにも古代ローマといった施設ですね。浴場のひとつは中世美術館の一部に、闘技場はリュテス闘技場として、今も見ることができます。

4世紀頃、ルテティアに替わりパリが街の名前として一般的になります。そして、フランスの王となったクローヴィスによって、508年、メロヴィング朝の首都と認められ、さらに発展していくことになります。5~6世紀のパリの人口は15,000から20,000人だったとか。この時代に多くの教会が建設されています。そのひとつが、今のノートル・ダム大聖堂の建つ場所に建てられたというSaint-Etienne(サン=テチエンヌ)大聖堂。30mの高さのある堂々たる造りだったそうです。

7世紀末頃から、パリの重要性にかげりが見え始め、政治の中心も少しはなれたところに移ってしまいます。しかし、9世紀に始まるヴァイキングの侵略により、再びシテ島が自然の要塞として脚光を浴びることになります。10世紀後半、カペー朝が始まると、パリはその首都となり、それ以降、フランスの中心として栄えていくことになります。


中世のパリの街並みを再現した模型です。城壁に囲まれたパリですが、次第にそのエリアを広げています。右岸はかつて湿地帯でしたが灌漑技術の発展などにより、人が住めるようになりました(ガロ=ローマ時代の模型と比較してみてください)。今日、マレ地区と呼ばれますが、そのmarais(マレ)とは、湿地とか沼といった意味。開発は遅れましたが、今ではおしゃれな街になっているのは、ご存知の通りです。

また、この地下博物館には、ガロ=ローマ時代のモザイクの一部、塗料など街づくりに欠かせなかった材料が展示されていたり、

その色彩感覚を示す資料が展示されています。

赤と黒が内装によく使われていたそうです。ローマ趣味だったそうですが、これは今でもフランス人の好みに色濃く残っています。黒のセーター・パンツに真っ赤なコートとか、黒一色に赤のマフラーとかいった出で立ちをよく見かけます。黒と赤の配色、ルーツは古代ローマなのかもしれないですね。スタンダールの『赤と黒』は、貴族と聖職者。でも、こうした色もルーツは古代ローマにあるのかもしれないですね。

ルテティアからパリへ・・・その歴史をシテ島の地下で見ることができます。ノートル・ダム大聖堂へお出かけの際には、立ち寄ってみてはいかがですか。

↓「励みの一票」をお願いします!

人気blogランキングへ


社長の給与、フランスの場合。

2007-05-26 01:05:07 | マスコミ報道
他人の懐具合が気になるのは、洋の東西を問わないようです。ちょっと前になりますが、16日付のLe Figaro(フィガロ紙)の経済面に、社長の給与高額ランキングが出ていました。


経済面(別刷りで、紙の色も違います)のトップに出ていたこの写真の主は、保険業界大手のAXA(アクサ)の社長、Henri de Castries(アンリ・ドゥ=カストリ氏)。でも、彼が1位だったのではなく、いまフランスで、経営陣、特に辞める際の高額給与・手当てが問題になっている折、自ら2007年のストック・オプションを返上すると決めたので、話題の顔として1面に写真入で大きく紹介されています。日本でもビジネスを展開しているアクサ保険、その本社社長が、この人。一見若いですが、名前からしてたぶん元貴族。グランゼコールを出たエリート・コースの人なのでしょうね。


さて、肝心の収入ランキング、中面に一覧表が出ています。調査データは、固定給与・変動給与それぞれとその合計、およびそれぞれの2005年との比較、さらにストックオプション、そして合計でいくらの所得があったのかを明示しています。全部で40社、昨年途中で社長交代のあった企業は、そのすべての社長それぞれがいくらもらったかまで、調べて公表しています。


この3人が、栄光のトップ3。一番上の人、どこかで見た記憶がありませんか。そうです、あのカルロス・ゴーン氏です。2006年、主要企業トップの中で、最高額の所得を得ています。その金額、2,164万ユーロ。1ユーロ=150円で計算すると、32億4,600万円。今なら160円を越えていますから、さらに高額感が出ますね。ただし、ゴーン氏の場合、固定給与は124万ユーロ(1億8,600万円)で残りはほぼすべてストック・オプション。

2位は、LVMH(ルイ・ヴィトン、モエ・エ・シャンドン、へネシー)のベルナール・アルノー氏で、1,536万ユーロ。同じくストック・オプションの割合が多く、73%ほどになっています。

3位がロレアルのジャン=ポール・アゴン氏で、1,190万ユーロ。やはり72%がストックオプションです。

4位以下には、一面の写真に出ていたAXAのドゥ=カストリ氏で、706万ユーロ、2006年のストック・オプション額は、370万ユーロで、半分上を占めますね。それを今年は返上するというのですから、英断で、大きな話題になるのでしょう。5位は、ペルノ酒メーカー、ペルノ・リカール社のパトリック・リカール氏で602万ユーロ。ブランド名と同じ名前ですから、オーナー社長なのでしょうね。

*ストックオプション制度とは、会社が取締役や従業員に対して、予め定められた価額(権利行使価額)で会社の株式を取得することのできる権利を付与し、取締役や従業員は将来、株価が上昇した時点で権利行使を行い、会社の株式を取得し、売却することにより、株価上昇分の報酬が得られるという一種の報酬制度です。
報酬額が企業の業績向上による株価の上昇と直接連動することから、権利を付与された取締役や従業員の株価に対する意識は高まり、業績向上へのインセンティブとなります。
また、結果として、業績向上が株価上昇につながれば株主にも利益をもたらす制度とも言えます。
―――『大和証券 公開基礎情報』

フランスの社長たち、ストックオプションで、かなり高額な所得になっているようですが、ストックオプション以外にも、ゴールデン・パラシュートなど、いろいろと収入を増やす方策を講じているようです。特に問題視されているのが、エアバスなど航空・宇宙関連を傘下に持つEADS社(フランス政府も株主)の経営陣交代に伴う高額な退職支給です。社長だったノエル・フォルジャール氏は納期の遅れなどによる業績不振から社長の椅子を降りたのですが、退職金を850万ユーロ(12億7,500万円)も受け取りました。そして、EADS社は従業員1万人を解雇することを決定。額も額ですし、タイミングも悪すぎますね。1万人を解雇するほど業績を悪化させておきながら、自分は高額の退職金をもらって逃げ出してしまう。さすがに政治問題化し、サルコジ大統領は、受け取った額を返すよう求めています。さらに、悪用されやすいゴールデン・パラシュートを禁止する法律をこの夏以降、成立させる心積もりだそうです。

*ゴールデンパラシュートとは、敵対的買収防衛策のひとつで、敵対的買収されることを防止したい企業の取締役が、敵対的買収者により解任もしくは退任に追い込まれる場合を想定し、その場合には巨額の退職金などの利益が被買収企業の取締役に支払われる委任契約を予め締結しておくもの。
敵対的買収を行うと巨額の損失が買収対象企業に発生する仕組みを導入しておくことで、予め敵対的買収者の買収意欲を削ぐ目的で導入される。
買収する側が、買収目的を達成するために、買収対象となる役員へ多額の退職金を支払うようなケースでもゴールデンパラシュートと呼ぶことがある。
―――『exBuzzwords用語解説』

階級社会で、有力企業のトップの座も、上流階級が仲間内で回しているようにも見えるフランス社会。EADS社の場合は、さすがにやりすぎたのでしょうか。しかし、アメリカの流儀にはとりあえずノンと言っているように見えるフランス社会でも、その上層部では、自分たちに都合がよければ、ストック・オプションやゴールデン・パラシュートなどアメリカの仕組みを早々と取り入れているのですね。それを、アメリカ流の競争社会へ変革しようと登場したサルコジ大統領が取り締まるというのも、皮肉なめぐり合わせです。

↓アクセスランキングへ「励みの一票」をお願いします!

人気blogランキングへ


パリの噴水、イギリス人の贈り物。

2007-05-25 01:08:21 | パリ
パリの街を歩いていると、所々で噴水に出会います。


そうした噴水の中に同じ形をした噴水がたくさんあります。

ヴァラスの泉(Fontaine Wallace)、というそうで、いまやパリ市内に70とか、100とかあると言われています。その名の由来は・・・

時は1870年。普仏戦争に敗れ、第二帝政が崩壊したフランス。パリ市内は、飲料水にも事欠く疲弊ぶり。それを見るに見かねたイギリス人の富豪Richard Wallace氏、飲用に適した噴水を50ヶ所作ることを約束。そして、1872年に最初の噴水がお目見えしたそうです。鋳鉄製で、緑色。高さ約3m。デザインはヴァラス氏自身だそうで、4体の女神が支えているデザイン。4体は、純朴・善意・節制・慈善を表現しているとか。イギリス人からの贈り物だったのですね。

このヴァラスの泉を紹介する展示会が5区の区役所で行われています。

それを紹介していた22日付のmatin plus(マタン・プリュス紙)です。早速行ってみたのですが、なんら案内がありません。受付に聞いてみたところ、3階で小さな展示会をしている、とのこと。


タイトルポスターです。会場は・・・

確かに、小さな展示会です。

でも、ヴァラス氏デザインによる噴水の絵があり、ほかにも、パリの噴水をテーマにした絵・デッサンが展示されていました。

暑くなったり、肌寒くなったりを繰り返している、5月のパリ。でも、もうすぐ夏。噴水の水が心地よく感じられる季節になります。

噴水といえば、5区の区役所から最も近い噴水が、これ。

たまたま水は止められていますが、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。私は観ていないのですが、韓国ドラマ『パリの恋人』で主人公の女性(テヨン)が幸運を祈ってコインを投げ入れる噴水がこれだそうです。区役所の前を南へすぐ、T字路の角にある三角形をした公園にあります。

たかが噴水、されど噴水・・・それなりに歴史や逸話には事欠かないようです。

↓アクセスランキングへ「励みの一票」をお願いします!

人気blogランキングへ


地中海の歌姫~ダリダ

2007-05-24 00:42:05 | 美術・音楽
ダリダ・・・知っていますか? 昔、日本でも大ヒットした曲を歌った女性歌手です。その曲の名は・・・『甘い囁き~パローレ・パローレ』。思い出しましたか? これはデュエット曲でした。一緒に歌っていたのは、あのアラン・ドロン。ヒットしたのは1973年。あのリフレインが蘇ってきますよね。ここで、うんと肯いた方は、私と同年代か上の方ばかりかもしれないですね。日本では、すっかり忘れられているかもしれない、このダリダ。無理もありません、死後20年。でも、フランスでは、今でも根強い人気を保っています。


このダリダの芸能活動と彼女の人生を振り返る“DALIDA une vie…”(「ダリダ、ある人生」展)が、パリ市庁舎ホールで開かれています。

ダリダ。本名ヨランダ・ジリョッテイ(Iolanda Gigliotti)。イタリア人夫婦の間に、1933年、エジプトのカイロで生まれる。父親は、カイロのオペラ座のヴァイオリン奏者。小さい頃から音楽や舞台に慣れ親しんで育ったようです。1954年にミス・エジプトに選ばれ、エジプト映画に出演したりしていましたが、より大きな活躍の舞台を求めて、その年のクリスマスに、パリへ。パリで当初住んでいた小さなアパルトマンの同じ階にいたのが、まだ無名だったアラン・ドロンで、よくおしゃべりをしたそうです。56年にオランピア劇場のオーディションに参加。その際、聖書の『サムソンとダリラ』から取って使っていた芸名Dalila(ダリラ)をDalida(ダリダ)に変更。そしてこの年、本格デビューを果たし、「バンビーノ」が2週間で30万枚を売り上げるヒットに。これでスターの仲間入り。


(順路は、まず2階へ。出生証明書から始まり、彼女の人生を物語る品々が展示されています。)

61年にマネージャーと結婚するが、すぐ離婚。67年にはイタリアの歌手と結婚すると発表。彼の作った曲でそろってサンレモ音楽祭(懐かしい!)に参加。しかし、この曲(Ciao amore ciao:チャオ・アモ―レ・チャオ)は落選してしまう。そのショックで、彼がピストル自殺。数週間後、ダリダも睡眠薬で後追い自殺を試みるが、一命を取り留める。この試練から彼女を救ったのは、舞台でした。歌うことによって救われたようです。しかし、表情も声の質までも変わってしまい、陰のある歌い方になりました。


(彼女の使った化粧道具なども展示されています。)

70年代に入ると、アメリカや日本をはじめ、多くの国で、彼女の歌う曲が大ヒット。フランス語はもちろん、イタリア語・英語・ドイツ語・日本語・エジプト語・スペイン語など10ヶ国語で歌っています。また、ディスコ用の曲も歌うようになり、彼女が75年に吹き込んだ“J'attendrai”(「待つわ」、あみんの曲みたいですね・・・あみんも古いですね)が最初のディスコ曲といわれています。


(彼女の写真を表紙に使った各国の音楽雑誌。その中に、日本のものも含まれています。)

80年代には、押しも推されぬフランスを代表する歌手になっています。


(ゴールド・ディスクは70以上、そしてダイヤモンド・ディスクまで受賞しています。)

しかし、好事魔多しで、70年代に付き合っていた元カレが83年に自殺。彼女は人生に4度結婚し、うち3人の夫が自殺した、とも言われています。何という人生でしょう。そして、87年に付き合っている恋人との関係が思わしくなくなったとき、ついに彼女は、「人生は耐えられない。許してください」という遺書を残して、モンマルトルの自宅で睡眠薬自殺。5月3日のことで、享年54歳。今はモンマルトル墓地に眠っています。


(彼女がステージで着た衣装が展示されています。)

彼女が生まれながらにもっていた優雅さが多くの人を惹きつけたと言われていますが、それ以外に、本来イタリア人で、生まれ育ちはエジプト、というエキゾティックなバックグランド、しかもイタリア語・英語・フランス語・アラビア語に堪能となる環境で育ったこと、また歌ったのが覚えやすい曲が多かったこと、そしてその人生がドラマティックだったこと。こうしたことが、存命中はもちろん、今でも多くのファンがいる主な理由だそうです。

彼女の最後のコンサートはトルコで行なわれました。イタリア、エジプト、フランス、トルコ・・・まさに地中海世界で生まれ育った音楽の女神。しかし、その人生は壮絶でした。歌はヒットに次ぐヒット。2,000曲以上もレコーディングし、売り上げたレコードは、1億2,000万枚以上。70以上のゴールド・ディスクを獲得。しかし、恋人や結婚した男たちは自殺、自殺、自殺。彼女もついに、自らその命を絶つ。無責任なようですが、ピアフの自伝映画に次ぐ芸能人の伝記映画にはうってつけの人生かもしれません。ピアフと言えば、ダリダは『ミロール』をイタリア語でカバーしているのですが、ピアフへの敬意から決してフランス語では歌わなかったそうです。


なお、地中海の歌姫は、映画にも出演しています。そのクリッピング・ビデオやポスターなども展示・上映されています。


“DALIDA une vie…”
9月8日までの開催(日曜・祝日休館)

↓アクセスランキングへ「励みの一票」をお願いします!

人気blogランキングへ


パリで最も高い場所。

2007-05-23 01:27:23 | パリ
パリで一番高い場所は、どこでしょう。エッフェル塔のアンテナの先? 確かに、324m。でも、ここでは、建物ではなく土地。パリで最も高い場所にある土地は、どこで、海抜何メートルなのでしょうか? ご存知ですか。私は、モンマルトルの丘の上かと思ったのですが、ちょっとはずれてしまいました。正解が、16日付のLe Figaro(フィガロ紙)の別刷りに載っていました。

栄えある一位は、20区にあるle cimetiere de Belleville(ベルヴィル墓地)の入り口。住所表記では、40 rue du Telegraphe(テレグラフ通り40番地)。海抜148.48mだそうです。

(入り口から撮ったベルヴィル墓地です)
確かに四方に道が下って行っているので、周囲で最も高い場所だというのはわかります。

(緩やかな坂道には、市が立っていました)
しかし、特に視界が開けているわけでもないので、言われてみないと、ここがパリで最も高い場所、という実感は、残念ながらありません。唯一、ここが高い場所にあるのでは、と思わせるのが、メトロの駅の深さ。

出口まで、長~いエレベーター。もし、海抜何メートルという決めでメトロのトンネルを掘っていると、出口の土地が高い駅ほど出口までの距離が長くなる。もし、こういうことなら、メトロの駅の深さで、土地の高さが実感できますね。

なお、体力と気力のある人用に、階段も用意されています。

さて、2位は・・・18区にあるle cimetiere de Montmartre(モンマルトル墓地)。海抜130mです。

このお墓は以前詳しく紹介しました。イメージ的には、サクレクール寺院辺りが高いような気がしますが、このデータだとお墓のほうが高いところにあるようです。多分、測定地点が決まっているのでしょうね。日本でも評価価格が発表になる地点は決まっていますよね。

見る場所によっては、周囲の土地のほうが高そうに見えたりしますが、これもきっと実測する場所によるのでしょう。ル・フィガロのデータを疑わないことにしましょう。

3位は・・・19区にあるplace des Fetes(フェート広場)で、122m。

直訳すれば、お祭り広場。確かにカルティエの祭りが行なわれそうな広場です。ただ、周囲を高い近代的なビルに囲まれ、言われなければ、ここがパリで3番目に高い場所だとは気がつかないでしょうね。

ただ、ここも、メトロの駅に、長いエレベーターが設置されていました。

4位は、19区rue des Alouettes(アルエット通り)の101m。5位は、20区columbarium du Pere-Lachaise(ペール・ラシェーズ墓地の納骨堂)で95m。

フランスで火葬にする人もいるそうです。『現代フランス情報辞典』によると、フランス人の17%が火葬にしているとか。遺骨ではなく、遺灰になるまで焼くのだそうです。納骨堂は、お墓のマンションのようですね。多くの扉に花が手向けられています。

隣が火葬場なのか(全国に120ヶ所あるそうです)、多くの参列者が待っていました。そして、この墓地は観光スポットにもなっているので、多くの観光客がお墓内の地図を片手に、その横を通り抜けていきました。

6位が、14区のparc Montsouris(モンスーリ公園)で、78m。以前先人たちの知恵で紹介した大学都市近くの公園です。7位は、16区にあるcimetiere de Passy(パッシー墓地)。トロカデロ、シャイヨー宮のすぐ前にある墓地で70m。

エッフェル塔側から見るとパッシー地区が高い土地にあるが一目瞭然ですが、パッシー墓地はその高い擁壁で特に高いのが分かります。

8位は20区のplace de la Reunion(レユニオン広場)で69m、9位が14区のrues du Chateau et Raymond-Losserand(ル・シャトー通りとレイモン・ロスラン通りの角)で65m、そして10位は13区のrue de la Butte-aux-Cailles(ラ・ビュット・カーイユ通り)で63m。

高い土地だからと言って、どうということはないのですが、地理に興味があって、時間に余裕のある方は、訪ねてみてはいかがでしょう。あるいは、お墓が多いですから、有名人のお墓を訪ねる際に、どうぞ。

↓アクセスランキングへ「励みの一票」をお願いします!

人気blogランキングへ


ホロコースト記念館~Memorial de la Shoah

2007-05-22 00:43:46 | パリ
パリ4区に、Memorial de la Shoah(メモリアル・ド・ラ・ショア)というホロコーストに関する資料の保存、教育、情報発信を行なっている団体の建物があります。



Shoahとは、カタストロフといった意味で、フランスではこの語でホロコーストを意味しています。この建物は、第二次大戦中に没収されたユダヤ人の財産を下に建設され、2005年1月から一般に公開されています。この団体の名誉会長は、アウシュビッツをかろうじて生き延び、戦後フランスで政治家となり、厚生大臣時代には妊娠中絶を合法化したシモーヌ・ヴェーイユ女史。その崇高な人格、強靭な精神力、確かな眼力は、今でも多くのフランス人から尊敬されています。

悲惨な記憶が風化しないように、多くの資料を蒐集し、整理、公開するとともに、ホロコースト関連のプロジェクトを支援しているそうです。展示されているのは、当時の悲惨さを今に伝える数多くの写真。

強制収容所へ送られた子どもたちの写真も多く展示されています。

その中の一人が着ていた服です。胸には例の星印が縫い付けられています。

そしてアウシュビッツの収容所で着せられていた服。

麻袋と同じような素材で、囚人服のような縞模様。それに帽子と穴の開いたボールとスプーン。こうしたワッペンや服は写真や映像でしか見たことがなかったのですが、こうして実物を目の当たりにしてしまうと、一気に時空を越えて切実な問題として目の前に迫ってきます。わずか60年ちょっと前には、こうした服を着て、飢えと寒さと病気に苦しみ、やがてガス室に送られた多くの人たちがいた・・・歴史として捉えがちですが、ほんの少し前に私たちと同じ人間がやったことです。人種、宗教などは別として、人間としてやってはいけないことなのではないか、と痛切に感じずにはおれません。

4月に行った際、特別展示では、ワルシャワのゲットーでの生活を紹介していました。

しっかりと分断されたゲットーでは、やはり飢え・寒さ・マラリヤなどの伝染病が蔓延していたとか。そこに暮らす孤児たちの姿が、胸に迫ってきます。

そうした犠牲者たちへの祈りなのでしょう、地下には礼拝堂が設置されています。


さらに、入り口には犠牲者の名前を刻んだ「名前の壁」が建っています。

半世紀ちょっと前にはこうした出来事が現実に起こっていたのだ、人間が行なったことなのだ、ということを実感することが出来ます。そして、平和の尊さに思いを馳せざるを得ません。平和がいつまでも続いてほしいものです。


Memorial de la Shoah
17, rue Geoffroy-l’Asnier (4)
土曜休館

↓「励みの一票」をお願いします!

人気blogランキングへ