50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

5人を結ぶ1本の糸。

2008-03-25 05:42:12 | 映画・演劇・文学
今日は、フランス人、あるいはフランスに関係する人物5人をごくごく簡単にご紹介します。その5人は生きた時代は異なりますが、全く無関係ではありません。どんな糸で結ばれているのでしょうか・・・5人とも男性で、決して赤い糸で結ばれているのではないのですが、何かで結ばれています。さあ、どんな糸でしょう・・・

・クロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy:1862-1918)
『牧神の午後への前奏曲』などで有名なフランスの作曲家。この曲は、詩人・マラルメの『牧神の午後』に感銘を受けて作った曲だそうですが、この曲をはじめ『海』、『夜想曲』などその多くの作品は、古典派・ロマン派から20世紀音楽への橋渡しをしたといわれ、音楽史上重要な位置にいる作曲家だそうです。芸術を専攻する学生を対象としたフランス国家の奨学金制度・ローマ賞を受賞し、1885年から86年にかけて、ローマに滞在。

(中央の建物が、ドビュッシーが1902年当時に住んでいたという家、17区の58 rue Cardinet)

(ドビュッシー最後の家のある16区、24 square de l’Avenue Fochの入り口・・・超高級住宅地、スクエアとは言えど警備厳重で関係者以外全く入れず、敷地から出てきた黒塗り高級車の運転手までスノッブを絵に描いたよう)

・ヴィクトール・ユゴー(Victor Hugo:1802-1885)
19世紀フランスに燦然と輝く偉人。ロマン主義の詩人・小説家・劇作家にして、政治家。代表作には『レ・ミゼラブル』、『エルナニ』、『ノートルダム・ド・パリ』など。10代から詩人として脚光を浴び、レジオン・ドヌール勲章も20代前半で受勲したほど。しかし、アカデミー会員には3度候補に上がりながら落選。1841年、4度目にようやく会員に。妻・アデルとの結婚式は、サン・シュルピス教会で行なう。

(ヴォージュ広場に面して建つヴィクトール・ユゴー記念館、1832年から48年まで家族と暮らした家)

(ヴォージュ広場とその周囲を取り囲む建物)

・ニコラ・フラメル(Nicolas Flamel:1330-1418)
出版業などで成功した裕福な商人で、病院や教会などへ多くの寄付を行なったことでも有名。しかし同時に錬金術に入れ込み、賢者の石を手に入れ、鉛を金に代えようと没頭。15世紀初頭(一説には1407年)に建てた家が現存するパリ最古の家と言われている。当時、錬金術には男性しか携わらなかったそうですが、フラメル家では妻も行なったようで、女性としては稀有な錬金術師。

(手前の建物が51, rue de Montmorencyにあるパリ最古の家、現在はレストラン“Auberge Nicolas Flamel”)

・ジャン・コクトー(Jean Cocteau:1892-1963)
20世紀を代表する、いわゆる前衛芸術家。その活動領域は、小説、詩、演劇、絵画、映画と多くの芸術分野にわたり、そのいずれの領域でもすぐれた作品を残している。小説『恐るべき子どもたち』、戯曲『オルフェ』、映画『美女と野獣』などが代表作。1955年からアカデミー会員に。終身制のため、死亡した1963年まで会員。

(アカデミー・フランセーズの入っている学士院の建物、1635年に正式に設立され、定員40名、会員が死亡したときに欠員を補充、会員になれそうでなれない「41番目の椅子」と言われた人たちのなかには、デカルト、パスカル、モリエール、ルソー、プルーストら錚々たる顔ぶれが)

ここまでで、お分かりですよね。これら4人を結んでいる糸・・・念のため、最後の一人を。

・レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci:1452-1519)
いわずと知れたルネサンス期の天才。絵画、彫刻、建築、土木・・・そのマルチ天才ぶりは、「万能人」とも言われています。『最後の晩餐』、『モナリザ』などが特に有名ですね。ミラノに長く住んだようですが、ローマにも1513年と16年には住んでいたそうです。最晩年の1516年からは、フランス王・フランソワ1世の庇護の下、ロワール地方のクルーの館(Clos Lucé)に。

(パリで、ダ・ヴィンチと言えば、ルーヴル博物館、2001年から館長を務めるのはアンリ・ロワレット氏:Henri Loyrette)

そうです! ダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』に出てくる、シオン修道会・歴代総長リストに名を連ねる人たちです。

単行本では、下巻の130-131ページに書かれています。他にもニュートンなどの有名人がいますが、でも今頃どうしてとお思いでしょう。実は最近やっと(!)この本を読んだのですが、そこでニコラ・フラメルの名を見つけました。このブログでも今まで2回ほどご紹介しているのですが、現存するパリ最古の家を建てたというニコラ・フラメルがそんな有名人とは思わなかった。これは、すごい! 早速、少しは推理っぽくもう一度取り上げよう! というわけで、パリで写真が撮れそうな他の人たちも含めて一緒にご紹介し、その関係を推測していただこうとしたわけです。このリストが事実なら、これはこれでちょっとしたいい話にもなるかもしれないのですが、この本、なにせフィクション・・・

「すべて事実に基づいている」と序文代わりの「事実」に書いてありますが、この部分も含めて、やはり小説、フィクションなんだそうですよね。思わず騙されてしまいました。でも小説中のシオン修道会の特長に合ったような人たちがきちんとリストに並んでいますよね。ローマに滞在したとか、サン・シュルピス教会で結婚式を挙げたとか、女性を差別しなかったとか・・・このリスト、最後の総長を自認していたピエール・プランタール(Pierre Plantard:1920-2000)が残した資料によるのか、ダン・ブラウンが作ったリストなのか、うまく作ったものですね。


ということで、今や懐かしき『ダヴィンチ・コード』からの話題でした。上の写真が、サン・シュルピス教会にあるローズ・ライン。実際の色は、ゴールドです。


映画二題。

2008-03-24 05:08:29 | 映画・演劇・文学
24日までこの週末は復活祭(Pâques)の休暇で、観光スポットはどこも大混雑。フランス語はもちろんですが、イタリア語、スペイン語がそこかしこから聞こえてきます。近いですし、移民の歴史も長いので、この両国からは多くの人が気軽に来るのでしょうね。もちろん、観光スポットにあるカフェやレストラン、ファーストフードの店も、一日中、超満員。さて、こうした日にはどこへ行くべきか・・・映画館! さすがにパリに観光に来て映画館へ行く人は少ないでしょうね。それに、逆に地方や外国に出かけたパリの人も多いのでしょう、映画館はすいていました。なお、3日連続なら「映画三昧」というタイトルにしようかと思ったのですが、取り敢えず二日分ですので、「映画二題」です。


22日に観たのは、“Paris”。大胆なタイトルですよね。こんなタイトルにしてしまったら、観客の期待はいやがうえにも盛り上がってしまう。それだけに、そこそこの出来では、満足してもらえない。よほど、自信か勇気がないと付けられないタイトルですね。


事前告知もしっかり行なわれていました。映画のさまざまなシーンでデザインされた電飾パネルが、メトロの駅などに数多く掲出されていました。監督は、セドリック・クラビッシュ(Cédric Klapisch)。主演が、ジュリエット・ビノシュ(Juliette Binoche)とロマン・デュリス(Romain Duris)。

シーンを代えたパネルもあり、パリを舞台にした映画の集大成ともいえるような映画になっているのでは、と期待がいっそう膨らみます。

・・・個人的結論を言ってしまえば、そこそこの出来でした。期待が大きかっただけに、ガッカリ! パリの空の下、それぞれの人にそれぞれの人生。それらのベクトルがどこかですれちがったりするものの、深くは関わりあわず、時は過ぎ、人生は過ぎ去っていく。そして、パリは残る・・・多くの人たちの人生の一段面を切り取ったオムニバス形式。人物を深く描くことが主題ではないようです。

舞台はパリ、演じるのは、あなた・・・パリ案内にすると良いような作品です。ほとんどが屋外ロケですから、あっ、ここ行ったことがある、ここ知ってる、ここどこだろう、今度行ってみたい・・・そう思って観ていれば、2時間を超す長尺ものも飽きないですみます。でも、その映像も、あくまでパリのPR作品といった程度。出だしも、サクレクールからの眺めがパンするという、お決まりの映像。カフェ、街角、マルシェ・・・もっと違ったアングル、工夫した撮り方があったのではと思えてしまいます。それも、こちらの期待が大きかったからなのですが。

良かったのは役者たちで、ジュリエット・ビノシュの疲れた中年女性の哀歓と、時に垣間見せる少女のような笑顔がとても美しく、大学教授役のファブリス・リュシーニ(Fabrice Luchini)の頭脳は明晰でも心は少年のような雰囲気もなかなか素敵でした。


23日は、“Bienvenue chez les Ch’tis”(北の国へようこそ)。この映画、今すごい話題なんです。



20日のフィガロ紙ですが、全国公開3週間で、観客動員数1,200万人を超えたそうです。今までのフランス映画の記録は、“La Grande Vadrouille”(1966年制作の戦争コメディ、監督=Gérard Oury)で1,700万人だそうですから、どこまで迫れるか、あるいは新記録を樹立するか・・・社会的現象にすらなっています。

南仏・プロヴァンスに住む郵便局勤務のフィリップはさらに気候のいいコート・ダジュールへの転勤を画策するも、自らの「どじ」で、全く逆方向、北部・ノール・パ・ド・カレ地方の小さな町・ベルグ(Bergues)の郵便局長に。妻と幼い男の子を残しての単身赴任。語弊があるかもしれないですが敢えて言ってしまうと、鹿児島に住み、沖縄転勤を望んでいたのが、辞令がきたら青森転勤だった、といった状況です。寒い、食べ物が違う、お互いの方言では意思の疎通もままならない・・・うんざりして赴任したのですが、そこには、豊かな人情があった。郵便局で働く部下たち、特にはじめての日に出迎えてくれたアントワーヌとの友情、アントワーヌの母のきつい態度の陰に隠れた優しさ、街の人たちとの触れ合い・・・いつの間にかフィリップはこの街の虜になってしまう。フィリップの語るベルグの街を最初は信じなかった妻のジュリーも、ついには息子とともにこの街へ。最後は、新たな辞令が来て、後ろ髪を引かれつつこの街を後にする・・・

人情ものです。コメディです。寅さんを彷彿とさせるところもあります。しかし、フランスでのインテリ受けは非常に悪いそうです。難解なテーマ、苦渋に満ちた主人公でないと、なかなか批評家や知識層には評価されないのでしょうか。再び「しかし」なのですが、庶民には受ける! 事前のPRもあまりやらなかった。俳優陣にしてもドル箱スターはいない。それでも、記録を更新しようかという観客動員。もちろん、観客動員が多いからといって、良い映画というわけではないのですが・・・

同じことが、かつてのヒット作にも当てはまるそうです。“Amélie Poulain”(『アメリ』)しかり、“Les Enfants du marais”(『クリクリのいた夏』)しかり、そして“Les Choristes”(『コーラス』)も。しかもこうした人情ものが受けるという傾向は映画だけでなく、小説の世界でも見られるそうです。Anna GavaldaやMuriel Barberyの作品がその好例として挙げられています。では、それらの映画や小説の共通点、具体的には・・・

「アンチ・ヒーロー」・・・特別なことを成し遂げたわけではない、カッコいいヒーローではない、そうした主人公を通して見えてくる友情、優しさ、愛・・・他の登場人物もいってみればステレオタイプの人物設定が多い。新奇なものを、目新しいものをと追いかけているうちに見失ってしまったものがそこにはある。日常のこまごまとした出来事の積み重ねで描かれる人生。それこそが庶民の人生であり、久しく忘れ去られていた共感できる人生が描かれているのかもしれません。ル・モンド紙はこの映画作品を“une comédie sympathique”(気持ちの良いコメディ)と呼んでいるそうです。

情報化も、グローバリゼーションもない、シンプルな日々の暮らしへのノスタルジーをフランス庶民はやはり忘れることが出来ないのではないか・・・フィガロ紙の意見です。庶民の心の琴線に触れるからこそ、こうした佳作が大ヒットするのかもしれません。

映画としてみると、この作品、編集が実にうまくできています。南仏の実写からフランスの地図に代わり、標識で出演俳優たちの名前が紹介される出だし、そしてNG集とともにキャスティングが紹介されるエンディング。実に洒落ています。もちろん、作品中のカットや繋ぎもうまい。


(一番下の写真、手前がダニー・ブーンです)

なお、監督・助演のダニー・ブーン自身、北部地方の出身。慣れ親しんだ地方ですが、生まれた町ではなく、一般に知られていない小さな町ということでダンケルクに近いベルグを舞台に選んだそうです。また、タイトルにあるCh’tiとはもともと北部方言でC’est toi.という意味だそうで、Ch’timiがC’est moi.。今では「北部の人」を意味する言葉になっているそうです。

可笑しくもちょっと涙腺を刺激される1時間46分。泣き笑いの作品。日本人の琴線にも触れそうです。もし日本でも上映されるようでしたら、ぜひ。

監督:Dany Boon
出演:
Kad Merad(フィリップ)
Dany Boon(アントワーヌ)
Zoé Felix(フィリップの妻)
Anne Marivin(郵便局の部下) 他


舞台はヴェネツィア、時は18世紀。

2008-03-18 03:08:22 | 映画・演劇・文学
パリにコメディ・イタリエンヌ(La Comédie Italienne)というイタリア演劇を専門に上演している小屋があります。場所は、モンパルナス駅の近く。ゲテ通り(rue de la Gaîté)。この通りには、このコメディ・イタリエンヌだけでなく、他に3つもの芝居小屋があります。


テアトル・リヴ・ゴーシュ(Théâtre Rive Gauche)、

テアトル・モンパルナス(Théâtre Montparnasse)、

テアトル・ドゥ・ラ・ゲテ・モンパルナス(Théâtre de la Gaîté Montparnasse)、そして今日の話題・・・

コメディ・イタリエンヌ(La Comédie Italienne)。500メートルもない距離に4つの劇場。芝居小屋通りですね。しかも、通りの雰囲気は決して上品とは言えません。オペラ座やコメディ・フランセーズのような国からの資金援助を十分に受けている組織とは違って、いかに運営していくかにも頭を悩ませなくてはいけない劇団。家賃の高い場所にはいられません。周囲のお仲間は、どう見ても日本人がやっているとは思えない日本料理店が4~5軒、それにアダルト・ビデオ・ショップ(もちろん今はDVDですが)が軒を並べています。でも、河原乞食という言葉を出すまでもなく、芝居にはどこか胡散臭さが付きまとってきたのも事実。モリエールの時代しかり、映画『天井桟敷の人々』しかり、アングラ劇団、オフ・オフ・ブロードウェー・・・時代を、権力を笑い飛ばすには、少々胡散臭いくらいのほうが、強い力、エネルギーが出るのかもしれませんね。


(上演演目のポスターが貼られた入り口)

今、コメディ・イタリエンヌでやっている“Les Pointilleuses”(口うるさい人々)の作者、ゴルドーニの時代も芝居はやはり社会の周辺に生きているものだったようです。

カルロ・ゴルドーニ(Carlo Goldoni:1707-1793)。ヴェネツィアに生まれ、早くから芝居に夢中になっていました。ただ、世間体のいい職業ではないので、比較的裕福な家庭に育ったゴルドーニは、一応法学部を難産の末に卒業し弁護士に。ただ後になって述懐したように、数多くの裁判に立ち会った経験が、作劇の際に大いに役立ったそうです。裁判沙汰には、とんでもない策略や、人間の業の深さ、欲深さが渦巻いている。芝居のプロットにはもってこいの状況がいくつもあったのでしょうね。

弁護士を続けながらも芝居への情熱は一向に冷めず、1734年には最初の戯曲(悲喜劇)を書き上げています。当時のイタリア演劇の中心は、コメディア・デッラルテ(la commedeia dell’arte)と呼ばれる伝統的な喜劇。仮面をかぶった類型的な役柄がその時々の話題を盛り込んで即興的に演じるもので、しかも、相手をぶったり、ジャグリングやアクロバットも取り入れた見世物的要素の強いものでした。こうした当時の伝統的な芝居を改革しようとしたのがゴルドーニだったそうです。


(カルナヴァレ博物館にもこのような作品が展示されています)

1738年以降、本格的に芝居を書き始めると、人物のパーソナリティを規定してしまっているマスクを取り去り、それぞれの登場人物に奥行きのある性格を持たせたりしたそうですが、改革をしようとすると、守旧派とぶつかるのはどこの分野でも同じ。さまざまな攻撃を受けたようです。それでも、数多くの作品を書き続けました。1753年には1年で12作。1月に1作です・・・旺盛な創作意欲ですね!


(劇場、入ってすぐのホールですが、いかにもヴェネツィア風です)

しかし、1763年、保守派との長年の戦いと病気に疲れ、ついにヴェネツィアを脱出。向かった先は、パリ! パリのイタリア劇場(le Théâtre Italien)に参加しました。座付き作家だったのでしょうね。しかし、パリも改革、新しい演劇を受け入れてはくれなかった。失意のゴルドーニは、しばらく芝居から離れる。何をやったかというと・・・何と、ルイ15世の娘たちのイタリア語教師に。5年間、ヴェルサイユに住んでイタリア語を教えていたそうです。パリに戻ると潤沢な年金が支給され、さらにルイ16世の姉妹たちのイタリア語教師に。人生、何が幸いするか、分かりませんね。しかし・・・人生、糾える縄の如し。豊かな年金生活は20年ほどで終焉へ。フランス革命の勃発。革命政府は、ゴルドーニの年金を打ち切ってしまいました。宵越しの金は持たない、という主義だったのか、突然、貧困生活に。赤貧の内に、1793年、86歳の誕生日を目前にパリでなくなっています。

パリに死んだゴルドーニ。その作品をパリで上演するのは当然といえば、当然ですね。このコメディ・イタリエンヌ、アッティリオ・マッジウッリ(Attilio Maggiulli)というイタリア人演出家が創設したものです。ミラノのピッコロ・テアトロ(Piccolo Teatro)で修行をし、パリのコメディ・フランセーズや太陽劇団(Théâtre du Soleil)で働いた後、1974年にテアトリーノ・イタリアーノ(Teatrino Italiano)をモンパルナスのメーヌ通りに創設。1980年に劇場を今の場所に移し、“le Théâtre de la Comédie Italienne”として今日に至っているそうです。観客はもちろんフランス人が中心ですから、イタリア演劇(古典から現代の作品まで)とはいえ、フランス語での上演になっています。

(フランス語での上演と、入り口上に書かれています)

16日に観た“Les Pointilleuses”も演出はマッジウリ氏です。この演目、すごい人気でスケジュールを延長して舞台に乗せています。100人弱収容の小さな劇場ですが、それでも9割ほどの客の入り。子供連れの家族や高齢者など、年齢もさまざま。幅広い人気を物語っているようです。作品自体は、ゴルドーニが良く描いた、見栄の張り合いや背伸びした生活の滑稽さを2時間で、見事に笑い飛ばしてくれます。商売で財を成した再婚カップル、次に欲しいのは、人の常として名誉。ヴェネツィアへ新婚旅行でやってきて、何とか貴族社会の仲間入りをと駆け回る。やっとディナーに招待されたりするものの、貴族の実態たるや・・・ご想像の通りで、名前は貴族でも、お金には不自由。それでいて気位は高い。屈辱を味わった二人は、最後に復讐をして、ヴェネツィアを後にする。


(入り口に貼られた舞台写真)

間口の狭い舞台で、3幕とも同じつくり。テーブルや鏡を役者たちが動かすだけで、次の幕へ。しかし、役者たちの芸達者振りと、思わず笑ってしまう台詞の面白さで、幕間もない2時間があっという間。人生は舞台。過ぎてしまったことを嘆き悲しむこともなく、行く末を思い煩うこともなく、今を、この舞台を楽しめ! そんなゴルドーニの声が聞こえてきそうな舞台です。「今」を楽しむ・・・確かに、ラテン系の人によく見られる生き方ですね。楽しく、陽気に・・・ただそれでハッピー・エンドなら、真似したいと思うのですが、ゴルドーニの最期を知ってしまうと・・・でも、人間万事塞翁が馬。少なくとも、「今」を大切に、明るく行きましょう。


詩をジャズに乗せて!

2008-03-17 02:53:43 | 映画・演劇・文学
気の向くまま、時々更新、と言いながら、続けての更新です。今後とも、ご訪問・ご感想、よろしくお願いします。


さて、14日夜、“Printemps des Poètes”(詩人たちの春)の一環として行われた“Festival Jazz-Poésie”に行ってきました。

会場は、“Maison de la Poésie”(詩の館)。


場所は、ポンピドゥー・センターのすぐ北にある、パッサージュ・モリエール(Passage Molière)。パッサージュですが、ここは天蓋で覆われているのではなく、オープン・エア。しかも短く、すぐ反対側の出口が見えてしまうほど。でも、画廊や、この詩の館などが並び、芸術の雰囲気あふれるパッサージュになっています。

パッサージュ・モリエールにあるせいか、この詩の館は、別名モリエール劇場(Théâtre Molière)とも言われているようです。

さて、この夜のプログラムは、もちろんジャズと詩の朗読のコラボレーション。パリは昔から(特に第二次大戦後)ジャズが盛んで、今でもジャズのライブハウスも多く、ジャズとは関係の深い街。現代詩とのコラボなら、ジャズが最適なのかもしれないですね。

メンバーは、朗読が、詩人にしてこの日朗読された詩の作者でもあるゼノ・ビアヌ(Zéno Bianu:1950年生まれ、20冊以上の詩集を出すとともに、詞華集の編集、外国の詩の翻訳にも携わる、その中には芭蕉の俳句も)と詩人・作曲家・役者というマルチ芸術家として活躍するジャン=リュック・ドゥバティス(Jean-Luc Debattice:1947年生まれ)。演奏は、リーダーでギタリストのMimi Lorenzini、コントラバスがJean-Luc Ponthieux、ピアノAnn Ballester、ドラムスNoël McGhie、そしてサクソフォンがSteve Potts。

有料(20ユーロ)のイベントでしたが、120席ほどの会場が、満席。中高年に混じって、学生風の若い人も来ていました。

7人が舞台に登場すると、いきなりジャズの演奏。しばらくすると、そこに詩の朗読が重なってくる。作者のビアヌが落ち着いた声で感情を抑えながら詩を詠んでいく。ドゥバティスにバトンタッチすると、そこは作曲家にして役者、一気に盛り上がり、詩の朗読と言うよりは、シャンソン・リテレール。それもアポリネールの『ミラボー橋』などとは違って、いわばジャズ・リテレール。感動ものです。


この夜朗読された作品は、“Chet Becker”・・・1950年代に時代の寵児となった、ウェスト・コースト・ジャズのトランペット奏者、チャット・ベイカー(1929-1988)へのオマージュ。刑務所に入れられたり、麻薬中毒で入院したり、波乱万丈の人生。最後は事故なのか自殺なのか、アムステルダムのホテルから転落死。こうした稀有なジャズ奏者を、時に緊張感を持って、時にメランコリーに詠った作品です。ジャズに乗せて朗読するにはもってこいの作品。読み手も、感情移入したり、突き放してみたり・・・見事なドラマになっています。

しかも、ドゥバティスの顔が、面長で、ヘアスタイルも含めて、コメディ・フランセーズのちょっと北に建つモリエールの像そっくり。眼鏡をかけたモリエール・・・古典演劇も、詩と言えば言えるわけで、共通点も。演劇、詩、朗読、ジャズ・・・11世紀の吟遊詩人(トルバドゥール)以来の伝統が、今日の衣装をまとって現れたようなステージ。すごい、すごいと酔うように聴いているうちに、1時間はあっという間。拍手に答える姿は、まるでコメディ・フランセーズの役者たちのよう。そのせいか、コンサートとは違って、アンコールはなし。

やはり伝統なのか、音楽に乗せての詩の朗読は時々行なわれているようです。例えば、ブレヒトは自らギターを弾きながら自作の詩を歌ったようですし、フランスでも、例えばジョルジュ・ムスタキやレオ・フェレは20世紀の吟遊詩人などと言われました。どこからが歌で、どこからが詩なのか・・・その境界線はあいまいというか、無理に分け隔てする必要もないのかもしれませんね。



日本でも、歌い語る伝統はあったと思うのですが・・・。今日でも詩の朗読会など行なわれているのでしょうか。音楽に乗せて詩を聴く・・・詩の新たなファンも増えるかもしれないですね。日本でも、もっと暮らしに詩を!

最後に、パンフレットから、“Chet Becker”の一説を引用させてもらいます。

je suis allé au bout du souffle
avec le coeur qui pompe avec le coeur qui fait la pompe
avec le coeur
qui fait l'amour
implacablement
pour mieux montrer chacune des notes qui vont m'emporter
pour mieux apparaître ou disparaître être une apparence absolue
jusqu'à me défigurer
en vieux sorcier sioux
en home-médecine inguérissable

assez de trompe-l'oeil de trompe-l'oreille
écoutez mes leçons d’obscurité écoutez ma douce pénombre
c'est aussi une joie d’être
au monde
impeccablement désespéré
rien à démontrer rien à imposer
juste
la petite musique meurtrie de l'immensité

(上記の詩、本来はセンター揃い)


カエルの子は、舞台を目指す!

2008-03-02 02:18:11 | 映画・演劇・文学
カエルの子はカエル、親と同じ道に進む子どもが多くいますね。特に、芸能、スポーツ、そして政治の世界。二世議員、三世議員・・・話の中で例に出した世帯年収が1億円。こうしたリッチ層しか知らない政治家たちが日本には多いようですが、大丈夫でしょうか・・・と、いきなり暗くなるよう出だしでスミマセン。今日は、有名人の子どもたちの進む道、そのフランス版がテーマです。


28日のフィガロ紙です。スターの息子・娘たちが舞台へ殺到する・・・そうなんです、今脚光を浴びているのは舞台、つまり俳優の道なんです。しかも親が必ずしも俳優とは限らない。歌手の子供、実業家の子供、そして政治家の子供、とにかく有名人の子供たちがみんな俳優を目指しているそうです。

演劇の盛んなフランスと言えども、モリエールの時代には俳優はやはり社会のアウトロー。決して誉められた職業ではなく、日本で言ってみれば河原乞食。そこに生まれついてしまったがゆえに、親から子へと受け継がれていった職業だったそうです。18世紀のバチスト家、19-20世紀のブラッスール家など名俳優を輩出した家系はありますが、それでも上流社会から俳優を目指す子供はまず出てこなかった。

それが、今や・・・やはり、俳優は、カッコいい、目立つ・・・憧れの職業になっているようです。

例えば、ソフィー・タピ(写真・中央)。父親のベルナール・タピ氏は、実業家にして政治家。国民議会議員を務め、ミッテラン政権では都市担当大臣に。そして何よりも有名なのは、サッカーの名門チーム、オリンピック・マルセイユの元会長。1993年には今のチャンピオンズリーグで優勝。名古屋グランパスの監督になったピクシー、ストイコビッチもこのときマルセイユ所属だったと思います。しかし、タピ氏、八百長問題と脱税で会長職を辞任。最近はあまり表舞台に出てこなくなっているようです。しかし、先の大統領選挙ではサルコジ候補を支持。その娘のソフィー。写真でもうかがい知れるように、フランス人というよりはアメリカ人的雰囲気で、実際、笑顔が素敵な、パワフルな女性だそうです。父親が1996年にクロード・ルルーシュ監督の映画に出演したのを観て、急に俳優への夢が芽生えてしまったそうです。それからは、ロンドンへ行き、シェークスピアやミュージカルの勉強を。フランスに戻ってからは、さっそく舞台に立ち始めています。父親からのアドバイスは、常に自分らしく!

自分らしく・・・同じアドバイスを送っているのが、サルコジ大統領。長男のジャン・サルコジ氏には常に自分を忘れないようにと言っているそうです。大学で法律を学んでいるジャン氏のいちばんの興味関心は、演劇。実際プロの舞台にも立っているそうです。しかし、この統一地方選挙で県議会議員に立候補していますから、今後は政治と演劇という二足のわらじを履いていくのかどうか・・・因みに日本では、小泉孝太郎氏。今でも、テレビや映画に出ているのでしょうか。NHKには親が首相在任中だけ出演したようですが、たまたまだったのか、かなり恣意的なキャスティングだったのか・・・


さて、フランス。もちろん、芸能界の親をもつ若者が舞台を目指す例が多くあります。写真・左は、ダヴィー・サルドゥ。有名な芸能一家の出です。祖父も祖母も有名な俳優。父は歌手・作曲家・俳優のミシェル・サルドゥ。今でも歌手所得ベストテンに名を連ねている有名人。こうした一族の出でありながら、写真でも分かるように、いたって地味というか、普通っぽいですね。浮ついたところが見られません。父からのアドバイスは、「孤独に耐えることを学ばなくてはいけない」。俳優にしろ、歌手にしろ、その評価は自分ひとりでしっかり受け止めなくてはいけない。自由業ゆえ、道は一人で切り開いていくしかない・・・単身アメリカへわたり、2年間、しっかり、歌・ダンス・演技を学んできたそうです。そして、フランスへ戻り、俳優の道へ。俳優を選んだのは、周囲がそうだったからではなく、自分で芝居が好きだったから。一族の名は扉を開けてくれたが、これからは自分の足で歩んでいく。ミシェルの息子ではなく、ダヴィー・サルドゥとして一日も早く認められるようになりたい・・・好きな道をしっかりと。期待が持てそうです。

もうひとり、写真・右は、サラ・ジロドー。父は、俳優・監督のベルナール・ジロドー。アラン・ドロンの推薦で、1973年の映画『暗黒街のふたり』でジャン・ギャバンの息子役としてスクリーン・デビュー。『ラ・ブーム』などに出演したあと、監督業にも進出。母は俳優のアニー・デュペレー。有名な両親を持つことは誇りでもあるが、同時に重圧にもなると正直にのべているサラ。ロンドンで、歌やダンス、武術などを学んだ後フランスへ戻り、舞台へ。去年には早速、演劇のセザール賞とも言われるモリエール賞の新人女優賞を受賞。今後が期待される女優のひとりになっています。

こうして写真付きで紹介されている三人は、順調なスタートを切った、期待の星なのだと思いますが、もちろん、有名スターの子どもたちの中には、親のようにはスター街道を進めず、鳴かず飛ばずになっている人もいます。例えば(例に出して恐縮なのですが、記事に出ていますので・・・)、ローラ・スメ(Laura Smet:ジョニー・アリディの娘)、キアラ・マストロヤンニ(Chiara Mastroiani:ドヌーヴとマストロヤンニの娘)。ジェラール・ドパルデューの娘・ジュリアは最近苦境をようやく抜け出しつつあるそうです。

逆に、親も同じ芸能の世界にいたとは言うものの、ほとんど無名だったのに、子どもが大スターになる場合も。例えば、先月アカデミー賞・主演女優賞を取ったばかりのマリオン・コティヤール。父は演出家・俳優、母も俳優ですが、無名といっていい存在。また、去年の俳優所得ナンバーワンのダニエル・オートゥイユの父はオペラ歌手とはいうものの、アヴィニョンで歌っていて、全国的には無名。

有名人の親を持ち、同じ道を歩いても、同じように有名になる人、消えてしまう人、はたまた親を超える人・・・そこに、それぞれの人生があるようです。記事も言っていますが、扉を開けるまでは親の七光りも通用するが、その先は、それぞれの努力、才能、運・・・それでも、今の青年は舞台を目指す。それほどまでに、舞台でスポット・ライトを浴びることは恍惚たる人生なのでしょうか。いつまでも輝き続ける夢なのでしょうか。でも、親の名前に関係なく、ひとりの役者としての実力で見極められるフランス社会。日本より、厳しいそうですね。日本には、親の名で生き残れる、「タレント」という職種がありますから。

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時代はフランス人俳優へ・・・その収入は?

2008-02-27 02:16:40 | 映画・演劇・文学
いきなりすごい見出しがフィガロ紙の第一面に躍っていました。

25日付です。見出しは、「マリオン・コティアール、アメリカ征服へ」・・・アカデミー賞主演女優賞を受賞したから当然、と思いがちですが、この新聞の印刷時には、残念ながらまだ発表になっていなかったのではないでしょうか。たぶん受賞するだろうという希望的観測はあったものの、確証はない。そこで・・・『エディット・ピアフ~愛の賛歌』の演技で人気沸騰のマリオン・コティアールの元には出演依頼が殺到。今年、二本のアメリカ映画に出演することが決まっており、そのうちの一本はジョニー・デップとの共演! オスカーを取ろうと取るまいと、彼女はアメリカ中をとりこにするだろう、という記事になっています。

実際は、見事受賞、フランス人女優としては、シモーヌ・シニョレ以来、約半世紀ぶりの偉業。外国語映画としての受賞はソフィア・ローレンらについで5人目という立派なもの・・・皆さん既にご存知のとおりです。25日夜のテレビのニュースと翌26日の新聞はこの話題で持ちきり。詳しくは、後日ご紹介できればと思ってます。

さて、25日のフィガロ紙は、このアカデミー賞受賞の日にあわせて、昨年のフランス人俳優たちの所得ベストテンを発表しています。先日ご紹介した歌手番付に次いで、今回は、俳優の所得番付です。


「オートゥイユとセニエがトップに」、という見出しです。昨年の所得トップは、ダニエル・オートゥイユ、2位がマチルド・セニエだったそうです。そのランキングからうかがい知れることは・・・まずは、世代交代。かつての常連たちの一部がトップテンから消え、その代わりに新しい世代の俳優たちが登場して来た。例えば、高額所得トップテンの常連であるジェラール・ドパルデューは11位に後退。いつまでも50代・60代が中心では、明日の映画・演劇界が心配ですよね。若手では、『アメリ』でお馴染みのオドレイ・トトゥが29歳、そして30代が3人もトップテン入りしています。

ふたつ目は、女優たちの躍進。今まではどうしても男優のほうが所得が多かった。それは仕事量が多いというだけではなく、映画一本あたりの出演料も男優のほうが高かったそうで、女優の出演料は男優の三分の一にしか過ぎなかったとか。こうした傾向に歯止めがかかり、一気に改善されてきたようで、一本あたり70万ユーロ(約1億1,200万円)以上の出演料を取る女優が4人いるそうです。

三つ目は、アメリカへの進出。それもお願いしてハリウッド映画に出させてもらうのではなく、アメリカが手を差し伸べている。その結果、以前はフランス映画に出演する際の半額とかいう安い出演料でアメリカ映画に出演していたフランス人俳優たちが、正当な評価を出演料でも示されるようになっているそうです。こうした流れの中での、マリオン・コティアールのオスカー受賞なのかもしれないですね。

さて、トップテンのご紹介を・・・所得、出演料は人気のバロメーターでもありますからね。

それぞれの写真に順位を示す数字が付されていますが、小さすぎて見えないですね。左から右へ、ほぼ順番通りに並べられています。

①ダニエル・オートゥイユ(Daniel Auteuil:320万ユーロ)
320万ユーロですから、約5億1,200万円。1950年1月24日生まれの58歳。父がオペラ歌手だった関係で6歳から舞台へ。古典、コメディ、ミュージカルもこなす息の長い人気俳優。代表作には、『愛と宿命の泉』、『八日目』など。2003年以降、この俳優所得ベストテンには、毎年6位以上に顔を出している常連で、ついにトップの座へ。実直さ、プロフェッショナル、作品の成功への協力・・・こうしたことがプロデューサーからも評価され、いい作品にも恵まれているようです。

②マチルド・セニエ(Mthilde Seigner:280万ユーロ)
1968年1月27日生まれ。祖父をはじめ一族にコメディ・フランセーズの俳優が多く、姉と妹も俳優という、俳優一家の出身。ロマン・ポランスキーの義理の姉妹。俳優としてはもちろん、その当意即妙の受け答えからテレビでも活躍。特に2007年は4本の映画が封切られ、なおかつ子どもの誕生という充実した年だったそうで、その結果が所得2位に。15年のキャリアで、45本の映画に出演。シナリオによって出演する作品を決め、年間3本までと露出が多過ぎないようにしているとか。去年の1本あたりの出演料は、67万ユーロや68万ユーロだったそうですが、今年は70万ユーロに設定しているそうです。ただ契約はうるさくなく、プレミア・ショーのチケット20枚と映画のDVD2本などという可愛い要求だけだそうです。

③ティエリー・レルミット(Thierry Lhermitte:260万ユーロ)
1952年11月24日生まれ。演劇集団“Splendid”の仲間たちと一緒の仕事が多いようです。『パリに恋して』、『メルシィ!人生』、『ピエロの赤い鼻』、『赤ちゃんの逆襲』などが代表作。昨年出演した映画“L'Invite”(招待客)では出演料が、110万ユーロ。同じ映画に出演したダニエル・オートゥイユは126万ユーロ、それに対し女優のヴァレリー・ルメルシエ(Valerie Lemercier)は54万ユーロだったそうで、やはり改善されつつあるとはいえ、出演料に関する男優への優遇はまだ明確にあるようですね。

④クリスティアン・クラヴィエ(Christian Clavier:230万ユーロ)
1952年5月6日生まれ。やはり、“Splendid”の一員で、70年代初頭から映画をメインに、テレビ、舞台で大活躍。いつもは多くの観客を映画館に呼び込むことが多いそうですが、2007年は77万人と130万人という観客動員としてはいまいちの結果に終わった作品に出演しただけに留まったそうです。

⑤ジェラール・ジュニョ(Gerard Jugnot:180万ユーロ)
1951年5月4日生まれ。同じく“Splendid”結成時からのメンバーで、当初は脚本を担当。その後、監督、俳優としても活躍。『コーラス』、『パリの天使たち』、『パティニョールおじさん』、『タンデム』などが代表作。自分のキャリアは成功と失敗が交錯していると自ら言うように、2007年はあまりパッとしない年だったようで、海賊の映画もジョニー・デップの『パイレーツ・オブ・カリビアン』に太刀打ちできず、47万人しか集客できなかったそうです。今年は、いい年へ。人生は糾える縄の如し、でしょうか。

⑥ジャン・デュジャルダン(Jean Dujardin:170万ユーロ)
1972年6月19日生まれ。コミック・グループとしてテレビで活躍。2004年の“Mariages!”(結婚)でブレイクし、コミカルだけでなく、シリアスな役にも挑戦している。家族で一緒に働いているそうで、出演などの契約もセットでしているようです。出演料はフィックスされていなくて、気に入った内容だけれど予算がない場合は、少ない額、時には出演料なしでの出演することもあるとか。

⑦ギヨーム・カネ(Guillome Canet:160万ユーロ)
1973年4月10日生まれ。1994年からテレビで活躍。その後映画へ、しかも俳優から監督へも進出。2007年はギヨーム・カネにとっては素晴らしい一年だったそうです。監督作品“Ne le dis a personne”(それを誰にも言わないで)がフランスのアカデミー賞とも言われるセザール賞を4部門で獲得。そしてパートナーがアカデミー賞にノミネート(つまり、マリオン・コティヤール!)。34歳にして、俳優、監督、脚本家、プロデューサーとしてすでに大成功を収めている稀有な存在。出演料は一定ではなく、その作品への興味や予算次第で、30万ユーロで出演したこともあり、一方次回作では100万ユーロ以上とか。2008年は出演したスパイ映画が封切られ、また新しい監督作品も公開されるかもしれないそうです。

⑧ナタリー・ベイ(Nathalie Baye:120万ユーロ)
1948年7月6日生まれ。ダンサーからスタートし、その後、芝居の世界へ。その長いキャリアの中で、セザール賞の主演女優賞を2回(1983年、2006年)、助演女優賞を2回受賞しています。その輝かしい経歴にもかかわらず、うるさい事を言わないせいか、出演料は34万ユーロほどで、出演料以外の要求は、シナリオを頻繁に書き換えないことと専属のヘア、メイクも一緒に雇うことだそうです。

⑨マリオン・コティヤール(Marion Cotillard:115万ユーロ)
1975年9月30日生まれ。両親とも俳優で、彼女も子どもの頃から舞台に立っていたそうです。“Taxi”シリーズで注目され、ハリウッドにも2003年の『ビッグ・フィッシュ』でデビューしている。そして、昨年公開された“La Mome”(日本では『エディット・ピアフ~愛の賛歌』、アメリカでは『ばら色の人生』というタイトルで公開)で、一気にオスカーを受賞。この映画は予算が潤沢ではなく、はじめの契約では彼女の出演料も495,000ユーロ。それがその後の大ヒットで、115万ユーロに引き上げられたそうです。アメリカに進出しているせいか、しっかりしたエージェントがついているようで、映画を活用したマーケティング活動も積極的に行なっているそうです。今やカリフォルニアのサンタ・モニカに家を構え、猫と一緒に暮らしているそうで、ご近所には有名俳優たちが。サクセス・ストーリーですね。この後は、ジョニー・デップと共演の映画や、コメディ・ミュージカルへの出演が決まっているようです。

⑩オドレイ・トトゥ(Audrey Tautou:100万ユーロ)
1978年8月9日生まれ。1996年にテレビでデビュー、2001年の『アメリ』で大スターの仲間入り。2006年にはハリウッドにも進出。フランスで最も出演料の高い女優だそうで、去年は1本に出演しただけで、100万ユーロ。それは、『アメリ』以降、彼女の出演する映画がことごとくヒット。ヒット・メーカーとしての地位がこの金額になっているそうです。それだけに条件もいろいろつけているようで、フル・ヌードにはならない、専属のヘア、運転手、プレス対応(彼女用と映画用の二人)をセットで雇うこと、またその映画の封切り日を契約で明記できる唯一の俳優だそうです。年間多くて2本の映画にしか出演しないそうで、その2本の公開が重ならないように、ということだそうです。

・・・こうした10人が、今フランスで最も多くの人から人気を集めている俳優たちだそうです。皆さんの思っていたのと同じようでしたか。ところで、生年月日を見ると、50年代生まれと70年代生まれがそれぞれ4人ずつ。俳優に向いている世代、なんていうことがあるのでしょうか。60年代生まれは、間に挟まれて、消えてしまった?・・・映画の世界でも、その国その国で状況が異なり、それぞれの特徴があるようですね。

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フランス文学、お熱いのは外国!?

2008-02-09 04:46:31 | 映画・演劇・文学
フランス文学というくらいですから、当然、その研究もフランスが本場。だから、フランスへ留学する学生や研究者の人たちが多いわけですよね。でも、フランス文学研究の分野でも、国際化が進行。フランス人作家の研究者は、今や、ブラジル人だったり、中国人、日本人、アメリカ人、イギリス人だったりする・・・フランス文学研究の世界も国際色豊かになっているそうです。


7日のフィガロ紙、文学欄の第一面です。「バルザック、プルースト・・・フランスの偉大な作家たちに夢中な外国人たち」・・・地図の日本のところにはネルヴァル、中国とブラジルにユゴー、アメリカにはプルースト、ユイスマンス、フロベール、そしてイギリスにはランボー、ヴェルレーヌ、フロベール。こうした作家の優れた研究者がそれぞれの国にいる、ということを表示しているのでしょうね。では、具体的には・・・


中面です。「外国の研究者・愛好家が、フランスの偉大なる作家たちを輝かせている」・・・なぜフランス文学を愛する外国人が多いのか。「イギリスならシェークスピア、イタリアならダンテ、スペインはセルバンテス、ドイツはゲーテ。すぐこうした名前は出てくるが、次は、と問われると、探すのが大変だ。それが、フランスだと、逆に誰をいうべきか迷ってしまうほど多くの偉大な作家がいる。まるで劇場の入り口に殺到した人をどういう順番で入場させるか迷ってしまうのと同じような贅沢な悩みだ」・・・偉大な作家が星の数ほど。その豊穣さが多くの外国人をとりこにする理由のひとつのようです。

もうひとつの理由は、多くの言語に訳された上に、それぞれの国で子供向けの本にも採用されていること。小さい頃に感動した本がその後の読書傾向を決めてしまうこともありますよね。例に出すには気が引けますが、私も小学生のときに読んだ『三銃士』、『ああ無情』、『十五少年漂流記』がフランス文学との出会いでした。

さて、具体的にといっても、アメリカやイギリスなどのフランス文学研究者は、いまいち私の興味の埒外ですので、日本の研究者に絞ってご紹介しましょう。日本でのフランス文学研究は、成果が優れているためか、携わる人数が多いためか、多くのスペースを取って紹介されています(たぶん、いや、きっと、前者です)。

ユゴーの研究者として、中国の二人、イギリス、ブラジル、ルクセンブルクそれぞれ一人の研究者ともに紹介されているのが、稲垣直樹氏。スタンダール研究では、粕谷雄一氏。霧生和夫氏はバルザックの『人間喜劇』の研究。水野尚氏はネルヴァル研究。こうした方々のお名前が紹介されていますが、それ以外に日本でのフランス文学熱を語る事例がいくつか紹介されています。

上記の日本の研究者の方々も、また他の国の研究者たちもいわゆる有名な作家を研究対象にしていますが、もちろん、そうしたよく人口に膾炙した名前だけが研究対象になっているわけではない。例えば、ロートレアモン。南米ウルグアイで生まれ、『マルドロールの歌』一巻を残して24年という短い人生を終えた19世紀の作家。生まれ故郷のウルグアイやイタリアにもその研究者はいるが、特筆すべきは、日本。『マルドロールの歌』はすでに7回も出版されており、この作品を研究テーマにしている人が15人ほどもいる。フランスですら辛うじて10人いるかいないかだというのに! しかも、ロートレアモンが住んだピレネーの麓の街、タルブ(Tarbes)でシンポジウムが開かれた際には、フランス語を全く話せないにもかかわらず数人の日本人がロートレアモンの住んでいた家を見るために参加した。それほど、その思いは強い―――。

また、日本で注目されるのが、“la Societe japonaise de langue et litterature francaise”、略してSJLLF、つまり「日本フランス語フランス文学会」。「日本におけるフランス語・フランス文学の進歩発展とその普及のために1962年に設立」された学術団体で、現会長の塩川徹也氏をはじめ研究者、学生、愛好家など会員数は2,000人・・・それほどフランス語やフランス文学を研究したり愛好している人が日本では多い!

しかるに、残念ながら、本国フランスでは、文学を専攻しようという学生は減少し(ここ15年間で28%減)、多くの高校が次々と文学コースを廃止している・・・記事の最後はこう締めくくられています。

ところが、残念ながら、お褒め頂いた日本でも、フランス文学を専攻する学生やフランス語を第二外国語に選択する学生が減り、フランス文学の講座を廃止する大学が増えている。また、フランス文学専攻といっても、好きなのはフランスであって、文学には興味のない学生も増えている・・・このブログも最後には、こう付け加えざるをえないようです。

文学研究、さて、その明日は・・・

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フランス映画の明日は、なに色?

2008-01-19 05:17:26 | 映画・演劇・文学
フランスで恋といえば、みず色。どうしてかって、それはあの有名な『恋はみずいろ』(ポール・モーリアです、懐かしいですね)。では、映画の明日は、ばら色・・・であると良いのですが、さて、どうでしょうか。


フィガロ紙に毎週水曜に挟み込まれる情報誌“Figaro Scope”の今週号が紹介しているように、18日から20日まで、第2回の“Salon du Cinema”(サロン・デュ・シネマ)が開催されています。

前回も行ったのですが(のべ5万人の入場者だったそうです)、絵コンテから撮影、編集まで、映画製作の過程が見れたり、それなりに面白かったのですが、今回は・・・


平日のせいか、社会科見学でしょうか、クラスでまとまって来ている小学生がものすごく多くいました。それに引き換え、大人は・・・


今回は、メイクアップにスポットを当てたのでしょうか、メイクの実演が何ヶ所でも行なわれています。しかも、見学者も大きな傷口とかちょっとした特殊メイクがしてもらえるとあって、小学生に大人気。また、アクションシーンの実演も、これまた小学生を中心に拍手喝采。


あとは、ブティック。つまり、記念品の販売コーナー。これまたいくつも出店していました。


おとなの映画ファンには、辛うじて、批評家や監督など映画の専門家たちによる、討論会やシンポジウムなどが用意されています。それと、CGを使った映像処理の実演がちょっと面白いといえば、面白い。

今回のサロン・デュ・シネマはターゲットを子どもに絞ったのでしょうか。夜のニュースでは、それなりに好意的に紹介していましたが、10ユーロ払って大人が見てもあまり面白いものはないような気がします(週末行こうと思っている方、ガッカリさせてすみません。個人的感想ですから・・・)。大人は今さら映画をもっと好きになってと言っても変わりようがない。それよりこれからの映画ファンになってくれる子供たちに、映画への興味を持ってもらえるような内容にしたのでしょうか。それならいいのですが、単に映画関連企業の熱意不足だったりすると、残念な気がします。次回開催されるのかどうか・・・大きな展示ホールで行なわれているのですが、前回は全スペースを使っての開催。それが今回は、奥の方はプレス用スペースで一般は入場できない。つまり、展示スペースが縮小されていました。出店希望者が少なかったのでしょうか・・・

もし、主催者側が子どもをターゲットにしたという明確な路線変更があったのなら、もしかしてと考えられる背景もあるにはあります。


13-14日付のル・モンド紙です。フィヨン内閣では閣僚の実績を通信簿のように評価することになったそうです。成績が悪いと、更迭。口が滑ったとか、プライヴェートがどうとかではなく、あくまで仕事の実績で評価し、大統領や首相が納得しなければ、首を挿げ替える・・・どうです、厳しいでしょう。6回当選すると順送りで閣僚の椅子が(自分の専門領域とは限らず)回ってきて、大過なく過ごせばめでたし、めでたしというのとは大違いのようです。

さて、では文化大臣(クリスチーヌ・アルバネル大臣)の評価は、なにを物差しに図るのか。経済成長率とか、失業率とか、分かりやすい数値があれば良いのですが、文化にそうした数字があるのか・・・そこで、評価の仕組みづくりを担当するコンサルタント会社や内閣官房などが持ち出してきたのが、
・子どもたちが、文化省の補助金を受けている組織からどの程度文化的・教育的利益を享受したか
・どのくらいの学校が、教育の一環に文化的イベントを取り入れたか
・美術館、モニュメント、劇場など補助金を受けている施設への来場促進、特に若年層の来場者の増加
・国際的文化競争におけるフランスの立場の強化、例えば、国内におけるフランス映画の上映・鑑賞の増加、美術品取引に占めるフランス市場のシェア向上、文化関連の輸出量増大など
・公共放送における文化的番組の増加・・・など、など。

こうしてみると、やはり次代を担う子どもたちがどれだけ文化に接することができたのか、というあたりがひとつのポイントになっているようですね。文化の中にはもちろん映画も。サロン・デュ・シネマも文化イベント。もし、このイベントがなんらかの公的補助を受けていて、そこに学校単位で見学に来ているのであれば1番目、2番目の評価項目に該当しますし、映画への関心を喚起したということで、4番目も含まれるかもしれない・・・

政治の成果主義が文化政策にもいろいろ影響を及ぼし始めているのかもしれないですね。これも、国際化、国際競争の思わぬ影響なのでしょうか。やり方に良い悪いはあるでしょうが、それでもフランスは自国文化を守るために知恵を絞っているようです。われらが日本は、大丈夫でしょうか。現場が頑張る、民間が頑張る、といういつものパターンなのでしょうか・・・心配で夜も眠れない、なんていうのは真っ赤なウソ! 「みず色」で始まって最後は「真っ赤」。それでは、明日をご期待ください。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

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役者やね~!

2008-01-18 05:16:45 | 映画・演劇・文学
フランス人は、芝居好き。“l'officiel des spectacles”などの週間情報誌も、演劇のスケジュールから始まります。しかも、小屋の数が多い。古典演劇、近代演劇、前衛演劇。フランスの芝居はもちろんですが、イタリア演劇など外国の演目を常時上演している劇場など、本当に枚挙に暇がないほどです。因みに“l’officiel des spectacles”のリストを数えてみたら、演劇公演を行なっている劇場がパリ市内だけで130前後。中には、舞台を二つ、三つ備えているところもありますから、公演数はもっと多くなりますね。そこに、観客が集まるわけですから、フランス人の演劇好きも、想像つきますね。

そうした多くの劇場の中でも、フランス演劇の伝統を実感させてくれるのが、コメディ・フランセーズ(Comedie Francaise)。今では、左岸(Vieux-Colombier)やルーブル(Studio-Theatre)にも劇場を持っていますが、やはりコメディ・フランセーズといえば、ルーブル美術館の近く。いわば本丸ともいえるSalle Richelieuで、昨年末、ある公演を見てきました。


ボーマルシェ原作の『フィガロの結婚』。モーツァルトのオペラのほうが日本では有名ですが、もともとは、芝居。ボーマルシェは18世紀の劇作家(1732-1799)ですが、とても劇作家という一言では括れないような、よく言えば多芸多才、悪く言えば支離滅裂な、とても常識では測れないような人物だったようです。時に発明家、時にスパイ、はたまた武器商人にして音楽教師・・・しかしてその実態は、ま~、時代が生んだ怪物の一人なのかもしれないですね。『セビリアの理髪師』(Le Barbier de Seville:1775)、『フィガロの結婚』(La Folle journee ou Le Mariage de Figaro:1884)、『罪ある母』(La Mere coupable:1792)という三部作を残していますが、『セビリアの理髪師』もこれまたロッシーニのオペラのほうが日本では有名かもしれないですね。原作、特にはじめの二作には、痛烈な体制批判がふんだんにちりばめられており、体制に不満を抱く新興市民階級(ブルジョワジー)の喝采を浴びたそうです。時代が時代だけに、フランス革命の引き金になったという意見すらあるようです。でも、書いたご本人に、そんな意思があったかどうか・・・何しろ型破りなお人だったようですから。


12月29日というクリスマス・新年の休暇期間だったため、862ある観客席は満席。演出は、斬新さを加味したものになっていました。原作の舞台は当然18世紀ですが、舞台の登場人物たちの衣装は、どう見ても20世紀初頭といったところ。伝統演劇の総本山のように言われるコメディ・フランセーズですが、演出には、斬新な、挑戦的なものもあり、そうした試みが、演劇に今日性を与え、常に観客を刺激し続けているのかもしれないですね。日本の歌舞伎でも、いろいろな試みが時としてなされていますよね。伝統と革新・・・常に大きなテーマなのでしょうね。


この日の舞台は、フィガロというより、その恋人・シュザンヌの舞台といったほうが良いくらい。演じたのは、Anne Kessler(アンヌ・ケスレール)という女優さん。劇団員紹介のページで、早いほうに出てくるのでも分かるように、1989年に入団したキャリアの長いほうの女優さんですが、その子どものような愛くるしい声と細身の体躯を生かして、コケティッシュで、機転の利く若々しいシュザンヌ像を見事に創り上げていました。さすが、プロの役者、上手いもんです。


芝居が跳ねて外に出ると、すぐ前の広場で、舞踏のパフォーマンス。舞踏も、“BUTOH”として世界で通じる日本語のひとつになっていますね。土方巽、大野一雄、山海塾、大駱駝艦・・・そして歌舞伎や狂言の伝統、さらには平田オリザや野田秀樹などの新しい演劇活動。日本もフランスに負けないくらいの演劇の国だと思うのですが、なかなか観客は一部に限られてしまっているのかもしれないですね。残念な気がします。


役者といえば、映画も。去年の夏に撮った写真ですが、パリの街角ではこうしたロケがよく行なわれています。人生は舞台、演じるのはあなた・・・そんな台詞がどこかにあったと思うのですが、まさに、巴里は舞台。そんな気がします。その舞台で、一人ひとりが、個性をこれでもかとばかりに発揮しているフランス。カフェから舗道を眺めていると、何時間でも、まったく飽きません。さまざまな表情、いろいろな振る舞い・・・この街は、本当に役者揃いです。旅人としてフランスを訪れる私たちも、せめて脇役であっても、生き生きとしたアジアの味、日本の粋をフランスという舞台につけ加えたいものですね―――。

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作家に生まれるのか、作家になるのか。

2008-01-15 06:12:05 | 映画・演劇・文学
長い歴史を誇る文化大国のフランス、画家や彫刻家、作家、詩人、音楽家、映画監督・・・文化人の多さは枚挙に暇がないほどですね。ですから、毎年、誰かの生誕100周年だとか、200周年、あるいは没後何十年とかといった、アニヴァーサリー(周年)になっています。今年のトップバッターは・・・


このホテルからお分かりでしょうか。それに、もうひとつのヒントは、今日のタイトルにも隠されています(隠れているというより、明白ですね)。ホテル・ボーヴォワール・・・そうです、『第二の性』などでお馴染みのシモーヌ・ド・ボーヴォワールの生誕100周年です。「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」という一文は、あまりに有名ですね。

シモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie Bertrand de Beauvoir)という長い本名を持つボーヴォワールが生まれたのは、1908年1月9日。もう生誕100年なんですね。昔、昭和は遠くなりにけり、と言われましたが、もうすぐ「20世紀は遠くなりにけり」になりそうですね。生まれたのは、パリ左岸のラスパーユ大通り。


10日のフィガロ紙なのですが、ボーヴォワールが「左岸」生まれだから、「サガン」と比較しつつ紹介している! なんていうのは日本語だからいえる駄洒落でして、実際は、この20世紀を代表するような女性作家二人に関する評伝がときを同じくして出版されると言うフランス出版界の事情と、サルトルとの関係から実存主義でどこか繋がっている、それでいて、イメージは全く好対照・・・ということで、この二大作家を対比しつつ紹介しているようです。生誕100年のボーヴォワールについてのご紹介となると、私のような専門外の人間にはあまりにも荷が重いので、このフィガロ紙のサガンとの比較の記事で、ボーヴォワール生誕100周年のご紹介にしようと思います。

<生誕と名前>
ボーヴォワールは上の通りですが、サガンは1935年6月21日生まれ。本名はフランソワーズ・コワレ(Francoise Quoirez)。フランス南西部アヴェロン県カジャール(Cajarc)で誕生していますが、この地方の名産は、ブルーチーズのロックフォール。
また、ボーヴォワールには有名な“Castor”というニックネームがあります。ビーバーですね。1929年に高等師範学校時代の友人、Rene Maheuが名付けたそうで、それ以降、ボーヴォワールといえばカストールになってしまいました。
サガンのことは、作家のモーリヤックが“charmant petit monstre”(可愛い怪物ちゃん)と呼んだそうですが、カストールほどには一般的にならなかったようですね。

<テリトリー>
ボーヴォワールほどパリと切っても切れない作家はいないだろうと言われるほどです。哲学教授としてマルセイユやルーアンに住んだ時期やアメリカ、ソ連、中国などへ旅をした以外は、常にパリ、それも左岸のサン・ジェルマン・デ・プレに住み続けました。特に、カフェ・ド・フロール(le Café de Flore)にはその足跡をくっきりと残していますね。そして、1986年4月14日に亡くなり、永遠の眠りについているのも、モンパルナス墓地。事実婚の夫、サルトルの隣です。
一方のサガンは、サンはサンでも、サン・ジェルマンではなく、サン・トロペ。南仏の太陽がサンサンと輝く保養地。そこで繰り広げられる上流階級のちょっとアンニュイで甘美、それでいて悔恨や慙愧の念が微かに入り混じった悲しみ・・・大学はパリへ。ソルボンヌの文学部に入学するも落第、そこで書いた小説が『悲しみよこんにちは』。フランスの大学で落第を経験した方も、これで安心! できるわけないですね。失礼。その後、ドーヴィルのカジノのルーレットで「8」に賭けたところ800万フランの大当たり。そこで、すぐ近く、ノルマンディ地方・オンフルール(Honfleur)郊外に家を買い、そこで暮らすことが多くなったそうです。2004年9月24日に亡くなったのもオンフルールの病院。今は、生まれ故郷・カジャール近くの墓地に眠っています。

<おしゃれとイメージ>
上の写真が端的に二人のイメージを明示していますね。ボーヴォワールと言えば、厳格な哲学教授にして、実存主義、フェミニズム、共産主義といったイデオロギーの権化といったイメージ。「私は幸福にないたい。だから幸福になるのだ」という言葉が言い表しているように、強固な意志の人。頑迷固陋な既存の価値観と戦い続けた人生。それでいて、おしゃれは、気を使わないせいか、そのスタイルは古いまま。ヘアスタイルも、編んで束ねたシニョンにせいぜいスカーフをターバンのように巻くだけ。ファッションも研究に没頭する哲学教授そのものといった風情。
片やサガンは、オープンカーでショートヘアを風になびかせ、軽やかに、屈託なく人生を楽しんでいる、といったイメージ。ファッションもジーンズやチノパンにマリン・セーターや男物のシャツ。古臭いおしゃれのコードを平然と覆してしまった!

<恋愛>
ボーヴォワールといえば、サルトル。戦後の神話となったカップルですね。事実婚でありながらお互いを束縛しないという取り決めだったようで、偶然の愛もあるにはあったようです・・・
サガンは、これは、お忙しい! 結婚は2度。しかし、恋愛は星の数ほど。まるで、お祭り。真剣なといった表現は似合わないようです。

<左翼>
ボーヴォワールの政治的・思想的立場は、急進左派。実存主義、共産主義、反植民地主義、反帝国主義、フェミニズムが一点に集まったところにボーヴォワールがいると言われているそうです。
一方のサガンは、左は左でも、左党、お酒飲みです。キャビアをつまみにシャンパンで乾杯。政治的には、社会党のミッテラン大統領とお友達だったようですが、政治信条がどうとかではなく、その肩書きが魅力だったのではとも言われているようです。

<映像化>
サガンの小説は、『悲しみよこんにちは』や『ブラームスはお好き』をはじめ、いくつもの作品が映画化されています。サガン自身がメガフォンを取ったことすらあるほど。サルトルとの交友があり実存主義的影響があるとはいえ、その作品は映像化しやすいのかもしれないですね。
一方、ボーヴォワールの作品では、『他人の血』が唯一映画化されているだけです。イデオロギーを中心に据えているだけに、映画化はしにくいのかもしれないですね。その分、テレビ番組ではよく題材として取り上げられているようです。

・・・いかがですか、20世紀を代表する作家の二人とはいえ、全く対照的ですね。でも、その二人がともにフランスでは受け入れられている。堅物と敬遠されることも、軽佻浮薄と無視されることもなく、21世紀に入った今でも、評論やテレビ番組などで取り上げられ、その作品は読まれ続けています。フランスでは、その大地同様、文学の地平も広いようです。

ところで、硬く厳しいイメージのボーヴォワール女史ですが、彼女のヌード写真があったのをご存知ですか。


13-14日付のル・モンド紙ですが、「裸のボーヴォワールを見た男」という見出しです。彼女の真実を見極めた人かと思ったのですが、文字どおり彼女のヌードを写真に収めたカメラマンの紹介です。

アメリカ人のArt Shay。記事の写真は、1962年、若かりし日のカメラマンと奥さんだそうです。彼がボーヴォワールのヌード写真を撮ることになったのは・・・

彼の友達の一人に、Nelson Algrenという男性がいた。この男性は、ボーヴォワールのアメリカの恋人! サルトルとは事実婚ですが、お互いの恋愛は自由だったとはいえ、それにしても堂々とシカゴにある恋人のアパートに滞在していたボーヴォワール・・・ちょっとイメージが違ってきますね。そのアパートにはシャワーがなかった。そこで、Algrenから頼まれたカメラマンが女友達のアパートを紹介し、連れて行った。風呂上りに髪をとかすボーヴォワール。その背中は無防備にもはだけたまま。そこにカメラマンの本能がうずいて、シャッターを切った。裸の背中が見える写真。でも、ボーヴォワールは特に怒ったりしなかったそうです。

カメラマンはその写真のことは忘れたことはなかったそうですが、ネガを紛失してしまった。それをついに発見したので、2000年に出した自分の写真集で発表したそうです。その写真が“Nouvel Observateur”(ネーヴェル・オプセルバトゥール誌)の1月3日号に出ていたそうで、さらにこの4月にはパリの画廊(la galerie Albert Loeb)でもいくつかの写真とともに公開されるそうです。美しいが、魅力的かどうかは・・・という写真だそうですが、関心のある方は、どうぞ。

というわけで、生誕100年のボーヴォワールと、そして何かと対照的なサガン。こうして紹介されていますから、これも何かの縁(突然、日本的です)。久しぶりに読み返してみてはいかがでしょう。あるいは億劫にしていたドアを思い切って叩いてみてはいかがですか。でも、日本では絶版になってしまっているのかどうか・・・それが問題だ!(幕)

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