今回ご紹介するのは、鈴木康司氏著『パリ日本館からボンジュール』。1987年刊ですから、20年前の出版です。著者の鈴木康司氏は、東大卒の仏文学者で、長らく中央大学で教鞭をとられました。ご専門は、モリエール、マリヴォー、ボーマルシェを中心としたフランス演劇で、フランスには、給費留学生として、研究者として、そして1984年から86年にはパリ国際大学都市日本館館長として、三度長期滞在されています。この本は、日本館館長として2年滞在された間と帰国後に書かれたものをまとめられたものです。フランスを見つめる視点、フランス社会の変貌、専門、趣味などについて、一般の読者にもわかりやすく書かれています。ただし、私の関心のある分野を中心に引用させていただきました。例によって長い引用ですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/18/9079254346f42cbcbb867e6e0738db10.jpg)
(現在のパリ国際大学都市日本館の外観)
・日本のインテリの中には、フランスに行くとフランスを賛美し、日本の悪口を言い、帰国すると一転してフランスをけなして、日本万歳を唱える不思議な人物がいる。私としては、そのような無定見を避け、できるだけ公平に彼我の長所も欠点も認めたつもりである。自国にいて己の国を賛美するのはたやすいが、ひとつ間違えば井の中の蛙にもなりかねない。耳触りのよい美辞麗句で生まれた国を美化し、国粋主義をあおり立てるよりは、他国をかえりみて自国のあり方を反省する方が、よほどましではないかと思う。ただし、国内で国、国とやたら愛国を振り回す輩もさることながら外国へ出た折に自国の悪口をしゃべりまくる連中を私は信用しない。職務柄とはいえ、私としても日本のよさを訴え、フランスに好意的な外国人としてフランスを批判することをしてきたという自負は持っている。
・フランス人がいかにおしゃべりな国民であるかは、この国に在留するすべての日本人の、感嘆久しくするところだろう。(略)フランスの学生たちは、誰も彼も、他人より一言でも多く、巧みに語り、他人の言にはたいして耳を傾けないのをもっぱらにしているように思えたからだ。(略)この饒舌こそフランス的雄弁術の基礎だということだ。まさに、「初めに言葉ありき」Au commencement etait la parole.なのだ。(略)討論会に出席する人々は、まず、デカルト的明晰さをもって、整然と自説を展開する。ところが、ひとたび討論開始となるや、司会者の割って入る余地もあらばこそ、各自がてんでに、勝手な説をがんがんと主張し始める。私の印象では、いちばん強引に、いちばん長々と自説を展開し、他人の意見に耳を貸さなかった者が、勝利を得るといった感じなのだ。「強者の論理は常にいちばん正しい」La raison du plus fort est toujours la meilleure.のだろうか。
・この国では、自説を論旨明快に直截な表現で述べること、人より一言でも多く説得的に語ることが、他人から評価される基になる。だから、会議や座談などでは、問題の所在も明らかで、自分が大方の主張と意見が同じなら、日本では、黙っていれば済むことでも、こちらでは、いちいち意思表示を明確にしておく必要がある。さもないと、あいつはものを考えない、内容のない人間だと思われかねない。だから、この国にいる日本人にとって、大切なのは、常日頃から確固たる意思表示に基づいた、他人とのつき合いに慣れておくことだ。
・パリのように、人種のるつぼといってよい都市では、風俗、習慣や文化の基盤が違う人間同士が出合うのだから、おたがいに黙っていては、何を考えているのか、どんな価値観の持ち主か、善意があるのか、悪意を抱くのか、それこそ、絶対にわからない。絶えず握手をしたり、ほおに接吻し合ったり、ほほえんだり、紋切り型のあいさつを交わすのも、相互にエールを交換して友好の意思を表わす必要があればこそなのだ。意思伝達のためのおしゃべりは、どんなにしても多過ぎることはない。
・日本人で外国生活を送る人間は、日本のことを知らしめるために、できるだけ口数を多くしたほうがよい。もちろん、そこには言葉の問題がついてまわる。しかし、発音の上手、下手を、それほど気にするには及ばない。子どもの頃から身につけたのでもないかぎり、所詮、外国語は外国語なのだ。要は、自分の心を相手に伝えようとする意欲と姿勢であって、文法的に多少おかしかろうが、たどたどしかろうが、たいしたことではない。第一、われわれだって、常日頃、文法的に100パーセント正確な日本語をしゃべっているわけではないだろう。会話と文章語だって、ずいぶん違う。フランス語も、その点は似たりよったりなのだ。
・たしかに、国内でこそ、寡黙は深い思考や謙譲、節度を表わす美徳であっても、一歩日本の外へ出れば、通用しなくなる。日本が昔から、外交下手で有名なのも、われわれ日本人に、自己を表現し、雄弁を振るい、自説を主張する習慣が、きちんと身についていないせいだろう。いろいろな国から誤解されたり、厳しい批判を受け、あまりにも閉鎖的だと攻撃されたりするのも、われわれが言いたいことの半分も言わずに済ませながら世を渡るべくしつけられているため、日頃から外国との意思疎通を上手に行なえないからでもあろう。「沈黙は金」などと気取っていずに、日本人がもう少しおしゃべりになり、そのかわり、口から先に生まれたようなフランス人も、もう少しむだぐちが少なくなれば、日仏コミュニケーションは、今よりももっと容易になるであろうというのが、私の結論である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/ff/4f69babe3fcbc547c59e9b053ca25002.jpg)
(日本館の玄関付近です)
・フランスという国のすごさは、立派な芸術家であれば、どこの国の出身者であろうと、暖かく見守り、育成し、自国の財産としてしまうところにある。スペイン生まれのピカソ、ルーマニア生まれのイヨネスコ、ロシア生まれのシャガール、日本生まれのフジタ、荻須、小澤、イギリス生まれのチャプリン。フランス国籍を取った者も取らぬ者も、彼らは、みな、フランスでその才能を認められ、開花し、世界に羽ばたいた人たちだ。フランスには、人類全体の財産となる芸術、文化に対して、それが外国産であろうとなかろうと、惜し気もなく金を出し、保護を与え、育てる、寛容な態度がある。
・最近の国際化の掛け声だって、われわれ日本人が非国際的民族でどうにもならないからこそ、ことさらお題目のように、みんなで唱えているのだろう。だが、もしも、国際化を本気でやるつもりがあるならば、こちらも相手の社会に溶け込む努力を傾けると同時に、相手をこちらの社会の内に、妙なかっこうをつけずに、取り込んでしまう度量と覚悟がなにより大切だ。
・日本人なら日本文化を愛し、誇りを持つのは当然だ。しかし、日本文化の優秀性を盲信し、他国の文化をおとしめたり、学ぼうともしなければ、そんな人間には、文化を語る資格はない。そもそも、それぞれの国の文化には、相違はあっても、絶対的な価値の優劣などありはしない。
・(註:ご子息がサッカーチーム、パリ・サン・ジェルマンのジュニアチームでプレー)スポーツはあくまで個人の生活を豊かにし、人生の楽しみとなるものだから、個人が主体的に取り組み、自分で絶えず頭を使いながら行なうのが当然と考えているフランス人に対し、すべてが道に通じ、修行に通じると称して、年長者の言には無条件で従わせ、コーチ、監督の言葉に絶対服従を強いるような学校運動部が主流を占める日本では、選手の自立心、主体性はなかなか確立されないのではなかろうか。
・(註:歌や演奏の途中での拍手などについて)とにかくフランス人というのは、目立ちたがり屋、よかれあしかれ注目を浴びたい連中が多い。車に乗れば人より少しでも先へ出たがるし、集団の中では自分が際立ちたいのだ。満場の客に先がけて、自分がまっさきに拍手する。それが、ちっぽけな虚栄心を満足させるのだろう。たとえ、他の客のひんしゅくを買い、迷惑を及ぼしても平気である。
・それにしても、洋の東西を問わず、マナーを心得ないのは、がいして、しつけの悪い若者ということになっているが、今回の滞仏では、中年以上のフランス人で非常識な人間が増えているのにはがっかりした。個人主義というのは、他人もまた自分と同じ権利を持つ個人であると認める点から出発するモラルだと、常々、思っているが、昨今のフランス人観客を見ていると、かつては個人主義だったのが、だんだん、たんなるエゴイストの集まりと化しつつあるように思われてくる。こらえ性とか、我慢、抑制とかいう言葉から、もっとも遠い存在、それが、現代のフランス人かもしれない。
・留学生は留学生で、外国人学生受け入れ機関の窓口が不愛想で、同僚同士おしゃべりばかりで、不親切で非能率この上ないとぼやく。誰も例外なく、頭に来るのは、地区警察や警視庁で滞在許可証を手に入れるまでの苦労であった。何時間も寒空の下を並んだあげく、窓口の係次第で、出すべき書類がくい違う始末。つっけんどんな対応にもぐっと耐えて、要求された書類を何日もかけてつくって行けば、今度は、そんなにたくさんの書類はいらないと突っ返される。前回来たときにこれがないとだめだと言われたのに、なんて言ったって、相手は例によって肩をすくめるだけ。自由、平等、博愛とは、いったい、どこの国の話だ。ああ、なんと遅れた、嫌な国に来てしまったのだ。というのが、この人たちの嘆きの結びになる場合が多い。たしかに、フランスの社会が不便で非能率的であるのは、私もいやというほど体験してきたから、そうではないと言うつもりはない。
・個人のモラルに帰する問題には、できる限り、国は口を出さない。成年に達した一人一人は、学歴、地位とは関係なく、同格なのである。何かというとすぐに警察がしゃしゃり出たり、お上に頼って規制してもらおうという自立心のない人々が多い、どこかの国とは違ってる。それだけに、この国は良くも悪くも大人の社会である。親がけんめいになって子供を甘やかし、犠牲になっている日本と異なって、フランスの学生たちは実に質素であり、親に寄りかかって見分不相応な暮らしをしているような連中は、まずいない。日本からの留学生だって、社会にいったん出て、自分で給料を貯えてから、目的意識をしっかり持って来た人々は、フランス社会の自由と責任という仕組みをすぐ理解し、足が地に着いた着実な生活を送る人が多いようだ。危ないのは、すねかじりの、甘やかされた人たちだ。
・この国の人々は、だからといって、決して冷淡ではない。
・個人主義の国、一人一人が自己主張をして、何かをまとめようと思っても、なかなかまとまらない国ではあるが、社会的不公正に対する怒り、弱者に対する思いやりを、はっきりした行動に移す若者が圧倒的に多いところは、さすがに、大革命によって近代的民主社会を生み出した国だけのことはある。
・・・・・・いかがでしたか。書き写すのがこれほど楽しいことはかつてなかったほどです。文化・習慣などには違いはあっても、優劣はない。自分の言葉で語ることの大切さ。個人主義と連帯。文化擁護の大切さ。そして、なぜ日本のサッカー選手が自分で考えてプレーできないのか・・・多くの示唆に富んだ、お勧めの一冊です。
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(現在のパリ国際大学都市日本館の外観)
・日本のインテリの中には、フランスに行くとフランスを賛美し、日本の悪口を言い、帰国すると一転してフランスをけなして、日本万歳を唱える不思議な人物がいる。私としては、そのような無定見を避け、できるだけ公平に彼我の長所も欠点も認めたつもりである。自国にいて己の国を賛美するのはたやすいが、ひとつ間違えば井の中の蛙にもなりかねない。耳触りのよい美辞麗句で生まれた国を美化し、国粋主義をあおり立てるよりは、他国をかえりみて自国のあり方を反省する方が、よほどましではないかと思う。ただし、国内で国、国とやたら愛国を振り回す輩もさることながら外国へ出た折に自国の悪口をしゃべりまくる連中を私は信用しない。職務柄とはいえ、私としても日本のよさを訴え、フランスに好意的な外国人としてフランスを批判することをしてきたという自負は持っている。
・フランス人がいかにおしゃべりな国民であるかは、この国に在留するすべての日本人の、感嘆久しくするところだろう。(略)フランスの学生たちは、誰も彼も、他人より一言でも多く、巧みに語り、他人の言にはたいして耳を傾けないのをもっぱらにしているように思えたからだ。(略)この饒舌こそフランス的雄弁術の基礎だということだ。まさに、「初めに言葉ありき」Au commencement etait la parole.なのだ。(略)討論会に出席する人々は、まず、デカルト的明晰さをもって、整然と自説を展開する。ところが、ひとたび討論開始となるや、司会者の割って入る余地もあらばこそ、各自がてんでに、勝手な説をがんがんと主張し始める。私の印象では、いちばん強引に、いちばん長々と自説を展開し、他人の意見に耳を貸さなかった者が、勝利を得るといった感じなのだ。「強者の論理は常にいちばん正しい」La raison du plus fort est toujours la meilleure.のだろうか。
・この国では、自説を論旨明快に直截な表現で述べること、人より一言でも多く説得的に語ることが、他人から評価される基になる。だから、会議や座談などでは、問題の所在も明らかで、自分が大方の主張と意見が同じなら、日本では、黙っていれば済むことでも、こちらでは、いちいち意思表示を明確にしておく必要がある。さもないと、あいつはものを考えない、内容のない人間だと思われかねない。だから、この国にいる日本人にとって、大切なのは、常日頃から確固たる意思表示に基づいた、他人とのつき合いに慣れておくことだ。
・パリのように、人種のるつぼといってよい都市では、風俗、習慣や文化の基盤が違う人間同士が出合うのだから、おたがいに黙っていては、何を考えているのか、どんな価値観の持ち主か、善意があるのか、悪意を抱くのか、それこそ、絶対にわからない。絶えず握手をしたり、ほおに接吻し合ったり、ほほえんだり、紋切り型のあいさつを交わすのも、相互にエールを交換して友好の意思を表わす必要があればこそなのだ。意思伝達のためのおしゃべりは、どんなにしても多過ぎることはない。
・日本人で外国生活を送る人間は、日本のことを知らしめるために、できるだけ口数を多くしたほうがよい。もちろん、そこには言葉の問題がついてまわる。しかし、発音の上手、下手を、それほど気にするには及ばない。子どもの頃から身につけたのでもないかぎり、所詮、外国語は外国語なのだ。要は、自分の心を相手に伝えようとする意欲と姿勢であって、文法的に多少おかしかろうが、たどたどしかろうが、たいしたことではない。第一、われわれだって、常日頃、文法的に100パーセント正確な日本語をしゃべっているわけではないだろう。会話と文章語だって、ずいぶん違う。フランス語も、その点は似たりよったりなのだ。
・たしかに、国内でこそ、寡黙は深い思考や謙譲、節度を表わす美徳であっても、一歩日本の外へ出れば、通用しなくなる。日本が昔から、外交下手で有名なのも、われわれ日本人に、自己を表現し、雄弁を振るい、自説を主張する習慣が、きちんと身についていないせいだろう。いろいろな国から誤解されたり、厳しい批判を受け、あまりにも閉鎖的だと攻撃されたりするのも、われわれが言いたいことの半分も言わずに済ませながら世を渡るべくしつけられているため、日頃から外国との意思疎通を上手に行なえないからでもあろう。「沈黙は金」などと気取っていずに、日本人がもう少しおしゃべりになり、そのかわり、口から先に生まれたようなフランス人も、もう少しむだぐちが少なくなれば、日仏コミュニケーションは、今よりももっと容易になるであろうというのが、私の結論である。
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(日本館の玄関付近です)
・フランスという国のすごさは、立派な芸術家であれば、どこの国の出身者であろうと、暖かく見守り、育成し、自国の財産としてしまうところにある。スペイン生まれのピカソ、ルーマニア生まれのイヨネスコ、ロシア生まれのシャガール、日本生まれのフジタ、荻須、小澤、イギリス生まれのチャプリン。フランス国籍を取った者も取らぬ者も、彼らは、みな、フランスでその才能を認められ、開花し、世界に羽ばたいた人たちだ。フランスには、人類全体の財産となる芸術、文化に対して、それが外国産であろうとなかろうと、惜し気もなく金を出し、保護を与え、育てる、寛容な態度がある。
・最近の国際化の掛け声だって、われわれ日本人が非国際的民族でどうにもならないからこそ、ことさらお題目のように、みんなで唱えているのだろう。だが、もしも、国際化を本気でやるつもりがあるならば、こちらも相手の社会に溶け込む努力を傾けると同時に、相手をこちらの社会の内に、妙なかっこうをつけずに、取り込んでしまう度量と覚悟がなにより大切だ。
・日本人なら日本文化を愛し、誇りを持つのは当然だ。しかし、日本文化の優秀性を盲信し、他国の文化をおとしめたり、学ぼうともしなければ、そんな人間には、文化を語る資格はない。そもそも、それぞれの国の文化には、相違はあっても、絶対的な価値の優劣などありはしない。
・(註:ご子息がサッカーチーム、パリ・サン・ジェルマンのジュニアチームでプレー)スポーツはあくまで個人の生活を豊かにし、人生の楽しみとなるものだから、個人が主体的に取り組み、自分で絶えず頭を使いながら行なうのが当然と考えているフランス人に対し、すべてが道に通じ、修行に通じると称して、年長者の言には無条件で従わせ、コーチ、監督の言葉に絶対服従を強いるような学校運動部が主流を占める日本では、選手の自立心、主体性はなかなか確立されないのではなかろうか。
・(註:歌や演奏の途中での拍手などについて)とにかくフランス人というのは、目立ちたがり屋、よかれあしかれ注目を浴びたい連中が多い。車に乗れば人より少しでも先へ出たがるし、集団の中では自分が際立ちたいのだ。満場の客に先がけて、自分がまっさきに拍手する。それが、ちっぽけな虚栄心を満足させるのだろう。たとえ、他の客のひんしゅくを買い、迷惑を及ぼしても平気である。
・それにしても、洋の東西を問わず、マナーを心得ないのは、がいして、しつけの悪い若者ということになっているが、今回の滞仏では、中年以上のフランス人で非常識な人間が増えているのにはがっかりした。個人主義というのは、他人もまた自分と同じ権利を持つ個人であると認める点から出発するモラルだと、常々、思っているが、昨今のフランス人観客を見ていると、かつては個人主義だったのが、だんだん、たんなるエゴイストの集まりと化しつつあるように思われてくる。こらえ性とか、我慢、抑制とかいう言葉から、もっとも遠い存在、それが、現代のフランス人かもしれない。
・留学生は留学生で、外国人学生受け入れ機関の窓口が不愛想で、同僚同士おしゃべりばかりで、不親切で非能率この上ないとぼやく。誰も例外なく、頭に来るのは、地区警察や警視庁で滞在許可証を手に入れるまでの苦労であった。何時間も寒空の下を並んだあげく、窓口の係次第で、出すべき書類がくい違う始末。つっけんどんな対応にもぐっと耐えて、要求された書類を何日もかけてつくって行けば、今度は、そんなにたくさんの書類はいらないと突っ返される。前回来たときにこれがないとだめだと言われたのに、なんて言ったって、相手は例によって肩をすくめるだけ。自由、平等、博愛とは、いったい、どこの国の話だ。ああ、なんと遅れた、嫌な国に来てしまったのだ。というのが、この人たちの嘆きの結びになる場合が多い。たしかに、フランスの社会が不便で非能率的であるのは、私もいやというほど体験してきたから、そうではないと言うつもりはない。
・個人のモラルに帰する問題には、できる限り、国は口を出さない。成年に達した一人一人は、学歴、地位とは関係なく、同格なのである。何かというとすぐに警察がしゃしゃり出たり、お上に頼って規制してもらおうという自立心のない人々が多い、どこかの国とは違ってる。それだけに、この国は良くも悪くも大人の社会である。親がけんめいになって子供を甘やかし、犠牲になっている日本と異なって、フランスの学生たちは実に質素であり、親に寄りかかって見分不相応な暮らしをしているような連中は、まずいない。日本からの留学生だって、社会にいったん出て、自分で給料を貯えてから、目的意識をしっかり持って来た人々は、フランス社会の自由と責任という仕組みをすぐ理解し、足が地に着いた着実な生活を送る人が多いようだ。危ないのは、すねかじりの、甘やかされた人たちだ。
・この国の人々は、だからといって、決して冷淡ではない。
・個人主義の国、一人一人が自己主張をして、何かをまとめようと思っても、なかなかまとまらない国ではあるが、社会的不公正に対する怒り、弱者に対する思いやりを、はっきりした行動に移す若者が圧倒的に多いところは、さすがに、大革命によって近代的民主社会を生み出した国だけのことはある。
・・・・・・いかがでしたか。書き写すのがこれほど楽しいことはかつてなかったほどです。文化・習慣などには違いはあっても、優劣はない。自分の言葉で語ることの大切さ。個人主義と連帯。文化擁護の大切さ。そして、なぜ日本のサッカー選手が自分で考えてプレーできないのか・・・多くの示唆に富んだ、お勧めの一冊です。
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