50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

スター誕生!

2008-03-29 04:31:28 | マスコミ報道
サルコジ大統領が26・27の両日、国賓としてイギリスを訪問したことは日本でも報道されていたと思います。では、フランスでの報道振りは・・・

仏英両国の友好に新たなページを! というサルコジ大統領のメッセージはきちんと紹介されていますし、例によって原子力発電とエアバスの売り込み交渉も報じられていますが、今回、完全に大統領のお株を奪ってマスコミのフラッシュを一身に浴びたのは、カルラ夫人。


27日のフィガロ紙です。「仏英両国の蜜月時代」という見出しですが、サルコジ大統領とエジンバラ公に挟まれて中央で微笑んでいるのがカルラ夫人。結婚により、姓はブルーニ=サルコジになっています。2月末の南アフリカ訪問に同行したとはいえ、大きな注目を集めるひのき舞台としては、今回が大統領夫人(la première dame:ファースト・レディ)としての実質的外交デビュー。しかも、相手は格式のある英国王室。事前の準備には細心の配慮がなされていたようですし、かなり緊張もしたようですが、モデルとして、あるいはその後の歌手として、世界の名だたる有名人とも浮名を流した経験が生きているのか、あるいは新聞報道が言うようにイタリア貴族の流れを汲むという出自によるものか、全くおどおどしたところがなく、自由に振る舞っているように見えたようです。笑顔も自然。そこが、イギリスの人たちを惹きつけたようですし、ロー・ヒールを履き、なおかつ少し背を丸めてエリザベス女王が小さく見えないようにした配慮なども好感を持って受け止められたようです。


27日のメトロ紙です。その見出しに「チャーミング」とあるように、気遣いだけでなく、そのファッションセンスでも魅了したそうです。何しろ元々トップ・モデル。スタイル、着こなしは、今でも現役モデル並み。その容姿をグレーで統一したファッションで包んでヒースロー空港に降り立つ姿はまるでジャクリーヌ元ケネディ大統領夫人の再来のようだとまで言われているとか。このコート風ワンピース(un robe-manteau)はディオールだそうです。エレガント、シック、モダン、魅力的・・・賞賛の嵐だそうです。


同じメトロ紙ですが、他の女性たちのファッションはといえば・・・エリザベス女王もカミラ夫人も、羽根飾りのある帽子。一方、カルラ夫人をはじめ、彼女の母親、ダチ法相など、フランス女性は羽根飾りのないシンプルで、小さめの帽子。英仏の差なのか、英王室独特なものなのかは知らないのですが、いずれにせよ帽子には大きな差があったようです。

ところで、カルラ夫人の母親も同行、今まで中国などへ同行していたサルコジ大統領の母親はプライベートな事情で今回は同行せず、だったそうですが、こうした公式訪問の際は、どこまでの家族が同行するものなのでしょう。日本の首相がどこかの国を公式訪問する際、その親とか夫人の親とかも同行するものなのでしょうか。あまり日本の報道では目にしないのですが、日本では同行しないのか、あるいは同行しているもののマスコミが伝えないだけなのか、どうなのでしょうね。


夜は、公式晩餐会(写真は27日のフィガロ紙)。ここでのカルラ夫人の出で立ちは、黒とも濃紺とも見えるシースドレス。絹のモスリン織だそうです。アクセサリーはショーメ(Chaumet)のもの。ここでも、そのエレガントさが際立っていたそうです。55メートルのマホガニーのテーブルを囲んだのは146人の招待客たち。供されたワインは、当然、フランス製。シャトー・マルゴー(chateau-margaux)の1961年ものと2000年のシャサーニュ・モンラシェ(chassagne-montrachet)だったそうです。

なお、フランス大統領の国賓としてのイギリス公式訪問は5回目だそうで、一方のエリザベス女王が国賓を迎えるのは1952年に王位について以来96回目だそうです。1年に二人弱の割合で迎えているのですね。晩餐会もウィンザー城で行なわれたのですが、この城の礎石を置いたのはフランスのノルマンディ公ギヨーム2世(英語名:ウィリアム征服王)だったそうで、仏英両国の縁を見出しているフランスの報道陣もいるようです。

さて、翌27日、サルコジ大統領とブラウン首相は、サッカーの名門チーム・アーセナルがホームグランドとするエミレーツ・スタジアムでトップ会談。合間にはグランドに降りて、アーセナルのベンゲル監督(ご存知のとおりフランス人)を交えて談笑したそうですが、もしかしてベンゲル監督が通訳だったのかもしれないですね。


その合間に、カルラ夫人はブラウン首相夫人とともに、女性の健康問題の改善に取り組むNGOとの会合に出席(写真は28日のフィガロ紙)。2日間の滞在で6回衣装換えをしたといわれるカルラ夫人、ここではグレーのパンツスーツに、鮮やかな紫のコート。さっそうと歩く姿は、やはりモデル。肝心の会合では、スピーチを英語で行なったそうです。エリザベス女王やエジンバラ公まで魅了した人柄や、夫やその他の閣僚にないとフランス・メディアがいうセンスのよさ、そして英語を話すことで、カルラ夫人は完全にイギリス・メディアを味方につけてしまったようです。

訪問前には、モデル時代のヌード写真を掲載して笑いものにしようとてぐすねひいて待っていた英国の報道陣が逆に圧倒されてしまい、彼女への賛辞を惜しまない記事に変わっているそうです。いわく、ジャクリーヌ夫人の再来だ、いやいや、レディ・D(ダイアナ元妃)に匹敵する・・・26日夜に行なわれたサッカーの親善試合、フランス対イングランドの結果に引っ掛けて、今回の公式訪問も1対0でフランスの勝ちだと、白旗を挙げている新聞まであるそうで、カルラマニア(Carlamania)でいっぱい、とまで言われているとか。

こうした評判に、サルコジ大統領、気分が悪いわけありません。今まで多くのメディアが彼女のことを散々悪しざまに書いてきたが、これで彼女のことがよく分かっただろう。その外見だけでなく、意思の強さ、人間性への感受性などその人格でもフランスに貢献できる女性なのだ、とブラウン首相の眼前でのろけて、首相をビックリさせたそうです。そして、最後はテムズ川での舟遊びに際しても、船上でキスを交わし熱いところをカメラマンたちに見せつけたとか。

ということで、カルラ夫人の外交デビューは大成功。めでたし、めでたしなのですが、意外とフランス庶民は醒めていて、というか、モデル、歌手としての今までの経歴を実際に目にしているせいか、そう簡単にはファースト・レディとして認めていないようです。27日のメトロ紙によると(イギリスでの評判が伝わる前の声のようですが)、彼女はまだ歌手であり、政治とは何ら関わりがない。そのうち、歌手を取るか、政治家の妻を取りか、選択を迫られるだろう・サルコジ大統領にとっては好都合だろう、何しろカメラマンの注目が大統領自身以外にも向いてくれるのだから・今までの大統領夫人たちとはイメージがまったく違う。カルラ夫人のイメージは各国の物笑いの種になるのでは・ファースト・レディは大統領の就任からともに歩み、ともに学ぶことが必要だが、彼女は途中から加わったので、この条件を満たしていない・・・こうした声が次第にイギリスでの報道のように変わっていくのかどうか。どう変わっていくのか、変わらないのか、フランス人気質も見えそうで、楽しみです。

ということで、26日の夜から28日まで、サルコジ大統領夫妻の話題で持ちきりのフランスでした。


北京オリンピック、フランス国民の視線は・・・

2008-03-27 00:49:57 | スポーツ
チベットでの騒ぎに端を発して、北京オリンピックの開会式をボイコットするとか、しないとかという意見が各国から出ていまですが、フランスでは・・・

「国境なき医師団」の創設者の一人で、人権擁護派を標榜するクシュネール外相は、開会式ボイコットも検討のうちにあると言ってはみたものの、中国との関係、特に経済関係を考慮して、すぐにトーンダウンさせましたが、ここに来てサルコジ大統領自ら、今後の経緯によっては開会式ボイコットも多くの選択肢の一つだ、といった発言をしています。政治家の発言だけに、いろいろな背景や駆け引きがあっての上なのでしょうが、では、一般市民はどう考えているのでしょうか・・・


26日のフィガロ紙です。毎日ひとつテーマを選び、それについての意見をネット上で募集。それをまとめて翌日紙面で紹介していますので、一般市民の声とはいっても、フィガロ紙の読者、ネットで意見を寄せることを厭わない人という条件がつきます。

「北京オリンピックの開会式にフランス政府の上層部は出席すべきかどうか」という質問に対し、5,488の声が寄せられたそうですが、ウイが36%、ノンが64%。出席すべきでないという人が三分の二近くを占めています。

・オリンピックは、文化の対立を越えて、多くの国が平和裏に集まれる稀なケース。それに背を向けてしまっては、意見を異にする相手を説得するチャンスを逃してしまうことになる。

・スポーツの祭典が政治に翻弄されるべきでない。政治指導層は、そもそもオリンピックの開会式に出席すべきではない。

・オリンピックの開催都市に北京を選んだ時点でこうした状況は予想できたのではないか。今更騒ぐのはおかしい。フランスはEUの決定に従うべきだ。

・もしオリンピックがなかったら、多くの人がチベットの問題にこうも関心を持っただろうか。

・どうして政治家がオリンピックに行くのか。選手とスポーツを愛する人々が参加すれば良い。政治は常になんらかのシンボルを必要としている。

・政府を代表していくのは大統領ではなく、所轄のスポーツ大臣が行けば良いのではないか。

・中国での開催を決めた時点で、こうしたことは想定できたはず。オリンピック開催で中国が自由で民主主義の国になるとでも無邪気にも思ったのだろうか。

・・・チベット問題の影響で参加すべきではないというよりは、そもそもスポーツの祭典、平和の象徴のひとつであるオリンピックに政治が介入すべきではないという意見が多いようですね。だから、政治家は出席すべきではない! しかし、オリンピックは開催国の国威発揚の場でもあり、またかつては獲得メダル数が国の威信にまで関わっていました。近代オリンピックは政治とは切り離せないものなのかもしれないですね。その結果、不参加ともなれば、悔しい思いをするのは、4年間練習を積んできた選手たち。プロ・アマの境界線、スポンサー絡みのお金の問題、ドーピング・・・オリンピックはすでに多くの問題を抱えています。競技団体ごとにある世界選手権で十分なのではないかとも思えてしまうのですが、21世紀、人類の叡智でオリンピックを改革することはできないものでしょうか。それとも、人間にとっては、叡智よりもお金のほうがやはり強いのでしょうか・・・

さて、では、日本の反応は・・・困った! 中国と欧米を中心とした多くの国々との板ばさみで、動きが取れない。いつものことですね。右顧左眄、周囲を見渡して、勝ち馬に乗る。そのためには、自らの意見は差し控える。長年差し控えてきた結果、自らの意見がもてなくなってきている。どこともまあまあな関係をキープし、出来れば争い事は避けたい。穏便に、穏便に。ほぼ問題が解決したら、その結果を受け入れる、あたかも最初からそういう考えであったかのごとく。「ムラ」社会の中での処世術そのままに外交が行なわれていると思いませんか。でも、こうした処世術、程度の差こそあれ、誰の中にもしっかり根づいているのではないでしょうか。私の中にもないとは言い切れません。皆さんはいかがですか。日本外交、専門の外交官や指示する政治家だけの問題ではなく、日本の国民性が表れているような気がしてならないのですが・・・

フランスと中国、いつの間にか、思いは我が祖国・日本へ。オリンピック、そして国際社会の中の日本、どう思われますか。


“internautes”、そして“mobinautes”へ。

2008-03-26 00:26:11 | マスコミ報道
インターネット・ユーザーのことをフランス語で“internautes”(アンテルノート)というのは、ご存知の方も多いと思います。もともとは宇宙飛行士を意味する“astronautes”(アストロノート)からの転用なのでしょうが、最近では“mobinautes”(モビノート)という単語が登場するようになっています。携帯でネット接続をする人のことを「移動体の(mobile)」という意味からこう呼び始めているようです。こうした新しい単語が登場するほどに、フランスもますますネット社会へ移行しつつあるようです。


そうした社会的トレンドを紹介している21日のフィガロ紙です。インターネット利用者が3,000万人を超えたという見出しです。インターネット接続は、もはや特別なことではなく、日常のありふれたひとコマである。インターネット利用者の8割がほぼ毎日接続している・・・しかし、それにしても、フランスらしい写真ですね。どこでも座り込むのが好きな人が多いのですが、書棚の上にも。絵になるシチュエーションですが、日本ではこんな場所ではけしからん、あるいは、子どもが真似して落ちたらどうするんだ、危ないじゃないかという声も聞こえてくるかもしれませんね。彼我の差。良い悪いではなく、違いがあります。


さて、中面で、少し詳しく紹介しています。2007年にはネット利用者が対前年で6%増えて、3,030万人に(フランスの人口は6,300万人ですから、まだ半分以上の人がネットとは関係ない生活を送っているようです)。しかも、高速接続が可能なエリアが93.4%に広がったそうです(しかし、契約料がわずかに安い低速を選んでいる人も、中高年を中心に結構います・・・お金には非常にしっかりしていますから)。ネット利用者の77.2%がほぼ毎日接続しているそうで、接続時間も伸びている。1ヶ月間での接続時間が平均26時間と前年より2時間増え、ほぼ毎日1時間接続していることになります。皆さんは、いかがですか。1時間ですんでいますか。私は、ブログの更新と、メール、日本のニュース閲覧などで、どうでしょう、毎日4~5時間は接続していると思いますが。しかも、ネット接続していなくても、写真の整理やブログの原稿制作などで、PCに向かい合っている時間は毎日7時間を超えていると思います。目が疲れるはずですね。

さて、話題はフランス。プロバイダーの提供するモデム(“box”)では、ネット・電話・テレビが利用できるようになっていますが、その3種とも契約している世帯が30%程度、ネットと電話だけが55%ほど、ネットだけが15%だそうです。日本では、ネットだけ、あるいはネットと電話だけの利用者が多いのでしょうか。

携帯からネットにアクセスする人も増え、携帯利用者の4人に1人の割合で、特に25歳以下の男性に多いそうです。閲覧しているのは、天気予報(!?)、スポーツ、ニュースなどだそうです。でも、そんなに天気が気になるのでしょうか。予報はよく外れますし、雨が降っても平気で、傘も差さず濡れて歩いている人が多いのですが・・・スポーツというのは、分かりやすいですね。

フィガロ紙の記者が驚いたというのが、eコマースの浸透。ネット利用者の3人に2人がネット上での購入・支払いを利用したことがあるそうです。過去1ヶ月という限られた期間内でも35.1%が利用したそうで、前年より3.3%増えているそうです。確かに、旅行の際にSNCF(フランス国鉄)や航空会社のチケット予約・支払いをネット上で行なうことも多くなっていますし、ホテルの予約、文化イベントのチケット、そしてファッション・グッズの購入などネットを利用することが増えています。3年程前には、店頭での支払いもカードですると引き落としの間違いがよくあるから現金払いの方がいいというアドバイスを貰ったりしたものですが、隔世の感ですね。ネット上での支払いすら増えているようで、店頭でのカードでの支払いは全くの日常茶飯事。

もうひとつの新しい動きは、ビデオや音楽のコンテンツをネット上で入手する人がふえていること。1,300万人が利用しているそうで、前年比40%という急増ぶりです。“You Tube”と“Daily Motion”が人気で、過去1ヶ月に少なくともいずれかひとつを利用したことのある人は、1,090万人に上るそうです。また、“Facebook”利用者も昨年12月一月のみで190万人になっているそうですが、これは、イギリスの890万人よりはかなり少ないようです。

通信関係では、そのインフラも利用状況も、いわゆる先進国の中では遅れているほうのフランスですが、最近は一気に改善されてきているようです。しかし、用語的には先行する英語が一般的になっているため、フランス語としての新語を工夫はしていますが、それでも英語そのままのものがにさらに増えてようですね。もちろん、カタカタのある日本語は、今更言うまでもないことですが・・・


5人を結ぶ1本の糸。

2008-03-25 05:42:12 | 映画・演劇・文学
今日は、フランス人、あるいはフランスに関係する人物5人をごくごく簡単にご紹介します。その5人は生きた時代は異なりますが、全く無関係ではありません。どんな糸で結ばれているのでしょうか・・・5人とも男性で、決して赤い糸で結ばれているのではないのですが、何かで結ばれています。さあ、どんな糸でしょう・・・

・クロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy:1862-1918)
『牧神の午後への前奏曲』などで有名なフランスの作曲家。この曲は、詩人・マラルメの『牧神の午後』に感銘を受けて作った曲だそうですが、この曲をはじめ『海』、『夜想曲』などその多くの作品は、古典派・ロマン派から20世紀音楽への橋渡しをしたといわれ、音楽史上重要な位置にいる作曲家だそうです。芸術を専攻する学生を対象としたフランス国家の奨学金制度・ローマ賞を受賞し、1885年から86年にかけて、ローマに滞在。

(中央の建物が、ドビュッシーが1902年当時に住んでいたという家、17区の58 rue Cardinet)

(ドビュッシー最後の家のある16区、24 square de l’Avenue Fochの入り口・・・超高級住宅地、スクエアとは言えど警備厳重で関係者以外全く入れず、敷地から出てきた黒塗り高級車の運転手までスノッブを絵に描いたよう)

・ヴィクトール・ユゴー(Victor Hugo:1802-1885)
19世紀フランスに燦然と輝く偉人。ロマン主義の詩人・小説家・劇作家にして、政治家。代表作には『レ・ミゼラブル』、『エルナニ』、『ノートルダム・ド・パリ』など。10代から詩人として脚光を浴び、レジオン・ドヌール勲章も20代前半で受勲したほど。しかし、アカデミー会員には3度候補に上がりながら落選。1841年、4度目にようやく会員に。妻・アデルとの結婚式は、サン・シュルピス教会で行なう。

(ヴォージュ広場に面して建つヴィクトール・ユゴー記念館、1832年から48年まで家族と暮らした家)

(ヴォージュ広場とその周囲を取り囲む建物)

・ニコラ・フラメル(Nicolas Flamel:1330-1418)
出版業などで成功した裕福な商人で、病院や教会などへ多くの寄付を行なったことでも有名。しかし同時に錬金術に入れ込み、賢者の石を手に入れ、鉛を金に代えようと没頭。15世紀初頭(一説には1407年)に建てた家が現存するパリ最古の家と言われている。当時、錬金術には男性しか携わらなかったそうですが、フラメル家では妻も行なったようで、女性としては稀有な錬金術師。

(手前の建物が51, rue de Montmorencyにあるパリ最古の家、現在はレストラン“Auberge Nicolas Flamel”)

・ジャン・コクトー(Jean Cocteau:1892-1963)
20世紀を代表する、いわゆる前衛芸術家。その活動領域は、小説、詩、演劇、絵画、映画と多くの芸術分野にわたり、そのいずれの領域でもすぐれた作品を残している。小説『恐るべき子どもたち』、戯曲『オルフェ』、映画『美女と野獣』などが代表作。1955年からアカデミー会員に。終身制のため、死亡した1963年まで会員。

(アカデミー・フランセーズの入っている学士院の建物、1635年に正式に設立され、定員40名、会員が死亡したときに欠員を補充、会員になれそうでなれない「41番目の椅子」と言われた人たちのなかには、デカルト、パスカル、モリエール、ルソー、プルーストら錚々たる顔ぶれが)

ここまでで、お分かりですよね。これら4人を結んでいる糸・・・念のため、最後の一人を。

・レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci:1452-1519)
いわずと知れたルネサンス期の天才。絵画、彫刻、建築、土木・・・そのマルチ天才ぶりは、「万能人」とも言われています。『最後の晩餐』、『モナリザ』などが特に有名ですね。ミラノに長く住んだようですが、ローマにも1513年と16年には住んでいたそうです。最晩年の1516年からは、フランス王・フランソワ1世の庇護の下、ロワール地方のクルーの館(Clos Lucé)に。

(パリで、ダ・ヴィンチと言えば、ルーヴル博物館、2001年から館長を務めるのはアンリ・ロワレット氏:Henri Loyrette)

そうです! ダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』に出てくる、シオン修道会・歴代総長リストに名を連ねる人たちです。

単行本では、下巻の130-131ページに書かれています。他にもニュートンなどの有名人がいますが、でも今頃どうしてとお思いでしょう。実は最近やっと(!)この本を読んだのですが、そこでニコラ・フラメルの名を見つけました。このブログでも今まで2回ほどご紹介しているのですが、現存するパリ最古の家を建てたというニコラ・フラメルがそんな有名人とは思わなかった。これは、すごい! 早速、少しは推理っぽくもう一度取り上げよう! というわけで、パリで写真が撮れそうな他の人たちも含めて一緒にご紹介し、その関係を推測していただこうとしたわけです。このリストが事実なら、これはこれでちょっとしたいい話にもなるかもしれないのですが、この本、なにせフィクション・・・

「すべて事実に基づいている」と序文代わりの「事実」に書いてありますが、この部分も含めて、やはり小説、フィクションなんだそうですよね。思わず騙されてしまいました。でも小説中のシオン修道会の特長に合ったような人たちがきちんとリストに並んでいますよね。ローマに滞在したとか、サン・シュルピス教会で結婚式を挙げたとか、女性を差別しなかったとか・・・このリスト、最後の総長を自認していたピエール・プランタール(Pierre Plantard:1920-2000)が残した資料によるのか、ダン・ブラウンが作ったリストなのか、うまく作ったものですね。


ということで、今や懐かしき『ダヴィンチ・コード』からの話題でした。上の写真が、サン・シュルピス教会にあるローズ・ライン。実際の色は、ゴールドです。


映画二題。

2008-03-24 05:08:29 | 映画・演劇・文学
24日までこの週末は復活祭(Pâques)の休暇で、観光スポットはどこも大混雑。フランス語はもちろんですが、イタリア語、スペイン語がそこかしこから聞こえてきます。近いですし、移民の歴史も長いので、この両国からは多くの人が気軽に来るのでしょうね。もちろん、観光スポットにあるカフェやレストラン、ファーストフードの店も、一日中、超満員。さて、こうした日にはどこへ行くべきか・・・映画館! さすがにパリに観光に来て映画館へ行く人は少ないでしょうね。それに、逆に地方や外国に出かけたパリの人も多いのでしょう、映画館はすいていました。なお、3日連続なら「映画三昧」というタイトルにしようかと思ったのですが、取り敢えず二日分ですので、「映画二題」です。


22日に観たのは、“Paris”。大胆なタイトルですよね。こんなタイトルにしてしまったら、観客の期待はいやがうえにも盛り上がってしまう。それだけに、そこそこの出来では、満足してもらえない。よほど、自信か勇気がないと付けられないタイトルですね。


事前告知もしっかり行なわれていました。映画のさまざまなシーンでデザインされた電飾パネルが、メトロの駅などに数多く掲出されていました。監督は、セドリック・クラビッシュ(Cédric Klapisch)。主演が、ジュリエット・ビノシュ(Juliette Binoche)とロマン・デュリス(Romain Duris)。

シーンを代えたパネルもあり、パリを舞台にした映画の集大成ともいえるような映画になっているのでは、と期待がいっそう膨らみます。

・・・個人的結論を言ってしまえば、そこそこの出来でした。期待が大きかっただけに、ガッカリ! パリの空の下、それぞれの人にそれぞれの人生。それらのベクトルがどこかですれちがったりするものの、深くは関わりあわず、時は過ぎ、人生は過ぎ去っていく。そして、パリは残る・・・多くの人たちの人生の一段面を切り取ったオムニバス形式。人物を深く描くことが主題ではないようです。

舞台はパリ、演じるのは、あなた・・・パリ案内にすると良いような作品です。ほとんどが屋外ロケですから、あっ、ここ行ったことがある、ここ知ってる、ここどこだろう、今度行ってみたい・・・そう思って観ていれば、2時間を超す長尺ものも飽きないですみます。でも、その映像も、あくまでパリのPR作品といった程度。出だしも、サクレクールからの眺めがパンするという、お決まりの映像。カフェ、街角、マルシェ・・・もっと違ったアングル、工夫した撮り方があったのではと思えてしまいます。それも、こちらの期待が大きかったからなのですが。

良かったのは役者たちで、ジュリエット・ビノシュの疲れた中年女性の哀歓と、時に垣間見せる少女のような笑顔がとても美しく、大学教授役のファブリス・リュシーニ(Fabrice Luchini)の頭脳は明晰でも心は少年のような雰囲気もなかなか素敵でした。


23日は、“Bienvenue chez les Ch’tis”(北の国へようこそ)。この映画、今すごい話題なんです。



20日のフィガロ紙ですが、全国公開3週間で、観客動員数1,200万人を超えたそうです。今までのフランス映画の記録は、“La Grande Vadrouille”(1966年制作の戦争コメディ、監督=Gérard Oury)で1,700万人だそうですから、どこまで迫れるか、あるいは新記録を樹立するか・・・社会的現象にすらなっています。

南仏・プロヴァンスに住む郵便局勤務のフィリップはさらに気候のいいコート・ダジュールへの転勤を画策するも、自らの「どじ」で、全く逆方向、北部・ノール・パ・ド・カレ地方の小さな町・ベルグ(Bergues)の郵便局長に。妻と幼い男の子を残しての単身赴任。語弊があるかもしれないですが敢えて言ってしまうと、鹿児島に住み、沖縄転勤を望んでいたのが、辞令がきたら青森転勤だった、といった状況です。寒い、食べ物が違う、お互いの方言では意思の疎通もままならない・・・うんざりして赴任したのですが、そこには、豊かな人情があった。郵便局で働く部下たち、特にはじめての日に出迎えてくれたアントワーヌとの友情、アントワーヌの母のきつい態度の陰に隠れた優しさ、街の人たちとの触れ合い・・・いつの間にかフィリップはこの街の虜になってしまう。フィリップの語るベルグの街を最初は信じなかった妻のジュリーも、ついには息子とともにこの街へ。最後は、新たな辞令が来て、後ろ髪を引かれつつこの街を後にする・・・

人情ものです。コメディです。寅さんを彷彿とさせるところもあります。しかし、フランスでのインテリ受けは非常に悪いそうです。難解なテーマ、苦渋に満ちた主人公でないと、なかなか批評家や知識層には評価されないのでしょうか。再び「しかし」なのですが、庶民には受ける! 事前のPRもあまりやらなかった。俳優陣にしてもドル箱スターはいない。それでも、記録を更新しようかという観客動員。もちろん、観客動員が多いからといって、良い映画というわけではないのですが・・・

同じことが、かつてのヒット作にも当てはまるそうです。“Amélie Poulain”(『アメリ』)しかり、“Les Enfants du marais”(『クリクリのいた夏』)しかり、そして“Les Choristes”(『コーラス』)も。しかもこうした人情ものが受けるという傾向は映画だけでなく、小説の世界でも見られるそうです。Anna GavaldaやMuriel Barberyの作品がその好例として挙げられています。では、それらの映画や小説の共通点、具体的には・・・

「アンチ・ヒーロー」・・・特別なことを成し遂げたわけではない、カッコいいヒーローではない、そうした主人公を通して見えてくる友情、優しさ、愛・・・他の登場人物もいってみればステレオタイプの人物設定が多い。新奇なものを、目新しいものをと追いかけているうちに見失ってしまったものがそこにはある。日常のこまごまとした出来事の積み重ねで描かれる人生。それこそが庶民の人生であり、久しく忘れ去られていた共感できる人生が描かれているのかもしれません。ル・モンド紙はこの映画作品を“une comédie sympathique”(気持ちの良いコメディ)と呼んでいるそうです。

情報化も、グローバリゼーションもない、シンプルな日々の暮らしへのノスタルジーをフランス庶民はやはり忘れることが出来ないのではないか・・・フィガロ紙の意見です。庶民の心の琴線に触れるからこそ、こうした佳作が大ヒットするのかもしれません。

映画としてみると、この作品、編集が実にうまくできています。南仏の実写からフランスの地図に代わり、標識で出演俳優たちの名前が紹介される出だし、そしてNG集とともにキャスティングが紹介されるエンディング。実に洒落ています。もちろん、作品中のカットや繋ぎもうまい。


(一番下の写真、手前がダニー・ブーンです)

なお、監督・助演のダニー・ブーン自身、北部地方の出身。慣れ親しんだ地方ですが、生まれた町ではなく、一般に知られていない小さな町ということでダンケルクに近いベルグを舞台に選んだそうです。また、タイトルにあるCh’tiとはもともと北部方言でC’est toi.という意味だそうで、Ch’timiがC’est moi.。今では「北部の人」を意味する言葉になっているそうです。

可笑しくもちょっと涙腺を刺激される1時間46分。泣き笑いの作品。日本人の琴線にも触れそうです。もし日本でも上映されるようでしたら、ぜひ。

監督:Dany Boon
出演:
Kad Merad(フィリップ)
Dany Boon(アントワーヌ)
Zoé Felix(フィリップの妻)
Anne Marivin(郵便局の部下) 他


虚と実・・・ゴヤ版画展

2008-03-23 04:42:34 | 美術・音楽
テーマはスペインの巨匠・ゴヤなのですが、話は近松から始まります。『曽根崎心中』などでお馴染みの近松門左衛門(1653-1725)。この戯作者の残した芸術論が『虚実皮膜論』。芸術は虚構と現実の狭間にある・・・虚構だけではウソっぽい、現実を映しただけではつまらない。その狭間にこそ、芸術は息づいている・・・



『着衣のマヤ』や『裸のマヤ』などで有名なスペインの巨匠、ゴヤ(Francisco Jose de Goya y Lucientes :フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス:1746-1828)の版画作品を一堂に集めた“Goya, graveur”(「ゴヤ~版画家」展)がプチ・パレで開催されています。


18日のフィガロ紙でも紹介されています。ゴヤはスペイン生まれで、宮廷画家でもあったのですが、終焉の地はボルドー。フランスと関係のある画家だったようです。

ゴヤが残した版画集には、“Les Caprices”(『気まぐれ』:1799年までの作品)、“Les Désastres de la Guerre”(『戦争の惨禍』:1810-1820年の作品)、“La Tauromachie”(『闘牛技』:1815-1816の作品)、“Les Disparates”(『妄』:1815-1824の作品)がありますが、それらを中心に、レンブラントやヴェラスケスを手本に修行した初期の作品、そしてゴヤの影響を受けたドラクロワやマネの作品も含めて、ゴヤの美術史の中での位置づけも分かるような展示になっています。


(会場に書かれた、「人はいつも模倣から始める」というドラクロワの言葉)

エッチング、アクアチント、そして当時としては最新の技術であったリトグラフを駆使して、300点もの版画作品を残したゴヤ。この巨匠の最も偉大な功績のひとつが、芸術に「主観」をもたらした事だと言われています。単に対象を正確に描くだけではなく、そこに自らの視点を加えた。もちろん、正確に描くだけの技量もあり、綿密に描いてはいるのですが、そこには作家・ゴヤの視点が色濃く反映されている。客観的に描くとともに、そこに主観性を持ち込んだ。決して客観的事実を逸脱はしていないが、単なる客観的描写には終わっていない・・・


(パンフレットからの複写)
例えば、戦争の悲惨さを描いた作品群。時は19世紀初頭。ナポレオン軍がスペインに侵入。しかもスペイン国内は立憲派、絶対王政派をはじめ、いくつものグループに分かれ、文字どおり内戦。殺戮、暴行、拷問、放火・・・ありとあらゆる蛮行が行なわれていました。それを描くゴヤの版画は毒々しい場面にあふれていますが、しかし同時にそこには叙情性が共存しています。目を背けたくなるシチュエーションでありながら、思わず惹きつけられてしまう・・・


(パンフレットの表紙)
宮廷画家のゴヤが街に出れば、迷信を信じ、決して啓蒙されておらず、そして残忍なスペインの庶民の暮らしがあります。吊るされた死体から歯や舌を抜き去ろうとする人、燃やされる家、しのび泣く貧乏人・・・そうした悲惨で恐怖を催さざるをえないような場面であるにもかかわらず、ゴヤの作品からは皮肉、滑稽さ、幻想性が滲み出てきます。細やかな線影と強烈な白と黒のコントラストが美しくさえあります・・・

目の前の現実は無視していないどころか、インスピレーションの源泉としてどうしても必要だった。しかし、現実をそのまま描いたのではなく、独自の視点で主観的に描いたからこそ、ゴヤの版画は見る人に、恐怖感ではなく、いいな~、うまいな~、すごいな~、という印象をもたらすのではないでしょうか。繰り広げられる状況は悲惨で残忍なのですが、作品自体は幻想的で、美しくさえあるゴヤの版画。それだけに自由を何よりも愛していたのかもしれません。自由主義者弾圧の強まる祖国スペインを後に、78歳にしてフランスへ亡命。その4年後、ボルドーで亡くなっています。しかし、今は祖国、マドリッド近郊に眠る。


主観的幻想と客観的現実、虚と実・・・でも、この作品展は虚でも主観的思い込みでもなく、間違いなくプチ・パレで6月8日まで行なわれています。


丁寧な仕事ぶりに、感動・・・

2008-03-22 05:21:53 | パリ
今住んでいるスチュディオの階段、その踊り場に突然、ビニールシートが。



工事をする際の養生ですよね。建物全体で5ヶ所ある階段踊り場、その窓の下にビニールを一日がかりで張っていきました。それなりにしっかりした張り方ですので、ちょっと大掛かりな窓の修理でもやるのだろうと思っていました・・・実は、これが1ヶ月ちょっと前の出来事。

ビニールを張ったまま、何ら工事は始まらず、1週間後、再び職人さんがやってきて窓枠のさび落しをやっていきました。いよいよ工事が始まるのかと思ったら、また、何ら音沙汰なし。どうしたのやらと思っていたところ、10日後にペンキとともにやってきました。白いペンキで、とりあえず塗りましたという塗り方。下塗りなのでしょう。



そして再び、時が止まってしまったかのように、何ら進捗なし。1週間後、職人さんが再びペンキを持って登場。上塗りですね。これで完了なのだろうと思ったものの、ビニールの養生は残されたまま。いい加減だなと思っていたら、実はまだ工事は終わっていなかった。さらに1週間後、再び上塗りに。きれいに塗りあがりました。これで1ヶ月。時間はかかるものの、丁寧な仕事ぶり。タイム・イズ・マネーでは全くないものの、さすがフランス、職人の技、と感心したのですが、まだ養生のビニールシートは残されたまま。さらに上塗りするのでしょうか。それとも養生のシートを取りに来るのも1週間か10日後? 窓枠を塗り直すだけで1ヶ月以上、まだ、まだ終わらない・・・

同じ人が何ヶ所も担当している、しかも作業は時間をかけてゆっくりと進める。たぶんこうしたやり方のせいなのでしょう、以前にもご紹介したメトロの駅の工事、まだ終わっていません。


6号線、モット・ピケ・グルネル(La Motte-Piquet Grenelle)の駅。去年の3月からですから、もう1年。駅舎の補強工事は予定通り半年で終わったものの、エスカレーターの取替え工事が、まだ終わらない。今年の2月中には完成予定、とパネルまで作って言っていたのですが、3月、まだ完成していません。1週間に1日ではなく、1ヶ月に1日程度の作業で進捗しているのかもしれないですね。つい私などは、スケジュールは日単位で考えてしまうのですが(サラリーマン時代は、時間単位や時には分単位)、フランスでは週単位がどうも当たり前のようで(ちょっとした修理がすぐ2~3週間かかってしまいます)、そして時には月単位。『南仏プロヴァンスの12か月』によると南仏では季節単位だそうですから、メトロ駅の工事を担当している会社には南仏出身者が多いのかもしれないですね(?)。きっと夏の観光シーズンまでには完成するのでしょう。


このステンドグラスは、新装なった6号線・ビラケーム駅(Bir-Hakeim)のプラットフォームに取り付けられたもの。メトロを停めずに通過させての駅舎改修工事、予定通り3月11日には停車するようになりました。やればできるんだ、と思ったのですが、さすがフランス、そう簡単に問屋は卸してくれない。


エスカレーターは稼動していますが、地上に降りる出口が片方しか完成していない。しかも、地上に降りると、降りたほうの出口がまだ工事中。反対側まで歩いて出ていかないといけない状態。4月には完成すると、しっかり表示はしていますが・・・

やはり、ここは、ラテンの国。ゆっくり、急がず。とはいうものの、階級社会ですから、エリート層は猛烈に働いているようです。サルコジ大統領も睡眠4時間とか。確かに夜8時や9時にラ・デファンス地区からメトロに乗ってくるサラリーマンも結構います。しかし、庶民は、仕事よりも、ワインを飲んで楽しくやろうよ。人生は楽しむためにある。仕事は苦役、仕方なくやるものさ・・・階段のビニールシート、剥がされるのは、いつになるでしょうか。今月か、来月か、と考えるのは止めて、この春か、あるいは夏になるか、と自然に考えられるようになると、フランス暮らしももっと楽しくなるのでしょうね。でも、そうなったらなったで、日本に戻ってからが心配・・・


「大戦」最後の兵士、逝く。

2008-03-21 05:01:32 | パリ
先の大戦というと、日本では一般的に第二次世界大戦を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。でも、フランスでは第一次世界大戦(1914-1918)。“La Grande Guerre”(大戦)と呼ばれています。どうしてかというと、あまりに多くの戦死者を出したから。非戦闘員を除く、いわゆる戦死者が第一次大戦全体で900万人とか1,000万人と言われるなかで、フランスは136万人。一方、第二次大戦のフランス人戦死者は20万人台だそうで、これでは、大戦といえば第一次世界大戦を思い浮かべるのも当然かもしれないですね。因みに、日本の戦死者数は第二次大戦で230万人だったそうで、やはり大きな犠牲のあった第二次大戦がより身近な歴史になるのでしょうね。

また、第一次世界大戦までは騎士道精神がまだ残っていて、戦いに若干のロマンティックなイメージを抱く人もいたという資料もあります。しかも、開戦当時にはそれほど長続きせずに終結するだろう、というのが大方の予想だった。しかし、あにはからんや、古き良き騎士道の世界は、毒ガス、航空機などの近代兵器によって一変。しかも塹壕を掘ってそこから撃ち合うという塹壕戦も始まり、塹壕の中で泥にまみれての無残な戦死がふえた・・・戦争の実相を変えたという意味でも、「大戦」といえば第一次大戦を指しているのかもしれません。

・・・という「大戦」を生き抜いたフランス最後の戦士が、12日に110歳で亡くなりました。Lazare Ponticelli(ラザール・ポンティセッリ)、名前からうかがえるように、元はイタリア人(ラザーロ・ポンティチェッリ)。北イタリアで、大工などをしていた父、米収穫労働者(『にがい米』を思い出しますね)を母に、七人兄弟の貧しい家に生まれる。父が亡くなると、9歳で、二人の兄を頼ってパリへ。そして1914年、年齢を偽ってまで(当時はまだ16歳)、自ら志願して外人部隊へ。しかし、翌年イタリアが参戦すると、まだ国籍はイタリアでしたから、強制的にイタリア軍へ。塹壕で、敵味方の区別なく負傷兵を助けたともいわれていますが、自らも大怪我を。戦後は兄弟で金属・パイプ関係の会社を立ち上げ、経営者に。第二次大戦開戦時にはフランス国籍を取得していたものの、今度は年齢が行き過ぎていたため志願できず。しかし、レジスタンスとして戦ったとか。第二次大戦後は、会社の経営に当たり、引退後は家族に囲まれた平穏な老後。因みにこの会社、現在でも4,000人を雇用する立派な会社だそうです。

さて、こうして「大戦」を生き抜いた最後のフランス兵として、そして同時に最後のイタリア兵として110歳の天寿を全うしたPonticelli氏。17日に国葬として見送られました。



その模様を伝える18日のフィガロ紙です。国葬が営まれたのは、ナポレオンも眠るアンヴァリッド。サルコジ大統領やフィヨン首相はもちろんですが、シラク前大統領や左右を問わず首相経験者、そして現役閣僚などが列席。イタリアからも国防大臣が参列。テレビでも放送されました。

しかし、式自体は、Ponticelli氏の意向で、厳かなれど質素に。2005年に、シラク政権下で「大戦」最後の兵士は国葬として葬送することに決まったのですが、当時はまだ12人ほどが存命だった。それが去年には2人に減っていて、その頃からインタビューされることも増えたようです。Ponticelli氏は、塹壕で無残に死んでいった戦友たちは今や顧みられない。自分だけが国葬で英雄扱いされるのはゴメンだと、生前、国葬自体、固辞していました。そこには、謹厳実直で、賢く、正直、家族思いというPonticelli氏の人柄が出ているのかもしれません。しかし、今年1月にもうひとりの生存者がなくなると、ついに「最後の兵隊さん」に。その頃から、戦友たち全てを代表するということなら国葬を受け入れる。ただし、大仰な葬儀は止めてほしい。質素に。また政府の考えているパンテオンあるいは凱旋門の無名兵士の墓に埋葬するのも辞退する。家族の墓に葬ってもらいたい、と述べるようになっていました。その内容は、遺族からサルコジ大統領にも伝えられたようです。



葬儀に先立つ16-17日付けのル・モンド紙です。最後の兵士の国葬を盛大にしようとしているエリゼ宮・・・故人の願いははっきりしていたものの、政府の一部には別の考えもあったようです。16日の日曜日は統一地方選挙の第2回投票日。大苦戦が予想されていた与党としては、翌17日に国民の関心を国葬に向け、地方選敗北の影響を少しでも軽減したい・・・と思ったのかどうか、大仰なものになりつつあったようですが、しかし結局は、故人の意思が尊重されたようです。

なお、この記事で面白いのは、イラスト。向かって左側には、Ponticelli氏の埋葬場所の候補になっていた凱旋門の真下にあるSoldat Inconnu(知られざる戦士:一般には無名戦士)の墓にともる火。右側は、知られざる戦士ならぬSoldat Incompris(理解されざる戦士)・・・支持率が下がり続けているサルコジ大統領のようですね。ル・モンド紙にまでこうした風刺漫画が掲載されるようになってしまいました。

しかし、大統領としての弔辞とともに、アンヴァリッドにプレートを掲示したサルコジ大統領。そのプレートには次のように書かれているそうです。
« Alors que disparaît le dernier combattant français de la Première Guerre mondiale, la Nation témoigne sa reconnaissance envers ceux qui ont servi sous ses drapeaux en 1914-1918. La France conserve précieusement le souvenir de ceux qui restent dans l'Histoire comme les Poilus de la Grande guerre. »
(第一次大戦を生き抜いたフランス最後の兵士の逝去に際し、1914年から18年にかけて祖国のために戦った人々への感謝の気持ちを国家として捧げる。フランスは大戦の兵士として歴史の残る人々を決して忘れることはない。)

故人の意思を汲んでくれているようですね。そして、祖国のために戦った人々を忘れない・・・これは「大戦」の兵士だけでなく、第二次大戦時の兵士やレジスタンスを顕彰するプレートをあちこちで見かけることでも明らかです。また、その後の植民地独立戦争で亡くなった人たちも。



19日は8年にも及ぶアルジェリア独立戦争が1962年3月19日に終結した記念日。多くの参戦兵(今やみな高齢者)たちが記念碑のあるペール・ラシェーズ墓地に集まるとともに、シャンゼリゼをジョルジュ・サンクから凱旋門まで行進。シャンゼリゼ界隈は、胸にいくつもの勲章を付けたお年寄りたちであふれました。

その戦いの意義や背景はともかく、祖国のために志願して、あるいは為政者の命令により、戦場に赴き、帰らざる人となった人々へ敬意を表すのはフランスではごく当たり前のことのようです。しかし、国葬をイベントで終わらせるのではなく、戦争と平和について改めて考え直す機会とすべきだという意見もあるそうです。過去の戦争といかに対峙すべきか・・・いろいろ視点、いろいろな意見がどこの国にもあるようですね。


世間をお騒がせし・・・

2008-03-20 04:55:05 | マスコミ報道
・・・申し訳ありません。このように、よく罪を犯した人や関係者、あるいは企業のトップが謝っていますね。特に、ここ数年、決まり文句になっているような気さえします。でも、お騒がせするって、どういうことで、どうしていけないことなのでしょうか。日本社会では、取り敢えず謝らないと、社会的バッシングを受けてしまうので、何はさておき謝ることが大切なのですが、それにしても謝罪の言葉が、犯罪の種類に関係なく、一様に「世間をお騒がせして申し訳ありません」・・・実際、世間は、騒がされたと不愉快に思っているのでしょうか。そう思って立腹の人もいるのでしょうが、マスコミをはじめ多くの人は、かっこうの話題ができて、表面上は怒っていても、心のどこかでは楽しんでいるのではないでしょうか。正直なところ、そう思いませんか。騒ぐだけ騒いで、飽きると、もはや話題にもしなくなる。ギョウザ事件も、もうニュースバリューがなくなってきたのか、ネット上のニュース欄ではあまり見かけなくなりました。最終的に、うやむやでおしまいでしょうか。今は、日銀総裁選び・・・

・・・こんなことを勝手に考えてしまったのは、あのジェローム・ケルヴィエル被告が、18日に保釈されたからです。覚えていますが、ジェローム・ケルヴィエル。あのソシエテ・ジェネラルの50億ユーロ損失事件(こちらでは“l'affaire Kerviel”ケルヴィエル事件と呼ばれています)。


弁護士とともに、かつての悪名高きサンテ刑務所を後にするケルヴィエル氏です。19日付のフィガロ紙のトップ記事。事件発覚直後は、自殺したのではなどという噂も流れましたが、どうして、どうして、そんな柔じゃなさそうです。門の外で待ち構えるマスコミに、笑顔で手を振って・・・でも、はじめからこうだったのではなく、門を出たときはうつむき加減だったそうです。しかし、弁護士のアドヴァイスで顔を上げ、手を振って挨拶をしたそうです。でも、この写真や、18日夜に流されたニュース映像では、全く悪びれたところがないように見えてしまいます。日本だったら、世間様はどう反応するでしょうか。ワイドショーではどんなコメントが聞けるでしょうか。

あくまで仕事を遂行した結果の損失である、という主張なのでしょうね。実際、個人的利益にはなっていないようですし。そしてこうした意見は、弁護士と本人だけではなく、家族・親戚や地元の人々の間にも広まっているようです。塀の外に出たという連絡を受けて、母親はさすがに気恥ずかしそうに、保釈されてほっとした、と言っているようですが、叔母さんは、仕事をしただけで何も悪いことはしていない、それが証拠に自由の身になったじゃないか。周囲の人たちも、多くが無実だと言っているそうです。

凶悪犯とかではなく、金融犯罪。それでも、日本では、取り敢えず、世間をお騒がせして・・・と謝るところですが、こちらでは堂々と無実だと言い切っているようです。ま~、個性を大切にする個人主義のお国柄、そもそも世間様がいないのかもしれないですね。でも、何事につけ自己主張をしないといけないというのは、それはそれで大変なのでしょうが、世間様に後ろ指を指されないようにと生きていくのも楽じゃないですよね。どちらにしろ、人生楽じゃない。


楽じゃない人生で、騒ぎを利用してひと儲け、という人たちも、確かにいるようです。同じフィガロ紙ですが、まずはTシャツ。ジェローム・ケルヴィエルは天才だ! 『煙と消えた50億ユーロ』というタイトルの本がフランスでは出版されたようですし、これ以外にも数冊、関連本が準備中だそうです。もちろん、一番盛り上がっているのはネット上で、ケルヴィエル氏をヒーロー扱いしたシリーズ物が作られたり、地球上の50億人がひとり1ユーロずつ提供すれば、ケルヴィエル氏のキャリアが救われる、とユーモアでカンパを募るサイトも現れたり・・・そして、忘れてはいけないのが、パパラッチたち。この日も記者とカメラマン合わせて50人ほどが寒さの中、見逃せない瞬間を長時間待っていたそうです。微笑みながら手を振ったケルヴィエル氏は、弁護士とともにクルマの中へ。もちろん、パパラッチはバイクで追いかける。しかし、きちんと警察が間に入って、ケルヴィエル氏は何処へともなく消えていったそうです。

司法当局(パリ控訴院:日本の高裁にあたるようです)が保釈を認めたのは、今後証拠隠滅を図られる恐れがまずない、というほどコンピューターや携帯の通信記録も含め、十分な証拠が集まったからだそうです。しかし、保釈されたからといって、ケルヴィエル氏、全く自由の身になったわけではなく、イル・ド・フランス地方(パリとその近郊)から出る場合は、司法当局の書面による許可を得ないといけないそうですし、週に1回は警察に出頭し所在確認をしなくてはいけない。また、事件の関係者に会ってはいけない(リストができているそうです)。株の売買など事件に関連することは行なってはいけない・・・いろいろ条件が付けられているようです。それでも、やはり自由は嬉しい。ゆっくり休みながら、今後の対応などを考えていくそうです。

そして、当然のことながら、紙面のどこにも、世間をお騒がせして、という表現はありませんでした。「世間をお騒がせして申し訳ありません」・・・この表現、外国の人にはいったいどう説明すればいいものやら。


舞台はヴェネツィア、時は18世紀。

2008-03-18 03:08:22 | 映画・演劇・文学
パリにコメディ・イタリエンヌ(La Comédie Italienne)というイタリア演劇を専門に上演している小屋があります。場所は、モンパルナス駅の近く。ゲテ通り(rue de la Gaîté)。この通りには、このコメディ・イタリエンヌだけでなく、他に3つもの芝居小屋があります。


テアトル・リヴ・ゴーシュ(Théâtre Rive Gauche)、

テアトル・モンパルナス(Théâtre Montparnasse)、

テアトル・ドゥ・ラ・ゲテ・モンパルナス(Théâtre de la Gaîté Montparnasse)、そして今日の話題・・・

コメディ・イタリエンヌ(La Comédie Italienne)。500メートルもない距離に4つの劇場。芝居小屋通りですね。しかも、通りの雰囲気は決して上品とは言えません。オペラ座やコメディ・フランセーズのような国からの資金援助を十分に受けている組織とは違って、いかに運営していくかにも頭を悩ませなくてはいけない劇団。家賃の高い場所にはいられません。周囲のお仲間は、どう見ても日本人がやっているとは思えない日本料理店が4~5軒、それにアダルト・ビデオ・ショップ(もちろん今はDVDですが)が軒を並べています。でも、河原乞食という言葉を出すまでもなく、芝居にはどこか胡散臭さが付きまとってきたのも事実。モリエールの時代しかり、映画『天井桟敷の人々』しかり、アングラ劇団、オフ・オフ・ブロードウェー・・・時代を、権力を笑い飛ばすには、少々胡散臭いくらいのほうが、強い力、エネルギーが出るのかもしれませんね。


(上演演目のポスターが貼られた入り口)

今、コメディ・イタリエンヌでやっている“Les Pointilleuses”(口うるさい人々)の作者、ゴルドーニの時代も芝居はやはり社会の周辺に生きているものだったようです。

カルロ・ゴルドーニ(Carlo Goldoni:1707-1793)。ヴェネツィアに生まれ、早くから芝居に夢中になっていました。ただ、世間体のいい職業ではないので、比較的裕福な家庭に育ったゴルドーニは、一応法学部を難産の末に卒業し弁護士に。ただ後になって述懐したように、数多くの裁判に立ち会った経験が、作劇の際に大いに役立ったそうです。裁判沙汰には、とんでもない策略や、人間の業の深さ、欲深さが渦巻いている。芝居のプロットにはもってこいの状況がいくつもあったのでしょうね。

弁護士を続けながらも芝居への情熱は一向に冷めず、1734年には最初の戯曲(悲喜劇)を書き上げています。当時のイタリア演劇の中心は、コメディア・デッラルテ(la commedeia dell’arte)と呼ばれる伝統的な喜劇。仮面をかぶった類型的な役柄がその時々の話題を盛り込んで即興的に演じるもので、しかも、相手をぶったり、ジャグリングやアクロバットも取り入れた見世物的要素の強いものでした。こうした当時の伝統的な芝居を改革しようとしたのがゴルドーニだったそうです。


(カルナヴァレ博物館にもこのような作品が展示されています)

1738年以降、本格的に芝居を書き始めると、人物のパーソナリティを規定してしまっているマスクを取り去り、それぞれの登場人物に奥行きのある性格を持たせたりしたそうですが、改革をしようとすると、守旧派とぶつかるのはどこの分野でも同じ。さまざまな攻撃を受けたようです。それでも、数多くの作品を書き続けました。1753年には1年で12作。1月に1作です・・・旺盛な創作意欲ですね!


(劇場、入ってすぐのホールですが、いかにもヴェネツィア風です)

しかし、1763年、保守派との長年の戦いと病気に疲れ、ついにヴェネツィアを脱出。向かった先は、パリ! パリのイタリア劇場(le Théâtre Italien)に参加しました。座付き作家だったのでしょうね。しかし、パリも改革、新しい演劇を受け入れてはくれなかった。失意のゴルドーニは、しばらく芝居から離れる。何をやったかというと・・・何と、ルイ15世の娘たちのイタリア語教師に。5年間、ヴェルサイユに住んでイタリア語を教えていたそうです。パリに戻ると潤沢な年金が支給され、さらにルイ16世の姉妹たちのイタリア語教師に。人生、何が幸いするか、分かりませんね。しかし・・・人生、糾える縄の如し。豊かな年金生活は20年ほどで終焉へ。フランス革命の勃発。革命政府は、ゴルドーニの年金を打ち切ってしまいました。宵越しの金は持たない、という主義だったのか、突然、貧困生活に。赤貧の内に、1793年、86歳の誕生日を目前にパリでなくなっています。

パリに死んだゴルドーニ。その作品をパリで上演するのは当然といえば、当然ですね。このコメディ・イタリエンヌ、アッティリオ・マッジウッリ(Attilio Maggiulli)というイタリア人演出家が創設したものです。ミラノのピッコロ・テアトロ(Piccolo Teatro)で修行をし、パリのコメディ・フランセーズや太陽劇団(Théâtre du Soleil)で働いた後、1974年にテアトリーノ・イタリアーノ(Teatrino Italiano)をモンパルナスのメーヌ通りに創設。1980年に劇場を今の場所に移し、“le Théâtre de la Comédie Italienne”として今日に至っているそうです。観客はもちろんフランス人が中心ですから、イタリア演劇(古典から現代の作品まで)とはいえ、フランス語での上演になっています。

(フランス語での上演と、入り口上に書かれています)

16日に観た“Les Pointilleuses”も演出はマッジウリ氏です。この演目、すごい人気でスケジュールを延長して舞台に乗せています。100人弱収容の小さな劇場ですが、それでも9割ほどの客の入り。子供連れの家族や高齢者など、年齢もさまざま。幅広い人気を物語っているようです。作品自体は、ゴルドーニが良く描いた、見栄の張り合いや背伸びした生活の滑稽さを2時間で、見事に笑い飛ばしてくれます。商売で財を成した再婚カップル、次に欲しいのは、人の常として名誉。ヴェネツィアへ新婚旅行でやってきて、何とか貴族社会の仲間入りをと駆け回る。やっとディナーに招待されたりするものの、貴族の実態たるや・・・ご想像の通りで、名前は貴族でも、お金には不自由。それでいて気位は高い。屈辱を味わった二人は、最後に復讐をして、ヴェネツィアを後にする。


(入り口に貼られた舞台写真)

間口の狭い舞台で、3幕とも同じつくり。テーブルや鏡を役者たちが動かすだけで、次の幕へ。しかし、役者たちの芸達者振りと、思わず笑ってしまう台詞の面白さで、幕間もない2時間があっという間。人生は舞台。過ぎてしまったことを嘆き悲しむこともなく、行く末を思い煩うこともなく、今を、この舞台を楽しめ! そんなゴルドーニの声が聞こえてきそうな舞台です。「今」を楽しむ・・・確かに、ラテン系の人によく見られる生き方ですね。楽しく、陽気に・・・ただそれでハッピー・エンドなら、真似したいと思うのですが、ゴルドーニの最期を知ってしまうと・・・でも、人間万事塞翁が馬。少なくとも、「今」を大切に、明るく行きましょう。