続・蛙独言

ひとりごと

「週刊朝日」のこと 4

2012-11-05 15:26:59 | 日記
「強くなければ生きてはいけない。優しくなければ生きる値打ちはない。」

読んではいないけれど、レイモンド・チャンドラーのハードボイルドに登場するフィリップ・マーロウという探偵の台詞らしい。
蛙は、確か、高倉健の何かのコマーシャルで、この台詞に出会ったように思う。
以来、随分気にいっているわけだ。

「人の値打ち」というものは、「彼」が「何を言うか」ではなく「何をするか」で判断されなければならない。
橋下徹という男は、実際、「中身が空っぽ」だと思うが、ただ、「機を見るに敏」であるから、この「鬱屈した世情」の中で「何を言えば人気が取れるか」ということが「よく分かっている」し、「中身が空っぽ」だからこそ「変わり身」もまた素早い。

この男をどんなに口汚く罵っても、褒められた話ではないが是とすべきだろうと思われる。
だとしても、この際、何を思って「その出自」を引き合いに出したのか、多分、週刊朝日も佐野眞一も「」の「何たるか」を皆目理解していないばかりか、重大な偏見を抱いているという、紛れもない証左なのであろう。

橋下批判は多くの人々によって語られてはいるが、蛙はそれらについて一々目を通してはいるわけではない。
腐りきったマスコミ連中が「売れたら万々歳」といった体でもてはやしているに過ぎないのであるから、さして生産的でもなかろうと思っているからだ。
最近、読んだところでは香山リカの「『独裁』入門」(集英社新書)は精神科医という専門的な立場からする批判でもあり、この男を理解する上で心得ておくべき内容を明らかにしてくれていて随分参考になると思った。

「週朝 10・26号」の「緊急連載」は、そのセンセーショナルな売り込みにもかかわらず、橋下からの抗議に屈するという形で、唯の一回で「中止」ということになった。
これは異例のことなのだそうだ。
反吐が出そうな記事を目にしなくてもよいという意味では「よし」としなければならないが、このままでは「について発言するのは危険だ」という、いかにも馬鹿げた趨勢を残してしまうことになるのであるから、今後の「取り組み」は極めて重要な課題になるだろうし、そうでなければならないだろう。

同盟中央からは「抗議文」が出されて、最新の「解放新聞」にも掲載されているが、この後、どう言う風に取り組むかは今のところ明らかにされてはいない。
浦本さんからは「公開質問状」が出されたが、回答には「時間を貸してほしい」という段階なのだろう。
小林健治さんがfacebookで書かれている記事は注目に値するので、是非、読んでほしいと思う。

「週朝」の側は、「連載中止の決定」と「不適切な表現があった」ことに「謝罪」を表明したわけだが、朝日社内の「報道と人権委員会」という学識経験者で構成された組織に「検討を依頼する」ということで、「逃げ」をうってきている。
主体的な取り組みの放棄ということであるから、許し難いと言わざるを得ない。

そもそも、この「顛末」は、小林健治さんが言う通り「新潮45」の上原善広の論稿がもたらした結果であるわけだが、その後の「週刊新潮」「週刊文春」の問題記事にもきちんとした批判がなされず、曖昧なままに放置されてきたことに起因している。
蛙にも一端の責任はあろう。
佐野と「週朝」は、「そうであるが故に」、こういう企画も「稀代の悪役を吊るしあげる正義の論陣」として評価されるとでも考えたのではなかろうか。

小林さんは「上原は糾弾されなければならない」と主張されている。
蛙にも異議がある訳ではないが、上原の誤謬が奈辺にあるかは考えてみる必要があるのではないかと思う。

「蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘る」ということばがある。
人は誰でも自身の「立ち位置」からしか「ものを観る」ことができないということが往々にしてある。
蛙も「そういうこと」を自身への「警句」としておいておかなければならないと常々考えているのだ。
上原の場合、「差別が裏に回って陰湿に地下に潜り込むよりは、今回の『週朝』の記事のように表だって論じられることはよいことだ」という風な考え方なのだろう。
確かに一理はある。
あるにはあるが、「被差別民」の全ての人々に、上原などと同じような等質性が保たれているのかといえば、そんなことはあり得ない。
解放運動に積極的に関わり、或いはそうでなくとも、潰れそうになりながらでも「それ」を撥ね返し、その中で鍛え抜かれてきた人間ばかりなら、上原の「理屈」は通るかも知れない。
そうではないのだ。
「被差別民」と、そうでない人でも「」に好意的な言動を為して「そうであるかのように看做される」人々は、「いつでも、どこでも」差別に遭遇する、実際の世の中では、そのようであるのだが、圧倒的多数は、「何故差別されるのか」が分からず、理不尽な処遇にあって潰されてしまうことがあるのであり、極端な場合、自死ということに結果することさえあるのだ。
それでも上原は「差別が振り撒かれることがあるとしても裏に潜ってしまうよりはいいことだ」と言うのか!

自身の「立ち位置」からしか「ものごと」を考えることができない典型的な事例というべきだろう。

「サンデー毎日」の11・11号が今回の問題で「被差別問題を読み解く」と題して4頁にわたる記事を掲載している。
浦本さんが取材を受けての記事ということで読んでみた。
だいたい、週刊誌など、あまりに低俗過ぎると思っていて買って読むなどということは殆ど無いのだけれど、この記事では「現にある『差別』の事例の紹介と、『差別はいけませんよ』と『声を上げ続ける』しかないのでは」といった内容で、実に詰まらないものでしかなかった。
ブログ「ストーンリバー」でもこの記事への不満が綴られていた。
「」が語られる場合、マイナスイメージばかりが強調され過ぎている、もっと積極的で清新な取り組みは現実にあるのであるから「問題解決に向けたメッセージ」が報道されるべきではないかというようなことだった。
それには全く異議ない。
ただ、豊中や大阪の幾つかの事例はそうなのだろうけれども、神戸もそうだが、全国的に見ても、その「旧態依然」たる活動スタイルでさえ思うに任せぬ進み具合なのだということもあるのではなかろうか。

苦悩は深い。

それでも、と、蛙は思う。

「強くなければ生きてはいけない。優しくなければ生きる値打ちはない。」

誰もがそのように思うのであればどんなによいだろう、と。