50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

プロヴァンスへ④ 古代ローマの壁と門~オランジュ

2008-04-25 00:10:00 | フランス
アヴィニョン中央駅から北へ急行で15分のところにオランジュ(Orange)の街があります。今回行くまでは、名前も聞いたことがないほどでしたが、そこには古代ローマの大きな遺跡がありました。


古代劇場です。大きいですが、このオランジュの古代劇場を有名にしているのはその大きさよりも背後の壁。建設当時の壁が現存する古代劇場は、わずかに3ヶ所。トルコとシリア、そしてここオランジュにしかないそうです。イタリアにすら残っていない壁のある古代劇場・・・西暦1世紀、アウグストゥスの治世下に建設され、役者が、踊り手が、音楽家が1万人の観衆を魅了したステージ。

当時は悲劇が上演されることが多かったそうで、間に即興の愉快なパフォーマンスが演じられていたとか。

高さ36m、長さ103mという壁の中央・上部にはアウグストゥスでしょうか、ローマの偉人の像が立ち、途中で折れてしまったとはいえ、柱も元の場所に戻されています。こうした折れた柱が物語るように、この大きな壁を残す古代劇場も平穏無事に今日に至ったのではなく、時代の荒波にもまれてきたそうです。壁から家屋が立ち並んだり、土の部分が畑に変えられたり、街を攻め落とそうとする敵の攻撃が加えられたり・・・さまざまな試練を乗り越えて、古代ローマの威容を今日に示すオランジュの古代劇場。そこには古代ローマ人たちの土木技術の素晴らしさが遺憾なく発揮されています。水道橋と同じように、その水準の高さにただただ感じ入るばかりです。

また、当時から客席に身分による差があったそうで、ステージの近くには貴族などの上流階級が席を占め、上の方、つまり天井桟敷には庶民が陣取り、盛んに野次を飛ばしていたそうです。こうした伝統、古代ローマ時代からあったのですね。

ローマ人たちの声が聞こえてきそうな、観客席下の通路。当時からあったというビールを片手に、芝居の話をしながら、昔のローマ人もこうした通路を歩いていたのかもしれません。


外から見た劇場の壁。あまりに大きく、フレーズからはみ出してしまいます。

古代劇場を後に、街の北の端へ向かうと、そこにはシーザーの残した遺跡が立っています。

シーザーのプロヴァンスでの勝利を記念して作られたものだそうで、シーザーの功績を讃える場面が彫られているそうです。黒ずんでしまっていたり傷んでいるところもありますが、何しろ2000年前の石に直接触れることのできる遺跡。改めて古代ローマの技術力の高さに感心させられてしまいます。

この門の下の道は当時、アルルとリヨンを結ぶ幹線道路だったとか。多くの古代ローマ人たちが行き交ったのでしょうね。何を話し、何を考えながら歩を進めたのでしょうか・・・

プロヴァンス地方の北の玄関口であるオランジュ。人口はわずかに3万人ほどですが、古代ローマからの遺跡が残り、この人類の遺産は1981年にユネスコの世界遺産に登録されています。観光地というには整備がまだ不十分な街並みですが、却ってそれが古からの遺跡と不思議とマッチしています。

・・・プロヴァンスの旅。パリからTGVで3時間弱ですが、白く乾燥した土地にはオリーブが茂り、家々の屋根にはオレンジ色がかった西洋瓦が並び、壁も黄色や薄いピンクで、そこに取り付けられた雨戸も水色だったり、草色だったり・・・

(古代劇場の客席から見たオランジュの街並み)
パリとはまったく違った街並みが続いています。そして、異邦人と見るや歩いてくるのを待ってまで場所を教えてくれる親切な地元の人たち。パリはパリ、パリ以外が本当のフランスだ・・・こう地方の人たちが言うのはその通りなのかもしれません。南仏の光と人情。乾いた空気の中で、心は逆に癒されていくようです。


プロヴァンスへ③ 噴水とセザンヌの街~エクス・アン・プロヴァンス

2008-04-24 00:10:00 | フランス
アヴィニョンTGV駅からTGVで一駅、約20分でエクス・アン・プロヴァンスTGV駅に着きます。シャトルバスで街の中心付近へ。街の中心をほぼ東西に横切っているのが、ミラボー通り。その入り口で、大きな噴水が出迎えてくれます。


エクス・アン・プロバンスという街の名が湧き水に由来している(古代ローマの将軍・セクスチウスがこの地を治めたことから、街中に多い湧き水を彼の名にちなんでセクスチウスの水、アクアエ・セクスチエと呼んだ)ことからも分かるように、街のいたるところに泉があり、しかも個性的なデザインの噴水になっています。


苔むした台座からちょろちょろと湧き出る泉、

花市が開かれる広場の泉、

この街でよく見かける黄色い壁の建物の前に建つ泉、

また、これは古代ローマ時代から共同浴場に用いられていた泉で、今日では中央上にセザンヌの肖像画が彫られています。

噴水と同じように、あるいはそれ以上にこの街を有名にしているのが画家のセザンヌ。この街で生まれ、この街でその人生を終えています。

ポール・セザンヌが生まれたのは1839年1月19日で、ミラボー通りの先、オペラ通り28番地に今もその建物は残っています。


父親はソフト帽の仲買人をしていたそうですが、裕福な家庭だったようです。中学以来、後に作家となるエミール・ゾラとの友好を深める。エクスの大学で法学を専攻するものの、幼い頃から夢中になっていた絵画を諦めきれず、大学を中退するとパリへ。しかし、なかなか馴染めず、最終的には再びエクスへ。1901年にはエクス郊外のローヴにアトリエを建て、1906年に死去するまでエクス市内の自宅から通っては制作に没頭する・・・そのアトリエが今でも残っており、一般に公開されています。

2階がアトリエになっていて、セザンヌの絵筆などがモチーフとなったりんごや梨などとともに並び、壁に吊るされたコートや帽子、制作時に着た作業着などが当時の生活ぶりを忍ばせています。なお、チケット売り場は1階にあるのですが、その窓口の女性が日本語を話します。また、このアトリエを紹介した日本の雑誌も2階に用意されていて、日本人と分かると見せてくれます。日本でのセザンヌ人気を物語っているようですね。

エクス・アン・プロヴァンスでのもうひとつの観光スポットが、サン・ソヴール大聖堂(Cathédrale Saint-Sauveur)。

西暦2世紀には建造が始まったといわれるこの大聖堂もセザンヌと関係があります。妹のローズの洗礼が行なわれたのもここですし、何よりも1906年10月24日の午前10時からセザンヌの葬儀が行なわれたのもこの大聖堂だったそうです。

サン・ソヴール大聖堂内には美しいステンドグラスや大きなパイプオルガンがあり壮麗な印象がありますが、ここで特に印象的なのはロマネスク様式の回廊。

一定時間ごとに回廊への扉が開いて、フランス語による解説付きのツアーになるのですが、さすがは天国への鍵というべきか、あるいは、今でも街中で多くの鍵屋さんを見かけるフランスらしいというべきか、解説者が扉の大きな鍵をしっかりと握り締めているのが印象的でした。もちろん、聖書の場面を刻んだ彫刻や1本ごとのようにデザインが異なる柱など見所はたくさんあります。


プロヴァンス伯爵領の首都で、早くからこの地方の学問や政治の中心地だったエクス・アン・プロヴァンス。今でも人口は15万人近くあり、メトロ紙や20分紙などの無料紙も発行されています。それだけに黄色い壁の建物が続く通りにもどことなく都会的な雰囲気があり、南仏の明るい光と微妙なハーモニーを奏でています。


プロヴァンスへ② ローマ遺跡とゴッホの街~アルル

2008-04-23 00:10:00 | フランス
アヴィニョン中央駅から急行で20分、アルル(Arles)の街へ着きます。アルルの人口は約5万人。この南仏の小さな街が日本でも有名なのは、タイトルにも記した古代ローマ遺跡とゴッホのお陰。



まずは、古代遺跡から訪ねていきましょう。

アルルの街の歴史は、ケルト人が住み始めた頃に始まり、やがてギリシャの植民都市に、そしてシーザーの時代にローマの領土となりました。「ガリアの小ローマ」(la Petite Rome des Gaules)と呼ばれたこの時代がアルルにとっては最初の黄金時代。多くの古代ローマ遺跡が残っています。

古い城壁の間の道を通って街の中心へと向かうと、大きな円形闘技場の壁が見えてきます。

西暦90年頃に作られたというこの闘技場(l’Amphithéâtre)は、最も広い部分で直径136m、2万人を収容できるそうです。

単に遺跡として観光の目玉になっているだけでなく、今でも闘牛やイベントなどに使われているため、近代的な補修や増設が行なわれており、内部は外観ほどには古代遺跡という雰囲気を持っていないのが残念ではあります。しかし、文化遺産を今日の市民生活とともに生きたものとして活用していくとなると、どうしてもこうなってしまうのかもしれないですね。

円形闘技場から数分歩くと、そこには古代劇場の跡が。この古代劇場(le Théâtre Antique)は西暦1世紀末に作られたもので、当時は1万人ほどを収容できたそうですが、今ではひどく破壊されてしまっており、2本の高い柱と数本の柱の基礎部分、それに観客席の一部が残っているだけです。

しかし、壊された部分の一部が何気なく転がっていて、かえって「つわものどもが夢の跡」といった雰囲気を醸し出しており、古代ローマ人たちの叫びやささやきが聴こえてきそうです。

しかも、遺跡の陰ではイチジクの葉が風になびき、実が輝いています。キリスト教を迫害し、やがては受け入れた古代ローマの遺跡に、聖書の世界にあるイチジクが。出来すぎの感もしますが、悠久の時の彼方へ思いを馳せることができそうな空間です。

ローマといえば忘れられないのが、共同浴場。この街にもコンスタンタン(les Thermes de Constantin)という共同浴場跡が残っています。

西暦4世紀に造られたこの共同浴場は、いくつかの部分に分割されており、プールのようになっていたり、マッサージを受ける場所だったり・・・お風呂大好きな古代ローマ人たちの社交の場にもなっていたようです。

古代ローマの遺跡が多いアルルの街ですが、その中で中世の香りを漂わせているのが、サン・トロフィーム教会とその修道院(le Cloître Saint Trophime)。

12世紀から14世紀にかけて建立されたもので、ロマネスク様式とゴチック様式の回廊が残っています。

こうした古代ローマと中世の遺産は1981年にユネスコの世界遺産に登録されています。

そして、アルルで忘れられないのが、ゴッホ。跳ね橋(ヴァン・ゴッホ橋)があまりに有名ですが、それ以外にも彼の絵の対象となった風景があります。

ゴッホが治療を受けたという病院(l’Hôpital d’Arles)跡にできたエスパス・ヴァン・ゴッホ。その中庭はゴッホがいた当時のままに保存され、絵と同じ風景を今も見ることが出来ます。

他にも、『夜のカフェ』のモデルとなったカフェ(Café de Van Gogh:写真中央の黄色い建物)、

そして『星降る夜』など、

ゴッホの足跡を辿ることができます。

小さな街に多くの歴史遺産。そして今そこに暮らす人々は、とても親切です。地図を片手に歩いていると、わざわざ追いつくのを待ってまで、どこへ行くのか、闘技場ならこの先だよと親切に教えてくれたお年よりもいました。

(市役所前の広場です)
歴史と人情の街、アルル。ミストラルでしょうか、冷たい風が吹いていましたが、心は温かくなる街でした。


プロヴァンスへ① 法王庁と、あの橋~アヴィニョン

2008-04-22 00:10:00 | フランス
プロヴァンスでの拠点にしたのは、アヴィニョンの街。パリからTGVで2時間40分ほど。この街からはアルル、エクス・アン・プロヴァンス、オランジュなどの街へ鉄道網が放射線状のように延びていて、乗り換えなしで行くことができます。

そして、アヴィニョン(Avignon)といえば、14世紀の法王庁の跡と、♪橋の上で輪になって踊ろよ・・・で有名なサン・ベネゼ橋。


ローヌ川にかかるサン・ベネゼ橋(le Pont Saint-Bénézet)が完成したのは12世紀。当時は当然、対岸まで続く全長900メートルの橋でした。ローヌ川最下流の橋ということで、アヴィニョンを交通上、商業上いっそう重要な街にしたそうです。

しかし、ローヌ川の度重なる洪水で、対岸側から崩れ、今では4本の橋げたと聖ベネゼを祀るサン・ニコラ礼拝堂(Chapelle Saint-Nicolas)を残すだけになっています。


サン・ニコラ礼拝堂の壁面ですが、数多くの落書きが。お陰で鉄柵ができてしまっています。文化遺産の重要さに思い至らない人は、世界中どこにもいるようですね。一度傷つけられてしまったものは、元には戻らない。残念なことです。


橋見学の入り口であるシャトレ(Châtelet)には、有名な歌を紹介するスペースもあり、ミレイユ・マチューなどの歌声でこの曲を聴くことができます。
♪Sur le pont d’Avignon, on y danse, on y danse
Sur le pont d’Avignon, on y danse tout en rond♪
(アヴィニョンの橋の上で、踊ろよ、踊ろよ、
 アヴィニョンの橋の上で、みんなで輪になって踊ろ)
橋の上で、輪になって踊っていた家族もいて、ほほえましい光景でした。

このサン・ベネゼ橋のすぐ脇にあるのが法王庁宮殿。

フランス人であった法王クレメンス5世が法王庁をアヴィニョンに移したのは1309年。十字軍の失敗などから教皇権が衰退し、時のフランス王フィリップ4世のチカラに屈するカタチでの移転だったそうで、古代のバビロン捕囚に因んで「教皇のバビロン捕囚」とも言われているのはご存知の通り。1377年まで7人の法王が即位したようですが、その後法王がローマに戻っても、フランスの後押しを受けた別の人物が法王としてアヴィニョンで即位し、ローマの法王とアヴィニョンの法王がともにその正統性を主張し、教会大分裂といわれる事態になってしまったとか。さらに失墜した法王や教会の権威を前に教会改革の動きが出始め、やがては、近代の宗教改革にまで繋がるのだそうです。

という歴史を持つアヴィニョンの法王庁宮殿。見上げる巨大な壁の高さは50m、厚さは何と4m。

フランス革命時に多くの像が破壊されたり、持ち去られてしまったりしたそうで、今日では当時の華やかさはほとんど見る影もないのですが、それでも、さまざまな資料や現存する品々などにより、当時へ思いを馳せることもできるような展示になっています。また、金色に輝く聖母像と磔刑に処されたイエスの像が遠くからも見えるよう、宮殿の上とすぐ前に飾られています。

わずか68年といえども法王庁があり、またローヌ川の水運などを利用して商業の中心地としても栄えたアヴィニョン。

文化や芸術の香り高い伝統も併せ持つからでしょうか、今でも、街並みは落ち着いた美しい佇まいで、多くの観光客を惹きつけています。

そして、その中心地である歴史地区は1995年にユネスコの世界遺産に登録されています。


休暇のレコード・ホルダー。

2008-04-21 23:27:25 | マスコミ報道
和製英語とかジャパングリッシュとか言われる、日本で作られた英語がありますね。例えば、ナイター。同じような状況が、フランスにもあるようです。仏製英語、あるいはフレンチグリッシュとでも言えばいいのでしょうか。そのひとつが、“recordman”。レコードマンつまり記録保持者。英語なら“record holder”と言うべきなのでしょうが、フランスでは「ルコルドマン」と言うんだそうです。その複数形“les recordmen”で始まる記事が17日のフィガロ紙に出ていました。

第一面の見出しは、“Les Français champion du monde des vacances.”・・・フランス人は、ヴァカンスの世界チャンピオン。今更言うまでもなく、フランス人にとって休暇は大切なもの。フランス人はその取得日数の記録保持者なんだそうです。では、実際どのくらいの有給休暇があり、その取得率は。そして、その過ごし方は・・・



中面で詳しく紹介されています。サラリーマンの平均有給休暇日数は、フランスが年間37日で8年連続世界一だそうです。次いでイタリアの33日、スペインの31日と続いており、やはりラテン系の人々が有給休暇を多く獲得しています。働くより、ヴァカンス。人生は、楽しむためにある! フランスでは、休暇のスケジュールに合わせて仕事を入れている人も多いそうで、まず休暇ありき、になっているのですね。他のヨーロッパ諸国では、25~28日になっているようですが、大西洋を渡ったアメリカではわずか14日の有給休暇! 勤労観、あるいは勤労実態に大きな差があるようです。フランス人はアメリカ人より2.5倍以上の有給取得を権利として有していることになりますね。因みに、アングロ・サクソンのイギリスでは、26日の休暇になっています。

でも、これらの数字はあくまで権利としての有給休暇日数。実際の取得率は・・・これまた、フランスは世界の上位にいるそうです。有給休暇を完全に消化しなかったフランスのサラリーマンは20%。ということは、年間37日の有給休暇をしっかり取りきった人が80%にもなっています。有給休暇日数が多い上に、しっかり消化しているフランスのサラリーマン・・・日本の現状と比べてどうでしょうか。フランス人以上に消化率がいいのは、ドイツ。年間27日の有給休暇を完全取得したのが81%だそうです。さすが規則を守るお国柄ですね(?)。一方、日数の多いイタリアは53%しか完全消化者がいないそうです。アメリカでは、69%の人たちが14日の休暇を完全に消化しきったそうです。

さて、フランス。年間37日ある有給休暇を80%の人が完全に使いきっている。どのように使っているかというと、もちろん多いのはヴァカンス。旅行が多いのですが、その行き先にもフランスらしさが顔を覗かせています。外国に出かけるのはわずか17%。83%のフランス人は、ヴァカンスを国内で過ごしているそうです。それだけ国内に行きたい場所が多いということなのか、あるいは国内にヴァカンス施設が整っているということなのか。はたまた、フランス語やフランスの価値観が通用しない国には行きたくないという内弁慶気質があるのか・・・いずれにせよ、国内で休暇を楽しむ人が多いので、国内の観光産業にとっては大きな恵みになっているそうです。しかも、外国からは多くの観光客が。フランスの観光業、順調なはずですね。

その少ない外国旅行組みですが、行き先はスペイン、イタリア、ポルトガル・・・短い日数でも行ける近くて太陽の光に恵まれた3カ国に人気が集まっているようです。また、金銭的に余裕のある層ではモロッコ、チュニジア、ポルトガル、トルコ、ニューヨークといった所が人気の滞在先だそうです。

もちろん、ヴァカンス以外に有給休暇を使う人だっています。買い物(ソルドへ急げ?)、各種手続き、子どもの送り迎えなど。ヨーロッパの他の国々ではこうした事柄は女性がになう場合が多いので、結果として女性労働にパートタイマーが多くなっているそうですが、フランスはこの点、男女平等が進んでいるので、家事・育児絡みで休みを取る男性サラリーマンも多くなっているとか。フランス女性は強いと取るべきか、フランス人男性は優しいと取るべきか。あるいは、フランス人男性にとっては仕事より家庭が大事なのでしょうか。しかし、再婚、再々婚も多く・・・単に休みが好き(仕事が嫌い)なのでしょうか。でも、階級社会。猛烈に働く層もいますし、一概には片付けられないようです。

ヴァカンス取得が多いのは、もちろん夏ですが、それ以外では5月上旬も多い季節になっています。それは祝日が多く、橋をかけやすいため。祝日にはさまれた日を休みにすることを“faire le pont”と言うのをご存知の方も多いと思います。5月には、メーデー(1日)、第2次大戦休戦記念日(8日)、聖霊降臨祭(移動祝祭日で今年は11日)という祝日があり、今年ははじめの2日が木曜日。金曜日を休めば4連休が二度。しかも、今年は12日の「聖霊降臨祭(Pentecôte)の翌月曜日」が休みになるようで、5連休。パリでは、学校は8~13日までの6連休になるそうです。ついでに、5~7日も休んでしまえば、12連休、あるいは13連休に。日本のゴールデン・ウィークと同じようなタイミングでの連休になりそうですね。もちろん、ヴァカンス大国、フランスのほうが期間が少し長いようですが。

というフランスに暮らして、2年9ヶ月。遅ればせながら、ブログもときどき更新にして、ヴァカンスを。というわけで、先週は、1週間、プロヴァンスに行ってきました。その模様を明日以降、ご紹介できればと思っています。


パリの高校生は、燃えている!

2008-04-12 17:36:36 | パリ
『パリは燃えているか』という映画がありました。1966年、監督ルネ・クレマン、共同脚本の一人にフランシス・フォード・コッポラ、出演は有名俳優が綺羅星のごとく。“Paris, brûle-t-il ?”・・・今、そのパリで燃えているのは、高校生たちです。


11日のメトロ紙の第一面です。前日の10日、警察発表で35,000人、主催者発表で80,000人の高校生が全国で街頭に繰り出しました。以前もイギリス・メディアに、「フランス人は今もフランス革命を引きずっていて、何か不満があるとすぐに街頭へ繰り出すが、イギリスは議員を選んで、議会で討議する」と揶揄されていましたが、他国に何と言われようと、フランス式を貫くのがフランス人。ここ2週間で5日目の高校生による街頭デモです。


9日付のフィガロ紙ですが、高校生のデモの背景は、教師数の削減。政府の説明は、中等教育での生徒数が減少している(2000年の561万人から2006年には542万人へ)。一方、教師の数もその傾向に合わせて若干減ってはいるが(2000年の37万人から2006年の36万8,000人へ)、生徒数の減少ほどには減っていない。また、政府の中等教育予算は逆に増え続けている(2000年の479億ユーロから2005年の525億ユーロへ)。財政の健全化、公務員削減の一環として、来年度(今年の秋の新学期)から教員数の削減を行ないたい・・・教師の数が減るとどうなるか。一クラス32人の生徒数だったのが、政府曰くは33人、生徒側曰くは34人に増える。これでは、今までのようなきめ細かな教育が行いにくくなり、また教員の負担が増大する。しかも、選択科目も減らされる(例えば彫刻など)。これでは、教育の質を保つことが出来ない・・・




(10日のパリ、サン・ミシェルでのデモの様子)

というわけで、政府案への反対の意思表示として街頭へ繰り出しているわけです。もちろん、高校生だけで行なっているのではなく、教員組合も一緒に参加しており、正直な生徒曰くは、教員がかなり手助けしてくれているデモだそうです。しかし、それにしても数千人から数万人の高校生が街頭でデモを行い、意思表示をしている。その内容への賛成反対は措いておいても、その行動力、あるいは「参加」(アンガージュマン)への意識にはやはりフランス人のDNAを見る思いがします。社会、政治への関心の高さにも感心させられます。


10日のメトロ紙です。みんなが参加するからついてきた、といった感じではなく、しっかり自分の主張として教員削減に反対している、そんな表情が写真からも読み取れます。高校生の全国組織もきちんとあり(Union nationale lyceenne:高校生全国連合)、また社会主義者や共産主義者の高校生もそれなりに多いそうです。思い込みや独断専行もあるかもしれませんが、それでも少しでもきちんと世の中を理解し、自分なりの意見を持とうとしている姿勢は、さすがだと思います。日本では・・・野暮なことを言うのは止めましょう。

もちろん、フランスといえども高校生はいわゆる勉強をおろそかにしていいわけではなく、大学入学検定試験(Baccalauréat:バカロレア)の合格めざして、しっかり勉強をしています。


3日のフィガロ紙ですが、バカロレアの高校別合格率のトップ・テンとワースト・テンが発表になっています。全体の傾向としては、私立高校の合格率が良くなっているとか。このへんは、日本と同じような傾向なのでしょうか。Louis Le Grand(ルイ・ル・グラン校)とかHenri IV(アンリ4世校)といったパリの名門校はさすがにトップ・テンに名を連ねています。反対にワースト・テンにも、パリ市内や郊外の高校が数多く並んでおり、パリやその郊外では学校間格差が非常に大きくなっているようです。また、木骨組みの家屋で有名なTroyes(トロワ)の街の学校が上位にいるのは教師の質、地域の取組みといった特別な状況があるのかもしれませんね。

受験勉強、社会勉強、そして自我の確立・・・フランスで成人になるのは18歳と日本より2歳早いのですが、高校生たちを見ていると、さらに引き下げても大丈夫なような気さえしてきます。教育事情によるのか、社会を反映させているのか・・・野暮と知りつつ、やはり、思いは日本の高校生へ。


2008年4月7日。

2008-04-08 04:35:25 | パリ
ぽたん、ぽたんと、屋根から落ちる水滴の音とともに2008年4月7日の朝が開けました。窓から見上げる空は、青空。それなのに、屋根からは水滴が。その理由は、外に出て漸く知ることとなりました。


そうです、この冬初めての積雪。暖冬で、いろいろな花の開花も、木々の芽吹きも早かったのに、4月になってからの積雪。天気予報では、最低気温0度。どうりで、夜寝ていて寒かったはずです。夜来の雨が雪に変わっていたようです。一年前の今頃は、最高気温が27~28度もあり、昨年で最も暑かった時期。それが、今朝は積雪を見る。何という気候でしょう。こうした気候風土が住む人の精神に影響を与えないはずはないと思うのですが、どう影響を与えているのやら・・・

しかし、この国の人々が、「人権」に敏感なのは事実。そして今日、人権といえば、北京オリンピックの聖火リレー。人権擁護団体の抗議運動も行なわれることが予想されていましたが、実際に・・・

まずは、シャイヨー宮前のテラスでの抗議運動。

朝10時、そこにはすでにチベットの旗を捧げもった多くの人たちが集まっていました。希望者には、小旗やTシャツを配布し、連帯の気持ちを伝えています。

なお「国境なき記者団」が配布したのは、手錠が形作る五輪のデザイン。こうした抗議運動に参加しているのは、フランス人ばかりではなく、アメリカやいろいろな国から来ている人権擁護派の人々。交わされる言葉も、フランス語と英語。人権を守ろうという気持ちが国境を越えて集まっているようです。ただし、白人ばかり。アジアやアフリカでは人権意識はないのでしょうか。日本人の団体旅行のグループもいましたが、全く関心ないようで、記念写真を撮ると、さっさと次の場所へ。

中国に異を唱えているのではない、独裁体制に反対をしているのだ・・・中国と全面対決するのではなく、人権を擁護しない体制に反対しているのだと、中国国内の人権派との連帯を考慮したようなスローガンも掲げられています。昼12時過ぎ、さらに多くの人々が集まり、演説も始まりました。“Liberté au Tibet”(チベットに自由を!)、あちこちから叫びが聞こえてきます。

そして、セーヌをはさんだ対岸、エッフェル塔の足元では、12時35分、聖火リレーがスタート。物々しい警備と、各国からの人権擁護派とチベットの人々、そして中国政府支持の中国人グループ。

車道に飛び出す、チベットの人々。押さえつける警察。警護のクルマの直前に横たわり、身をもって聖火リレーを阻止しようとするチベットの人々。彼らがこれほどまでの行動を取る背景は・・・


聖火のトーチらしきものをもった車椅子の女性が通り過ぎましたが、本来の聖火リレーはこのあと。多くのフランス警察の車両と警護の中国人(話題の青と白の帽子を被っています)に取り囲まれて聖火ランナーが登場しました。周囲では、“Liberté au Tibet”(チベットに自由を)と「加油、北京」(北京、頑張れ)が木霊しあっています。

人権擁護派と北京政府支持派の間では全く小競り合いも起きず、それぞれが自己主張をしながら、聖火リレーを追いかけて舗道を行進して行きます。

聖火リレーは、一路セーヌを下り、パリの外に出たあと折り返し、凱旋門からシャンゼリゼへ。午後3時半、ここでは周囲のビルからも多くの人が見守っています。

オグルビー・ワン・・・広告会社のオフィスでは業務上関係があるのか、仕事が手につかないようで、多くの人たちが窓から眺めています。北京オリンピックの公式スポンサーのうち、パリでの聖火リレーでプロモーションを行なったのはコカコーラ、サムソン、レノボ(聯想:IBMのPC部門を買収した中国企業)のみ。

せっかく大金を投じてスポンサーになったのだからどんなチャンスも見逃さずイメージ向上を図りたい、とはいうものの、人権擁護派を敵に回すのも拙い・・・開会式への出席に悩む各国首脳のように、スポンサーたちも悩んでいるのかもしれません。

4時過ぎ、聖火ランナーはパリ市庁舎前へ。中国人街のひとつに近いせいか、多くの五星紅旗が。しかし、市庁舎の壁には、人権を擁護するポスターが(「パリは世界中の人権を擁護する」)。

市庁舎前広場では漢族とチベット族の小競り合いが。突き飛ばし合う女性たち、マイクの前で実情を涙ながらに訴えるチベット人女性。市庁舎前で大きな旗を振る、西洋人のチベット仏教僧。


この冬初めての積雪、そして眼前に見る聖火ランナーと人権擁護団体。2008年4月7
日は、雪原を渡るような寒い風の中、新たな記憶とともに暮れていきました。


少女の夢、少女の残酷さ・・・Louise Bourgeois展

2008-04-03 02:05:04 | 美術・音楽
最もフランス的なアメリカ人芸術家の個展、という触れ込みもある「ルイーズ・ブルジョワ展」がポンピドゥ・センターで行なわれています。



最もフランス的・・・当然なんですね、名前でも分かるようにルイーズ・ブルジョワはもともとフランス人。1911年にその名の通り裕福なブルジョワの家庭に生まれ、1938年にアメリカ人の美術史家と結婚、そしてアメリカへ。それ以来ニューヨークに住み、1955年にはアメリカ国籍を取得しています。

1911年のクリスマス生まれだそうですから、今年末には97歳。そこで今回の個展は「回顧展」といわれ、ロンドン、パリ、ニューヨークで行なわれることになっています。しかし、回顧展などといわれると、もう活動をやめてしまった芸術家というイメージも湧いてしまいますが、どうしてどうして、まだまだ現役。その制作意欲は衰えることがないようです。


(会場ロビーに展示された若き日の写真、この1点の撮影はブラッサイ)

そう、制作意欲です。彼女は、自分の表現したいことを、表現したいように、制作してきました・・・そのカタチは絵画、彫刻、デッサン、版画、立体とさまざま。その手法もさまざま。用いた材料もさまざま。そのときそのとき、そのテーマによって変幻自在。理論や主義、トレンドには目もくれず、自分の創作意欲の赴くまま。だからこそ、決してグループに属さず、画壇の周辺に居続けました。しかし、そこには、表現したいという強い意欲が現れており、好き嫌いはあるにせよ、見るものを惹きつける強さがあります。純粋であるが故の強さ。そして、同時に、純粋であるが故の脆さ。

タペストリーの修復などを行なっていた両親。しかし、父親はその愛人を子守としてルイ-ズの周囲に置いた。そうした家庭環境の影響でしょうか、彼女の紡ぎだす世界には、驚き、優しさ、自己認識などとともに白日夢、恐れ、苦痛、人生の不思議さなどが息づいています。少女の夢がカタチとなっただけではなく、幼くして知ってしまった大人の醜さへの少女の嫌悪感が残酷なカタチとなって現れています。


(ルイーズが跪いて、拝まんばかりにしている相手は、ジョアン・ミロ、美術史に独自の地位を占める同士、肝胆相照らす・・・?)

例えば、彼女が多用するピンや釘。これらは何を表現しているのでしょうか。不実、横暴だった父親への怒りなのでしょうか、父親が代表する男への反抗なのでしょうか。あるいは、多くの赤い手は。「赤」に込められた想い、何かを求めるような、あるいは何かを引きずるようなその赤い手が暗示するものは・・・


(情報誌からの複写)

とっても内向的で、それでいて挑発的だったという少女時代のルイーズ・ブルジョワ。その少女のままで創り出している「ルイーズ・ブルジョワ・ワールド」。その多様性の中には、好きになれるものと、なれないものがあると思います。全てが好き、全てが嫌いというわけにはいかない・・・私が気に入ったのは、インクやクレヨンで描いたデッサン、そしてどことなく有元利夫を髣髴とさせる絵画などでした。

そして、なんといっても代表作というか、目に付くのは、巨大なクモ。

ポンピドゥ・センターのロビーにも1点。会場にも、クモに覆われた金網の立体作品が1点。クモの不気味さと、そこはかとない愛嬌。その糸に絡められてしまう恐怖と、心の奥底に隠された自由を奪われてしまうことの心地よさ。彼女の世界では、常に相反するもの同士の間を行ったり来たり、あるいは両極端が共存しています。現実と夢、男と女、秩序と混乱、洋の東西・・・時間も空間も自在に超越して紡ぎだす、独自の世界。少女のかわいらしさの裏に潜む残酷さ・・・子ども、愛、性、遺棄、後悔、思い出・・・人生のさまざまな物語、神話の空間、精神分析の世界へと見るものを誘っていく「ルイーズ・ブルジョワ・ワールド」。永遠の少女には、年齢は関係ないようです。


“Louise Bourgeois”展
200点もの作品が展示されています。
ポンピドゥ・センターにて、6月2日まで。