田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

憲法違反で大騒動

2015年06月08日 | 日記
 衆院憲法審査会の参考人質疑で三人の憲法学者が安全保障関連法案を「憲法違反」と指摘しました。私は大して驚きません。私のつたない国語力で前分、本文をどう読んでも戦えぬ国の日本です。しかしそうは言っていられない事態が生じてきたのです。
 
 このところ数年、これ見よがしに、隣国が私達の国の主権を脅したり、内政に干渉してきます。このような事態に口を閉ざすにも限界があります。私が幼かった頃『李承晩ライン』が毎日のように新聞に載りました。当時の大人たちはただ黙っていました。言いたくも言えない事情がありました。それは敗戦国として責任を痛感していたからです。
 
 李承晩ラインとは、建国されたばかりの韓国が海洋資源の独占、領土拡張を目的とし、サンフランシスコ平和条約の発効によって廃止されることが目前に迫っていたマッカーサー・ラインの代わりに、1952年独断で公海上に突如設定した排他的経済水域のことです。この海域内での漁業は、韓国籍漁船以外は行えず、これに違反したとされた漁船は韓国側によって臨検、拿捕、接収、銃撃を受けました。銃撃により乗組員が殺害される事件も起こり、竹島の不法占拠も始まったのです。当時の私はそんなことは知らず、漁業は危険程度の認識しかありませんでした。大人達は子供には詳しく話さなかったと思います。しかし小学生でも『拿捕』の漢字は正しく読めた時代です。
 
 時が過ぎ、大学に入学した頃の私達は『タンチョウ鶴』と揶揄されていました。頭頂部だけがアカい、えせ共産主義にかぶれていました。これも一つの流行、もしくは宣伝に乗ってしまっていたのでしょうねぇ。
 
 さて大学4年になり、教職の免許を取るためには、日本国憲法を履修しなければなりませんでした。巨漢で丸メガネ、ちょび髭の佐藤教授はかなり高齢、某国立大学を追われ、地方の大学で教えていました。
 
 先生の日本国憲法の教えは、高校で習った平和憲法とは真逆でした。先生は教壇で、とつとつと平和のあり方を語りました。履修した多くの学生の頭の赤色が消えました。最終講座で、戦前の大日本帝国憲法のくだりも語られ、涙されました。講座の終わりで拍手が起きた珍しい講座でした。先生の思想は右翼的ではなく、平和実践主義でした。言葉だけの平和運動をいつも否定されていました。つい佐藤先生のことを思い出し、書きました。

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