パリから北西へ約30kmのところにあるオーヴェル・シュール・オワーズ(Auvers-sur-Oise)の街。鉄道で行くには、ポントワーズで乗り換え、乗り換え時間も含めて1時間10分ほど。それが、今は(10月まで)毎週末と祝日に直通列車が1日1往復運行されています。所要時間わずかに30分。
今日では多くの観光客が利用する直通列車ですが、100年以上前の19世紀後半には、ある芸術家たちがよく利用していたそうです。パリから列車で簡単に行ける土地でありながら、光あふれ、豊かな自然がある農村の暮らし・・・そうした風景に惹かれてこの街を訪れたり住んだりしたのが、印象派を中心とした画家たちでした。コロー、ドーミエ、ドービニー、セザンヌ、ピサロ、ルノワール・・・そうした流れの最後に彗星のごとく加わったのが、ご存知、ゴッホ(Vincent Van Gogh)です。
パリに馴染めず、豊かな光と農村風景を求めて南仏に向かったものの、ゴーギャンとの神経をすり減らす芸術論議に疲れきり、自らの片耳を切り落としたゴッホ。てんかんと診断され、その再発に悩み、自ら精神病院へ。そして、北フランスに戻ることにした際に勧められたのが、画家たちと交流の深いガシェ医師(Docteur Gachet)のいるオーヴェル・シュール・オワーズの街。
ゴッホがこの街に着いたのは、1890年5月20日。落ち着いたのは、ラヴー亭(Auberge Ravoux)、今では「ゴッホの家」(Maison de Van Gogh)と呼ばれています。
この家の3階、つまり屋根裏部屋に住むことになりました。天窓だけの部屋、広さはわずか7㎡。棚、壁、床・・・今でもゴッホが住んでいた当時のままで保存されています。それは、決して、後世有名になったゴッホが住んでいたからではなく、自殺者の部屋だったから。自殺者の部屋は誰にも貸さない事になっていたそうです・・・
(ゴッホの生涯を簡潔に紹介するパネル、日本でのゴッホ人気を裏付けるように日本語表記もあり)
いつかどこかのカフェでぼくの個展が開かれるように・・・そうしたゴッホの直筆が壁にかけられている屋根裏部屋。ゴッホがそこに住んだのは、わずか70日。1890年7月27日に猟銃で自殺を図ったものの死にきれず、自力で部屋まで戻り、当時パリに住んでいた弟のテオに看取られながら7月29日、37歳4ヶ月という人生に幕を下ろしました。経済状況や家族との確執などが原因とも言われています。
オーヴェル・シュール・オワーズでのゴッホの暮らしは、ひたすら絵を描くこと。生活費は、テオが送ってくれる毎月150フランだけ。約三分の二が家賃に消えていく、赤貧の生活。それでも、画架や絵の具などの道具を背負っては毎日、村の中を歩き、気に入った風景の前で絵筆をとっていたようです。70日の間に70点と言われる多くの作品を残しています。1日1作品!
(ゴッホ公園にあるザッキン作のゴッホ像です)
観光客用に、ゴッホやその他の画家が残した作品を画家が描いた場所でパネル展示してくれています。ゴッホの絵だけで32点あるそうですが、観光協会でくれる地図にはセザンヌなどの作品も含めて18ヵ所が表示されています。オワーズ川と小高い丘に挟まれた東西に細長いオーヴェル・シュール・オワーズの街。
(ゴッホも描いたオワーズ川、対岸のように見えるのは実は島)
わずか18ヵ所といっても、徒歩で巡るのは暑い季節には体力勝負になります。
オルセー美術館に所蔵されている『オーヴェルの教会』のモデルとなったノートルダム教会。駅のすぐ東の小道を登ったところにあります。
自らも絵筆を取り、画家たちとも交流の深かったガシェ医師の肖像画(『医師ガシェの肖像』)です。描いたのは、もちろんゴッホ。毎週日曜日、昼食に招かれていたゴッホは、ガシェ医師に身体的にも精神的にも自分に近いものを感じ取っていたとか。
医師は片肘をついているのですが、その場所がガシェ医師宅の庭、写真中央のガラスのケースに入っているテーブルの上です。
ノートルダム教会からさらに北東へ、畑に囲まれた村の墓地に、今ゴッホは眠っています。
隣には、1891年、敬愛する兄の後を追うようにこの世を去った(オランダで病死)テオが眠っています。
周囲には、今でも、ゴッホが愛したような光あふれるのどかな田園風景が・・・ゴッホがやってきた5月下旬にも菜の花はまだ咲いていたでしょうか。
墓地のすぐ近くの農道には、『カラスのいる麦畑』・・・苦悩と孤独感を表現しようとしたそうです。
人口7,000人の村に世界中から年間40万人もの観光客、というよりゴッホ巡礼者がやってくるオーヴェル・シュール・オワーズ。日本からの巡礼者も多いようで、ゴッホの家でその作品を紹介する映像にも日本語がきちんと入っています。また、ゴッホの家を支援するため500ユーロの寄付をすると、ゴッホの部屋の鍵が会員証としてもらえるそうで、現在4,700人、その中にはアメリカでの根強いゴッホ人気を裏付けるかのように、ビル・ゲイツ、ビル・クリントンの名も見られるそうです。
訪れた5月8日は、文字どおり雲ひとつない快晴、最高気温も25度を越える真夏のような一日。パリから30kmとはとても思えない、透き通るような夏の陽射しが、街の小道で、ゴッホの墓を覆うツタの上で、軽やかに踊っていました。
今日では多くの観光客が利用する直通列車ですが、100年以上前の19世紀後半には、ある芸術家たちがよく利用していたそうです。パリから列車で簡単に行ける土地でありながら、光あふれ、豊かな自然がある農村の暮らし・・・そうした風景に惹かれてこの街を訪れたり住んだりしたのが、印象派を中心とした画家たちでした。コロー、ドーミエ、ドービニー、セザンヌ、ピサロ、ルノワール・・・そうした流れの最後に彗星のごとく加わったのが、ご存知、ゴッホ(Vincent Van Gogh)です。
パリに馴染めず、豊かな光と農村風景を求めて南仏に向かったものの、ゴーギャンとの神経をすり減らす芸術論議に疲れきり、自らの片耳を切り落としたゴッホ。てんかんと診断され、その再発に悩み、自ら精神病院へ。そして、北フランスに戻ることにした際に勧められたのが、画家たちと交流の深いガシェ医師(Docteur Gachet)のいるオーヴェル・シュール・オワーズの街。
ゴッホがこの街に着いたのは、1890年5月20日。落ち着いたのは、ラヴー亭(Auberge Ravoux)、今では「ゴッホの家」(Maison de Van Gogh)と呼ばれています。
この家の3階、つまり屋根裏部屋に住むことになりました。天窓だけの部屋、広さはわずか7㎡。棚、壁、床・・・今でもゴッホが住んでいた当時のままで保存されています。それは、決して、後世有名になったゴッホが住んでいたからではなく、自殺者の部屋だったから。自殺者の部屋は誰にも貸さない事になっていたそうです・・・
(ゴッホの生涯を簡潔に紹介するパネル、日本でのゴッホ人気を裏付けるように日本語表記もあり)
いつかどこかのカフェでぼくの個展が開かれるように・・・そうしたゴッホの直筆が壁にかけられている屋根裏部屋。ゴッホがそこに住んだのは、わずか70日。1890年7月27日に猟銃で自殺を図ったものの死にきれず、自力で部屋まで戻り、当時パリに住んでいた弟のテオに看取られながら7月29日、37歳4ヶ月という人生に幕を下ろしました。経済状況や家族との確執などが原因とも言われています。
オーヴェル・シュール・オワーズでのゴッホの暮らしは、ひたすら絵を描くこと。生活費は、テオが送ってくれる毎月150フランだけ。約三分の二が家賃に消えていく、赤貧の生活。それでも、画架や絵の具などの道具を背負っては毎日、村の中を歩き、気に入った風景の前で絵筆をとっていたようです。70日の間に70点と言われる多くの作品を残しています。1日1作品!
(ゴッホ公園にあるザッキン作のゴッホ像です)
観光客用に、ゴッホやその他の画家が残した作品を画家が描いた場所でパネル展示してくれています。ゴッホの絵だけで32点あるそうですが、観光協会でくれる地図にはセザンヌなどの作品も含めて18ヵ所が表示されています。オワーズ川と小高い丘に挟まれた東西に細長いオーヴェル・シュール・オワーズの街。
(ゴッホも描いたオワーズ川、対岸のように見えるのは実は島)
わずか18ヵ所といっても、徒歩で巡るのは暑い季節には体力勝負になります。
オルセー美術館に所蔵されている『オーヴェルの教会』のモデルとなったノートルダム教会。駅のすぐ東の小道を登ったところにあります。
自らも絵筆を取り、画家たちとも交流の深かったガシェ医師の肖像画(『医師ガシェの肖像』)です。描いたのは、もちろんゴッホ。毎週日曜日、昼食に招かれていたゴッホは、ガシェ医師に身体的にも精神的にも自分に近いものを感じ取っていたとか。
医師は片肘をついているのですが、その場所がガシェ医師宅の庭、写真中央のガラスのケースに入っているテーブルの上です。
ノートルダム教会からさらに北東へ、畑に囲まれた村の墓地に、今ゴッホは眠っています。
隣には、1891年、敬愛する兄の後を追うようにこの世を去った(オランダで病死)テオが眠っています。
周囲には、今でも、ゴッホが愛したような光あふれるのどかな田園風景が・・・ゴッホがやってきた5月下旬にも菜の花はまだ咲いていたでしょうか。
墓地のすぐ近くの農道には、『カラスのいる麦畑』・・・苦悩と孤独感を表現しようとしたそうです。
人口7,000人の村に世界中から年間40万人もの観光客、というよりゴッホ巡礼者がやってくるオーヴェル・シュール・オワーズ。日本からの巡礼者も多いようで、ゴッホの家でその作品を紹介する映像にも日本語がきちんと入っています。また、ゴッホの家を支援するため500ユーロの寄付をすると、ゴッホの部屋の鍵が会員証としてもらえるそうで、現在4,700人、その中にはアメリカでの根強いゴッホ人気を裏付けるかのように、ビル・ゲイツ、ビル・クリントンの名も見られるそうです。
訪れた5月8日は、文字どおり雲ひとつない快晴、最高気温も25度を越える真夏のような一日。パリから30kmとはとても思えない、透き通るような夏の陽射しが、街の小道で、ゴッホの墓を覆うツタの上で、軽やかに踊っていました。
夏のような青い空でびっくり!
東京はゴールデンウィークもいまいちの曇りばかりでしたし
休みが明けても季節は逆戻り。。天気予報によると3月下旬の寒さだそうで、前回のシャンティイに引き続き快晴の中散策されてるご様子うらやましい限りです。
ところで、いつも思うのですが、写真は「引き」が中心で「ヨリ」が少ないですよね?
ギッサン作のゴッホ像は東京、丸の内にもあります。写真をブログに載せているので、よろしければご覧ください。(『まったり生活浮上中』フランスと日本のゴッホ像)
ゴッホの魂が文字通り眠っている、素朴な街。
暑い一日だったのですね。
旅にご一緒させていただいたような気持ちになりました。
いつか行ってみたいなあ。
新聞記事の紹介、
すぐにでも訪ねてみたくなるような場所の写真。
私もフランス本国は住み始めて3年目です、
TGVでパリから3時間半の田舎ですけど。
TAKEさんのブログを読みながら、改めて、
日々のテレビのニュースのこと、成る程ね、って振り返って考えたりしています。
そうゆう事だったのか、と気づかせてくれます。
フランスの事だけでなく、フランスから見える世界の事、そこに写る日本、そんな視点に大変興味を感じています。
これから、少しずつ過去に遡って読ませていただきます。
素敵なブログ、ありがとうございます。
以前の話の続きですが(もうお忘れになっているかもしれませんが)、おしゃる通り、今やフランス文学に関心を持つ学生はほとんどいなくなってしまいました。今はフランスに対する関心は多様という他はありません。それゆえ、このブログのように多彩な切り口を持つような媒体が、文学に代わって学生の関心をひきつけるのに必要になってくるのだと思います。
http://www.pieton.info/e_pieton/culture.php?vol=45